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「楽しんでこい」

 試合の直前、佐々はそう言って孝太郎を送り出した。

 師弟そろって同じこと言ってる、と内心つぶやいた孝太郎は、背中を向けたあと、くすりと笑った。

 二人は前日、ミーティングを行わなかった。

 孝太郎が遠慮したのだ。

 佐々はあっさりと申し出を受け入れた。「思うままにやるだけでいい」と激励もした。心を覆っていたもやは、孝太郎の晴れやかな表情によって消し飛んでいた。

 決勝の相手は中沢円だった。

 大方の予想に違わぬこのカード。例年通りであれば、結果の見えた試合でもあった。

 だが。

 今年はわからない。観客の誰もがそう思っていた。

 今大会。

 これまでの試合すべてで中沢は、対戦相手にブレイクチャンスを一度も与えず、その上ゲームのキープすら満足にさせなかった。伸びをまったく感じさせない孝太郎とは異なり、その成長を、圧倒的なまでの強さを見せつけていた。

 下馬評に変化が訪れるのも、当然といえば当然であった。

 それもあってか応援の数は五分と五分。中には、珍しいもの見たさで中沢の応援に回る無神経な輩もいた。

 一橋孝太郎の耳は、自身への声援をしっかりと聞き取っていた。

 孝太郎は目をつぶり、深呼吸をした。

 前日の孝子の言葉がよみがえる。その言葉は、心に安らぎを与えてくれた。その声は、体に力をみなぎらせた。

 試合は中沢のサーブからはじまった。

 フォルトと判定されかねないくらいに際どい、センターへのサーブだった。深く、威力も兼ね備えた完璧ともいえるそれを、孝太郎はいともたやすくリターンした。

 すさまじいまでのサーブの威力を存分に利用して返されたボールに、中沢は動くことすらままならなかった。

 たったのワンプレー。

 それだけで、孝太郎に対する観客の評価はくつがえった。そして、この試合を語るなら、ただそれのみで十分であった。

 結果は6-0、6-0のストレート。孝太郎は、中沢にキープを許さないばかりか、ポイントすらまともに取らせなかった。

 絶対的とも評された強さは健在なのだと、観客は皆が皆魅了された。

 試合後、二人は握手を交わした。中沢は最後の最後まで闘志を萎えさせることはなかった。

 表彰式を終えると、孝太郎と佐々はホテルへと戻った。帰途につくのは明日。Uターンラッシュを回避するためだった。

 一息ついてから、佐々は、

「うまくいったんだな」

 相好を崩した。

「はい」

「もしかして、目当てだったコか?」

「はい?」

 思わず、孝太郎は聞き返した。

「したんだろ? 告白」

 孝太郎の脳裏にはしばらくの間ハテナが飛んでいたが、やがて合点がいった。

 どうやら、気持ちを吐き出せ、と受け取った昨日の言葉には、告白してしまえ、という意図が隠されていたらしい。

 早のみこみもいいところだと孝太郎は思いつつも、

「はい」

 迷いなく答えた。

 佐々は目を細めた。

「いつでもいいから、ちゃんと紹介してくれよ」

「はい」

 孝太郎は力強くうなずいた。


 夏休みの最終日。太陽が西へ傾き、この日の最高気温に達したころ。

 孝太郎は近隣の図書館にいた。

 一橋孝太郎にはまったく縁のない場所といってよかった。

 が、大阪から戻ってからというもの、孝太郎はうまいこと時間を作っては足しげく通っていた。

 今日はオフということもあって、開館時間からずっといる。いなかったのは、昼飯を食べる間くらいであった。

 現在は、栄養学に関する本とにらめっこをしている最中だ。

「熱心なもんだな」

 声をかけたのは桐沢武人だった。

「まあね」

 視線はそのままに孝太郎は答えた。

 彼らが言葉を交わしたのは、実に一週間ぶりだ。

 武人は、夏休みがはじまってからというもの、休館日以外は終日入り浸っていた。曰く、空調が行き届いている上にタダで本を読み放題、人間観察もできるこの場所は楽園なのだとか。

「栄養士でも目指すのか」

 向かいの席に座った武人が、持ってきた本の一冊を開いた。

 上目を使った孝太郎だったが、一々否定まではしなかった。

 再び視線を本へと戻し、要点を拾い読みしながら、パラ、パラとページをめくっていく。そして、大して時間が経たないうちに分厚いその本を読み終えた。

 静かに息を吐いたあと、孝太郎は顔を上げた。

 武人は、先ほどとは違う本を読んでいた。

「もう、読んだの?」

 思わず知らず、声が出ていた。

 武人が読んでいたのは、決して薄くはない、よく見る厚さのハードカバー。小説だ。

「ああ」

「全部?」

「飛ばし読みなんて勿体無いじゃん」

 受け答えしつつ、武人は次々とページをめくっていた。

 若干の嫉妬を、孝太郎は覚えた。

「タカ、アイツには会った?」

 本を取り替えようと孝太郎が席を立つ直前、武人はつぶやいた。

 孝太郎は一つため息をついた。一々苛立ってはいられない。武人の行為は明らかに意図したものだと、最近では理解していた。

「会ってない。けど、一度だけ話はした」

「元気にしてたか?」

「してた」

「そうか」

 能面、などと陰でそしられている武人の表情がわずかにほころぶ。が、それも一瞬だけで、次の瞬間にはまた無表情に戻っていた。

「あのさ」

 孝太郎は小声で話しかけた。武人からの返事はなかった。

「ボク、なんでタケトって呼ぶようになったんだっけ」

「何だよ。藪から棒に」

「ちょっとド忘れしちゃったから……。覚えてるなら、教えてくれないかなって思って」

 努めて孝太郎らしく言った。

 手を止めた武人は、多少の間のあと、

「まあ、いいけど」

 渋々と承諾した。

 理由は至極単純。ただの言い間違いであった。

 漢字を習いはじめて間もない時分、せがまれた武人は自分の名前を漢字で書いて、披露したことがあった。

 せがんだ当人である一橋孝太郎は、それを「タケト」と読んでしまった。日常的に「タケヒト」の名は口にしていたにもかかわらずだ。

 彼はそのころ父親をマネして、子供向けではあったが小説を読んでいた。

 その中に、『人』と書いて『ト』と読む名前のキャラクターがいた。そこに引っ張られてしまったのだ。

「テニスをはじめる前のタカは、今に輪をかけてぼんやりしていたからなぁ」

 間違えたときの慌てふためくさまは、今思い出しても笑いがこみ上げるのだという。

 言い訳をせず謝り倒す彼から無理やり理由を聞きだした武人は、他人が口にしないその呼び方を使ってほしいと頼んだ。

 その上で合わせるように、自身は「タカ」と呼びだした。

「毒気を抜かれるよ。実際」

 おかげで一橋孝太郎は、気兼ねせずに「タケト」と呼べた。

「言い間違いか」

 孝太郎は小声で、されどはっきりとつぶやいた。少し間を取ってから、

「タケヒト、って呼んでもいい? これから」

「……そうだな」

 武人は再度手を止め、今度は顔も上げた。そして、

「確かに、『タカ』だとアイツとかぶるもんなぁ」

 初めて、今の孝太郎に対して笑顔を見せた。

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