試練
秋の深まりとともに、僕は作品を変化させながら徐々にデザインの評判を高めていった。
二つの作品コンテストで準優勝を果たし、指名客も増え、確実に腕は上がっていった。そして、初めて拓巳と出た一流メーカー主催のコンテストで、居並ぶ審査員を唸らせ、断トツの点数で優勝した時には、あちこちから拓巳にモデル契約のオファーがきた。けれども黒部オーナーは頷かなかった。
「ダメよ。まだ一回出ただけだもの。この分なら、焦らなくても私のヘアショーでさらにいい話がくるわ」
黒部には拓巳を安売りする気は毛頭なく、次々とオファーをシャットアウトした。
「ヘアスタイリスト〈アツシ〉がスゴいモデルを秘蔵しているらしい」
巷にはそんな噂が流れ、いやが上にも春のヘアショーへの関心が高まった。むろん僕の参加に周囲からの文句はなく、僕は指導してくれた紺野、赤堀、松沢ら三人と深澤瞭に改めて礼を述べた。
「そんな、いいのよ~」
「そうそう。自分のためでもあるもの」
「よかったわ。無事に参加が叶って」
彼女らは次々に言葉を重ね、深澤がとどめに本音を暴露した。
「よっしゃあ! これで拓巳の姿が堂々と拝めるぜ。ヘアショーの練習はフロアのほうに出てきてやろうなっ」
きっとみんなの心の声でもあろう。しかし。
「えっと、それは様子を見ながら徐々に、というコトでお願いします……」
いまいち深澤の理性に信用がならない。
「え~、なんでだよぅ」
渋る深澤は他の三人から、「あんたがいるからに決まってンでしょっ」と締められていた。
そんな風に順調な滑りを見せはじめた拓巳の自立に暗い陰を差すような事件が起きたのは、それからまもなくのことだった。
「雅俊が学校に来ない?」
十一月に入ったばかりの肌寒い夜、拓巳が気がかりそうに告げてきた。
「小倉啓介のせいで来れない日はあったけど、三日も続くのは初めてだ」
「……具合でも悪いのかな」
しかしその三日後、さらに事態は深刻さを増してきた。
木曜日の午後三時、いつもより早く学校からアパートに姿を現した拓巳は不安げに告げた。
「もう一週間になる。それに小夜子さんまで携帯がつながらないし、アトリエにある直通電話にも出ない」
「家のほうには?」
「恍星がかけてる。俺には小倉家に電話をかけさせるなと雅俊から注意されてるんだそうだ。何かわかったら連絡がくることになってる」
なるほど、啓介氏の趣味をよく知る雅俊や恍星は、間違いなく好みに当てはまるであろう拓巳を餌食にさせないために、ほんの些細な接点も持たないようを気を配っているのだ。
ひとまず拓巳を落ち着かせ、温かい麦茶を出したところで、その恍星から電話がきた。
『真嶋さん、大変です。雅俊はどうやら啓介氏に監禁されているらしいです』
電話の声は上ずっていた。
「監禁⁉」
『俺の常連に啓介氏の知人がいるのですが、昨夜ようやく聞き出せました。実は音楽会の日、ちょうど真嶋さんが帰ったあとで小夜子さんが倒れてしまいまして、そのことを発端に、啓介氏に内緒で進めていた小夜子さんと雅俊の目論みがばれてしまったようです』
「なんだって⁉」
目論みといえば、小倉家から自立を図るために音楽会にOBを招いたり、小夜子さんが打った手のことだろう。
『激怒した啓介氏は小夜子さんを入院させ、雅俊は自室へ閉じ込めたようで、土日を合わせればもう十日近くになるのではないかと……』
「中学生が十日近くも休んだら、学校側が連絡するはずだ。先生はなんて?」
『風邪をこじらせていると説明されたとのことでした。先生も小夜子さんに協力してOBを招いた手前、それ以上は迂闊に訊けずにいるようです。小倉氏が怖いんでしょうね』
「―――」
教師も人間だ。ましてや相手が小倉家の当主では、私立学園の教師など簡単に首を飛ばされるだろう。
言葉を返せないでいると、少し沈んだ恍星の声がした。
『申し訳ありません。言葉が過ぎました……』
「そんなことはない。君が怒るのは当然だ。むしろホッとしたよ」
まだ、友人のために心を傾けて手を尽くそうとする学生がいるのだ。
せめて彼に恥じないようにと、その場で頭をフル回転させて知恵を絞り――そしてまもなく閃いた。
