下
レイスの読み聞かせる声が穏やかに室内に響く。レイスの音は水のようだ。ノイズがなく、耳にそっと入り込む。そこに痛みはない。ただなだらかに、意味だけを教えてくれる。
その中の詩の一つに、ベティは異論を唱えた。小さなベティちゃんという詩だった。
「ねえレイス。このべティちゃんは私と同じ名前だわ。どうして? 私は靴をなくしていないのよ?」
べティは自分の名がマザーグースから取られたものと考えたようだった。レイスはそれを否定して笑った。べティはなおのこと首を傾げた。自身の名前の由来がさっぱりわからないからだ。
レイスはベティの頭を撫でた。柔らかな手だった。
「べティという名はね、僕の好きな人の名前だったんだ」
「レイスの? じゃあレイスは私がべティだから好きだと言うの?」
「そんなことはないさ。僕はべティがべティだからこそ好きなんだよ」
「では、なぜそう名付けたの?」
「君を愛したかったからさ。愛したかったから、そう名付けた」
「やっぱり、レイスはべティだから好きなのね」
ベティは悲しくなって視線を落とした。レイスの手は、依然と穏やかにベティの頭部に触れている。角に触れると、べティはくすぐったそうに身震いした。
「僕は以前恋したべティが好きだ。だけれど、今はべティも愛しているんだよ」
「愛と、好きは違う?」
「もちろん」
「どっちのほうが大きい?」
「愛の方が大きい」
レイスの微笑みは、悲しみに固くなっていたベティの胸のしこりを溶かした。レイスは確かにベティを愛している。ならば、今はそれでいい。今ここにいるのは今のベティのレイスだ。
べティは満足そうに額をレイスの胸板に擦り寄せた。
「……レイス」
寝覚めは最悪だった。そこにはレイスはいなかった。
背中は撒かれている砂の感触があった。レイスが褒めてくれた髪には以前の輝きはなく、砂埃に痛んでおり、指すら満足に通さないでいる。ベティは身を起こして、またどこかを目指して歩き出した。
ベティには食事は必要ない。食事が必要だったのはレイスだけだった。ベティに必要なのは、息をすることと、音を聞くこと、そして苦痛を忘れる眠りだ。だから、彼女は今まで成長しなかった。
幸福は夢だった。今はそれが苦しい。
足の裏を固くして、ベティは渇いた大地を踏みしめる。
前方に、今までとは少し様子の違う建物が見えた。いや、それは建物とは言えない。焼け残されたのか、柱と一部の壁だけが残っている。建物だったものがあった。
通りがかったものに、それと同じようなものがなかったとは言えない。だが、そこは違う。はっきりと断言できる。音が彼女に教えてくれる。
ベティは囁くそれを頼りに焼き屑を踏み歩くと、一見何もない床から音が聞こえてくることがわかった。床下に空間がある。音が――風が角に触れてくるのだ。その形を、道を、開け方を。
床の上に積もる砂を払うと、板のずれが見えた。板を剥がすと、地下に通じる階段があった。
暗い経路の先には鈍色の扉が見えた。シェルターだ。扉は閉じられていない。地上の空気が中にまで通じている。
足元に気を付けて降りると、扉の間から棒状のものが飛び出しているのがわかった。白い手だ。シェルターへの入り口を広くすれば、それが何であるかしっかりと判別できた。骨だった。それは人間の形をしていた。
中に入ると、書籍が連なっているのがわかる。
だが、本の大半は崩れているようで、触れてしまえば手からすり抜けてしまうほどに弱かった。探し歩いてみたが、どの本も塵となってしまう。道はない。音はここしか教えてくれなかった。
――嫌だ。
ベティは片っ端から形の残っている本に触れた。どれも風の靡き程度で崩れた。崩れる度にベティの身体は砂にまみれた。
「そんなの、いやだ」
声は悲愴が漏れていた。次第に前を向く足は鈍くなっていた。胸が苦しかった。
