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バードヘヴン  作者: 木柚 智弥
出口を探して
12/23

綾瀬


「いいわねぇ~」

 黒部オーナーの声が頭にこだまする。

「ふおぉ……さすがは敦サン。どんな魔法かけましたか?」

 深澤瞭の賛辞も耳に痛い。

「あれっ? なんだよ真嶋。誉めてんだぞ。嬉しくないのか?」

 深澤の指差した先には僕が作ったモデルウィッグの作品が置かれている。今度の課題は〈盛夏の夜〉だ。

「まさに夏の夜を彩る妖艶な女性にふさわしいアップスタイルじゃないか。曲線を帯びたアップの色っぽいラインといい、トップの毛束の艶っぽさといい、しかもそれを絶妙なバランスで崩したこのフロントッ!」

 深澤がウィッグを回すと、そこには顔を斜めに覆うように崩した毛束が垂れていた。夏の川辺に揺れる柳の枝をイメージしてみたのだ。

「色っぽい! 実にいい! これ、今度パクらせてもらうぜっ」

 興奮気味の深澤が叫ぶと、後ろからゲンコツが飛んできた。

「なにバカなコト言ってんの。瞭ちゃんには素晴らしいオトコの色気があるでしょ? 後輩のアイデアをパクらなきゃならないほど枯れてはないはずよ」

「うぃーっス」

 ちょっと涙目で頭をさする深澤を横目に見ていると、黒部が僕に告げた。

「いいわ。その調子で精進してちょうだい。これなら次のコンテストもいけそうね。それと、あなたの師匠から連絡があったから、明日の夜はここへ講習を受けに行きなさい」

「……はい」

 折り畳まれたメモ用紙を黒部から受け取ると、横から深澤が口を挟んだ。

「なんスか? 師匠って」

「よっちゃんの情緒と感性を鍛えてくださっている先生よ。まだ発展途上中だからもう少し見ていただくの」

「へえ、いいなあ~。そんな凄腕の先生が講師なら俺も受けたいっス」

「あんな新人講習、瞭ちゃんにはもう必要ないわ。よっちゃんだから効果があるのよ」

 そうっスかね、そうよ、瞭ちゃんは十分そこは育ってるから、という二人のやり取りを聞きながら、僕はそそくさと練習道具を片付けた。するとそのやり取りを偶然見ていたらしい関口と目が合った。

「……頑張れな」

 今にも噴き出しそうなのをこらえている様子が震える肩にありありと窺え、僕は顔に血が上るのを自覚しながらヤケになって答えた。

「はい。精進してきますっ!」

 それを聞いた関口は、「あっ、ダメだ」と口を塞いで社長室に駆け込んでいった。きっとデスクの隅にしゃがんで笑いをこらえてくるに違いない。彼が何を笑うかといえば、僕の〈師匠〉がダレで〈講習〉がナニを指すかを知っているからだ。あれから二週間、いい加減ヤメてほしい。


 あの夜、綾瀬のもとで一夜を明かした僕は、朝食の前に一旦、部屋に着替えに戻った。

「真嶋……っ」

 同室の関口は僕を見るなり絶句した。

バレバレらしい。

 さすがに恥ずかしく、僕は「ただいま帰りました」と挨拶してから「でもすぐにまた行かねばなりません」と付け足し、こちらに注がれる視線から逃れるように手早く着替えはじめた。

「すぐって……アヤセのところへか?」

「はい。朝食のエスコートを申しつかりました」

 関口の質問に答えながら、普通のスーツなんだから服装チェックに引っかかったりしないよね、などと考えていると、僕を見る関口の真剣な表情が目に入った。

「店長?」

「いや、その……おまえ、大丈夫か」

 奪われたんだろう? と心底気がかりげに質問され、僕は一気に体温を上昇させながら小声で打ち明けた。

「大丈夫です。綾瀬さんは……とても女性らしい方でした」

「………なんだって?」

 再び絶句する関口には構わずに着替えを済ませ、綾瀬にエチケットを問われないよう身繕いしてから再び彼女の部屋を訪ねた。

 そうして朝食のレストランへと連れだって歩き、彼女の相手をして朝のひとときを過ごした。

 朝日の柔らかい光を浴びながら優雅にパンをちぎる綾瀬は美しかったが、なんとなく周囲からの視線が痛く感じられ、気になるのがいただけなかった。察知した綾瀬に「どうかしたの?」と問われ、僕がその心情を告げると、

