第2話:世界の境界線テストと「翻訳結界」
最初の「事件」から三日後の深夜。冷えた台所で淹れた特売のコーヒーを魔法瓶に注ぎ、マグカップと一緒に安っぽいプラスチックのお盆に載せた。敷地の奥、湿った草を踏み分けながら、またあの古い蔵へと足を運ぶ。
あの日、あのボロボロの老人が黒い扉の向こう――元の世界だか何だか知らないが――へ帰っていってから、警察に電話する気にはならなかった。サラリーマン時代、数々の終わらないデスマーチと理不尽な泥仕合をくぐり抜けてきた。その結果、想定外の異常事態に直面したとき、驚くよりも先に『現状維持と観察』を決め込む悪癖が染みついていた。
(本当に、夢じゃなかったんだよな……)
ライトの光の中に浮かび上がる、重厚な黒い木製の扉。近くに転がっていた埃っぽい木箱を引っ張ってきて腰掛け、マグカップに黒い液体を注ぐ。引きこもり生活の暇つぶしだ。この奇妙な扉が一体何なのか、少しばかり調べてみるつもりだった。
その時、静寂が引き裂かれた。最奥の扉が「ドンドンドンドン!!」と、狂ったように激しく殴りつけられた。ビクリと肩が跳ね、マグカップのコーヒーが指にこぼれて熱い。地響きのような打撃音に続いて、ドアノブが壊れんばかりにガチャガチャと回る。声は聞こえない。
ただ、扉の向こうから這い出てくるような緊迫感と、爪で木を引っ掻く嫌な音だけが漏れていた。意を決して立ち上がり、重い木製のドアノブを掴んで、一気に手前へと引き開ける。
扉が放たれた瞬間、蔵の空気が吸い出されるように動いた。光の差した石畳の路地裏で、ドアノブにしがみついたまま床へ崩れ落ちてきたのは、三日前と同じ緑のローブの老人――大魔導士オルドだった。
そして、オルドの体が扉の枠線を越え、蔵の床へと滑り込んできたまさにその瞬間、それまで無音だった老人の口から、堰を切ったような言葉が脳内へ直接飛び込んできた。
「お主の……お主のあの『珈琲』がないと、研究がまったく進まんのだ! 朝も夜もあの香りが脳裏をよぎり、他の魔導薬がただの泥水にしか思えん! 頼む、一金貨でも十金貨でも払う、あの黒い聖水をもう一杯だけ……っ!」
髪を振り乱し、眼球を血走らせて床を這う王宮最高顧問。そのあまりの中毒者ぶりに、言葉が通じた安堵よりも先に呆れが勝った。いつもの会社の会議で使っていた、一番やる気のない声で応じる。
「ちょうど今、温かいのを持ってきたところです。……まあ、そこに座ってください」
木箱の上を譲り、まだ湯気の立つポットから新しいコーヒーを注いで手渡した。
熱い液体を胃袋へ収めると、みるみるうちに老人の瞳に理知的な光が戻り、ふぅと深い溜息が漏れた。
「生き返った……。この雑味のなさ、並びに脳の魔力回路を均一に刺激するこの覚醒感。やはりお主の技術は、我が世界の魔法構築の理論を超越している」
「そう言っていただけるのはありがたいですが、ここはうちの蔵です。あんまり長居されても困るんですよね」
盆の上を片付けながら言うと、オルドはマグカップを見つめながら、その鋭い目を細めた。
「ふむ。長居、か。……若者よ、お主は気づいておるか? この部屋の『異常性』に」
「異常性?」
オルドは木箱から立ち上がり、黒い扉の境界線――実家の蔵の床と、異世界の石畳が交わる敷居を指差した。
「我が知的好奇心が黙っていないのだ。三日前、私はこの部屋に入った瞬間、お主の言葉の意味を完璧に『概念』として理解した。しかし、私がお主の世界の言語を学んだ覚えはない。逆にお主も、我が『エルディア語』を知らぬはずだ」
手が止まった。確かにそうだ。自分は今、目の前の老人の言葉を日本語として何不自由なく聞き取っているし、自分の標準語も相手に通じている。
「これは、高位の『翻訳魔術』の比ではない。発音や文法を変換しているのではなく、魂のレベルで互いの意思を通じ合わせる翻訳結界が、この部屋にのみ常時展開されていると見るべきだ。……実験をしてみたくはないか?」
大魔術師の偏屈な笑みに、自分の中の「プロジェクトマネージャー」としての血がわずかに騒いだ。未知のシステムが目の前にある。その仕様とリスクを把握することは、この場所で引きこもり生活を安全に継続するために、絶対に外せない事だった。
「……いいでしょう。境界線テスト、やりますか」
二人はさっそく、扉の境界線を跨いだ検証実験を開始した。物資の往来は問題ない。盆の上にあったペンを、扉の向こうの石畳へ放り投げてみる。それは何の問題もなく、異世界の地面へと転がっていった。逆にオルドが持っていた、異世界の不思議な鉱石を蔵の中に投げ入れても、消滅することなく床にとどまった。
「よし、次は人だ。私が一度、そちら側の世界へ出てみよう」
オルドがそう言って、意気揚々と蔵の正面入り口の引き戸を開け、実家の裏庭――つまり「日本側」へ足を一歩進めようとした、まさにその瞬間だった。
「う、ぐっ……!? ぁ、あ、が……っ!!」
