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the crying cuckoo  作者: ンジャバダ・ンジャバダ
10/19

10

「あのさぁ、今日一日見学してもらったけど大丈夫? 仕事のことわかった?」


「まぁ大丈夫なんじゃないかな」


「それじゃ困るんだよ。きちんと覚えてもらわなきゃ。全然メモ取ってないけど覚えてるの? 引き継いでやってもらわなきゃいけないんだよ?」


「その心配はいらないよ。大丈夫大丈夫」


「本当かなぁ……?」


 午後四時を過ぎ、易国間の退勤時刻が近づいていた。風浦は事務室で今日一日の振り返りをするため、易国間に確認していたのだった。


「まぁ、本人がそう言ってるなら大丈夫なんじゃない? 後はもうやらせてみるしかないでしょ」


「それはそうですけど……。それで全然大丈夫じゃなかった人、たくさんいましたよね、大久保さんも見てきたんじゃないんですか?」


「まぁね。……易国間君、すぐ辞めないよね? 大丈夫よね? お願いね、本当に困るから。君一人のためにいろいろ手続きだってしなきゃいけないんだから」


「はぁ」


 易国間は気が抜けているように戸惑った返答をした。念を押したのは事務を担当する大久保だった。


「大久保さん、そういえば事務長って今日来てました?」


「朝来たっちゃ来たんだけど……すぐどっか行っちゃった。その後は知らない」


「えー……? 本当にずっといないですよね。僕なんてもう二週間くらい会ってない気がしますよ」


「まぁ事務所でふんぞり返ってるよりいない方がずっとマシよ。邪魔しかされないんだから、私一人で仕事してる方が捗るもの」


「ねぇ先輩、事務長ってどんな人?」


 風浦と大久保がいない人間の話で盛り上がり始めると、易国間が首を突っ込んだ。風浦の代わりに大久保が答える。


「今後のためにもはっきり言っておくわ。

 ……あんなん邪魔でしかないわよ。この仕事について何にも知らないのにコネで事務長やってんだから当然だけどね」


「えっ、そうだったんですか!? いっつもあんな横柄なのに未経験って……」


「そうよ。全然関係ない営業か何かやってたの」


「あ、福祉用具扱ってる会社とかですか? たまにいますよね、そっちから流れてくる人」


「いやいや、それも関係ない、保険か何かの営業だったはず。本当に関係ない業種で職種だし、何もわかってないの、介護のことも事務のことも。福祉用具の会社に勤めてた人だったらどんなに良かったか。事務は二人しかいないし、だからこそ、あんなのと一緒じゃ本当困るのよ」


「んじゃなんで、この施設に……?」


 風浦は戸惑った表情で大久保に訊ねた。


「何かのきっかけで知り合って、先生に媚びて取り入ったんでしょう。敏明先生は媚びへつらう人が大好きだもの、大先生と違って。仕事ができるできないとか関係なくね。

 前の事務長は大先生が目をかけてた人だったからしっかりしてたんだけど。その前の事務長さんが定年になるからその代わりってことで雇ったのよ。敏明先生がねじ込んで」


「そうだったんですか……」


「本来、あたしの仕事って事務やったりみんなの給料計算したりすることじゃないのよ? 入居者の悩み聞いたり、むしろ風浦君たち介護職と一緒に仕事しなきゃいけないのに……。事務の仕事覚える気もなくて、あたしが一通り覚えてやらなきゃいけなくなっちゃったのよ。前の事務長がマニュアル残してくれてたから、どうにかこうにかやれてるんだけど。

 そのくせ、今の事務長は仕事できないのに『引継ぎや会議の時にブレストすべき』とか『クラウドで見える化してインバウンドを取り込もう』だのなんだの訳のわからないことばかり言ってくるんだもの、迷惑。たまったもんじゃないわよ」