「そうだ。小倉家の執事さんに連絡を取ってみよう。確か小松さんとか言っていた……音楽会に連れてきたくらいだから、小夜子さんは彼を信頼しているはずだ」
『お願いできますか?』
「もちろん。彼から状況が聞き出せれば、何ができるのかがわかるよ」
『俺が二度電話した時は女性が出て『雅俊さんは具合が悪い』の一点張りでした。誰が出るかで対応が違うかも知れません。気をつけてください』
「わかった。また連絡するから」
恍星の忠告を受け、僕は一計を案じて小倉家に電話を入れた。
『どういったご用件ですかしら』
電話に出た無機質な女性の声は、明らかに何かを警戒しているようで、僕は思いきり事務的な声音で話した。
「Y銀行の井ノ上と申します。先日お話のあった口座の手続きの件で、執事の小松さまに確認をいただきたいのですが」
「ああ銀行さんね。お待ちください。転送しますわ」
相手はあからさまにホッとしたような声になった。先ほどとは打って変わって臈たけた声音に、もしかしたら雅俊の母親かもしれないと思い至った。雅俊を啓介に売ったという彼女は、今回のことをどう捉えているのだろうか。
『お待たせしました、小松です』
男性の声に我に返り、僕は手短に自己紹介した。小松はすぐに反応した。
『真嶋さんでしたか。うまく考えましたね。助かりました』
なにしろ若奥様が自室の電話に貼り付いておられるので、と小松は言った。
「それで、雅俊はどうなんです」
『旦那さまが鍵を握ってらっしゃるので、よくわからないのです。無事とは思えませんが、取りあえず命はあるはずだと……』
「命はあるって、そんな」
なんと恐ろしいことを言うのか。
「あ、あなたはそれを平気で見ていられるんですか!」
つい声を荒らげてしまい、すぐに思い直した。人にはそれぞれ生まれ持った立場や事情があるのだ。学校で垣間見た小松はまだ三十代だった。そんな若さであの小倉家の執事の職に就いた人が、普通の生い立ちであるはずがない。それら特殊な事情を抱える人の存在を、僕は雅俊や拓巳の姿から学んだはずだ。
「申し訳ありません。今のは忘れてください」
『いえ。ありがとうございます』
小松の声には安堵の響きが混じっていた。僕は小夜子の入院先など必要なことだけに絞って質問した。
『川崎駅のそばのS病院です。行かれるおつもりですか?』
「連絡が取れないならそうします」
『小夜子さまの携帯電話は旦那さまがお取り上げになりました』
やはり連絡を遮断されているのだ。では直接会いに行く、と告げると、小松の声が僅かに震えた。
『私は今、旦那さまのそばを離れることが出来ません。どうか小夜子さまのことをお願いします』
その言葉には仕事以上の心情が感じられ、僕は改めて詫びてから電話を切った。
説明を聞いて絶句する拓巳に、S病院へ行ってくると告げると、彼は「俺も行く」と言い出した。
「だめだよ。君は以前、小倉家にお世話になっただろう? 誰に会うかわからないから危険すぎる。雅俊の指示を忘れたのかい?」
「大丈夫だ。あの時、俺がいたのはセカンドハウスのほうだから、本家の人とは会ってない」
そこは小夜子さん個人のアトリエだから、雅俊以外の人は入れないんだ、と拓巳は必死な表情で説明した。
拓巳にとって、二人は大事なつながりを育めた数少ない人たちなのだ。その気持ちを汲んで彼を連れていくことに決めると、恍星に事の顛末を連絡し、僕たちはすぐにアパートを出た。
電車に乗ると、拓巳が悔しそうにこぼした。
「せっかく、雅俊は音楽会で恍星と並んで優勝したのに」
「そうなの?」
「ああ。弟子入りの誘いも狙いどおり来たんだ。それに、俺のところにはなんかスカウトがきてると先生が」
「スカウト?」
「俺もよくわからない」
多分、歌のことだろうが拓巳では要領を得ない。
やがて病院に着き、小松に教えられた番号の部屋へと向かうと、前の方からざわめきが聞こえてきた。僕は咄嗟に拓巳の腕をつかみ、すぐそばの給湯室の壁に身を潜めた。すると斜め前方の、小夜子の番号と思われる部屋から、白衣を着た男が怒鳴りながら出てきた。後ろには看護師と見られる女性が従っている。二人は部屋の前の廊下で立ち止まった。
「で? まだ見つからないのか!」
「はい。申し訳ありません」
「一体どこに行ってしまったんだ、小夜子さんは!」
