11 あなたに贈る恋レシピ⑩
リーンハルト城の東の塔には、四人の魔物――もとい、大老たちがいる。
今よりもっと幼い頃、訳あってフェリクス王に引き取られたマリエッタは、忙しいフェリクスのかわりに、ほとんどこの窓際大臣たちによって育てられた。
「ううむ」
頭の両脇で結わえた髪を揺らして、マリエッタが首をひねる。
今、マリエッタと大老の一人・アナンドの間には、白と黒の駒が並べられていた。
小さな手が騎士をつまみ、アナンドの歩兵を倒す。対する骨と皮ばかりになったしなびた手は、逃げの一手を打ったかにみせて、僧正が騎士を刺していた。
「ピン・アップじゃ」
アナンドがふふんと鼻を鳴らす。マリエッタはなんとかピンを解消しようと顎に手を当てて思考をめぐらせたが、どう駒を動かしても次の手で女王をとられてしまう展開になっていた。
「くっ」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。そぉれ」
アナンドが嬉しそうにマリエッタの女王に迫る。マリエッタは一瞬悔しそうな顔をした……と思いきや、にやりと笑って騎士を手にした。
「王手!」
「なぬ!? おおおおお」
アナンドは、目玉が飛び出すのではと思われるくらい目を見開いて盤上を睨みつけ、両手を震わせて低く唸った。
「そう興奮するでない。脳の血管が切れて頓死するぞ」
「くぅっ、姫さまにしてやられましたぞ! かくなる上は、もう一戦!」
「今日はここまでじゃ。そろそろ隣国の王子とやらが到着する頃だからの。
はぁ……。どうして妾が子どもの世話なぞせねばならぬのじゃ」
駒を並べようとするアナンドを止め、マリエッタはふぅっと溜息をつく。
「ふぉっ、ふぉっ。それもお国のためじゃて。
して、姫さま。件の菓子職人はどうなったのですかの」
「ん? フィーネのことか?
おお、そうじゃ。王子の相手はユウウツじゃが、今日はフィーネの菓子が食べられるのじゃった!」
チェス盤を片付けていたマリエッタの顔が、ぱっと華やぐ。
あのあと、結局フィーネは店を閉め、城の厨房で働くこととなった。
『私には……まだ早かったんです。
いつか父のようにみんなが笑顔になれるお菓子が作れるようになったら、またこの看板を掲げようと思います』
そう言ってフィーネは、汚れを落とされた看板を店の中にしまった。
「近衛騎士の信者の仕業じゃったらしいのう。
姫さまの菓子大会のときに、そのお嬢さんが転びそうになったのを近衛騎士の一人が助けたとか。その程度のことで一つの店を廃業に追い込むほど嫌がらせをするとは……おなごというのは恐ろしいものですじゃ」
「本当にそうじゃ。犯人はハインツが捕まえて、たっぷり叱っておったわ。
そうそう、ハインツといえば、店の修理費用は近衛の予算からぶんどっておったし、料理長経由でちゃっかりメイド長にもフィーネを紹介しておった。有能なやつじゃ」
アナンドが淹れたお茶を、マリエッタはふうふうと冷ましながら飲む。アナンドはずずーっと音を立ててすすっていたが、さすがにそれはしなかった。
「ちゃっかりと言えば、近衛騎士は廃止になったらしいですな」
「うむ。元々いらぬ役職じゃったからな。
やつらは予算ばかりくって大した仕事はしておらなんだ。妾も清々したわ」
「ふぉっ、ふぉっ。王もかねてより近衛騎士をなくしたがっておられた。今回の件で一番得をしたのは、案外、フェリクス王かもしれませんな」
「なに?」
マリエッタが、侍女たちの手できれいに整えられた眉をひょいと上げる。お茶のカップを置いて、どういうことじゃとアナンドに聞こうとしたところで、大老室の扉がノックされた。
「マリエッタさま。エウスタキオ王国の王子が到着なされました。お迎えのご準備をお願いします」
「ほほ。噂をすればなんとやら。こやつがハインツか。なるほど、よい面構えをしておるわい」
ひょいとハインツに近寄ったアナンドが、舐めるように上から下までじろじろと見る。
その視線があまりに露骨だったので、ハインツは無表情を装いながらもわずかに顔をしかめた。
「これ、騎士たるもの、感情をそう簡単に表に出すでない」
叱るというよりおもしろがるような調子で、アナンドはぽんとハインツを叩く。
腰の曲がったアナンドの背丈は、ハインツの腰ほどしかない。そのアナンドが、ハインツの正面に立つということは、つまり。
