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第1話:人生に絶望した男、異世界の扉を開く

 海からの湿った風が、古い硝子戸をガタガタと小刻みに震わせている。耳障りな音だ。 四十五にもなって、実家の薄暗い和室で天井のシミを数えている。柱時計の秒針が肉を削るように進む音と、遠い波の音。それだけ。かつて耳の奥にこびりついて離れなかった、深夜二時のメッセージアプリの通知音や、役員からの怒号混じりの電話は、もう鳴らない。


「……あーあ」


  吐き出した息が、カビ臭い湿気の中に重く沈んでいく。


 二年前までは、東京のど真ん中、IT企業の見栄えだけ良い課長席にいた。「坂本、お前の管理不足だ!」と無茶な納期とコスト削減を怒鳴られ、下からは権利ばかり主張する若い連中に陰口を叩かれる。二十年間、ただひたすらすり減るための部品だった。油も差されず、錆びていくばかりの鉄の塊。


 終わりは唐突だった。深夜の会議室、ホワイトボードの文字が急に歪んで見えなくなった。胸が嫌な形に縮こまり、金魚みたいに口をパクパクさせても空気が入ってこない。あの泥の中に沈んでいくような強烈な悪寒。気がつけば救急車のストレッチャーの上で、復帰することなくそのまま会社を放り出された。


 肩書きが消えると、他のものも砂みたいに指の間から零れ落ちた。「あなたといると息ができない」と、冷え切った目の妻に離婚届を突きつけられ、娘の顔を見る権利も失った。残ったのは、毎月口座から無慈悲に毟り取られていく養育費の数字と、泥のようなプライドだけだ。 逃げるように帰ってきた日本海沿いの、店の大半がシャッターを下ろした限界集落。ここで誰の目にも触れず、ひっそり死ねばいい。それが自分の人生の、一番マシな店じまいのはずだった。


「……喉、カラカラだ」


 寝返りを打ちすぎて痛む腰をかばいながら、のそりと起き上がる。台所の冷蔵庫を開けたが、冷えた暗闇があるだけで麦茶のパックすらない。溜息をついてシンクへ向かおうとして、ふと思い出した。昼間、裏の古い蔵を整理したとき、魔法瓶に特売の粉でコーヒーを淹れて持っていったはずだ。まだ残っていたか。水よりは味がするだろう。


 懐中電灯の細い光を頼りに、薄いゴムサンダルを突っかけて外へ出る。夜の闇の中、ぽつんと佇む蔵はまるで巨大な墓標だ。地面に転がった錆びた錠前が、ライトの光を浴びて鈍く光る。 建付けの悪い木扉を引くと、ギィと嫌な音が鼓膜を刺した。 埃の匂いの奥、ライトの光が突き当たったのは、見慣れたガラクタの山ではなかった。 なんだ、これ。 蔵の最奥に、不自然なほど綺麗な、黒い木製の扉が嵌り込んでいる。実家の安っぽい柱にはおよそ似つかわしくない、中世の古い城にあるような重苦しい鉄の装飾。


 吸い寄せられるように足が動き、ノブを握る。冷たい。カチャリと軽い音がして、扉はあっけなく内側へ開いた。 その瞬間、目を射るような星明かりと、嗅いだことのない、むっとするほど濃密な夜の草の匂いが顔にぶつかってきた。


「は?」


 声が漏れた。 扉の向こうは、うちのボロい裏庭じゃない。見たこともない石畳の路地裏。見上げる空には街灯の光なんかなくて、代わりに信じられないほど巨大な、不気味に青白い月が居座っている。 幻覚だ。ついに頭まで狂ったか。 関わりたくなくて扉を閉めようとした時、足元から嫌な音がした。


「――が、はっ……あ、あ……」


 獣が潰されたような、だが、紛れもない人間の絶望的な喘ぎ声。 慌ててライトの光を落とすと、そこには一人の老人が這いつくばっていた。 引きずるほど長い白髪と髭。天体図みたいな刺繍が施された、いかにも高級そうな深緑のローブを着ているが、今はボロボロに引き裂かれている。顔面は土気色で、浮き出た血管が気味の悪い黒い筋になってのたうち回っていた。