そのセリフに思わず拓巳と顔を見合わせると、看護師が続けて言った。
「で、でもバッグも、お洋服や靴もありません。ご自分の意志で出られたのでは……」
「バカか! 意志がどうかなんて関係ないんだ。これで見つけられなかったら、小倉家のご当主に俺も君も首を飛ばされるんだぞっ」
「そんな……」
「ちくしょう。いったいあの家で何が起こってるんだ……!」
医師らしき男は呻きながら頭を抱え、僕は拓巳を促すとその場をそっと離れた。
「小夜子さんはどこへ……?」
不安げなその質問に僕は足を止めずに答えた。
「多分、雅俊のところだ」
「雅俊の! じゃあ小倉邸に……」
むろん、そうだろう。あの人が雅俊を諦めるはずはない。おそらく脱け出せるチャンスを窺っていたのだ。折悪しく、僕たちは入れ違ってしまった。
「すぐに横浜に戻ろう」
病院のロビーを出ると、上着のポケットで携帯が鳴った。画面には先ほど入れたばかりの小松の携帯番号が表示されている。
「あ、小松さん。まだ川崎にいるんですけど、どうやら小夜子さんはそちらに……はい、は……えっ⁉」
小松から発せられた言葉がにわかには信じられない。
「芳弘、どうしたんだ?」
腕にすがる拓巳の声を遠くに感じながら、僕は小松に返事を返した。
「わかりました。いえ、行きます。何か変化があったら連絡をください。はい」
切れた携帯を見つめたまま呆然と立ち尽くす僕を、拓巳が強く揺さぶった。
「芳弘! 何があったんだ!」
僕はのろのろと首を巡らすと、今聞いた信じがたい話を伝えた。
「……小夜子さんはやっぱり小倉邸に現れたらしくて、それで……」
「それでっ?」
「……雅俊を助けるために、護身用に改造されたモデルガンを持ち出して……小倉啓介と揉み合った時に、誤って撃たれた弾が首の動脈を傷つけて……意識不明の重体だと」
「えっ!」
拓巳は悲痛な顔で叫んだ。
「そんな! それで雅俊は⁉」
「詳しい状況はまだわからない。雅俊のことは聞けなかった。ただ、二人とも手術室だ、と小松さんが……」
思わず背筋に震えが走った。これは現実に起こっているのだ。もはや僕の知る常識は捨てなければならない。あらゆる危険を想定してかからなければ……!
僕は携帯電話をつかみ直すとすぐに祐司に連絡を取り、拓巳を連れて駅に向かった。
「……祐司と何を話していたんだ?」
夕方のラッシュで満員になった電車の中で、拓巳は落ちつかなげに聞いてきた。
「君を迎えに来てもらうんだよ」
「なんで……雅俊たちのいる病院へ行くんじゃないのか?」
「まずは僕一人で様子を見てくる」
「いやだ。俺も行く」
食い下がる拓巳を無言で見下ろすと、彼は不安げな眼差しで押し黙った。僕はその肩をつかみ、ちょうど駅に着いた電車から人の流れに合わせて降りた。
待ち合わせた西口の外れに行くと、すでにバイクを停めた祐司がヘルメットを片手に待っていた。中型免許で乗れる最大の排気量のはずなのに、祐司が跨がっていると普通の大きさにしか見えない。
人混みから外れたその一角にたどり着いてから、僕は拓巳に向き直った。
「拓巳。祐司と陽子さんのところで待っていてね」
「芳弘……っ。雅俊も小夜子さんも俺の大事な人たちなんだ!」
「わかってる。でもだめだ。病院にはおそらく小倉啓介氏がいるだろうから様子を探らないと」
「そんなんでもし……!」
――間に合わなかったら。その心の叫びは僕に直接届いた。けれども頷くわけにはいかなかった。
「拓巳。恍星も雅俊も、君を小倉家には近寄らせようとしなかった。なぜだかわかるかい?」
「それは……」
「そう。啓介氏を警戒しているんだ。彼は、君のような綺麗な子に目がないという。だからまず僕が行く」
「じゃ、もし……もし病室に小倉啓介が張りついていて、雅俊や小夜子さんに何かあったら……」
震え立つ拓巳に、しかし僕はきっぱりと言い渡した。
「その時は、僕が代わりに見届ける」
「いやだっ。俺は行く!」
「だめだ! 君にまで小倉啓介の手が延びたら雅俊に顔向けできない!」
「――!」
拓巳は弾かれたように僕を見た。
「雅俊の努力を無駄にはできないんだ」
「………」
うなだれた拓巳の肩を抱きしめると、地に響くような呻き声がした。
