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 全日本ジュニアが翌日に差し迫る中、うつぼテニスセンターでの前日練習は、佐々の指示で早々に切り上げることとなった。

 孝太郎は調子を崩していた。

 ほかならぬ本人が、一番それを実感していた。だからこそ、

「これ以上続けて、調子が戻ると言い切れるのか?」

 という佐々の言葉に、何も返すことができなかった。

 しおれている孝太郎を連れて、佐々は宿泊先のホテルへと帰還した。

 シャワーを浴びるよう孝太郎にうながしたあと、佐々はキッチンに立った。

 自炊可能なこのホテルは靱テニスセンターのほうには比較的近く、全日本ジュニアに出場する際の拠点であった。

 二人分の弁当は自分が処理する。

 そう決めた佐々は、孝太郎の母親から受け取ったレシピを確認しつつ、昼食の準備に取り掛かった。

 人一人くらいなら十分にくつろげるバスルーム。孝太郎は熱いお湯に打たれながら、夏休み直前の出来事を思い返していた。

 市村孝子として生きる未来を捨て、一橋孝太郎が己の人生を託してくれたあの日。孝子は別れ際、ふと、

「テニスは好き?」

 と聞いてきた。

 口にするつもりはなかったのだろう。直後の動揺した孝子の姿は、孝太郎の目に今も焼きついている。

 やめてくれて構わないと孝子は言った。

「市村さんの自由に生きてほしい」とも。

 孝太郎の答えは初めから決まっていたが、あえて、何故そんなことを聞いたのかをたずねた。ごまかそうとする孝子をしつこく、粘り強く問い詰めた。

 根負けした孝子はついに、「両親や佐々コーチには一生かかっても返せないくらいの恩があるから、そこだけがどうしても心残り」なのだと白状した。

「押し付けたくせに身勝手でごめんね」と孝子はうつむいた。スカートのすそを握りしめた両手は、かすかに震えていた。

 孝太郎は孝子を抱きしめていた。

 気がついたら、そのような形になっていた。

 孝子は言うに及ばず、孝太郎自身も仰天したのだが、背中に回した手をほどくことはなかった。

 テニスは続け、できる限りのことはやるつもりであった孝太郎は、

「孝太郎君の夢は絶対に叶えるから」

 と宣言した。

 テニスに向かう姿勢は、入れ替わった当初よりも真摯になった。

 伝えた気持ちは、日増しに強くなっていった。

 しかし裏腹に、調子は上がらなかった。悪化しているとさえ感じられた。

 同世代の日本人選手に対しては、テニスをはじめてからこのかた無敗。周囲からそれとなく聞き出した、ふざけているとも思える一橋孝太郎の実績だった。

 シャワーから吐き出されるお湯は、うな垂れた孝太郎の肩をただただ打ちつけていた。


 スランプからはいまだ抜け出せない孝太郎ではあったが、大会は順調に勝ち進んでいた。自身のゲームは一本も落とさずにキープし、ブレイクのチャンスすら与えない、危なげのない試合運びだ。