 大久保は苛立ちながら、傍らに置かれたポットのボタンを押した。熱い湯が勢いよく、大久保のマグカップに注がれていった。


 易国間が大久保に訊ねた。


「施設の仕事もできないのに、いっつも外を出歩いてる事務長は何をしてるんですか?」


「私もわかんないわ。でもかなり有力な説が一個あって……施設長と不倫してるんだって」


「は!? 事務長と施設長がですか!?」


 驚きのあまり叫んだのは風浦だった。


「そう。ほら、施設長もずっと外出してることが多いじゃない? それで、午後は毎日のように密会してるんだって。これ、入居者の親族の方が偶然見かけたらしいの。

 で、敏明先生がカンカンに怒っちゃって、一度各リーダー集めて会議があったの。一応、議題は施設長と事務長の職務怠慢とかそんな感じで体裁は整ってたけど、議論の中身はほとんど敏明先生から二人への事実関係の追及だったわ、怒鳴り散らして。公私混同もいいところよ。それでも、事務長は『施設の今後のヴィジョンについてディスカッションしていただけ』とかのらりくらりかわしてて、そのうちに先生も収まってきたから、うやむやで終わっちゃって。敏明先生は半信半疑のまま、むしろ疑ってない方向に傾きつつあるというか」


「えー……そんなことがあったんですか……」


 呆然とする風浦を尻目に、易国間は質問を続けた。


「それじゃ、大先生が亡くなった日もお二人は外出中?」


「そういえば易国間君、いろんな人に大先生が亡くなった日のこと訊いて回ってるんだってね。その通り、二人とも外出してた。ついでにその時、あたしが何してたかも教えてあげる、ずっと食堂にいたんだけど」


「ありがとうございます。助かります」


 易国間は満面の笑みで礼を言った。


「まず、施設長は十一時頃出勤してきたのよ。いつも通り、真昼間だってのに欠伸しながら。施設長になってだいぶ経つのに、いつまでも自覚なくて本当ムカつくのよ。それで、書類にハンコついて、十一時過ぎたらおしまい。お昼食べるついでに、夕方まで帰ってこない。

 事務長は十時前に出てきたかな。やたら酒臭かったかもしれない、まぁそれもいつものことなんだけど。それで昨日の夜は、どこそこで大事な会議があったとか聞いてもいない言い訳が始まるのがいつものパターンね。それで出勤してきたと思ったら、とっとと外出しちゃって。あの日は夕方まで二人は帰ってこなかったわ」


「うわ……改めて当事者から聞くと本当にひどいですね。そんな人たち同じ空間で仕事しなきゃいけないなんて……」


 風浦が我が事のように顔をしかめた。


「ありがとう。でも、事務室で仕事してれば、みんな入れ代わり立ち代わり休みに来るし、つまらなくはないのよ。あの二人の存在が困るっていうだけで。ずっと籠ってるだけじゃなくて、入居希望の方とお話したり、もちろん入居されてる方と話もするし。あたしは人と話せれば、事務仕事のストレスは軽減できてるかな。

 それで、あたしの方は午前中は普通に事務仕事してて、お昼は食事介助の方が落ち着いてるみたいなら、たまには食堂で一緒に食べながら話っこしようと思ってお弁当持って食堂行ったのよ。それで食べながら、何か困りごととかないか聞いたりしてたんだけど。そこで須田さんが深刻そうに言ってたのよ。『俺の金が盗まれてんだ』って」


「それ、さっきも言ってましたよ。天谷さんに盗まれたって」

 

 風浦の言葉に大久保は目を丸くした。


「えっ、そうなんだ。ここ最近、かなりの頻度であたしに訴えてくるのよ。よくある物盗られ妄想だと思うんだけど。ほら、須田さんてお元気だけど、もういい歳じゃない」


「それはそうですけど……さっきもすごかったんですよ。宗教とつるんでるだの、夜勤の時必ず金無くなるだのって。妄想とは思えないぐらい迫真でしたよ」


「そうだったの? その時も同じようなこと言ってたわよ。『天谷に夜勤辞めさせろ、必ず財布から金が抜かれてるんだ』って。ヒヤヒヤしたわよ、同じ食堂に当の本人がいるんだから。離れたところで久我山さんの介助してたから、聞こえてないみたいだったけど。……なんでも、毎晩きっちり十七万入れてるのに、朝起きたら十六万に減ってるんだって、天谷さんが夜勤の時は必ず」


「ええ……? そんなに心配なら大久保さんに預ければいいじゃないですか。金銭管理お願いされてる方も結構いますよね?」


「うん、もちろんそう言ってるわよ、心配ならあたしが預かりますって。けど須田さんは『嫌だ』って。豪放な方だけど、ああ見えてお金の管理はしっかりご自分でされてたのよ、昔からそうなんでしょう。会社経営されてたらお金には敏感でしょうし」