本は潰えていく。ベティは勢いあまって本棚を倒した。そこにあったものはすべて砂になった。棚は倒れる。形は崩れる。それらはベティを覆う。
「一人は、いやだ」
一つ、山となった塵の中に黒い染みが落ちた。
このまま、このまま何も見つからなかったらどうなる。何も見えず、どこにも進めず、己はどこへ行けるというのだ。果ての見えない荒野の中を、また当てもなく彷徨い歩くのか。
――君に歩んで欲しい。僕らには歩めない広い世界を知ってほしい。
「歩く場所なんかないわ、レイス。前も、後ろもわからない。私はどこへ行けばいいの。前に進んでいるのに、どこにも行けないのよ。どこへ行けというの」
外への扉があった。そこを潜った。違う、レイスを置いていったベティにとってあそこは扉ではなかった。崖だったのだ。いつ潰れるかもわからない、上へ下へなのかもわからない落ちるばかりの崖。ベティは何としてでもレイスと共にいるべきだった。
ベティはまた一つ棚を倒した。砂煙が巻き上がり、ベティは思わず咳き込んだ。転がり落ちるのはどこにでもある塵ばかり。文字として残ることもできなかったそれは、風に乗ってどこへともなく飛んでいける。ベティには苦しみだけを残して、己だけは逃げるのだ。
視界に浮かんできた滲みを拭って、ベティはまた一つ棚に目をつける。それの背を押そうと、手をかけたところで気がついた。壁に埋まっている何かを、棚が隠している。
ベティはすぐに棚を倒し、それを確認した。ガラス窓の奥には紙の束が入っている。ベティは近くに置いてある機械を持ち上げ、そこに叩きつけた。一度ではびくともしない。三度、四度ほどぶつけてようやくヒビが入った。
ガラスを叩いて崩し、目的のものに手を伸ばす。それは風化しなかった。ベティの顔に希望が見えた。
文章に目を通す。幸い、ベティがレイスに教えてもらった文字だ。神経質さを窺わせる、統一性に固まった文字だった。
『側頭部突起型人類』
そこにあったのは記録だった。
側頭部突起型人類――角を持つ女たちと接触したのは2035年のことだった。
彼女たちは移住を目的に我々の住まいに訪れた。彼女たちの母星であるハミル――この名称は正確性にやや難が見られる。彼女たちの言語は我々が聞き取れるものではなく、彼女たちなりに我々の言語に寄り添って発した名称であるためである――は死んでしまい、彼女たちが安定して過ごせる環境を探していたようだった。我々はそれを快諾した。彼女たちの住まいはこちらで用意することが条件だった。
彼女たちは我々の特別機関に保護されることになった。人目のつかない住処、言うなれば研究所であった。
彼女らは共通して側頭部に二本の角を連ねており、美しい美貌を持っていた。雄個体はなく、全てが雌個体で統一されている。生殖器はなく、排泄機能のためのものしかない。食事も必要としなかったが、大地に触れることがなければ呼吸の間隔が短くなり痙攣が始まる様子が見られた。もしかしたら、我々が見えないだけで彼女らなりに食事を摂っているかもしれない。
彼女らは我々の手伝いと評した観察を、苦も言わずに協力した。それには、時に苦痛を与える行為もあったが、数か月経とうとも彼女たちは何も言うことはなかった。
以下、それに対しての私と彼女たちの一人との問答を書き述べる。
「我々を憎んでいらっしゃるでしょう」
「みう」と、彼女らの言語の否定が返ってくる。
「あなた方は私たちを愛してくれています」
「なぜ」
「我々が教えてくれたのです」
「我々とは誰です」
「私たちが唯一持てるものです」
彼女たちは自分たちが持つ角を神と崇めているようだった。それは彼女たちの観察を始めた初期頃に発覚したことだったが、ただの信仰心だけでは成り立たない不明瞭な部分が見えてくる。
これについてはある一つの実例が答えを示している。