「では、次は個室にしましょうか」

 と彼女は華やかに笑った。

 やがてチェックアウトの時間がくると、綾瀬はロビーまで見送りに来てくれた。彼女は拠点であるパリと、東京、そして実家のある横浜を週単位で行き来するため、まだしばらくホテルに逗留するのだという。

「また会いましょう、芳弘さん。あなたにシャギーを入れてもらいに行くわ」

「連絡をお待ちしています」

 関口が一歩退く中、軽く抱擁をしてくる綾瀬を受け止めて返していると、黒部オーナーが歩み寄ってきた。

「私もまだアヤセに用事があるからあなたは(とおる)くんと先に帰っているのよ。でも夜までには本店に戻るから待っててちょうだい」

 彼は指示すると綾瀬を(いざな)って去っていった。

 帰りの道すがら、ナニを想像しているのか、

「どう見ても、有閑マダムとそのツバメだ……」

 とつぶやく関口のハンドルさばきが怪しく揺れ動くのを、僕は助手席から見守り、時々こちらの様子を観察したそうな彼に注意を促した。

 そうして店に戻り、一日を過ごした僕に、夜になってから帰ってきた黒部が社長室で告げたのだ。

「これからしばらくあなたをアヤセに預けるわ。しっかり勉強してくるのよ」

「――はい?」

 僕は首を傾げ、そばで缶コーヒーを飲んでいた関口は吹きそうになった。

「あ、敦サン。勉強って……アヤセからナニを学ばせる気ですか」

 咳き込みながら訊ねる関口に、デスクに肘をついた黒部はすまし顔で答えた

「むろんのこと、よっちゃん最大の弱点〈色気〉よ」

「……つまり、アヤセに喰われに行け、と」

「あら、透くん。美を追求するモノがそんな不粋な表現しちゃダメよ。それに、よっちゃんはそんな風には受け止めてないわよ。ねえ?」

 黒部オーナーに振られ、僕は白くなりかけていた脳ミソに渇を入れて答えた。

「えっと、あの……はい」

「真嶋、気は確かか⁉」

「透くん。アヤセはよっちゃんを気に入ったようだから心配は要らないわ。どうやらこのコは拓巳くんに限らず美人に強いらしくて、アヤセの美貌にも惑わされなかったようなの。あなたもロビーで見たでしょ? 彼女のあの上機嫌な姿」

「それは……まあ、確かに」

 あんな微笑み、初めて見ましたとつぶやく関口に黒部は続けた。

「よっちゃんの様子もどう? いいと思わない?」

「………」

 関口は僕に目線を寄こすと、すぐにまた外してフッとため息をついた。

 ナンだか今、店長の頭の中にツバメが飛んだ気がする。

「最初によっちゃんのコトをお願いした時、作品に〈色気〉がなくて困ってるって話もしたんだけど、今朝、『とても素敵な〈色〉が表現できる人になると思うわ』とお墨付きをもらったの。だからそこを伸ばして欲しいとお願いしてきたのよ」

 アヤセも承知してくれたわ、と喜ぶ黒部に僕は質問した。

「預けると言われましても、僕には仕事がありますし……」

「バカね。これも仕事のうちでしょ? ちゃんと経費もつけてあげるから、あなたは心配しないでアヤセから学んでらっしゃい」

「えっ? それはちょっと気が引けます」

「そりゃ大っぴらにはしないわ。(しん)ちゃんと透くんが把握するだけよ。でもあなたのその欠点が克服されたら、うちはまた一人、カリスマを得るのよ。これはいわば投資よ」

