12
全日本ジュニアが翌日に差し迫る中、靱テニスセンターでの前日練習は、佐々の指示で早々に切り上げることとなった。
孝太郎は調子を崩していた。
ほかならぬ本人が、一番それを実感していた。だからこそ、
「これ以上続けて、調子が戻ると言い切れるのか?」
という佐々の言葉に、何も返すことができなかった。
しおれている孝太郎を連れて、佐々は宿泊先のホテルへと帰還した。
シャワーを浴びるよう孝太郎にうながしたあと、佐々はキッチンに立った。
自炊可能なこのホテルは靱テニスセンターのほうには比較的近く、全日本ジュニアに出場する際の拠点であった。
二人分の弁当は自分が処理する。
そう決めた佐々は、孝太郎の母親から受け取ったレシピを確認しつつ、昼食の準備に取り掛かった。
人一人くらいなら十分にくつろげるバスルーム。孝太郎は熱いお湯に打たれながら、夏休み直前の出来事を思い返していた。
市村孝子として生きる未来を捨て、一橋孝太郎が己の人生を託してくれたあの日。孝子は別れ際、ふと、
「テニスは好き?」
と聞いてきた。
口にするつもりはなかったのだろう。直後の動揺した孝子の姿は、孝太郎の目に今も焼きついている。
やめてくれて構わないと孝子は言った。
「市村さんの自由に生きてほしい」とも。
孝太郎の答えは初めから決まっていたが、あえて、何故そんなことを聞いたのかをたずねた。ごまかそうとする孝子をしつこく、粘り強く問い詰めた。
根負けした孝子はついに、「両親や佐々コーチには一生かかっても返せないくらいの恩があるから、そこだけがどうしても心残り」なのだと白状した。
「押し付けたくせに身勝手でごめんね」と孝子はうつむいた。スカートのすそを握りしめた両手は、かすかに震えていた。
孝太郎は孝子を抱きしめていた。
気がついたら、そのような形になっていた。
孝子は言うに及ばず、孝太郎自身も仰天したのだが、背中に回した手をほどくことはなかった。
テニスは続け、できる限りのことはやるつもりであった孝太郎は、
「孝太郎君の夢は絶対に叶えるから」
と宣言した。
テニスに向かう姿勢は、入れ替わった当初よりも真摯になった。
伝えた気持ちは、日増しに強くなっていった。
しかし裏腹に、調子は上がらなかった。悪化しているとさえ感じられた。
同世代の日本人選手に対しては、テニスをはじめてからこのかた無敗。周囲からそれとなく聞き出した、ふざけているとも思える一橋孝太郎の実績だった。
シャワーから吐き出されるお湯は、うな垂れた孝太郎の肩をただただ打ちつけていた。
スランプからはいまだ抜け出せない孝太郎ではあったが、大会は順調に勝ち進んでいた。自身のゲームは一本も落とさずにキープし、ブレイクのチャンスすら与えない、危なげのない試合運びだ。
にもかかわらず、観客の間では、
「一橋は不調か」「伸び悩んでいるのかもしれない」「すでに頭打ちなんだろう」「十で神童、十五で才子……って言葉通りだな」
好き放題に言われていた。
何も知らないくせに、と孝太郎は何度も叫びそうになった。
一橋孝太郎に対する心ない言葉を聞くたびに、その心はかき乱された。
そして、苛立てば苛立つほどに怒りは自身へとはね返り、己の不甲斐なさを容赦なく責め立てた。
試合のあと、ホテルへ戻ってからこっち、孝太郎はベッドに寝転んでいた。身じろぎ一つせず、見るともなく天井を見ていた。
佐々は部屋にいなかった。
ロビーにいた。夕食の支度までの間、そこで一人、明日のことに考えをめぐらせた。
全日本ジュニアの決勝まで、二十四時間を切っていた。
一人きりの室内。
孝太郎は、握りしめていたケータイを胸で抱えた。
「俺に言わなくてもいいから、きちんと胸のうちを聞いてもらえ」
そう告げて、佐々は部屋を出ていった。
大会期間中、二人に会話らしい会話はなかった。
佐々は手を替え品を替え、粘り強くアプローチしていたのだが、肝心の孝太郎が固く口を閉ざしてしまっていた。
佐々は一言、「己と向き合え」とだけアドバイスした。
言いつけどおり孝太郎は、自分の心から目をそらすことなく向き合った。
けれど、そうすればするほどに焦りはつのり、心と体はちぐはぐになっていった。
日が暮れ、辺りが赤く染まったころ、孝太郎はようやく体を起こした。
ケータイに視線を落とし、ディスプレイを表示させる。操作は、市村孝子の電話番号を表示したところで止まっていた。
通話ボタンを押す直前、孝太郎の指はまたしても動かなくなった。
迷惑がかかる。
それは、自分自身が誰よりもよく理解していることであった。
孝太郎が操作を取り消そうとしたそのとき、ケータイから着信音が流れた。
発信者は市村孝子だった。
「あ、孝太郎君? 今、大丈夫かな」
孝太郎は、すぐには言葉が出てこなかった。
「孝太郎君……だよね?」
「うん」
かろうじて出た声はかすれていた。
「な、何かあったの?」
「どうして」
「え? あ、えっと、こっちはそうでもないんだけど、大阪は今週、ものすごい猛暑だったみたいだから。炎天下での連戦って大変でしょ? その、辛くないかなって思って」
「時間、は」
「問題ないよ」
一瞬だけ、間があいた。
「うそ」
「ええっ、ち、ちがっ。ホントに――」
「ありがとう」
返答はなかった。が、孝太郎には、電話越しに聞こえてくるかすかな声から、孝子の様子が手に取るようにわかった。
「市村さん。市村さんに聞いてほしいことがあるの」
一も二もなく孝子は承諾した。
孝太郎は、気負いや不安といった自らの胸中を打ち明けた。
都度相づちを打っていた孝子の声は、次第に涙声へと変わっていった。すべてを話した孝太郎の耳には、すすり泣く声だけが届いていた。
不意に孝太郎は、中学時代のことを思い出した。
学校のことで苦しみ、弱り、逃げ場さえなかったタカコは、コウタロウとの出合いがしらに、堪えきれなくなっていた感情をぶちまけてしまったことがあった。
突然のことにもかかわらず、コウタロウはただ黙って話を聞いた。タカコが全部吐き出すまで何も言わず、根気よく最後まで。
コウタロウは泣いていた。我が事のように悲しんでいた。
それにつられてタカコも泣いた。人前で泣くなど、物心がついて以降初めてのことであった。
泣きはらし、やっとのことで落ち着きを取り戻した孝子は、
「体の声は聞こえるかな」
おずおずとたずねた。
孝太郎はまぶたを閉じた。頬には涙の痕が残っていた。
胸からは確かな、不安などかき消してしまうような鼓動を感じた。乱れのない規則正しいリズムは、浮き足立った心を静めるに十分であった。体はあくまでも軽く、力強い。そして、何よりも温かかった。
「伝わってくるよ。孝太郎君の声が」
「そっか。よかった」
一呼吸おいて、孝子は続けた。
「頼りないかもしれないけど、僕がずっとついてるよ」
「うん」
孝太郎の頬に、また涙が伝った。
すでに、日はとっぷりと暮れていた。二人は通話を終えることにした。
「決勝も大変かもしれないけど、結果なんて気にせず、楽しんでね」
「孝太郎君、好きだよ」
返答の代わりに、突如として孝太郎は告白をした。
まさしく青天の霹靂であった。それでも孝子はとっさに、
「僕もだよっ」
力いっぱい答えた。