彼女たちに食事を食べさせようとしたところ、それを実際に口にしたのは初めの一人だけだった。口に入れた食事は吐しゃ物となり、彼女ら一人は苦痛に喘いだ。確かに、それを見れば誰もが食事をしようなどとは考えまい。だが、我々は彼女ら被検体を一人ずつ個室に呼び出し、その上で食事をさせたのである。彼女たちは他の個体が味わった苦痛を知っているのだ。
同じようなことは他にもよく見られた。ある個体が気に入った場所があれば、他の個体も好んでそこへ向かった。ある個体が攻撃されることがあれば、他の個体もその対象を避けるようになった。
こういった現象は鼠にも見られる。一匹が罠にかかれば、それ以降の鼠は罠にかからない。初めの一匹が他の仲間に危険を知らせるのである。彼女たちも同じような学習をしているのではないか。
我々の疑問に、彼女たちはただ一言、これだけを述べた。
「我々が教えてくれたのです」
彼女たちの角の特性はそれだけではない。彼女たちの角は音に対して非常に過敏だ。しかし、それは明確には音だけではない。彼女たちの角からは超音波似た波が発せられている。そのため反響定位による空間感知能力に長けているのだろう。彼女たちはそれらの能力を用い、我々と呼ぶ通信回路で仲間同士での交信が行われているのではないかと推測される。
彼女たちが我々の星に移住して三年が経とうとしていた時だ。
彼女たちの一人――以降は106と呼ぶ――が倒れた。理由は見当たらなかった。外への食事も定期的に行っている。我々が食すものも口に入れていない。過去、彼女たちの一人の角が折れた際に失神したのを確認してから、我々は一層彼女たちを慎重に扱ってきたつもりだ。
怪訝に思う我々に、彼女たちは言った。その頬には涙があった。歓喜があった。
――うまれる、と。
彼女たちは106を土の中に埋めるよう心願した。
初めは躊躇う我々だったが、彼女たち自身が埋めさせてほしいという言葉に、渋々頷くしかなかった。
彼女たちは緑が茂る森の中を望んだ。
「やっと呼吸ができるのね」「楽しみだわ」「どんな味がするのかしら」
彼女たちは幸福そうに106を眺めながら、そのようなことを口にしていた。
106が入る穴を作り終える頃には、106の身体は硬質化していた。彼女たちは身を守るためだと言う。
それから一年、106は土の中に眠りについた。彼女たちの中の数人も、後を追うように次々と土の中に潜っていった。
埋めてから一年。我々は、彼女たちが言ったうまれるという言葉をようやく理解した。どんな味がするのか、と微笑んだ彼女たちの言葉の意味を否応もなく頭に叩き込まれた。
森は枯れていた。踏めば足跡のできる土は、水を枯らした荒野のようにひび割れていた。
また、106が埋まっていたとされる場所には、12にも満たない少女がいた。
食ったのだ、彼女たちは。森を。
彼女たちには生殖器がないのではない。元より必要がないのだ。自分たちが永遠に時を過ごしていれば、子孫なぞ作る必要もない。大地の命を貪り、彼女たちは自分たちの住処を食い殺したのだ。
我々はすぐに外を闊歩している彼女たちを閉じ込めた。
土の中に身を潜めている者たちには触れることすら叶わず、我々は化け物が星を食う様を見ることしかできなかった。
だが、被害はまだ最小に留まっている。我々は学習したであろう彼女たちの目覚めを待ち、彼女たちを一ヵ所に隔離するつもりだった。それですべての収拾がつくはずだったのだ。
だが、我々が目覚めの近い彼女たちの一人を回収し終えていた時、一人の職員が我々に反旗を翻した。
狂信者に違いなかった。あろうことか男は彼女たちに大地を渡すことを正当なことだと吐いたのだ。
男は女たちを逃がし、挙句の果てにはこの星を枯らす手伝いをした。その結果が現在だ。