 ねえ? と黒部が関口に振ると、彼も「そこは同感です」と頷いた。

「しかも私のヘアショーであのプラチ……じゃない、拓巳くんを披露できる――それが実現したらどんだけ話題をさらうことか!」

 だから堂々と行ってきなさ~い、と夢膨らむ黒部の妄想パワーに押され、さらに、

「……気にするな。今の敦サンは拓巳をヘアショーに出すためなら悪魔にオマエを売ることも厭わないだろう。――すでに売られている気もするが」

 関口にも諭され、僕は最初の一週間を、「よっちゃんはしばらく〈修業〉のため、ヨソに出します」との説明のもと、綾瀬のいるホテルへと送られた。

 そこで昼間、或いは夜を綾瀬とともに過ごしたあと、夜の練習の時に作品を作ると、自分でも不思議なことに前よりラインが柔らかくなっている気がした。

「なんてわかりやすいヤツ……」

 それを見た関口が肩を震わせるようになったのは言うまでもない。エステ室から出てきた拓巳がその光景を目撃し、

「芳弘の新しいべンキョーは、そんなに面白いのか?」

 と真顔で聞かれた日には、後で関口を社長室まで追いかけて「いい加減にしてくださいっ」と抗議した。けれども、

「いいじゃないか、このくらい。あの最初の日の夜、真剣に悩んで心配した俺の純情を返せ」

 と言われると引き下がるしかない。

 かくして僕は今日もまた、綾瀬の効果を作品に表現してしまい、関口に笑われているというわけだった。



「それはそれは。光栄なことね。関口さんにまで効果を認めてもらえるなんて」

 ゲストルームのベッドの上、腕の中で笑う五日ぶりの綾瀬に僕はむくれた。

「笑い事じゃないですよ、綾瀬。このままじゃ、いつか深澤さんたちにバレてしまいます」

 少し顔を背けると、綾瀬が笑ったまま手を顎に這わせてきた。

「私は構わないわよ。……でもあなたには気の毒ね」

 そう言われると立場が弱い。綾瀬は今さら噂の一つや二つ増えたところでその名声に傷ひとつつかないだけのものを築き上げている。が、僕はそうではない。ベッドから見える柔らかい明かりに照らされた高価な調度品や、壁にかかる有名な絵画のレプリカで飾られた室内を見回して、僕はため息をついた。

「才能に差がありすぎて……情けないです」

 ちょっとしょんぼりしてつぶやくと、「そんなこと」と綾瀬はまた微笑んだ。

 昨夜、黒部オーナーからのメモに示されていたこの場所は、桜木町の公園のそばにある超一流ホテル、普段の僕に敷居を跨げるものではない。週末にパリへ向かい、昨夜日本へ戻った彼女は、明日横浜にある実家に顔を出すのだそうで、その合間の時間をこうして僕に割いてくれたのだ。

「それに、僕にそこまでしてもらう価値があるのかわからないので不安です」

「安心して。私はすでにいただいているから」

「……?」

「パリに帰って仕事をしたらね。チーフデザイナーに言われたの。『素敵な作品じゃないか。いい時間を過ごしてきたんだね』と。だからそうよと答えておいたわ」

 顎を捕らえられた僕が首をもとに戻すと、ふわりと唇が寄せられた。

「―――」

 しばらく重ね合ってからそっと外すと、夜色の瞳が淡い室内灯の光を受けて輝いていた。

「だから、私のことなら気にしないで。あなたは自分の感性を豊かにすることだけに集中すればいいの。そうしたら結果がついてくるわ。――聞いたわよ。先週のコンテスト、いきなり優勝したのですってね」

「ア、アレは、モデルウィッグを使ったデザインコンテストで、たいしたことは……」

 先週開かれた化粧品メーカー主催のデザインコンテストで、僕は初めてデザインを評価された。嬉しくは思うけれど、自慢に思うようなレベルの大会ではない。

「それでもあなたの目標への一歩には変わりないでしょう?」

「それは、そうです」

 僕の目標――言わずと知れた、拓巳解放だ。

「そういえば、拓巳のほうはどうなったの? 歌はうまく歌えたのかしら」

「ああ、それはもう」

 僕は先週の寝物語で触れておいた、拓巳の近況や音楽会のことをかいつまんで話した。


 コンテストや〈修業〉に出されはじめた僕はにわかに忙しくなり、拓巳と接する機会が減ってしまった。けれども黒部オーナーや綾瀬の心遣いのお陰で、平日の内の一日と定休日の泊まりだけは確保されていた。僕のいない平日の残り二日は、いつの間にやら祐司がバイクで迎えに来る習慣ができ、井ノ上家で陽子特製の栄養食を食べたあと、ためらう拓巳を強引に寝かせ、早朝に再び祐司が自宅に送っているのだという。

「あんまり父親の怒りを心配するから、朝方に祐司を高橋家に張り込ませて帰ってくる時間を調べたの。そうしたら平均で朝の五時半だったわね」

 さすがは陽子、そこまで徹底したのかと感心した。

「だから五時までに帰らせているわ」

「そんなに早く起こしては……」

「大丈夫。その分早く寝かせてるから。子どもの体には長く寝るより早く寝るほうが大事なの」

 だから、あなたのところに泊まる時もなるべくそうしなさい、と陽子は言った。

「実際、前よりも体調がよくなってきたらしくて、声の張りが強くなったと誉められたみたいよ」

 そう聞いて、辛うじて都合をつけた音楽会は、少しばかり期待して出席した。ところが当日の出来はそれどころではなかった。


 初めて聞いた拓巳の歌声は、最初の一声で会場を埋め尽くす千人越えの保護者や生徒の心を鷲掴みにした。

「――……っ!」

 彼のどこにこんな表現力が隠されていたのかと驚くほど、それは心に直接響く歌声だった。

 なるほど、雅俊が執着するわけだ……!

