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プロローグ

 神崎怜菜かんざきれいなの瞳は、美しかった。


 だからこそ、気味が悪かった。


 眼球の外部構造の一つに、虹彩と呼ばれるものがある。

 角膜の奥にあり、瞳孔を囲む、色を宿した輪状の筋肉。


 人はそこに感情を読み取る。

 怒り、喜び、悲しみ、驚き。あるいは恋慕。


 目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるくらいだ。

 人間は他人の目から、相手の心を想像する。


 けれど、神崎怜菜の目は違った。


 あれは、誰かを見る目ではない。


 誰かに見られていることを、知っている目だった。


 彼女のことは前から知っていた。


 同じ中学に通っていたのだから当然だ。

 別のクラスだった俺でさえ、神崎怜菜という名前くらいは知っていた。


 学校の中で、彼女を知らない人間はいなかったと思う。

 それほどまでに、神崎怜菜は人目を惹く存在だった。


 首元で切り揃えられた黒髪。

 整った顔立ち。

 透き通るような白い肌。

 そして、光を閉じ込めたような虹彩。


 遠目に見ているだけなら、ただ綺麗な女子生徒だった。


 同じ学校にこんな人間がいるのかと、少し現実感が薄れるくらいの美しさ。


 けれどそれは、あくまで遠くから眺めていた時の話だ。


 中学一年の秋。

 夕暮れ時、駅前にある本屋の前で、俺は初めて神崎怜菜と目を合わせた。


 偶然、通りすがっただけだった。

 何かに呼び止められたわけでもない。

 それなのに突然、背筋に冷たいものが走った。


 視線。


 誰かが見ている。


 そう感じて振り返った先に、彼女がいた。


 神崎怜菜は、本屋の軒先に立ったまま、こちらを見ていた。


 夕日に照らされたその姿は、現実よりも少しだけ輪郭が薄く見えた。


 まるで夢の中の人物が、こちら側へ迷い込んできたようだった。


 だが、俺を射竦めたのは彼女の美しさではない。


 その瞳だった。


 神崎の色鮮やかな虹彩は、確かに俺を向いていた。

 けれど、彼女は俺だけを見ていなかった。


 俺の向こう側。


 背後。


 あるいは、もっと遠い場所。


 この世界の外側にいる何かを、同時に見ているような目だった。


「君……」


 透き通った声だった。

 声量は大きくない。


 それなのに、雑踏の中でその声だけが妙にはっきりと耳に届いた。


「えっと……神崎さんだよね。一年三組の。何か用?」


 何か言わなければならないと思って、口から出たのはそんな言葉だった。


「私のこと、知ってくれているんだ」

「まあ、有名だし」

「そう」


 神崎は小さく頷いた。

 それから、こちらへ一歩近づく。


「君の名前は?」

岩倉優雨いわくらゆうだけど」

「岩倉優雨……」


 彼女は俺の名前を、音の響きを確かめるように繰り返した。

 その間も、一度も視線を逸らさない。

 居心地の悪さに、俺は思わず半歩だけ後ろへ下がった。


「岩倉君……岩倉君って……」


 唐突に、神崎の顔が近づいた。

 反射的に仰け反る。

 けれど、目だけは逸らせなかった。


 夕日に照らされた彼女の瞳が、ほんの一瞬だけ、色を変えた気がした。


 赤でもない。

 紫でもない。

 表現できない、多彩な色。


 その虹彩の奥で、何かが揺れていた。


「ねえ、岩倉君って」


 神崎は囁くように言った。


「ねえ……岩倉君って、何者?」


 意味が分からなかった。


 分からなかったのに、背筋が凍った。


 その時、俺は改めて思った。


 ああ、その目。


 なんだかとても、気味が悪い。

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