「ジャスパー純愛編はここから始まります」
タイアン殿下は「お茶会の日取りはあらためて知らせる」と、ユーグ殿下の手紙を手にしたまま、よい笑顔で去って行かれた。
「明日、レオンが町へ戻る予定だ」とルナが言うので、今夜のうちに家へ帰った方が良いだろうとなり、温泉保養地へ向かうアランがついでに送って行った。
子供達を寝かしつけて、リリーは院長室にひとりいた。髪を隠す頭巾は取り払ったものの、灰色の礼服にタイアン殿下のつけた金糸雀のブローチもそのままだ。
ジャスパーからも花が届くかと思ったけれど……、リリーは頬に指を添えて思案した。
当人は現れず、昨日の午後から教会周辺に特別警戒態勢が敷かれた。おそらく明日の午前まで継続だろう。
タイアン殿下の来訪にあわせて、侍従長ファーガソンが手を回したか、警備部の指揮を執るジャスパーが先読みして手配したか。タイアン殿下が気まぐれを起こして泊まると言いだすことを考えての、明日までだ。
どちらにしても、今夜ほど安心安全な夜はないとリリーには思われた。
ルナを抱えて有事に遅れを取ってはならじと、普段から気を抜かないよう深酒も熟睡も避けていた。例外はレオンが泊まる時くらいだ。
そのルナももう十六。本来ならば十三歳で独り立ちさせるものなのに、引き止めてしまっているのは自分だ。
親離れは容易だったのに、子離れはなかなかに難しい。大して良い親でもないのにとリリーは自嘲気味に唇をつり上げた。
育ての親子の関係で適切なのは、ロージーとの付き合いだと理解している。
などと考えながら、シスターリリーであるリリー・アイアゲートは、焚きしめた自作の香と大公家の薔薇の香りが濃く漂うなか、ジンを飲んでいた。ラベルには赤毛の馬――公国杯優勝馬スカーレットだ。
英知の使徒修道院で十五年に一度の儀式が行われた日、エドモンド殿下――正しくは亡霊の――は、在りし日のエステルと二代目アランの姿をルナに見せた。
あれは人外の力が必要で、到底できそうにない。他人の過去を遡って体感することは不可能だ。でも、自分のものならばどうだろうか。
記憶の海に沈むように過去を体感する事は可能に思われる。そう、引き出しから古い日記帳を引っ張り出して一心不乱に読み返すように。
レアード伯の子息セドリックに、エステレイル姫の青い表紙の薄い本から、望むものに近い薬を依頼した。栽培した夢見草を使っている。
その粉末に異能を付加した。リリーの得手は硬いもの、特に釘。粉末は初めてのことで、口に入れる物に異能を施した経験もないので、効果のほどは分からない。
よって他人で試すわけにもいかず、自分で服用するしかない。
教会周辺の警備が万全の今夜なら、意識がなくなっても大丈夫。試すなら今をおいて他にない。
水より酒での服用が効くはずで、予想通りなら二十分で効果が出る。リリーはためらわずに粉末を舌の上に乗せ、ジンで流し込んだ。
お久しぶりでございます。
「ジャスパー純愛編」は、シスターリリーが主人公となります。シスターリリーの過去を詳しく知ってくださろうと思われる方は、「花売り娘は底辺から頂点を目指します。貴公子に溺愛〜」の368話(最強はアイアゲート・3)までをどうぞ。1話あたりの文字数が少ないので、サクサク読めると思います。
※「花売り娘」は370話シスターリリーの学院卒業からストーリーが変わり、ルナの物語に沿わないものになります。そしてシスターにならずに魔性の聖女になり貴公子溺愛され婚のハッピーエンドです。