「え? だとしたら『お金が抜かれた』っていう妄想と矛盾してないですか?」


 問いを発したのは易国間だった。


「それもよくあるのよ、貯めたり稼いだりしたぶんには敏感なんだけど、使ったことは忘れてる。だから、自分が思っている以上にお金が減っていたりすると、誰かがお金を抜いたんだ、って考えになって周りの人を攻撃しちゃうの」


「へぇ、詳しいんですね」


「ちょっと、易国間君! 失礼だよ」


 感心した易国間を風浦がたしなめる。それを見た大久保は笑う。


「あはは、そりゃそうよ、介護士やってたんだから。元々介護職しながら社会福祉士の資格取ったのよ。……それで須田さんの話を聞いてたんだけど、『とりあえず天谷さんの夜勤を辞めさせてくれ』ってお願いされて。どう考えてもそんなの無理でしょ?」


「そりゃそうですよ。夜勤に一番出てるの天谷さんですから。月平均十回は出てるんじゃないですか? 円さんも『天谷さんがいないと絶対シフト回らない』って言ってますもん。僕なんか月七回でもヘトヘトですもん」


「だからあたしも、まぁまぁ、ってたしなめてたんだけど。あたしと須田さんの話を聞いてた方が……誰だっけかな、まぁいいや……とにかく首突っ込んできたのよ、『あんたの管理が悪いだけだべ、でなきゃボケて使ったこと忘れてらんだ』とか言って」


「ひょっとして、それ遠藤さんじゃないですか? さっきも須田さんに突っかかっていったんですよ」


「ん、たぶんそうかも。……それから、須田さんはこうも言ってたな、『天谷じゃなかったら、あいつだ、榎津だ! 榎津が盗んだんだ! 昔、俺はあいつに金を貸してたんだ』って怒鳴って」


「えっ、事務長が!?」


 風浦はまたも驚きの声を上げる。


「事務長が昔、須田さんから金を借りてた……前職とかで付き合いがあったんでしょうか?」


「そうなんでしょうね。営業やってたら、あちこちの会社に出入りすることもあるでしょうし。

 ……一応あたし、訊いたのよ事務長に。施設入居者との個人的なトラブルなんてあっちゃいけないでしょう? そしたら、あっさり認めたの。十五年くらい前の話で、とっくの昔に全額返済してるとは言ったけどね。金額もはっきりしてないし、借用書や返済を証明する書面も作ってないとも言ってた、つまり証拠は何もないから信用はできない。本当、口だけでいい加減な男なのよ、事務長は」


 大久保は呆れ果てたようにため息を吐いた。


「そんな口だけの事務長を庇う入居者もいたりするから、厄介よね。『榎津さんがそんなことするわけねぇべ』とかなんとか。それで、『ボケた』『ボケてない』『盗まれた』『気のせいだ』って怒鳴りあいの応酬が周りにいた人とも始まっちゃって……」


「まさにさっきもそんな感じですね。突っかかっていったのは須田さんの方でしたけど」


「そしたら、急に久我山さんが手を叩き始めて、ゲラゲラ笑いだしたのよ。

 久我山さんって、幼稚園のお遊戯とかで喜んだりして手を叩くことはよくあるじゃない? でもそれが突然始まったから、あたしも含めてみんなビックリして、静まり返っちゃったのよ。……今思えば、ガヤガヤして賑やかだって思っちゃったんでしょうかね」


「今日は久我山さん、自室で休まれてましたけど、さっきの食堂にいたらまた大変なことになってたかもしれませんね」


「それで、久我山さんはおもむろにズボンの中に手を入れたと思ったら、中に入ってたのを投げて遊びだして。……もちろん大きい方ね」


「えー、うそぉ!?」


「あちゃー……」


 易国間は驚き、風浦は当時の状況を想像したかのように悲嘆した。


「ちっちゃい塊を、下投げで山なりに放ってたんだけど、意外と飛ぶのよこれが。壁とか床にベチャ、ってついたりして。みんな、ぶつけられないように頭抱えながら離れて。

 すぐに天谷さんが近づいて、止めようとしてくれたんだけど、それで久我山さんがますます興奮しちゃってね。自分から、パンツもズボンも脱ぎだして、下半身スッポンポンになったのよ」