 抑圧された生活の中で閉じ込められていった拓巳の内面は、歌という手法に()け口を見いだしたのだろう。切々と歌い上げるバラードは、有名なロック歌手のものと、雅俊が作ったオリジナルの二曲だと聞いていたが、特に二曲目のオリジナルでは、最愛の人へ向けて綴ったと思われる、情感豊かな想いが拓巳の歌声から溢れだし、それが雅俊の奏でる美しいピアノの旋律と相まって、すでにしてアマチュアの演奏ではなかった。

 昼の休憩時間に控え室を訪ねると、雅俊は後半のピアノ演奏に向けて練習中だった。そこで、まず拓巳を外に連れ出して伝えた。

「素晴らしかったよ、拓巳」

 少しばかり顔をほころばせて拓巳は説明した。

「あのオリジナルには、雅俊の小夜子さんへの想いが詰まっている」

 僅かに喜色を帯びた表情は常よりも明るさをまとい、黒部オーナーが見たら、伊達メガネ越しでも魂が理性ごと吹き飛ぶだろうことが容易に想像できた。

 しばらくしてから控え室に戻ると、三十代半ばほどのスーツ姿の男性を従えた、生粋の上流出身を匂わせながらもあどけない表情をする、雅俊よりもさらに小柄な女性がそこにいた。

「まあ。あなたが拓巳さんの〈大事な人〉なのですね。はじめまして、小倉(おぐら)小夜子(さよこ)です」

 僕の挨拶に、彼女は大きな目を細めて応えた。背が高くていらっしゃるのね、と見上げてくる姿は華奢(きゃしゃ)な日本人形を思わせ、雅俊と並ぶとなんとも対照的な美の一対だった。

 どこか夢見るような眼差しは黒曜石(こくようせき)のようにきらきらと輝き、肩下まで落ちる艶やかな黒髪を両サイドだけ綺麗に飾りピンで留め、柔らかいシフォンのワンピースに包まれた姿は、確か綾瀬と同じ年だと聞いた気がするのだが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。

「体調は大丈夫? 疲れてないか?」

「心配しないで。そのために、執事の小松(こまつ)にもついてきてもらったのだから」

 気遣う雅俊とのやり取りを見ていると、天使のような美貌の雅俊が頼れる〈男〉に見えるから不思議だ。それでいて外見に反比例する彼の、相手を射るような厳しさや殺伐とした雰囲気は影を潜め、隣に寄りそう小夜子から滲む柔らかいオーラにくるまれた安心感に満ちていて、この女性の存在がいかに彼を支えているのかが窺えた。

 しかし、後半のピアノ演奏が始まる時間になり、拓巳とも別れて講堂へと戻ろうとした僕を呼び止め、「少しよろしいでしょうか」と校舎の陰に誘った彼女の姿は、それとはまた別のものだった。

