3節 知らずにいることは許されません
水槽の中の蛇は、相変わらず鱗を極彩色に煌めかせている。
『зимаがいるから大丈夫』адмиралは確かにそう言った。大地の眷属たる蛇は確かに、маршалが反応するよりも早く、染野を抱いて大地に溶けた。
歓喜、混乱、絶望、恐怖。短い間にあらゆる感情をめまぐるしく抱いては溶かし、色を変えたмаршалに、адмиралの、かつてと何ら変わらない声が酷く素直に浸透した。恋によって堕天したとは知れども、それが己に向けた恋着であったなど、未だ、理解しきれていなかったからかもしれない。
兎に角、最も信頼したかつての友の声が酷く頼もしく、正しく聞こえた。
猛禽の翼で強く風を叩き、己の巣と今定めた場所へと飛び立つ。
降り立ったバルコニーは、既に窓が空いていた。部屋は暗いが、ひとつ、扉の開けられた部屋だけが照明がついているらしく、その光が漏れていた。
染野の私室だ。
中を伺うと、あの蛇が、ちょうど、染野の制服に手をかけていた。
「貴様、染野に何を……」
「しーっ」
маршалの声を遮るように、蛇は柔らかな表情で人差し指を口にあてた。
「桜染ちゃんが起きてまう。」
言われて、染野が蛇の行動に対してまるで反応を示さない、正しくは深い眠りについていることに気づく。
幼子にそうするように、蛇はきつく目を閉じて眠る染野の額を軽く指で撫でた。
「触るな、……っ。」
思わず、思わずмаршалは染野に触れる蛇の腕を掴む。ちら、とмаршалを見る金の目が、ほんの一瞬、いらだちを孕む。
「しぃ、て言うたやろ。」
静かな声で。
怒気すらない眼差しだった。
小さな音を立てて、プラスチックの器具で留められた染野の制服のリボンが外れる。
染野が起きないように、衣擦れの音すら繊細に取り払われる学生服。
神として、染野のことなど配慮する必要のない存在によって行われる、恭しい奉仕。
静かな声と、ただ冷ややかな眼差しに込められた、その瞬間への干渉の拒絶。
「出てけ、羽蟻。」
「……は?」
蛇は、染野のブラウスのボタンを外しながら、低く、しかし慎重な声で告げた。
「いくらお手玉でも、男に下着姿なんて、桜染ちゃん見られたくないやろ?」
「それは貴様も変わらないはずだ。」
「……せやな?でも見られる人数は少ない方がええやろ?ついでに、安全なオスの方がずっとマシやん。」
やっと蛇は、маршалに明確な感情を向けた。嘲笑という、極めてわかり易い形の侮蔑。
「安全……?どこが……」
「お前と違うて、桜染ちゃんの裸見てもちゃぁんと待てできる、いい子やから、俺。」
にた、と蛇は表情を崩す。喉の奥で笑う。
「お前みたいに、欲も愛も手に負えないまま喚くガキと違うもん。」
蛇は言い切って、маршалから視線を外した。маршалという個体への関心をなくしたらしい蛇は、染野の体を軽く抱き上げながら、ブラウスを脱がせた。
下着を残して晒された白い四肢に、маршалは視線を逸らす。なんの感慨もないかのように奉仕する蛇が、明らかに異様だった。
いつ用意していたのか、なぜ在処を知っていたのか、蛇は染野に寝巻きを着せて、その体にシーツをかけて、顔にかかる髪まで除けて、そのそばを離れる。
「何、まだおったん?」
蛇の手がмаршалの首に伸び、そのまま掴んで、染野の部屋から引きずり出す。
咄嗟にその手を引き剥がそうと考えた、が、どこからが条約に抵触するか分からない、それに、それ以前に、その腕力が異様に、戦の権能をわずか分け与えられたмаршалが、咄嗟に攻勢に出られないほど強かった。
握り潰す勢いで締め上げられた頚椎が悲鳴をあげた。
防衛本能か。
あるいは、この男への敗北を厭うてか。
маршалは思わず、蛇の腹を蹴りあげた。
「……っぶっ!……っざけんなや、羽蟻が……!」
思い切り。フローリングに叩きつけられる、ごつん、と鈍い大きな音に、蛇はハッとしたように、染野の部屋の扉を一瞬見た。数秒の沈黙。蛇はため息をついて、次の瞬間、маршалの胸を蹴りあげた。
むせ返るмаршалの頭部を、彼我の差を教え込むように踏みつける。
「……あ、桜染ちゃんのおうち、汚れてまう。」
それだけ小さく呟いて、蛇はмаршалから離れた。その足元を目で追えば、レイモンドの水槽の前で1度立ち止る。
水槽の蓋を開け、軽く手をかざすとレイモンドが水槽から這い出て、その手に頭を押し当てる。
「じゃあの」
その一言でレイモンドはまた、水槽の中に帰り、蛇は水槽の蓋を締め直して、とぷ、と世界に溶けた。
「ただいま」
極彩色の蛇を見ながら、昨夜のことを思い出していたмаршалの意識を引き戻したのは、鈴を転がす少女の声。
「おかえり」