「おお、なかなかにいいものを持っておるではないか。若さとはすばらしいのう。
うぅむ、わしもあと十歳若ければ」
「~~~!」
筋張った手に股間を撫でさすられて、ハインツは鳥肌を立てる。
一体何をする! と相手が大老であることを忘れてハインツが殴りかかりそうになったとき、マリエッタが呆れたような声を上げた。
「アナンドは十歳若くても変わらんじゃろう」
「んん? 姫さま、何か言いましたかの」
「何も言っておらぬ」
「姫さまは、十年前などまだ生まれてもおらんじゃろう」
「ちっ、聞こえておるではないか」
「ふぉっ、ふぉっ。わしは順風耳での。特に悪口はよく聞こえるのじゃ」
「悪口ではない。事実を言ったまでじゃ」
「姫さまも言うようになりましたのぅ。どぉれ、ここは一つ、チェスで勝負をば」
「もう行かねばならぬと言っておろうに」
アナンドとマリエッタが言い合っている間に、ハインツはそっと両手を体の前で合わせる。
相手は大老とはいえ、むやみやたらに体を触られる趣味はない。
しかし、油断していたとはいえ急所をいきなり許してしまった。このジジイ、何者だ、と横目で探るも、マリエッタをからかって遊んでいるアナンドの横顔からは、ハインツが警戒を必要とするような気配は読み取れなかった。
「……。
マリエッタさま、お急ぎください。王はすでにお待ちです」
「おお、そうか。アナンド、またな」
「今度は負けませぬ。精進してお待ちしておりますぞ」
マリエッタを促し、ハインツは塔を降りる。
螺旋階段の窓からは爽やかな風が吹き込み、中庭から舞い上がってきた花びらがひらひらと足元に落ちた。マリエッタはその花びらを踏まないように、ぴょんぴょんと跳ねながら階段を下りていった。
「菓子はできたかの」
「はい。料理長も協力的で、楽しそうに働いていました」
「ん? 妾は菓子のことを聞いたのじゃぞ?」
最後の段をぴょんと下りたマリエッタが、くるりと振り返って言う。ハインツは、しまった、という顔をして目をそらした。
「こまめに様子を見に行っておるようじゃの」
「紹介した手前、責任がありますから」
「うまいこと言うたものじゃ」
マリエッタは、六歳の幼子とは思えない臈長けた表情を見せてくすくすと笑う。ハインツは、これもあの得体の知れない大老たちの影響かと内心ため息をついた。
マリエッタは、花びらをよけながらぴょんぴょんと廊下を跳ねていく。
二つに結わえた髪が揺れ、ドレスの裾がマリエッタの動きに合わせて踊る。
「あっ」
角を曲がったところで、マリエッタが大きな声を上げた。
たたっと駆け寄ったのは、青いマントの後ろ姿。
「フェリクス!」
両手を広げて飛びついたマリエッタを、フェリクスは振り返って抱き上げた。
「なぁ、聞いてくれ! 今日、アナンドにチェスで勝ったのじゃ!」
「お、そうか。すごいじゃないか」
「じゃろう? 最近は三回に一回は勝てるようになったのじゃ。今度フェリクスも相手をしてくれ」
「そのうちな。
そろそろ王子が上がってくる。大人しくしてろよ」
フェリクスはマリエッタを下ろし、養い子の乱れた前髪を手で梳いた。くすぐったそうに「くふふ」と笑うマリエッタは、年相応の顔をしていた。
茶会の用意がされた広間に、ハインツはマリエッタの後について入っていく。
真っ白な布が敷かれたテーブルには花が飾られ、繊細な銀細工のほどこされたケーキスタンドには、色とりどりの菓子が盛り付けられていた。
「おお、うまそうじゃの!」
「こら、大人しくしてろって言ったろ」
早速菓子に手を伸ばそうとするマリエッタを、フェリクスが止める。ほどなくしてエウスタキオ王国の一行がやってきて、和やかに茶会がはじまった。
ハインツは、小間使いが出入りする扉のそばに立って、じっと茶会の進行を見守る。
香り高いお茶がふるまわれ、客人が菓子を口に運んで驚きの声をあげる頃、そっと扉が開いた。
「フィーネ」
「あ、ハインツさん」
扉のすきまから顔をのぞかせたのは、紺色の使用人服に真新しいエプロンを身につけたフィーネだった。ハインツは、何かあったのかと扉の隙間からするりと通路に出た。
「皆様、どんなご様子ですか?」
「評判は上々のようだ」
茶会では、王自らエウスタキオの王子に菓子を取り分け、一つ一つ説明をしていた。王子はときに喜び、ときに驚きの声を上げて美味しそうに食べていた。
「よかった」