もはや、この星は人が住める環境を保っていない。生き残りがいるかどうかすらわからない。化け物は枯らすだけでは飽き足らず、世界に毒の粉を撒いた。
幸い、私はシェルターの中に隠れられたおかげで難を逃れたが、この生活ももう限界だ。
私は外に出ようと思う。だが、扉を開けたが最後、毒の空気が私の気管から体を蝕み生かしはしないだろう。しかし、私は何十年とここにいた。人としているかもわからない。今の私は動くだけのモノだ。
私は、この星の生きた空気が吸いたい。できることなら、人であったことを思い出して死にたい。
きっとこれを読んでいる者がいるなら、もう私は息をしていないだろう。だが同情はしないでくれ。私は確かに生き返ったのだ。最後に呼吸をすることができた。最上の幸福だ。
最後に、あなたに頼みがある。世界を守ることも助けることもできなかった老体の頼みだ。どうか、女たちを助けた職員を探してほしい。
職員の名はレイスフェルド。角を持つ悪魔に誑かされた、人類の裏切り者だ。
もしこれを読んでいる人間がいるならどうか、その男を見つけ出し、殺してくれ。
――手記はここで終わっている。
手記の他には研究所への順路らしき地図がある。ベティは呆然と息を吐いた。
自分以外にも角を持つ者がいて、それらが星を滅ぼしたと言われても、正直実感はない。ベティは今の今まで土の上を歩くこともなかったし、この手記にある通りの食事すらしたことはない。
だが、今はこの研究所へ行くしか道はない。ベティは紙の束を畳んで、その場から立ち去ろうする。だが、倒れた棚を見てふと思い出した。角が疼くのである。ベティは自身の角を棚に擦りつけて、一人研ぎ出した。どうしても研げない部分に、歯がゆい気分なるのは仕方がない。
その爽快さはレイスの手に及びようもなかった。
その夜、フェルドとまた話をした。ベティの呼吸をする時間だった。
『久しぶり。今回はずいぶん遅かったんだね』
フェルドとの会話は数か月単位だ。時には数年にもなることがある。無論、それは彼の視点だけであってベティにとっては昨日の出来事だ。誰もが、ベティを置いて時間を食べて進んでいく。ベティだけがどこにも行けない。
「今度はどれくらい?」
『三年。久しぶりに声が聞けて嬉しいよ。今はどこにいるの?』
フェルドの声はおかしかった。以前よりもずっと低く、穏やかさがあった。その声はどこか聞き覚えのあるものだった。
「それは長いわ。私だったら呼吸ができなくなって死んでしまいそう。前と同じよ」
『本当さ。僕からは君に話しかけられなかったから、ずっと辛かった』
「フェルドは今どこにいるの?」
『学校さ。勉強してる。……ねえ、僕のことはレイスって呼んでよ。友だちはみんなそう呼ぶんだ』
「……レイス?」
聞き間違いか。それは彼女がただ一人、恋い焦がれ、この地獄に突き落とした恋人の名だ。
『うん、僕の名前。レイスフェルドっていうんだ』
ベティは角から手を離した。呼吸が苦しかった。息をしていたはずなのに、いつの間にか呼吸ができなくなっていた。
なんてことだ。だから、レイスは名前を聞いた途端、あんな顔をしたのだ。
レイス。レイスフェルド。彼らは、罪人だ。
研究所は閑散としていた。
――僕は、これから彼女たちを救いに行く。彼女たちをずっと閉じ込めていた癖に、こっちがその対価を何一つ払わないなんていけないことだ。僕らは正当な時間の対価を払ったんだ。
あれから数年の時を過ごしたであろうレイスは、角を持つ女たちを救いに――星を枯らしに行った。
ベティは何一つその先のことは口にしなかった。言っても変わらないことがわかっていたからだ。レイスは一度決めたことは決して変えない。それは彼女が一番わかっていた。
灰色の建物は、足を踏み入れば外とは一変している。磨き抜かれた壁、床を這うコード。最奥には培養液に満たされ、人の丈を越えたガラス管があった。中には何も入っていない。いや、もとは誰かが入っていたのだろう。それはあの手記に記されていた彼女たちのうちの一人だったのかもしれない。