オルドが突然、胸を掻きむしってその場に激しく膝をついた。顔面から一気に血の気が引き、まるで首を絞められているかのように喘ぎ始める。
「ちょっと、どうしたんですか!?」
慌ててオルドの肩を掴み、蔵の中心部へと引き戻す。すると、オルドは激しく咳き込みながら、大気をごくごくと貪るように吸い込んだ。
「はぁっ、はぁっ……死ぬかと、思った……。あの扉の外の空気……何なのだ……。一歩進んだ瞬間、大気から一切のマナが消滅した……。我が体に循環していた魔力が一瞬で外へ吸い出され、肺が爆発するかと思ったぞ……!」
恐怖に震えながら、開いたままの蔵の引き戸から見える、のどかな裏庭を睨みつける老人。魔力がゼロの日常空間は、彼らにとって毒ガス室みたいなものらしい。最悪の場合、ショック死のリスクすらある。
「なるほど……。じゃあ、今度は逆だ。お主がこちらの世界へ一歩出てみよ」
オルドに促され、今度は反対側、最奥にある「黒い木製の扉」の前に立った。石畳の路地裏。見上げる巨大な月。一歩踏み出せば、そこは本物の異世界だ。唾を飲み込み、右足を一歩、扉の外の石畳へと踏み出した。
――その瞬間、頭の中で何かが爆発したかのような錯覚に陥った。
「っ……!?」
肉体的な痛みはない。しかし、右足が外の空気に触れた瞬間、背後の蔵から聞こえていた夜風の音や、オルドの気配が完全に消失した。耳の鼓膜を強打したのは、「ガガガガ、ギギギギ」という、猛烈な金属の摩擦音と壊れたスピーカーの音割れを混ぜ合わせたような、不快極まる巨大な雑音だった。驚いて口を開け、「オルドさん!」と叫ぼうとする。
しかし、自分の喉から出たはずの音さえも、外の世界の大気に触れた瞬間に「ピシ、パシ」という奇妙な破裂音に変換され、耳に届く前に霧散していく。扉の向こうの蔵の中にいるオルドは、確かに何かを大声で叫び、手を伸ばそうとしている。だが、その口の動きから発せられる音声は、こちらの耳には一切届かない。ただただ、脳髄をかきむしるような世界のノイズが響くだけだ。
(あそこから出たら、二度と誰とも会話ができない――!)
引きずり込まれるような恐怖に駆られ、慌てて右足を後ろへ引き抜いた。 バタンと扉の木枠に背中を預け、両足を完全に蔵の床へと戻す。 その瞬間、文字通り一瞬で耳元の狂ったノイズが消え去る。
「――おい! 大丈夫か! 何があったのだ!」
オルドのクリアな焦り声が、脳内に完璧な日本語となって飛び込んできた。
ハァハァと荒い息を吐きながら、自分の手のひらを見つめた。外の世界は、人間がまともにコミュニケーションを取ることを許さない「言語の絶対的拒絶地帯」だった。
冷や汗を拭いながら、コーヒーを運んできた盆の上に置いてあった大学ノートを引き寄せ、ボールペンを走らせた。長年のサラリーマン生活で染み付いた、トラブルシューティングのメモ書き。この世界の『仕様』の定義だ。 頭の中で整理した事実を、箇条書きにしていく。
・異世界人が蔵の外(日本の日常空間)へ出る:マナが存在しないことによる呼吸困難(即死リスク有)
・日本人が扉の外(異世界)へ出る:言語が一切不通(雑音化による遭難リスク大)
・両者が『蔵の内部』に滞在する:肉体安全。完璧な概念翻訳が成立(絶対安全圏)
ノートの文字を見つめながら、オルドは感心したように髭を撫でた。
「実に見事なまとめ方だ。つまり……この『蔵の中』という極小の空間だけが、互いの世界の法則を中和し、完璧に概念を翻訳し合える、唯一無二の安全な止まり木ということか」
「そういうことです」
ノートをパタンと閉じた。過呼吸で倒れ、会社を辞め、妻にも捨てられた自分。外の世界に出れば、またあの息の詰まる縦社会や、終わらない責任の押し付け合いが待っている。そして、この黒い扉の向こうの世界へ踏み出せば、言葉さえ通じない絶対的な孤独と遭難が待っている。だったら――一歩もここから出なければいい。
幸い、ここは実家の敷地内にある、完全に独立した離れの蔵だ。水も電気も通っている。この『蔵の中』という領域に引きこもってさえいれば、自分は日本の理不尽な社会からも、異世界の未知の脅威からも、同時に完璧に隠れることができる。
「まあ、この場所の仕様が分かっただけでも収穫です。オルドさんも、帰る時は気をつけてくださいね」
「ふむ……お主、これほどの特異点を目の前にして、ただ引きこもる盾にするつもりか? 呆れた無欲さだな」
オルドは面白そうに鼻を鳴らし、再び黒い扉の向こうへと帰っていった。一人残された坂本は、静かにノートを片付け、蔵の鍵を内側から閉めた。湿った夜風がまた硝子窓を小刻みに揺らす。誰にも邪魔されない、冷え切った安全地帯。
その静寂に少しだけ安堵しながら、ここならどれだけ引きこもっていても誰にも文句は言われないだろうと、錆びついた思考のまま、暗闇の中で小さく息を吐き出すのだった。