ハインツの話を聞いたフィーネは、両手を胸の前で合わせて、ほっと頬を緩める。あの菓子の中にはフィーネが作った菓子もあったようで、王子の反応が気になったとのことだった。
「他の国の王子様に私が作ったお菓子を食べていただくなんて、二度とないかもしれませんから。貴重な機会を与えてくださり、ありがとうございました」
「いや」
別に、自分は紹介しただけだとう言うハインツに、フィーネは微笑んだ。そして、何かに気づいた様子でそっとハインツの肩に触れた。
「花びらが……」
マリエッタを呼びに行ったときについたのだろう。フィーネの白い手の平に、薄桃色の小さな花びらが乗せられた。
「かわいい。
あっ、花びらの乗ったお菓子って作れないかしら。ホワイトチョコレートを色付けして薄く削って……」
「聞くだけで甘そうだ」
「くす。そうですね。料理長さんに、ちゃんとした菓子を作ってみろっていわれてるんです。色モノで満足するなって怒られちゃって」
塩ケーキは、菓子としてではなく食事の一部として供されることが多いとは、後にハインツがフィーネから聞いたことだ。だからと言って菓子職人が作ってはいけないということにはならないだろうとハインツは思うのだが、堅物の料理長にとっては菓子扱いをすることすら許せないらしい。
「ふふ、修行のし直しです。父と違って厳しく教えてくれそうなので、頑張りがいがあります。
まずは基本のスポンジケーキからと思っているのですが……作ったら試食してくれますか」
「俺が?」
甘いものは苦手だ。それはフィーネも知っているはずとハインツが眉をしかめると、フィーネはハインツよりもさらに眉根を寄せて、申し訳なさそうに言った。
「甘さ控えめで作りますから、食べていただけませんか? 私、まだお城に頼みごとができるような知り合いがいないんです。でも、いきなり料理長さんに食べてもらうのは怖くて」
フィーネの上げた理由に、ハインツは納得してうなずきかけ、思いとどまった。
これを引き受けたら菓子を食べなければならない。それは嫌だ。けれどフィーネが困っている。
「……。
あんたの作ったものなら……食べてみようか」
しばらく見つめ合い、根比べに負けたのはハインツのほうだった。
ぱぁっと笑顔になったフィーネに、「しまった」と思ってももう遅い。
「ありがとうございます! 早速今夜作ってみます。明日、どこかご都合のいいときにお時間いただけませんか?」
「昼なら、確か空いていた」
「お昼ですね! 場所はどうしましょう。お城の中って、どこか待ち合わせができるようなところがあるのでしょうか?」
「俺の部屋があるが……いや、それはまずい。俺が厨房に行く。あんただって仕事があるだろう。新人がふらふら出歩くのはよくない」
「でも、わざわざ来ていただくのは申し訳ないです」
「かまわない。厨房には王女の用事でよく行っている」
「そうなんですか?」
小首をかしげて言うフィーネに、ハインツはうなずく。
では明日、と話しがまとまったところで、広間の中から椅子を引く音がした。茶会が終わったようだ。
「あ、お引き止めして申し訳ありませんでした」
「いや、いい」
片手を上げて広間に戻るハインツに、フィーネはていねいにお辞儀をする。
一人通路に残されたフィーネは、ざわめきだす広間の扉の前から離れ、握りこんでいた手の平をそっと開いた。
可憐な花びらは、ため息を一つついただけですぐに吹き飛んでしまいそうだ。
これはなんの花びらだろう。通路を進み、窓から中庭を覗こうとしたところに、年かさのキッチンメイドの声がとんだ。
「フィーネ! どこに行ってたの! 次の仕込みを手伝って!」
「はい!」
フィーネは勢いよく振り向く。その拍子に、花びらがひらりと手の内から舞った。
「あっ」
ふわりと浮き上がった花びらは、フィーネの髪に一瞬まとわりつき、くるりと円を描いて上に上がった。そして開いた窓から外に出てしまった。
「あぁ……」
なんだか大事なものを逃してしまったような気がして、フィーネは窓から身を乗り出して花びらの行く先を目で追う。
薄桃色の、小さな花びらが舞い上がる。
リーンハルト城の東西の塔が、陽の光を浴びてきらめく。
「フィーネ!」
「は、はい、今行きます!」
フィーネは、裾をひるがえして駆けていく。
可憐な花びらはどこまでも昇っていき、青い空に吸い込まれて消えた。
第一部、これにて終了です。
まだ続きます^^