「先日は拓巳がご厄介になりました。ありがとうございます」

 改めて礼を述べると、小夜子は黒曜石の瞳を陰らせて答えた。

「大切な人を囚われた者同士、ぜひお話をしたいと思っておりました」

 そして僕から拓巳の状況を聞いたあと、彼女はこう切り出した。

「モデル事務所に所属するのはよい考えだと思います。お入り用でしたら、うちが契約する弁護士を紹介します。優秀ですから役に立ってくれるでしょう」

 それは、先ほどまでのあどけなさを打ち消した、憂いに満ちた大人の女性の姿だった。

「私も決心しました。雅俊さんとともに小倉(おぐら)家を出るつもりです」

「えっ……でも、あなたには……」

 確か心臓に持病があって完治が難しく、ゆえに祖父である小倉家の当主、(けい)(すけ)氏が財力に物を言わせて生活環境を整え、守ってきたのではなかったか。

「……雅俊さんは、自分が自立する手段を得るまでは今のままで我慢しようと言っています。けれども私の心がもう耐えられそうにありません」

「小夜子さん……」

「祖父が雅俊さんに加える仕打ちを、このまま見続けているのは辛いのです」

「そのお気持ちは、とてもよくわかります」

 それは今の僕の立場とまったく同じだ。

「あなたならきっとわかってくださると思いました。それで、実は折り入ってお願いがあるのです」

 小夜子はバッグから白い革製のポーチを取り出した。

「これを預かっていただきたいのです」

「それは?」

「私が持つ財産の一部です。通帳と印鑑が入っています」

「えっ……?」

 思わず絶句すると、小夜子は一歩近づいて僕の手にポーチをつかませた。

「いきなりで不躾(ぶしつけ)とは承知していますが、雅俊さんのためにどうかお願いします」

「で、でも小夜子さんは、先ほど優秀な弁護士さんがいると……」

「私が挑むのは小倉家の当主なのです。最悪、家の息のかかったものはすべて避けねばならないかもしれません」

「………」

「もちろん、他にも手は打ってありますし、今も準備しています。けれども小倉に関わりのない方となると、私の周りには皆無なのです」

 どうかお願いします、と頭を下げられ、僕は雅俊に絡みつく束縛の強さを思い知った。それでも彼は最善を尽くして前を向くのだ。

 今日の後半のピアノもその一環で、コンクール出場を阻まれた雅俊のため、啓介氏に内緒で小夜子が学校に働きかけ、この学校のOBである現役ピアニストたちをゲストに呼んであるのだという。彼らの目に留まれば当然、それは弟子入りや海外留学の道につながる。そのため雅俊や恍星の所属するピアノ科の生徒は、将来のかかったコンクールと同等の価値で挑むのだそうだ。

「わかりました。あなたと雅俊君が小倉家を出る日までお預かりすればよろしいのですね?」

「ああ、ありがとうございます」

 小夜子は顔をほころばせ、肩の荷を下ろしたように「では行きましょう」と講堂に向かったのだった。


「僕は時間がなくて、最後のほうが少しだけ聞けなかったんですが、雅俊君、それに(こう)(せい)君のピアノは凄かった」

「恍星――シルバーね。彼のピアノは素敵だわね。〈バードヘヴン〉の価値を高めているわ」

「そのようですね。けれども雅俊君の演奏はさらにそれを上回ったと思います。彼の才能なら、本当にピアニストになったり、拓巳をボーカルにしてデビューできるんじゃないかと思いました」

「そう……でも養子に入った小倉家の孫といえば、確か小倉啓介氏の現在の〈お相手〉だったわね」

「知ってるんですか?」

「母から聞いたことがあるわ。実は、私の弟と篠崎(しのざき)雅俊――今は小倉ね――この二人は体質が同じでね。病院でよく一緒にいたようなの」

「あ……まさか、ISの……」

「そう。どうやら母方の遠い親戚らしいわ。――弟も、母の客たちに狙われて大変だった」

「―――」

「私のパトロンは母の幼馴染みだったので、特別に手を貸してくれたの。だから、私は弟を守ってやれたのよ」

 でなければ難しかったわ、との言葉に僕は目を伏せた。

 みんな必死に戦っているのだ。綾瀬も、そして小夜子も。

「小倉啓介氏は、稀少性と美貌を気に入って雅俊にかなり執着しているとか。彼は裏の世界でも知られた実力者で、そのご趣味は相当なものだそうよ。パトロンの店にもよく来られるようだし、自分の執着するものは容赦なく奪うと聞いているわ」

「……小夜子さんは、雅俊君とともに小倉家を出ようと決心したようですが」

「小夜子お嬢様ね。体が弱くていらして……啓介氏の溺愛(できあい)は有名よ。それは、なかなか難しいことだと思うわ……」

「そんな……」

 僕は校舎の隅での会話を思い出した。

(私が挑むのは小倉家の当主なのです――)

 あの時の表情は、これらすべての事柄を承知の上でのものだったのだ。

「でも、あの人ならやり遂げるかも知れません」

 あの凛然(りんぜん)とした態度や覚悟した様子を伝えると、綾瀬も少しだけ目元を和らげた。

「そうね……雅俊のことを心から慈しんできたのでしょうから」

「二人は本当にお互いが相手を思いやっていて……補い合っているのがわかりました。雅俊君の気性がしっかりしているのも、彼女を幸せにしたいと思えばこそなんでしょう。二十を過ぎた僕が言うのもなんですが、情緒面の成熟度ではとてもかないません」