今では誰もいない。何も残っていない。
ガラス管に触れようと手を伸ばすと、途端にベティの角に波が走った。それは強い振動だった。
ベティは角の生え際を引っ掻けるような痛みに抗おうと己の角を掴んだ。
『愛しい子。聞こえますか』
女の声だった。遠くからの声だ。それはレイスとの会話に似た感覚だったが、それよりもずっと鮮明に聞こえた。
「だ、だれ?」
『届いたのですね。ならば、まだ我々は死んでいません。私たちはこれから貴女になる存在です』
その言葉使いには覚えがあった。あの手記に残っていた角を持つ女たちだ。
声が届く度に、角の端を削りとられるような違和感を感じる。
「私になる?」
『はい。私たちはしばらく我々に糧を与えることができませんでした。そのため私たち個人の我々は衰弱状態にあります。よって、私たちは私になるのです』
「待って、意味がわからないわ」
『貴女は私たちと違い我々を共有できていません。情報不足は致し方ないでしょう。私たちはこれより大規模な同化を行い、貴女を産みます。遠くにいる私たちの協力も得ました』
「星を、食うということ?」
「みう」と彼女たちの否定が返ってくる。
『食事ではありません。これは同化です。貴女は星の新たな脳となるのです』
「そんな――」
『これは我々が生存するための最良の措置です』
「どうして私に、それを知らせたの」
『我々を貴女に教えるためです。現在の貴女は未熟です。まだ私たちもそして我々も得ることすらできていません』
角が熱い。生え際から血があふれ出るような錯覚すらある。
意識が混濁する。一人だけではない。無数の、繰り返し星を食ってきた女たちの声が聞こえる。角を通信回線に、すべてがベティの中に放り込まれる。
息をしているのはベティだ。だが、頭の中を巣食うのは彼女たちだ。いや、それは我々なのだ。我々が角という媒体を足場に、ベティを食らっている。しかしベティは変わらずベティである。ベティは我々の一部でしかない。
『ベティ? ベティか?』
「レイス……? なぜ、今は……」
『彼女たちが突然地面に座り込んだまま動かない。頭も痛む。何がどうなってるんだ』
レイスの焦る声が聞こえる。以前よりもはっきりと、その声は近くにある。そうか、彼は我々のずっと近くにいたから、だから声が届いたのだ。
『これより私たちは貴女になります。何か質問はありますか』
「私は、独りなの?」
『それは〝みう〟であり、〝みう〟でありません。この星は人類とされる彼らにとって闊歩不可能な環境に変化します。しかしそれは我々が安定した空間を得るためです。貴女はずっと我々と共に在ります』
「それは、独りってことでしょう」
『〝みう〟。今の貴女は我々を得られ、また貴女も我々によって貴女になれたのです』
「違うわ。だって、そこには愛がないもの。人は愛がなくては生きられないわ。愛がなければそれは独りよ」
彼女たちとベティとでは違う。ベティをベティにしたのはレイス、ただ一人だ。彼だけがベティを孤独にしなかった。ベティを孤独にしなかったのはレイスだが、ベティを孤独にしたものまたレイスなのだ。決して我々によって得られたものではない。
『うわっ』
「レイスっ? どうしたの!」
『と、突然地面が揺れてっ。彼女たちが地面に角を突き立ててから……!』
『いる』と彼女たちは肯定の言葉を言った。
『私たちは貴女を愛しています』
レイスと彼女たちの言葉が重なる。だが、二つの音は混ざり合うことはなく別物として聞こえる。彼と、彼女たちはいる場所が違うのだ。
『我々は私たちと共に在ります。また貴女とも共にあります。私たちは私を愛し、そして我々を愛するのです。我々はどこまでも貴女と共にあります。知る必要があるのは、これだけです』