「……こんな顔、いらない………っ」
「拓巳」
「こんな顔にさえ生まれなければ……!」
自分を心の底から呪うような声音に、僕が慰めの言葉をかけようとしたその時。
「――それは違う」
ふいに後ろから祐司の声がした。いつの間にエンジンを止めたのか、彼は僕たちのすぐそばに立っていた。
「顔じゃない。おまえの心が弱いからだ」
「……っ!」
「祐司!」
それはあんまりだと言いかけた僕を押し退け、祐司は拓巳を見下ろした。
「その雅俊ってやつだって、綺麗な顔をしてると聞いている。でも強いんだろう?」
「………」
拓巳の顔が悔しげに歪み、目に涙が滲んだ。
「最近、芳兄さんが世話になってる先生も、とても綺麗な顔をしていて、おまえと同じ年ぐらいには買われていたと聞いた。でもそこから努力して這い上がったんだそうだ」
「祐司!」
「兄さんは黙っててくれ」
祐司はいつになく厳しい表情で僕を退け、言葉を続けた。
「顔のせいじゃない。そして辛い目に遭ってるのはおまえだけじゃない。だから自分を呪うのはやめろ。それは、おまえに愛情を傾ける芳兄さんへの侮辱になる」
拓巳は歯を食い縛るようにして鋭い眼光を放つ祐司を見返した。
「弱いのが悪いんじゃない。弱いまま諦めてしまうことが悪いんだ。少しでも強くなろうとする意志があるならそのままではいない。ちゃんと強くなる」
「………」
「置いていかれ、庇われて悔しいなら、前へ進む努力をしろ。顔のせいにするな。そうすれば自分の意志を尊重してもらえる」
「……俺でも?」
不安げな拓巳の声に祐司は即答した。
「もちろん。おまえならできる。――いままで耐え抜いてきたんだから」
祐司は口元に笑みを浮かべると、拓巳に予備のヘルメットを差し出した。拓巳はしばらくそれを見つめると、やがて手を伸ばして受け取った。僕はホッとして祐司の後ろに納まった拓巳に呼びかけた。
「君を呼べるようにギリギリまで探ってみる。だから待っていてね」
拓巳は、今度は素直に頷いた。
しかし結果として僕たちの配慮は無に帰すことになった。
「どうぞこちらへ――」
小松に誘導され、僕は拓巳を伴うと、霊安室へと足を踏み入れた。
「お顔をご覧になってください。とてもお美しいですから――」
小松が顔にかかる白い布を外すと、微笑んで眠る小夜子の顔があった。
「ああ、本当に綺麗だ……」
「最後に、雅俊さんと言葉を交わされましたので……」
僕は一歩近づくと、誇らしげにすら見える彼女に語りかけた。
「あなたは……本当に命を賭して、愛する人を守ったんですね」
幾種類もの花が頭上を飾る寝台の脇、隣に立つ拓巳がこらえ切れない様子で頭を預けてきた。僕はそんな彼を両腕で抱きしめた。
――結局、僕は間に合わなかった。
小松から聞いた総合病院に駆けつけた時には、すべてが終わっていた。
小倉啓介を迎え、さぞ関係者で溢れているだろう、と警戒した僕の思惑は外れ、夜の院内はどこも静かだった。
手術室を探しあてて扉に駆け寄ると、すでに電気は消えていた。その時、ちょうど前方から歩いてくる人影が「真嶋さん」と呼びかけてきた。よく見るとそれは小松だった。
「小松さん。小夜子さんは……っ?」
訊ねた瞬間、小松の顔が歪み、嗚咽をこらえるような仕草をした。僕は最悪の予想が実現したのだと悟った。
「……まさか、そんな」
「つい先ほど、雅俊さんが別室で見取られました……」
「ま……雅俊は? 無事でいたのですか?」
「お体のほうは、全身に打撲と、肋骨の何本かにひびが入ってらっしゃいました」
「……!」
僕が絶句すると、小松はさらに暗い表情になった。
「あと――左の指の骨を四本、故意に折られていたようです」
「故意に指の骨を……っ!」
それはまさか小倉啓介が――僕が顔を見ると、小松は痛ましそうな表情で頷いた。
「時間がかなり経っていたようです。おそらく旦那さまの私室に閉じ込められた直後に折られ、そのまま放置されていたのだと思います」
恐ろしくも生々しい内容に声が上ずる。
「そんな……じゃ、彼のピアノは……?」
「担当医からの説明では、ピアニストになるまでに回復するのは、おそらく困難だと……」
「………っ!」
それなのに、小夜子さんまで失ったというのか――!