「そんなことないわ。あなたも頑張っているじゃない」

「いいえ。綾瀬もあれを聴けばわかります。拓巳の歌った曲、そして雅俊君のピアノ……どちらも魂のこもった素晴らしい演奏で心が揺さぶられました」

 雅俊は小夜子ゆえに強く、そして小夜子も彼ゆえに戦う決心をした。

「そして僕にはそれが足りないのです……」

 春樹とともに砕かれた僕の魂は未だ回復せず、想いを育む余地がないのだ。

 すると、腕の中の綾瀬が僕の顔を両手で包んだ。

「あなたは傷を負った。深くて、重い傷を」

「……あなたも」

「そう――あなたにはわかるのだわね。私を迷える黒鳥と表現したあなただから」

「………」

「あなたにしかない感性が、すでにあるのよ、ここに」

 彼女は片方の手を滑らせると、僕の左胸の上で止めた。

「そして、その感性で私を癒しているわ」

「僕が、あなたを?」

「そうよ。だから私の作品は変わったのよ。それはあなたも同じ」

 そうなのだろうか。砕けた魂の破片は、いつかまた集まるのだろうか――?

 思い巡らせていると、止まっていた手のひらが再び肌を滑って頬に添えられ、心を引き戻すように唇が重ねられた。

「―――」

 熱く、深い愛撫が体の内側を呼び覚ましていく。やがてそっと離れた唇が耳に触れながら声を紡いだ。

「だから今はまだ、微睡(まどろ)んでいてもいいのよ……」

「綾瀬――」

 背中を抱く腕の力を少しだけ強めると、彼女は僕の首筋に唇を落とし、やさしく指先を這わせながらゆっくりと導いていった――。


 そうして僕は黒部オーナーと関口の見守る(?)中、綾瀬との逢瀬を重ねていった。

 昼に呼ばれる時には綾瀬が仕事中なこともしばしばで、僕はまるで秘書のような役目をして過ごした。

「やっぱり。こういうことは得意なのね」

 綾瀬のスケジュールを覚えてそつなく調整したりすると、そう言ってからかわれた。

 綾瀬の所属するブランド〈ガイエ〉の日本支部、〈ガイエ-ジャパン〉のビルに赴いた時には、たくさんの人々が綾瀬からの指示を受けて働く姿を見た。

 学校の教室ほどもある、華やかな色遣いの生地が咲き乱れる作業現場の中央で、スタッフの男女が次々と持ち込む相談や確認を的確にさばき、作業工程のすべてに入念なチェックを施す彼女の真剣な表情が印象的だった。

 夜は、また別の顔を見た。

 綾瀬のパトロンは、確かに彼女を求めることはないようで、二人は端から思われているようなパトロンと情婦の間柄ではなかった。強いて言えば親子のような関係に近く、ゆえに綾瀬の夜は自由だった。

「あら。今日はまた素敵なヒトを従えているのねぇ」

 綾瀬をエスコートしてパーティーに出ると、大抵の人に彼女と僕の力関係を一発で見抜かれた。けれども年配の女性などには「いい関係なのね。アヤセの表情が柔らかいわ」と付け加えてもらえたので落ち込まずに済んだ。

 仕事がらみのパーティーではたくさんの男性に囲まれることもしばしばで、僕はよくあからさまに存在を無視された。そんな時、綾瀬はあの初めての夜に見た違和感を身にまとい、妖艶な微笑みを浮かべて周囲に群がる男たちと談笑していた。そして、決まってそんな日の夜は、滞在しているホテルに僕を伴った。

「いいんですか? 仕事に差し障りませんか」

 二次会に誘う多くの男性たちをあっさりと袖にする綾瀬に訊ねると、よく逆に問い返された。

「あなたはどう思う? 私は行くべきかしら」

 そうなると僕は正直に答えざるを得ない。違和感を漂わせた綾瀬はやはりどこか孤独な黒鳥に感じられ、それ以上、心をさすらわせたくなかった。

「いいえ。ここにいてください」

「では、次に私が望んでいるのは何かしら」

「……疲れを癒すことです」

「そうよ。今日も頑張ったのよ。だからご褒美をもらうわ――」

 差し伸べられる手が僕の理性を絡め取っていく。そんな風にしてやり取りを楽しみながら、綾瀬は僕を高みへと誘うのだった。

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