「ははははは!」


 高笑いする易国間は黙殺され、風浦は困惑した様子で大久保に問う。


「え、ちょっと待ってください。久我山さん、自分から脱いだんですか!? 普段は自分一人で歩くことも、もうできなくなってるじゃないですか、着替えだって毎回職員が脱がせたり着せたりしてるのに。そんなことできるわけないじゃないですか!?」


「そうよ、本来は。でも興奮状態だったから、身体が勝手に動いたんじゃないかしらね。ズボンやパンツが邪魔だったから、勝手に動いた。

 正確には、パンツの中で漏らした便が不快だったから、身体が反応した結果なんでしょうけどね。当然みんなビックリしたわよ。あたしも天谷さんも。自分から元気に動ける久我山さんなんて見たことないんだもの。入居されてる方はもっとビックリよ、久我山さんのことをますます怖がって、早く逃げようとする人もいて。パニック状態よ。それで、ますます久我山さん興奮しだして、今度は天谷さんの制止を振り切って、バタバタ走り回ったのよ」


「走り回った!? 久我山さんが!?」


「そうなの。あたしも信じられなかった。キャッキャキャッキャ言って、三~四歳児みたいにペタペタ走り回ったんだから。それで走りながら、内ももについてた便をつまんで、投げたのよ、ビュッて」


「走りながら……投げた……?」


 風浦は驚きの連続のためか、呆けたように大久保の言葉を繰り返した。


「しかも叫びながら。いきなり、『ファースト!』って。投げた勢いもすごかったのよ。ビュッ、って飛んだでしょ、それがビチャ、ペトッ、って壁についたり飛び散ったりしたの。頭ではわかってたし、今ではなんとか理解が追いついた。でも見た瞬間は信じられなかったわよ、あの動き。

 しかも、壁に向かって猛然とダッシュして、張りついた便を掴んだと思ったら、また『ファースト!』って叫びながらビュッ、って投げて。結構、長いことそんな動きを繰り返してた。

 天谷さんも止めようとしてたんだけど『無理だわ、こんな力出るなんてありえない』って音を上げちゃってた。菅野さんは、まだ食事中だった他の入居者を避難させようとしてて。地獄絵図って感じ。久我山劇場っていってもいいわね。ピュンピュンピュンピュン、便が空を飛び交ってるみたいだった。当然、壁にも床にもテーブルにも便はついちゃうし、見えないくらい小さな便のカスだって広がってるなぁ、って思った。食堂のすみずみ、何から何まで掃除して除菌しなきゃいけなくなるから、後始末のことが頭をよぎって憂鬱になったわよ、もう」


「なんか野球してるみたいですね、久我山さん」


 気づいたのは易国間だった。


「そう! そうなのよ、正確にはソフトボールだったんだけどね。実は久我山さんって、昔ソフトボールで国体に県の代表として出たこともあるんですって。しかも、県で初めて結成された女性ソフトボールチームの一員だったそうなのよ」


「そうだったんですか! 知らなかった……。というか、そのお話はご家族からですか? 僕はそんな話聞いたことないですし、ご本人とは全然会話が成り立たないじゃないですか。僕は支離滅裂なことしか言わない久我山さんしか知らないし、どこからそんな話が……?」


「菅野さんよ。菅野さんはご本人の口から直接聞いたそうよ、私は昔ソフトボールやってた、って。菅野さんも半信半疑だったんだけど、あの動きを見て確信したそうよ」


「ってことは昔、身体に染み込ませていた動きが、何かの弾みで発現してしまった、という解釈でいいんでしょうか……?」


「それでいいと思うわ。須田さん達の口論が引き金になってしまったんでしょう。

 ……菅野さんが言ってたわ。久我山さんのチームの監督はものすごく厳しい人だったそうよ。毎日休まず、素振りやシートノックを何時間も続けていてボロボロにならない日はなかったんですって。ほら、当時はまだ『女性は家の中にいるもの』って考え方が主流だったでしょう、こんな田舎じゃ特に。会社に働きに出たり、外でスポーツをする女性がまだまだ少なかった時代だからこそ、男と分け隔てなく、厳しく鍛えてくださった監督には今でも感謝しているそうよ」