あまりの悲惨な状況に血の気が引く。すると小松が尋ねてきた。
「拓巳さんは……どうされていますか?」
「ここに来たがったのですが……こちらのご当主の趣味を警戒して置いてきました」
憤りがつい口調に混じってしまった。けれども隠しようもない。そんな僕に小松は続けてこう言った。
「実は今、旦那さまも危篤なのです」
「えっ?」
「旦那さまは小夜子さまを誤って手にかけてしまい、その衝撃が引き金になってお倒れになりました。脳梗塞との診断です」
天罰です――そんな彼の叫びが聞こえた気がした。
「じゃあ……」
「主治医のいる川崎の病院に移動させていただきました。ですのでここには親族の方々は誰も来ないと思います」
「誰もって……まさか雅俊の母親もですか?」
すると小松は皮肉の入り交じった笑みを浮かべた。
「はい。もっとも、若奥さまが来られましたところで、雅俊さんはお会いにはならないと思いますが」
ですから拓巳さんは安全です、との言葉に、彼の意図が滲んでいた。
「雅俊さんはかなり参っていると思います。拓巳さんに姿を見せてもらえれば、気力を取り戻してくださるかも知れないかと……」
雅俊を気遣う彼の願いを受け、僕は拓巳を呼んだのだった。
小夜子との別れを済ませたあと、僕たちは一度雅俊のいる病室を見舞った。
「雅俊……っ」
小夜子の死を見取った直後、力尽きたように気を失ったという雅俊はまだ意識を回復しておらず、白い布団に横たわる彼の華奢な体には、細い首や肩、投げ出された腕のあちこちに包帯や絆創膏が施されていた。顔以外のすべてに怪我を負わされたような姿は痛々しく、特に左手を覆うギプスが目に映ると、やり場のない怒りが胸のうちを駆け巡った。拓巳も同じ気持ちなのか、拳を握りしめたまま、凍りついたような表情で立ち尽くしていた。
やがて、近くの談話スペースに移動し、雅俊の意識の回復を待ちながら過ごす僕たちのところに小松がやって来た。
「こちらにいらっしゃいましたか」
小松のスーツとネクタイがグレーから黒に変わっていた。彼は姿勢を正すと僕たちに告げた。
「先ほど私のもとに、旦那さまもお亡くなりになったと連絡が入りました」
「小倉啓介が――!」
それは、雅俊の身が解放に一歩近づいたことを意味した。
「私はこれからその対応にかかり切ることになります。お二人にご挨拶できるのはこのあと難しくなりますので、先に参りました」
頭を下げる小松に、僕たちも椅子から立ち上がると礼を返した。
「これから、主治医の渡辺先生が雅俊さんを起こしてくださるそうです。私がこのことを先にご報告しますので、お二人はそのあとでお訪ねください」
「わかりました」
僕が頷くと、小松は再び頭を下げ、もと来た方向へと去っていった。
頃合いを見計らってからそっとドアを開けると、雅俊はベッドの上で膝を抱えていた。
僕たちが近づくと首が巡らされ、アーモンド型の瞳が見開かれた。
「……拓巳。芳さんも」
拓巳は雅俊のそばに寄ると、痛々しい肩にそっと手を触れてポソリと言った。
「恍星から聞いてきた」
僕が補足して説明した。
「恍星君のお客さんに、小倉啓介氏の友人がいるらしくて、君の様子を探ってくれたんだ」
拓巳は雅俊の右手を取った。
「小夜子さんが……」
拓巳が言葉を詰まらせると、雅俊は少し儚い笑みを浮かべた。
「その左手は大丈夫なのか……?」
ギプスに巻かれた左手に顔を向ける拓巳に、雅俊はすでにそれを呑み込んだような表情で説明していた。その姿は、どんなに激しい強風に見舞われても、高みの向こうへ舞い上がることを諦めない白鳥の渡りに似て、これほどまでに打ちのめされてもなお、彼を彼たらしめている根幹が健在であることを伝えてきた。
けれども、小夜子とともに鍛えてきた拓巳を目の前にして、さすがに限界がきたようだった。
「……小夜子に約束したんだ。おまえを連れて、おれは這い上がって見せる。誰にも手出しできないところまで。だから――」
そこまで言うと彼は言葉を途切れさせ、立てた膝の上に顔を突っ伏すと、震える声を絞り出した。
「もう少しだけ、待ってるんだぞ……」
拓巳は、そんな雅俊の背中を慣れない手つきでなでながら、ポツポツと音楽会の結果を報告し、彼が頷くのを見届けてから手を離した。僕も拓巳にきたスカウトの話を伝え、溢れるものを止められないでいる雅俊のもとを静かに離れた。