ぷつり、と通信は途切れた。
彼女たちの声は聞こえない。彼女たちはそこにはいない。レイスもいない。
ベティの頬に涙が流れた。彼女たちなりの呼吸の仕方だったのだ。彼女たちは、個々の存在があまりに近かった。ゆえに、孤独がなかった。だが、ベティは違う。どこまでも独りだ。顔を見ることを知ってしまった。目を合わせることを知ってしまった。触れる温かさを知ってしまった。彼女たちとは違う愛を先に知ってしまった。
触れることのできない愛は、あまりにも痛い。彼女たちはそれを知らなかったから、孤独であったことに気づかなかったのだ。
だが、今確かなことはベティが一人であることだ。独りで、一人で居続けてしまうことだ。
誰もいない。どこへも行けない。足場も見えない。なら、ベティは――。
「私は、どこにいればいいの」
ベティは己の孤独を伝えた、一対の角を強く掴んだ。
彼の声が聞きたい。彼の今を知りたい。彼の温もりに触れたい。私は、私を確かめられる唯一の方法にしがみつくしかないのだ。
「レイス。レイス、レイス……!」
『どうしたんだ、ベティ。何か怖いことでもあったのか』
ベティは安堵の息を吐いた。
レイスはいる。まだ、ここにいる。まだ、まだ独りではない。彼はずっとベティの傍にいてくれる。
「ううん、なんでもないの。レイスは大丈夫なの」
『……正直言うと苦しい。地上にいる人間は僕を除いてみんな倒れてしまった。今、研究所の中にいる』
「研究所? シェルターではないの?」
『生活するのには不便だけど、ここもシェルターの一部だよ。それに、他の生活用のシェルターではだめだ。僕は彼女たちの子どもを持っている。それも未成熟な子どもだ』
自分のことだ。すぐにベティにはわかった。
ベティは溢れ出しそうな思いを押さえつけて、必死に言葉を紡いだ。
「その子どもを、どうするの」
『培養液に浸けて育てる。僕にはその義務がある。……ねえ、ベティ。君は何者なんだ。ずっと僕の頭の中にいて、僕の心を慰めてくれる。今だってそうだ。僕が不安でたまらないとき、君がそこにいる』
「……私はベティよ、愛しい人」
『僕は、僕は君に会いたい。君が好きなんだ』
私も会いたい、その一言だけはどうやっても口にはできない。
今すぐにでもそこいる子どもは己だと叫びたかった。もう一度私を愛してと訴えたかった。だが、それはできない。彼はここにいるベティを見ることはできない。彼は、もうベティを愛せない。
檻の中に閉じこもり、レイスに錠をかけることだけはしてはならない。それは愛ではない。ベティは食べられない食事をレイスに出したくはない。
「……会えるわ。もうすぐ。だから、大丈夫」
ベティーは笑った。最後まで朗らかに。頬に零れる雫の存在を悟らせなかった。
角から手を離したベティーは己の膝を抱えた。目蓋を閉じなくとも暗闇が彼女を襲った。
「……――うそつき」
音を失った研究室の中、一人、彼女は肩を震わせた。
もう彼には触れることは叶わない。彼に触れてはならない。レイスは、過去のベティのものだ。ベティは、もう彼の中にはいられない。
数日、ベティは研究室の隅で膝を抱えていた。
もう歩きたくなどなかった。苦痛を知りたくもなかった。どこへとも行けず、どこへとも彷徨うばかり。ベティは永遠に孤独だった。
いっそのこと、初めにここに訪れた彼女たちと同じように新たな星を探すのもいいかもしれない。だが、レイスのいないベティにその行為は意味はあるのだろうか。ただ、空しいばかりだ。
中身は空っぽの、培養液で満たされただけのガラス管に視線を移す。
中にいたものはどこへいったのだろう。ベティと同じようにどこかを彷徨い歩いているのだろうか。
ふと、その思考に引っ掛かりを覚えた。
――歩く? ここから?
