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十五時三十分に差しかかろうとしており、食堂にはいくぶん和らいだ陽が差し込んでいた。おやつの時間だったため、入居者には梨とお茶がふるまわれていた。易国間と風浦は、お茶を出しながら入居者の話の輪に入る。
「はぁ、こんないい天気だもの、散歩してぇなぁ」
「ごめんなさい、今日はちょっと難しいんですよね」
一人の老婦が呟くと、風浦は申し訳なさそうに言った。
「天谷さんがいればなぁ、よく外さ連れてってけるのになぁ……」
初めて聞く名前が出てきたため、易国間は風浦に訊ねた。
「ねぇ先輩、天谷さんって誰?」
「僕らの上司だよ、東棟をまとめてる人。今日は夜勤だから、そろそろ出勤してくるはずだよ」
それを耳にした入居者が落胆する。
「なんだぁ、せっかく来るんだば昼間から来てければ良かったのに」
「そいだば散歩できねぇなぁ」
「あー、残念だ」
数名の入居者も同調したが、そうではない者もいた。
「何言ってらのや、あんた方。そんなんだから騙されるんだべ」
「あ? 何やお前ぇ」
「そうやってあの女に騙されて、あんた高ぇ仏壇買わされて。バカでねが」
「誰が騙されたってや、いっつも閉じこもってらからそんた風に頭おかしくなるんだべ、せば今度一緒に散歩さ行くべし。あんたこそ、そのバガッケ治した方いいんだや」
「誰がバガッケや? そっちがバガッケだべっしゃ、金盗られたらのにも気づかねぇで、なぁ加納さん?」
「え~、あたしは天谷さんによくしていただいてるけど……」
「にゃ~! こさもバガッケいるっしゃ、何か買わされたべ?」
「そんな、買わされただなんて言い方は酷いでしょう、天谷さんは好意でやってくれたんだから。あたしは妹と話をさせてもらっただけ」
「妹!? あんたの妹だば戦争で死んだんだべ?」
「だから、天谷さんの知り合いの人がミネを呼んでけで、それで話をしたの」
「呼んでけで? イタコの真似でもやったのか? それを騙されたっていうんだや」
「あんたに何がわかるの、あれはミネだったわ」
「あんたがわかってねぇんだでば、ミネと話なんかできるわけねぇべしゃ」
「何や、さっきから! 天谷さんのこと悪者にして! あんたいい人だっけいねぇや!? 七十年も会えねがったのに、話っこさせてけで!!」
加納は声を荒らげる。興奮すると、訛りが出る性質のようだった。加納らを批判していた老人もヒートアップしてやり返す。
「だから、それが騙されらっていうのや!! それがあの女のやり方なの!!」
「んだ、山田さん、その通りだ!!」
山田に加勢したのは須田だった。巨躯を揺らしながら立ち上がり、声を張り上げた。
「あんた方、天谷に散歩連れてかれるたんびに、数珠だの壺だの買わされて帰ってきてらべ!? こっそり部屋さ溜め込んで、気味悪ぃんだでば!」
「えっ、そうなんですか!?」
驚いたのは風浦だった。動揺のためか、注いでいたお茶がコップから溢れてしまった。
「風浦君も気づかねでらのが? はー、天谷が隠させてらんだな、せば。俺もあの女には相当参ってらんだ、しょっちゅう財布から金盗まれてらんだよ。どっかの宗教だか業者だかの手先なんだな、天谷は。散歩さ連れてって、このバガッケ共を引き合わせる。それで紹介料でも貰ってらんだびょ。ついでに夜勤のときには、部屋に忍び込んで財布から金を抜いてる。そういう汚ぇ女なんだべ、天谷は!!」
「何言ってら、天谷さんがそんなことするわけねぇべ! 大体、お前のが金に汚ぇだろうが!」
「んだ! 須田の会社のせいで俺の従兄弟は仕事無くなったんだ! 人の客奪りやがって! お前のせいで廃業させられたんだ!」
「何言ってらのや、そんたの関係ねぇべしゃ! それも、三十年前のことだべ!? あれはお前の従兄弟が杜撰な仕事でぼったくってたのが悪ぃんだ! あんた酷ぇ外壁見たことねぇや? だから、うちの塗装工に直させたのや」
「いんや、俺の従兄弟だけでねぇ。お前のせいで何人の職人が仕事無くなった? 全部お前の会社が持ってったんだべ!?」
「この町さ、まともな職人がいねがったからだべ!! ほじねぇのばり、馴れあってて大して情けねがった! だから俺の会社が、この町で初めてまともな〝建築〟を手がけたんだ!」
「畜生!! タカシの悪口を……!」
「ちょっと、みなさん、落ち着いて――」
怒号が飛び交い、荒れ始めた場を鎮めようと風浦が立ち上がった瞬間。
サッ、と風浦の目の前を何かが通り過ぎた。
「いでっ! ……この野郎!!」
「しゃっけぇ!!」
「ちょっと何すんの遠藤さん!」
「うるせぇ! タカシの恨みはこんなもんじゃねぇ……」
従兄弟を貶された遠藤が、須田に向かって茶の入ったコップを投げつけたのだった。中身はそこら中に飛び散り、他の入居者も濡らした。
「遠藤さん、よしなよ!」
「いでっ、お前までタカシを――」