 にもかかわらず、観客の間では、

「一橋は不調か」「伸び悩んでいるのかもしれない」「すでに頭打ちなんだろう」「とおで神童、十五で才子……って言葉通りだな」

 好き放題に言われていた。

 何も知らないくせに、と孝太郎は何度も叫びそうになった。

 一橋孝太郎に対する心ない言葉を聞くたびに、その心はかき乱された。

 そして、苛立てば苛立つほどに怒りは自身へとはね返り、己の不甲斐なさを容赦なく責め立てた。

 試合のあと、ホテルへ戻ってからこっち、孝太郎はベッドに寝転んでいた。身じろぎ一つせず、見るともなく天井を見ていた。

 佐々は部屋にいなかった。

 ロビーにいた。夕食の支度までの間、そこで一人、明日のことに考えをめぐらせた。

 全日本ジュニアの決勝まで、二十四時間を切っていた。

 一人きりの室内。

 孝太郎は、握りしめていたケータイを胸で抱えた。

「俺に言わなくてもいいから、きちんと胸のうちを聞いてもらえ」

 そう告げて、佐々は部屋を出ていった。

 大会期間中、二人に会話らしい会話はなかった。

 佐々は手を替え品を替え、粘り強くアプローチしていたのだが、肝心の孝太郎が固く口を閉ざしてしまっていた。

 佐々は一言、「己と向き合え」とだけアドバイスした。

 言いつけどおり孝太郎は、自分の心から目をそらすことなく向き合った。

 けれど、そうすればするほどに焦りはつのり、心と体はちぐはぐになっていった。

 日が暮れ、辺りが赤く染まったころ、孝太郎はようやく体を起こした。

 ケータイに視線を落とし、ディスプレイを表示させる。操作は、市村孝子の電話番号を表示したところで止まっていた。

 通話ボタンを押す直前、孝太郎の指はまたしても動かなくなった。

 迷惑がかかる。

 それは、自分自身が誰よりもよく理解していることであった。

 孝太郎が操作を取り消そうとしたそのとき、ケータイから着信音が流れた。

 発信者は市村孝子だった。

「あ、孝太郎君? 今、大丈夫かな」

 孝太郎は、すぐには言葉が出てこなかった。

「孝太郎君……だよね?」

「うん」

 かろうじて出た声はかすれていた。

「な、何かあったの?」

「どうして」

「え? あ、えっと、こっちはそうでもないんだけど、大阪は今週、ものすごい猛暑だったみたいだから。炎天下での連戦って大変でしょ? その、辛くないかなって思って」

「時間、は」

「問題ないよ」

 一瞬だけ、間があいた。

「うそ」

「ええっ、ち、ちがっ。ホントに――」

「ありがとう」

 返答はなかった。が、孝太郎には、電話越しに聞こえてくるかすかな声から、孝子の様子が手に取るようにわかった。

「市村さん。市村さんに聞いてほしいことがあるの」

 一も二もなく孝子は承諾した。

 孝太郎は、気負いや不安といった自らの胸中を打ち明けた。

 都度相づちを打っていた孝子の声は、次第に涙声へと変わっていった。すべてを話した孝太郎の耳には、すすり泣く声だけが届いていた。

 不意に孝太郎は、中学時代のことを思い出した。

 学校のことで苦しみ、弱り、逃げ場さえなかったタカコは、コウタロウとの出合いがしらに、こらえきれなくなっていた感情をぶちまけてしまったことがあった。

 突然のことにもかかわらず、コウタロウはただ黙って話を聞いた。タカコが全部吐き出すまで何も言わず、根気よく最後まで。

 コウタロウは泣いていた。我が事のように悲しんでいた。

 それにつられてタカコも泣いた。人前で泣くなど、物心がついて以降初めてのことであった。

 泣きはらし、やっとのことで落ち着きを取り戻した孝子は、

「体の声は聞こえるかな」

 おずおずとたずねた。

 孝太郎はまぶたを閉じた。頬には涙の痕が残っていた。

 胸からは確かな、不安などかき消してしまうような鼓動を感じた。乱れのない規則正しいリズムは、浮き足立った心を静めるに十分であった。体はあくまでも軽く、力強い。そして、何よりも温かかった。

「伝わってくるよ。孝太郎君の声が」

「そっか。よかった」

 一呼吸おいて、孝子は続けた。

「頼りないかもしれないけど、僕がずっとついてるよ」

「うん」

 孝太郎の頬に、また涙が伝った。

 すでに、日はとっぷりと暮れていた。二人は通話を終えることにした。

「決勝も大変かもしれないけど、結果なんて気にせず、楽しんでね」

「孝太郎君、好きだよ」

 返答の代わりに、突如として孝太郎は告白をした。

 まさしく青天の霹靂へきれきであった。それでも孝子はとっさに、

「僕もだよっ」

 力いっぱい答えた。

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