第77話 鑑定士の朝
聴聞会から三日後。後始末の日々。
施設の閉鎖手続き。ディーターの正式な身柄引き渡し。騎士団への証拠の最終提出。カイが走り回り、エルヴィラが書類を処理し、リーゼは鑑定部門で改竄記録の最終復元を行った。
三日目の夕方。カイがリーゼを酒場に誘った。王都の小さな酒場。カイの学生時代の行きつけではない、新しい場所。
「なぜここに」
「新しい場所の方がいい。過去の行きつけより」
パンとスープ。カイがクリーム菓子を頼んだ。隠さなくなった。甘いものが好きな調査官。仮面を脱いだ男。
「後始末はあとどのくらい」
「二週間。証拠整理と施設の封鎖確認。その後は通常業務に戻る」
「通常業務。辺境担当の」
「ああ。月に一度はグリュンタールに行ける。報告書の後始末が終われば、もっと増やせる」
「それは業務報告ですか。それとも——」
「どっちに聞こえた」
「どちらでもいい返事をします。月一でも、それ以上でも。ありがとうございます」
カイがクリーム菓子を口に運んだ。唇にクリームがついている。リーゼは指摘しなかった。
* * *
ユーリへの手紙を、宿の部屋で書いた。
『ユーリさん。王都での戦いは終わりました。第三の方法が国の方針になりました。増幅器の量産をお願いします。新工房の看板を見たいです。帰ります。リーゼ』
手紙に触れた。自分の筆跡。筆圧は安定している。迷いがない。
* * *
エルヴィラとの別れ。鑑定室で。
「鑑定士育成プログラムの制度設計、引き受けるわ」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方よ。あなたが追放されたとき、私は黙っていた。あなたが戻ってきたとき、内側から助けた。でも本当は——最初から声を上げるべきだった」
「エルヴィラさん」
「今は違う。これからは最初から声を上げる。鑑定部門はそういう場所にする」
「それが、あなたの選択ですね」
「ええ。自分で選んだ」
二人は鑑定室の扉の前で向かい合った。追放の日、この部屋の近くでエルヴィラは視線を逸らした。今日は真っ直ぐにリーゼを見ている。
「辺境で身体を壊したら、代わりの鑑定士を送ってください」
「送らないわよ。あなたの代わりはいない。でも——無理はしないで」
追放から始まった関係が、対等な協力者として完結した。
* * *
マティアスとの別れは、宮廷の中庭で。
「院長としての初仕事は何ですか」
「第三の方法の教科書を書く。お前さんのデータとわしの理論を合わせて、誰でも読める形にする」
「読んだだけでは使えませんよ。実技が要ります」
「だから定期的にグリュンタールに講師を派遣する。第一号の講師は——わしじゃ」
「マティアスさんが来てくれるんですか」
「年に一度くらいはな。茶を淹れてもらいに行く。工房はお前さんのものじゃが、茶を飲む権利はわしにある」
リーゼは笑った。マティアスも笑った。師弟の別れ。だが別れではなかった。
石の床は、温かかった。
グリュンタールの朝。馬車を降りた。石畳に足をつけた。靴底越しに、大地の温度が伝わってくる。浄化された土壌。生きている大地。
隣にカイがいる。甘いパンの紙袋と書類の束を抱えている。辺境担当調査官の初日。
ユーリが鍛冶場の前で待っていた。新しい看板が掛かっている。「ブレンナー精密器具工房」。金属の文字。自分で打ったのだろう。
「遅い」
「馬車の速度に——」
「お前が降りるのが遅い。前も言った」
カイが横で小さく笑った。ユーリはカイを一瞥し、すぐにリーゼに向き直った。
「器具の新型が完成した。後で取りに来い」
「ありがとうございます」
「礼はいい。壊すなよ」
ハンスが畑の方から手を振った。麦が穂を出している。リーゼが浄化した区画。種が芽吹き、茎が伸び、穂が揺れている。命が戻った大地。パン屋のおかみが通りかかり、「先生、おかえり!」と声をかけた。
先生。この街で、この呼び方が定着した。追放された鑑定士が、この街の先生になった。
マティアスの工房の前に立った。鍵を取り出した。マティアスが残していった鍵。「これはもうお前さんの工房じゃ」。
扉を開けた。
薬草茶の匂いはしなかった。マティアスはもういない。王都の錬金術院に戻った。大賢者として。院長として。二十年逃げた分を返すために。
工房の中は静かだった。作業台。棚。窓。マティアスの二十年がこの部屋に刻まれている。壁に触れれば読める。だが今は触れない。
棚の奥に、一冊のノートが残されていた。表紙に「精髄属性の完全覚醒者に関する記録」と書かれている。マティアスの最後の贈り物。だがまだ読まない。今日は読まない。いつか。読みたくなったときに。
作業台の上に杯を置いた。薬草を棚から出し、配合した。カモミール基剤3。ヴァレリアン根2。リンデン花1。蜂蜜少量。リンデン花の焙煎温度は85度を超えない。母クラーラの処方。父ヘルマンの命を延ばした茶。マティアスが二十年間弔いとして淹れ続けた茶。
今は、リーゼが淹れる。
湯を注いだ。薬草茶の匂いが工房に広がった。苦い香り。温かい香り。この匂いが、この工房に帰ってきた。
窓から朝の光が差し込んだ。シュヴァルツ山脈の稜線が朝日に照らされている。あの山の中に千年前の遺跡がある。千年前の錬金術師が残した一行がある。この工房の地下に父の日誌がある。棚にマティアスの最後のノートがある。腕にユーリの増幅器がある。隣の部屋にカイの荷物が置いてある。
手袋を外した。
素手の指先。白い焼痕がある。右腕から肩、首筋、左腕の付け根まで。薄い線が全身に走っている。鍛冶師の古い火傷のように。消えない。消えなくていい。
代償を知って、自分で選んだ。
指先に光がある。精髄の光。世界を読む光。この光で大地に触れれば、汚染が見える。浄化ができる。代償が来る。大地と分かつ。そしてまた次の大地に触れる。
一人ではない。
茶を一口飲んだ。苦い。温かい。母の味。
「おはようございます」
誰に言ったのでもない。この工房に。この街に。この大地に。
鑑定士の朝が始まる。