「久我山さんの中に、そんな思い出が残ってたんですか……」


「それだけ強烈な思い出だったからこそ、認知症が進みきったしまった現在でも、スラスラと口から出て来たんでしょう。そんな風に過去の思い出を菅野さんにだけはスラスラ言ってる、ってことは、菅野さんのことは信頼しているってことなのよね。今の久我山さんは、誰が誰だか判別ができなくなったような印象を受けるけど、心の底では違うのかもしれないよね」


「それで、一人でソフトボールをしてる久我山さんは、どうやって動きを止めたんですか?」


 易国間は大久保に疑問を投げかけた。


「止めたのは菅野さんだったの。当然よね、その動きがソフトボールだって知ってたのは菅野さんだけなんだから。

 彼女も叫んだの、『ゲームセット!』って。ビックリしちゃったよね。菅野さんって、ほら、いっつもおとなしいし声もか細い方じゃない? あんな大きくて力強く叫べるなんて知らなかったわよ、正直、普段からその声出したら? って思うくらいで……」


「大久保さん、ちょっと待って。菅野さんはなんて叫んだんですか? 『ゲームセット』?」


 話が脱線していきそうな大久保を制したのは風浦だった。


「そう、『ゲームセット!』って。要は、ソフトボールの試合を終わらせる審判になりきったのよ、彼女は。それを聞いた久我山さんは『ありがとうございました!』ってその場で一礼したのよ。きっと、試合が終わったって思ったんでしょうね。

 天谷さんも気づいたのか、すぐに彼女が駆け寄って『いい試合でしたね。さぁ、ロッカールームでシャワーを浴びましょう』って手を引いてお風呂場に連れてって。いつもどおり、手を引かれてゆっくり歩いているうちに、みるみる元の久我山さんに戻っていったのが遠目にもわかったわ。そうして収まったのが一時頃だったかな。

 ちょうどその時に、円さんが食堂に来てぶったまげたのよ、『なんだこの騒ぎは!?』って。それで何があったか説明したんだけど、円さんは青ざめちゃって。『大変だ、あと一時間もすれば若先生が来るから、早く片付けないと』って。それから急いで食堂の掃除とか片付けしたの。円さんと菅野さんとあたしと、それから人手が足りなくて、円さんが急遽呼んできた江藤君とメアリィもか。それと久我山さんをお風呂に入れた天谷さんも戻って来てからは一緒にひたすら掃除よね、二時過ぎくらいまで。なんとか先生がお見えになる前に済んだからよかったけど。そうそう、一時前に森野さんだったかな、背中が痛いって菅野さんに訴えて。急に動き回ったから痛めたのかもしれないけど」


「森野さんのそれ、白川部長はまるっきり信じてませんでしたよ」


「あの人も結構、頑固なところあるしなぁ。まぁ立場上、部長に強く言える人はいないからってのもあるだろうけどね」


「あの、ひとついいですか」


 易国間は挙手して質問の機会を作った。


「久我山さんが脱ぎ捨てたパンツとズボンはどこにいったんですか?」


「んー……確か、天谷さんが片付けたかな。いったん、食堂の隅とか目立たないところに置くはずだよ」


「置いたのは東側ですか、西側ですか?」


「えっ、西側だったかな、うん。東側だと調理室とつながってるカウンターが近いから、普通はそっちに遠ざけるだろうし」


「それから、もうひとつ。大久保さんが事務で、受付も兼務してますよね。お昼の間、来客があったらどうしてるんですか?」


「まぁ、滅多に来ないかな。来客があれば、チャイムが鳴るから戻って応対するだけだよ」


「じゃあ、侵入者がいたらどうしてるんですか? 泥棒とか」


 易国間の疑問を、大久保は笑って吹き飛ばした。


「あはは、いるわけないよ、そんなの。もしいたとしても大丈夫。玄関とか勝手口にセンサーが置いてあるのよ、この施設。そこを跨いで通過しちゃうと、事務室と、職員が持ち歩ける受信機に知らせてくれるの。日中は大体、私が受信機を持ってるから、不審者がもしいたら反応はあったよ。

 当然、大先生が亡くなった日もセンサーや受信機の電源は切ってなかったし、受信機の電池が切れているようなこともなかった。だから外から人は来てないし、ってこれ警察にも同じこと言ったなぁ。大体、センサーが鳴る状況って、十中八九入居者の徘徊だよ。夜中は特に、『帰らなきゃ』の妄想で徘徊する人が出やすいから。センサーつけた目的だって、徘徊の対策だよ」


