香月小夜子の研究③
香月先輩の発表が終わり、室内が明るくなった。
俺は少しぼんやりとした頭を覚醒させようと、軽く頭を振ってから室内を見回す。
今しがた発表を終えたばかりの香月先輩は、一息つこうと思ったのだろう。優雅に珈琲を淹れている。
朝山先輩は、脳がショートでもしてしまったのだろうか、ポヤーっという擬音が発せられそうな面持ちで、ぼんやりと中空を見つめている。
神崎はというと、スマートフォンを片手に何かを調べているようだった。今の発表に対して調べているのだろうか。だとしたら流石優等生、勤勉なことだ。
「岩倉君、君も飲むだろう?」
コーヒーサーバを指さす香月先輩に、俺は「はい、いただきます」と頷いて返答する。
珈琲が注がれたカップを両手に持ち、香月先輩は俺の真向かいの席に腰掛けた。
お礼を言った後、彼女からカップを受取り珈琲に口を付ける。
スッキリとした苦みに舌が刺激され、思考が少しクリアになっていく気がした。
「妃那美はこんな風になっているから放置して……怜菜は何を調べているのかな?」
「小夜子先輩の発表に出てきた歴史上の人達について、知らない人もいたから調べてます」
「ほう、さすが学年主席。将来有望だね」
そう言って、香月先輩は神崎の頭を優しくポンポンと叩いた。
そんな表情を見るのも珍しい、神崎は褒められて少しだけ照れくさそうにしている。
小夜子先輩と名前で呼んでいる辺り、俺が来ていない間に、この二人の距離は大分縮まったのだなと感じた。
「さて、岩倉君。一つ質問させてもらっても良いかな?」
「はい、なんでしょう?」
「先ほどの私の問いに対し、君は棄却主義者と答えたね。正直、意外だった。てっきり私は君も楽観主義者、あるいは悲観主義者のどちらかだろうと予想していたからね。棄却主義者は楽観主義者である私とは、真逆の立場を取る存在だ。だからこそ、その立場をとった君にとても興味が沸いた。君はなぜ、自分が棄却主義者であると考えたんだい?」
そうやって改めて聞かれると、どのように答えて良いものか少し考えてしまう。
先ほど俺が棄却主義者であると言ったのは、三つしかない選択肢を狭めていった結果、自然と口を出たに過ぎなかったからだ。
しかし、こうやって香月先輩に真剣な目を向けられてから改めて考えてみても、俺の選択は変わらなかった。
その理由について思考を少し深めてから、静かに口を開く。
「えっと、素直に感じたことだけを言いますね」
香月先輩が頷いたのを確認してから、俺は言葉を続けた。
「存在に対してなぜ? という問いかけを繰り返した結果、無限後退が生じて行きつく先って現状は人間の理解や想像の範囲内に収まった何かですよね。であるなら、この問いを棄却するっていうのはある意味、合理的なのではと思ったんです」
「ほう……棄却する事が合理的か。そう感じた理由を説明できるかい?」
「そうですね、何と言ったらいいのか難しいんですけど……その問いに対する答えのみを追い求めるんじゃなくて、現時点でその問いに対する回答が得られないんだったら、その問いを一度棄却して、別の何かに目を向けた方が良いんじゃないかって思ったんです」
「……ふむ」
考えこむように腕を組んだ香月先輩は、ゆっくりと目を瞑って動かなくなった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。気づけば香月先輩だけでなく、神崎と朝山先輩も俺の話に耳を傾けていた。
注目されている事に少し気恥ずかしさを覚えながらも、俺は更に言葉を続けた。
「えっとですね……あくまで現状はですが、その問いの答えにはどうやっても辿り着けないですよね。そうである以上は、問題として成立していないと思うんです。であるなら、俺なら一度棄却する立場をとると思ったんです。その問いに対する答えが見つかるかもしれない、そういった兆しって言うんですかね、それが見つかった段階にならないと、楽観主義者にはなれないなーって」
その場を、沈黙が支配する。
変な事を言ってしまっただろうかと、少し焦る。
「あの、あくまで俺はですからね? 別に楽観主義者を否定するつもりは無いですし、人類の可能性を信じて、楽観主義者という立場をとる香月先輩の考え方、そういう考え方ができるっていう事は凄く素敵だと思いました。だから俺も、人類の可能性を信じたいという気持ちは同じなんですけど……」
「岩倉君」
この雰囲気を和らげようと言葉を続ける俺を、香月先輩が遮った。
スッと開いたその目には……これは意外だ。
彼女の目には、嬉しいという感情の色が見えた。
「ありがとう、岩倉君。君の言葉になんというか、目の覚めるような思いがしたよ。私はこの問いに執着しすぎているのかもしれないな。棄却して兆しを見つけるか……ふむ、もっと多角的な視点で物事を見なければならないんだろうね……視野を広げて、別の事象に向き合う事が大切か……なるほどなるほど」
後半はブツブツと、独り言のようになっていた。
一先ず俺は香月先輩を不快にさせた訳ではないと分かり、ホっと胸を撫でおろす。
「うん、やはり君は、この研究会に入会すべきだよ。いや、違うな。これは私からのお願いだ。ぜひこの会に、入会してほしい。そういった忌憚のない意見を述べてくれる君の存在は、とても貴重だ。私だけじゃない。別の研究を進めている妃那美や、怜菜にとってもね。そうだろう?」
香月先輩に同意を求められた神崎と朝山先輩は、ほぼ同時にコクコクと頷いた。
「私の研究に対する意見、ぜひぜひ聞いてみたいかもー」と朝山先輩。
「そもそも、私の研究には貴方の存在が必要不可欠だから」と神崎。
「二人もこう言っているしね。それに、もし岩倉君に何か研究したいような対象があるのであれば、私は持っている知識をフル稼働して、その研究をサポートするよ。そうやって皆で研究に打ち込んだり、意見を交換しあったり、研究とはまったく関係ない話もするけどね。君にとっても、ここでの時間は少なくとも退屈なものにはならないだろうと思うのだが……どうだろうか」
香月先輩の発表を聞いて、俺はこの人を尊敬する気持ちが芽生えていた。
真理への到達という、言葉にすると仰々しい目的に対してひたむきになる姿は、こんなことを絶対口に出しては言えないけれど、魅力的だなとさえ思った。
そんな人に真剣な表情で誘われて、断ることなどできるだろうか。
俺には、無理そうだった。
朝山先輩や神崎の研究が、どんなものなのかにも興味がある。
神崎に至っては、意味深な言葉を残しているので尚更だ。
それに、もしかしたらこれは良い機会なのかもしれない。
この会に入会するのであれば、自ずと研究テーマを決める必要がある。
そろそろ自分に目を向ける、良い頃合いなのかもしれない。
香月先輩、朝山先輩、神崎。
俺はこちらを見つめる三人と順番に目を合わせた後、少しだけ頭を下げて言った。
「よろしくお願いします」
こうして、俺は万物研究会に入会することとなった。