「違う」
そうだ。違う。その考えは間違っている。
「外になんか、出てない」
ガラス管に触れる。そこは空なのではない。一人だけ中にいる。見覚えのある少女が、ガラス管の中に浮かんでいる。
その少女には角が生えていた。培養液の中で雪を錯覚させる髪が舞っている。閉じられた白い縁の下には、ベティに似た瞳が隠されているに違いない。磨かれた黒曜石が如く、美しい瞳がそこに埋まっているのだ。
知っている。この少女が誰なのか、ベティは知っている。
「あなたは、私」
気泡がガラス管の中にいるベティの口から洩れる。ぷかぷかぷか、泡の音が通り過ぎる。
世界が揺れる。周囲の景色がかすんでいく。目の前にいる彼女だけが、明瞭な形を保っている。
「外を歩いたのは別の私。そこは五番前に滅んでしまった可哀想な××の大地」
手記も。声も。苦しみも。悲しみも。耐えられないほどの孤独も。何度も見てきた。何度も教えられてきた。忘れる度に、何度も伝えられた。ベティがそれを望んだから。
それらは、すべて我々が教えてくれたもの。我々がベティを愛し、孤独に一人眠ることを強いられたベティへ贈った物。
「私は、私はここにいない」
痛みを忘れようと耳を閉じた。成長を見たくて目蓋を閉じた。
そこから先、ずっと手を引いてくれたのは我々だ。ベティは立ったのか。レイスとの出会いは事実なのか。それは夢か現のものか。我々が与えたすべては真実だ。だが、ベティが触れたかはわからない。
しかし、一つだけわかることがある。目の前に眠る彼女は、ただ一つだけ確信できる真実だ。
では、その彼女の前にいるベティは?
「私はベティ。でも、あなたがベティ。じゃあ、ここにいる私は――誰なの」
Little Betty Blue
Lost her holiday shoe
What can little Betty do?
Give her another
To match the other
And then she may walk in two.
唄が聞こえる。ずっと昔に、愛しい人が、何よりも代えられない時間で教えてくれた唄が。
「ベティ」
声がした。彼の声だった。
ベティーが振り向いた先にいたのは、初めて会った頃のままのレイスの姿。彼は微笑んでいた。しわがれてもいない。骨ばってもいない。適度に肉のついた肉体だった。
「どうしたんだい。ベティ、ほらこっちにおいで」
ベティーは己の四肢を見直した。真新しい服だ。砂で汚れてもいない。破けてもいない。穴一つなく、乱れもない。
ふと、思った。
――はて、自分はなにをしていたのだったか。
「レイス。変な夢を見たわ」
「おや、どんな夢かな」
「わからない。でも、とても恐ろしい夢。長くて、前の見えない、途方もなく先ばかりがある夢。レイス、私怖いわ」
「大丈夫、怖いことなんてないよ。だって僕がいるじゃないか」
「うん。……うん、そうね。なんで、私怖がってたのかしら。こんなに幸せなのに」
レイスは目を細めてベティの頭を撫でた。目の奥にあるのは穏やかな色。ベティはむず痒い気分になってレイスに抱きついた。その身体は温かく、ベティを包み込んでくれる。いつものことなのに、どこか安心する。
「レイス、研いで」
「うん、いいよ」
いつもの通りに、変わらずに。彼はベティの角を心地よくしてくれる。
先が見えなくてもいい。遠くてもいい。レイスが傍にいる。それだけが彼女の幸福。
「レイス」
「うん?」
「私ね、幸せよ」
ただ、幸せで幸せで。レイスが笑ってくれて。そこに自分がいて。
ベティはたまらなく嬉しくなって笑った。