「きゃあっ!!」
「須田、お前も謝れ!」
「ぐへぇ、腰が――」
「くそ!! お前なんか寝たきりにしてやる!」
あっという間に、見境を失った老人たちがつかみ合いを始めた。
中身が入ったコップが飛び交う。女性が泣き叫ぶ。老人が老人を突き飛ばす。殴りかかる。杖で殴りつける。怒るままに立ち上がったはいいが、そのままバランスを崩して転倒し起き上がれない者もいる。頭を冷やせ、と言わんばかりに頭にお茶をかけ続ける者もいた。
「やめて! やめてください!」
風浦は一人、麦茶を浴びながら白昼の狂乱を止めようと奮闘するが、一向に収まる気配はない。
「みなさん、落ち着いて!! ……伊介ぇ! ちょっと、一緒に止めてくれよぉ!!」
「ははは!」
笑いながら眺めているだけの易国間は、椅子に腰かけたままお茶の入ったコップを傾けていた。濡れている様子もなかった。
「止めても無意味だよ。どうせ腹に一物抱えたまま他人と生活してるんだろ? いい機会だから発散させてあげなよ」
「その前にケガしたらどうすんだ!?」
騒乱は一向にやむ気配を見せず、中腰で休息をとる風浦が諦めかけた時だった。
「賑やかですね、皆さん」
凛とした声が食堂に響き渡った。
一瞬にして場に静まり返り、その場にいた全員が、西棟へ続く通路との出入り口を振り向いた。
ポニーテールに髪をまとめ三十歳前後の女性が立っていた。ポロシャツの上からエプロンを着用し、ニッコリと笑みを浮かべていた。目を細めて前歯が覗いているという、誰にでも好印象を与える笑顔だったが、目の奥では笑っていないことが明らかだった。
「なんのお話をしてらしたの? ぜひ私も仲間に入れて。
……でも、その前にお片付けをしましょうか」
幼い子供を躾けるような口調だった。その言葉を合図に、入居者も風浦も一切口答えをせず、黙々と作業に取り掛かり始めた。ばつが悪くなったのか、ごまかすためなのか、入居者たちは自分が殴ったり突き飛ばした相手に頭を下げ、握手を交わした。
突然、人が変わったように後始末を始めた入居者たちを見てポカンと口を開ける易国間に、女性が近づく。
「あなたもですよ、易国間君」
柔らかさの中に、有無を言わせぬ絶対的な強制力を含むような物言いだった。
「あなたは……?」
「天谷です。あなたの上司にあたります、よろしくお願いします」
天谷は慇懃に頭を下げる。物腰が丁寧で全く隙がなかった。
「はい、よろしくお願いします……」
「早く取りかかりましょう。……まだ言わせる気ですか?」
「は、はぁ」
易国間もしぶしぶ掃除に取り掛かった。それを見た天谷はさらに満足そうな笑みを浮かべた。
「はい、よろしいですね。みなさん仲良くしてくださいね」
場の後始末が終わり、確認を終えた天谷は微笑みを残して立ち去った。同時に食堂には、乱闘前の和やかな雰囲気が戻る。すかさず易国間は、窓際のハンガーに布巾を干していた風浦に訊ねた。
「先輩先輩、さっきのが天谷さんなのか、一見、優しそうに見えるけど」
「『一見』だね、確かに。顔は笑ってるけど本心は……ってやつだね。それを見抜いてるのかな、みんな天谷さんの言うことは素直に聞くんだよね。須田さんみたいに、よっぽど気が大きい人以外は」
「須田さんといえば、さっきの喧嘩の発端の一人だよな。遠藤さんがやたらつっかかってたけどなんかあったのか?」
「須田建設の創業者で前会長だから。元々、この町で良くも悪くも有名だし。遠藤さんみたいに恨みを持つこともいるだろうね。
だけど、なんだか遠藤さんが須田さんを嫌ってたのは感じてたし、理由がわかったのはよかったかな。いろいろ気を遣うことが多くてさ、何かあったときのグループ分けとか。食事の席は自分たちで決めるからいいとしても、他の活動で一緒にならないように工夫しなきゃいけなかったり」
「うわ、そこまでこっちが考えなきゃいけないのか」
「後で文句が出てきたりするともっと面倒だから」
「本当、子供みたいな年寄りばっかりだな」
易国間は顔をしかめた。
「その前にあった、天谷さんが金を盗むだの、宗教の手先だのっても本当なのか?」
「……そこは僕もわからないよ。そんなことする人には見えないし……。確かに、入居者の方を散歩に連れて歩くことはよくあるんだ、天谷さんが日勤とか遅番の時なんだけどね。こういう施設だと、気軽に外を出歩くことも難しいんだよ。上の人に許可貰って連れ出してるって天谷さんは言ってたから、すごいなぁって感心してたんだよ、僕は」
「上の人って、円さん? 大先生?」
「そこまでは聞いてないけど……たぶんどっちかだと思う」
「一目見ただけでも仕事できる人だなってのはわかるし、ごまかすことくらいは朝飯前なんだろう」
「やめてよ、まだ本当だって決まったわけじゃないんだから……正直、信じられないよ」
打ちひしがれている風浦は、焦点の合わない目で窓の外を見つめていた。生乾きの布巾はハンガーから滑り、床へ落ちた。




