第73話 王都への道
出発の前夜。リーゼは一人で浄化した畑に出た。
夜の畑。月明かりに照らされた新芽。土に手を当てると、覚醒した鑑定眼が土壌の精髄の流れを読む。健やかな流れ。汚染が除去され、命が戻った大地。
この大地のために、右腕の焼痕がある。代償。だがこの芽が出たことで、代償に意味が生まれた。
足音。ユーリだった。
「一人で出るな。倒れたらどうする」
「倒れません」
「さっき倒れただろう。畑の前で」
「さっきは公開実験の直後です。今は回復しています」
「右腕を上げてみろ」
リーゼが右腕を上げた。肩の高さまで。それ以上は白い線が引き攣って止まる。
「肩までしか上がっていない」
「肩まで上がれば十分です。鑑定に必要なのは手です」
「頑固だな」
「鍛冶師に言われたくありません」
ユーリが黙ってリーゼの横に立った。二人で畑を見ている。月明かりの下、新芽が微かに揺れている。
「ユーリさん。王都には来ないんですか」
「行かない。街を守る。畑もある。井戸もある。守るものはいくらでもある」
「それだけですか」
「それだけじゃない。新工房を作る。増幅器の量産体制。お前一人じゃ足りない。複数の鑑定士が第三の方法を使うなら、全員に器具が要る。量産できるのは俺だけだ」
「増幅器一つに何日かかりますか」
「今の設計で十二日。接合部の工程を簡略化すれば八日まで縮められる」
「簡略化して精度は落ちませんか」
「落とさない。工程を減らすんじゃなく、治具を作って工程を自動化する。精度は維持したまま速度を上げる」
ユーリが地面から小石を拾い、掌で転がした。
「治具の設計は終わっている。お前が王都にいる間に、鍛冶場を拡張して量産ラインを組む。帰ってきたら五つは揃える」
「五つ」
「五人の鑑定士が第三の方法を使えれば、一人あたりの負荷は五分の一になる。お前の焼痕がこれ以上伸びなくなる」
ユーリの選択。リーゼの隣にいるのではなく、リーゼの方法を支える基盤を作る。遠くから守る。
「器具が待っている。帰ってこい」
器具が。その言葉の裏に何があるか、リーゼには分かっていた。だが鍛冶師は言葉ではなく手仕事で語る人間だ。
「帰ります。必ず」
翌朝。馬車に乗り込んだ。リーゼ、マティアス、ベルタの三人。ベルタが「あんたらの旅にはいつも付き合わされる」と文句を言いながら荷物を担いだ。
「文句があるなら置いていきますが」
「誰がお前の飯を作ると思っている。マティアスの爺さんは茶しか淹れられないし、お前は芋しか焼けない」
「芋は焼けます」
「それを料理と呼ぶな」
ユーリが鍛冶場の前で見送った。手を振らなかった。ただ立っていた。リーゼの馬車が見えなくなるまで。
馬車が街道に出た。シュヴァルツ山脈が朝日に照らされている。あの山の中に千年前の遺跡がある。この街にユーリの鍛冶場がある。どちらもリーゼの原点。
王都まで五日。最後の戦いへ。
王都への道。二日目でカイが追いついた。
馬車の窓をノックする音。馬に乗ったカイが並走している。鞍の横に紙袋。
「約束は守る」
紙袋の中に甘いパン。カイが馬を預けて馬車に乗り込んだ。マティアスとベルタと四人。狭い。
「状況を話す。貴族連合が法案を推進中。精髄属性保持者の国家登録制度。三日後に評議会で審議される」
「間に合いますか」
「国王が聴聞会を開く。評議会の前に。ディーターの提案とリーゼの提案の両方を聞く」
「聴聞会の日程は」
「王都到着の翌日。準備する時間はない」
ベルタが甘いパンを齧りながら口を挟んだ。
「準備する時間がないのに、パンを買う時間はあったのか」
「パンは街道の出店で買える。準備は聴聞会場でしかできない」
「そういう屁理屈を言う男は信用ならない」
「信用しなくていい。データを信用しろ」
カイが書類の束を出した。騎士団への提出証拠の控え。ディーターの追跡報告。
「ディーターは先に王都に入った。志願者六名を連れている。全員の同意書がある。リーゼの論理を逆手に取った布陣だ」
「同意書の真偽は確認しましたか」
「騎士団が確認した。六名とも本人の署名。筆圧も安定。ただし——」
カイが一枚の紙を取り出した。騎士団の報告書の写し。
「六名のうち二名が、半年以内に多額の借金を帳消しにされている。同意書の署名は本人だが、署名の前に経済的便宜がある」
「グリュンタールの五枚目と同じ構造です」
「ああ。だが法的には同意書が有効。借金の帳消しは『支援』と主張される。立証が難しい」
マティアスが目を開けた。揺れる馬車の中で眠っているように見えたが、聞いていた。
「聴聞会では法律論ではなく、致死率で勝負するべきじゃ。同意書が有効でも、八十二パーセントの致死率を知れば志願者自身が降りる」
「止められます。情報が不完全なら、本当の選択ではない。ディーターは致死率を開示していない」
「致死率を計算できるのか」
「装置に触れれば。覚醒した鑑定眼で」
カイの目がリーゼの右腕を見た。袖の下に白い焼痕が覗いている。
「聴聞会で装置に触れて致死率を読み上げる。八十二パーセント。それを志願者に開示して、選び直させる」
「それでも残る者がいたら」
「残る者の選択は尊重します。ただし、第三の方法という代替案を示す。致死率ゼロの方法があるのに、八十二パーセントの方法を選ぶ理由がない」
カイが頷いた。
「カイさん。答えは持ってきましたか」
「パンは持ってきた」
「パンは答えですか」
「パンは口実だ。答えは——帰る場所が決まった」
リーゼはカイを見た。灰色の目に夕暮れの光。
「辺境担当を希望した。グリュンタールを管轄に含む」
帰る場所。リーゼのいる場所が。
ベルタが咳払いした。
「馬車の中でそういう話をするな。狭いんだ、逃げ場がない」
「ベルタさん。聞いていないふりをしてください」
「できるか。三歩先の距離で囁かれて」
マティアスが目を閉じて茶を啜っている。懐から出した携帯用の茶器。聞いていないふりが上手い。
「爺さんは聞こえてるのか」
「耳は遠いんじゃよ」
「嘘つけ。暗号メモの話は全部聞いてただろう」
「都合のいい耳でな」
馬車が揺れた。四人の重みで軸がきしむ。王都まであと三日。
リーゼの指先が微かに反応した。馬車の底板を通して、街道の石畳の下から精髄灰の残留を感じる。薄い。だが王都に近づくほど濃くなっていく。