 老人は激しい悪寒に震えるようにガチガチと歯を鳴らし、自分の頭皮を血がにじむほど激しく掻きむしっている。焦点の合わない目は、完全に狂気に染まっていた。 何が起きているのかは分からない。ただ、その床でのたうち回る姿に、あの深夜のオフィスで過呼吸になって四つん這いになった自分自身の姿が、嫌なリアリティを持って重なった。あの時、何が欲しかった。


 パニックになりかける頭を無理やり抑えつけ、振り返る。すぐ後ろの作業机の上、古臭い魔法瓶に飛びついた。 マグカップをひったくり、固いレバーを力任せに押し込む。ドボドボと濁った琥珀色の液体が注がれると同時に、カビ臭い蔵の空気の中に、香ばしい焙煎の匂いが一気に弾けた。それが開いた扉から、夜の路地裏へと流れ出していく。


「……っ!? ……う、うう……?」


 老人の激しい痙攣が、ぴた立ち止まった。濁りきっていた目が、わずかにこちらを向く。 本能的なものだろう。老人は這いずるようにして動き出し、狂気から逃れるように手を伸ばして、薄暗い蔵の床へとずるりと倒れ込んできた。


 床にしがみつく老人の首筋を片手で支え、強引にマグカップをその乾いた唇へと押し当てる。


「いいから、これ飲んで。息を吐き出して」


 老人はカップをひったくるように掴み、むさぼるように熱い液体を喉に流し込んだ。


「――ぶ、ふぅっ!?」


 ゴク、ゴクと、なりふり構わず喉が鳴る。温かい液体が落ちていくたび、老人の顔から死相が薄れ、ガチガチと震えていた肩の力が抜けていくのが見えた。


「はぁぁぁぁぁ……っ!!」


 最後の一滴まで飲み干し、老人はマグカップを床に叩きつけるように置いた。その目には、ぞっとするほど鋭い眼光が戻っている。 老人は自分の両手を見つめ、それから、ヨレヨレのTシャツ姿で突っ立っている自分を、怯えの混じった目で歪んで見上げた。


「お主……何者だ……? 今の聖水は一体……。我が最高位の魔法でも防げなんだ精神の暴走を、これほど一瞬で平定するとは……。まさか、伝説の調薬師か……!?」


 大袈裟な言葉に、ただ顔をしかめる。この蔵に入った瞬間から、なぜか老人の言っている意味が、妙に頭の中に直接流れ込んでくる感覚がして気持ち悪かった。いつもの会社の会議で使っていた、一番平坦で、やる気のない声が口から出た。


「いや……ただの、今朝淹れた売れ残りのコーヒーですけど。言葉、通じるんですね、ここ」

「珈琲……? 言葉……? はっ、なぜお主の言葉の意味が脳に直接……。いや、待て、この空間の理はどうなっているのだ!?」


 驚愕して蔵の壁や天井をキョロキョロと見回す老人を、冷めた目で眺める。 過呼吸で倒れた自分を救ってくれたのは、医者の言葉でも薬でもなく、ただの看護師がくれた一杯の白湯だった。休むこと、落ち着くこと。それだけで人間は少しだけ生き返る。それをこの老人に試しただけだ。


「まあ、生きてるなら良かったです。異世界だか何だか知りませんが……勝手に上がり込まれても困るんで、落ち着いたら、その扉から帰ってくださいね」


 そう吐き捨てて、床にこぼれた黒い液体のシミを拭うために、くしゃくしゃになったキッチンペーパーを数枚引きちぎった。


 背後から、老人が何やらぶつぶつと呪文のようなものを呟く声と、見たこともない色の光が漏れてくる。湿った夜風がまた硝子戸をガタガタと揺らした。せっかく静かに死ねると思ったのに、ひどく胃が痛む予感がして、ただただ面倒臭かった。

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― 新着の感想 ―
応援できればと思い来ました(^ ^) 過労で燃え尽きた中年の乾いた語りが、冒頭から胸に迫ります。書き手として感心したのは、異世界召喚という王道展開を「売れ残りのコーヒー一杯」に凝縮させた着地。魔法で…
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