「警備会社と契約はしてないんですか」


「ここはしてないよ。四六時中職員がいるんだもの、なんかあったらその人が警察呼ぶし、っていうことで。……大体、介護施設に泥棒に入ったり強盗するなんてリスキーなんだから。どこから職員が出てくるかわからないんだし。そんなことするくらいなら、振り込め詐欺とか還付金詐欺する方が、ずっと手軽だし効果も高いよ。ニュースでもよくあるでしょ、一人暮らしのお年寄りが騙されたってやつ」


「そうですよね。なんで簡単に騙されちゃうんでしょうか」


「一人暮らしっていうのが効果高いのよ、やっぱり。高齢で一人暮らしだと、人にも会わなくて外に出ることも少なくなるし、ずっと心細くて弱っていくものよ。そうして弱っているところにつけこんで、電話がかかってきたり、訪問があったりすると自然と心の底では嬉しくなるし、相手の話も疑わずに受け入れてしまうことが多いの。息子だ、家族だ、市の職員だって名乗れば、多少おかしい点があってもホイホイ信じちゃう。それに一人暮らしだと相談できる人もいないことが多いから、歯止めをかける人もいないし。

 それで銀行へ行くと、ようやく『あれ、怪しいな』って窓口で気づかれたりね。施設に入居されてる方であれば、こんな被害は比較的少ないのよ」


 大久保が論じていると、事務室のドアがバタッ、と音を立てた。


 三人が振り向くと、グレーストライプのスーツに身を包んだ長身の男性が入室してきた。なびく長髪の間から覗いた顔は西洋人のように彫が深く、浅黒い肌にうっすら無精髭を蓄えていた。


「おつかれ~ぃ。大久保さん、今日はなにかイシューはあった?」


「ありません」


「そっか~ぁ。さすがだね、大久保さんは」


 スーツの男性が首元まである茶色いパーマヘアを揺らしながら大久保に近づいて声をかけると、大久保は感情を殺したようにそっけなく答えた。同時に、それまで感じなかった甘い匂いが、三人の鼻をついた。


「事務長、だから香水は止めてくださいと前にも言いましたよね? 入居者が嫌がりますので」


「大久保さん、フレグランスも身だしなみだよ。みんないずれ慣れるよ、そうやって少しずつイノヴェートしていくんだ。

 ……おっ、この人がニューカマーだね!?」


 事務長と呼ばれた男は易国間の姿を見つけると、半ば興奮したようにそちらへ近づき、右手を差し出した。手首には金色のブレスレットが光っていた。


「私が『有料老人ホーム花千流里』事務長の榎津(えのきづ)(てっ)(ぺい)だ。よろしく」


「易国間です。よろしくお願いしま……いでっ! えっ!?」


 易国間が握手に応じると、榎津は力強く握りしめて上下に腕を振ったのだった。


「欧米では、握手は力強く交わすのがマナーと言われているんだよ、易国間君。これくらいの強さは普通なんだ。

 ……時に易国間君は、これからの、地域における介護ビジネスをどう考えているかね?」


「はぁ? 別にどうとも思いませんけど」


 思い切り手を握られたことで易国間は不機嫌になっていた。


「……私はね、易国間君。グローバルなセンスがマストになると思う、いったんゼロベースにしてね、ゲストもスタッフも。施設長にもサジェストしてるんだけどね。クリスちゃん達のようにノンネイティヴなセンスをもつ人材を現場にアサインすべきだし、特に、今大きいのはアジアからのインバウンドだから……」


「あっ、そうだぁ!! 易国間君に仕事を教えなければ! 事務長すいません、失礼します!」


「あ、ちょっと、続きは風浦君にも……」


 榎津の話に割り込んだ風浦は、易国間の手を引き事務室の外へ連れ出した。


「どうしたんだ先輩、急に飛び出して」


「事務長の話をまともに聞いたらダメだよ。悪影響だから無視していい、むしろ混乱を招くことしか言わないから積極的に無視したほうがいいって円さんが言ってた。大久保さんも言ってただろう、口だけで仕事は一切できないから。それでも、立場上は事務長だから、それなりの対応しなきゃいけないけど」


「その割にはずいぶんと強引に逃げたように見えたけど。まぁ、事務長の言ってたことは何も聞いてないから、心配してくれなくても大丈夫。

 あの人、自分の口から出てるカタカナの意味わかってないように見えたね。社会経験の少ないオレでも一目でわかったよ、口は達者でも中身がないことくらいは。あんな迷惑な事務長や無関心な理事長が上にいると現場は困るね」


「……自分の立場を弁えない新人はもっと困るけどね」


 二人のもとに、玄関の方向から足音が近づいた。


 そちらを振り向くと、肩までかかる明るい白金色の長髪が二人の目についた。首や肩を露出したピンクのワンピースを身に着け、真珠と思われるネックレスが首元で光っていた。そのネックレスの粒の大きさは、手の親指の爪ほどもあった。太ももから下は素足で、来客用のスリッパを履いていた。顔は、黒く塗りつぶしたような上瞼から、瞬きするたびにバサバサ揺れる巨大なつけまつげが生えており、目元を不必要に大きく見せていた。介護施設には不釣り合いな容姿をした二十歳前後の若い女性だった。


「施設長、おつかれさまです」


 風浦が挨拶すると、その女は軽くうなずいただけで二人の横を通り過ぎようとした。風浦は再び話しかける。


「あ、あの、施設長、こちら新人の易国間君なんですけど……」


「易国間です、よろしくお願いします」


「……で?」


 若い施設長は、キョトンとして風浦を見つめた。


「なんかあんの?」


「なんかっていうか……その……」


「……」


 三人の間に短い沈黙が流れた。


「そうやって訊かれてしまうと……ないっちゃないような……」


「はぁ?」


「ですからその、普通は『新人です』ってご紹介しましたら、『よろしく』とか『がんばれよ』みたいな一言を皆さんからいただいてましたので……」


「ああ、そういうやつか。……がんばって」


 風浦の意図を汲んだ施設長は、形だけの激励の言葉を易国間にかけた。無感情で機械のような激励に対し、易国間も無感情に応じた。


「ええ、まぁがんばりますけども。……ところで何歳ですか?」


「は? 二十二だけど」


(わけ)ぇ」


「ちょっと易国間君、施設長に対して失礼だよ」


「どうしてその若さで施設長になられたんです?」


「わかんない。パパがやれっていうから」

 

 施設長は駄々をこねる幼児のように言った。風浦は易国間に解説を入れる。


「ああ、パパっていうのは理事長、敏明先生のことだからね」


「ん? 先生の嫁じゃないの?」


「いや、そうなんだけど」


「は? お前なんなの、クビにするよ」


 易国間の物言いに腹を立てた若い施設長は、ここぞとばかりに権力を振りかざした。易国間は気にも留めずに質問を続ける。


「じゃあクビになる前に、お聞きしたいのですが。この時間に外回りから帰られるとは、ずいぶんお忙しいみたいですが、何をされてたんですか?」


「なんにも。満喫でご飯食べて漫画読んでたけど」


「え、満喫って……マンガ喫茶!?」


 声を上げたのは風浦だった。驚きのあまり、声が裏返る。施設長は平然と言葉を続ける。


「パパが言ってたから。『仕事終わらせたら後は好きにしていい』って。だから、午前中に仕事片付けて満喫行ってたんだけど」


「ああ……そうですか……」


 堂々と自分の権利を主張した施設長に呆れ、風浦は言葉が出ない様子だった。それには気にも留めず易国間が続ける。


「仕事がある日はいつもそうされてるんですか? 大先生が亡くなった日も?」


「え、ジジイが死んだ日? もう忘れた。けど大体、昼になったらご飯食べに行って、夕方戻ってくるけど」


「そうなんですね。ちなみに、お仕事が終わって外でご飯を食べるなら、そのまま帰宅されればよいのでは?」


「そう! そうなの、わかるじゃんアンタ。そうなんだけど、パパが『タイムカード押しに一旦戻ってこい』っていうからさ、それが面倒で」


 易国間の問いに、施設長は感心したように言った。


「面倒だったら、社内の規則も変えてしまえばいいんじゃないですか? 施設長なんですし」


「それも考えたんだけど、いろいろめんどくさそうで。タイムカード押しに来る方が楽そうだったから。なんでもタイムカード毎日押さないと、ローキショ? だかがうるさいんだって」


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