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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
禁忌の等価

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第59話 遠い炉の音

王都。不正調査機関の詰所。


 カイは机の上に積まれた書類を睨んでいた。黄金律計画の事後処理。伯爵の裁判記録。鑑定部門の是正報告。半年前の事件の後始末が、まだ終わっていない。


 だが本当の仕事は、書類の向こう側にある。


 宰相府の動き。エルヴィラからの情報。グリュンタールからの報告。三つの情報源を突き合わせて、宰相の次の手を読む。調査官としての本業。


 隣の机の同僚が声をかけた。


「ローレンツ。最近、残業が多いな」


「書類が多い」


「グリュンタールの鑑定士と手紙のやり取りもしているだろう。個人的な用事か」


「業務連絡だ」


「業務連絡に甘いパンの話は書かないだろう」


 カイは同僚を無視して書類に戻った。


* * *


 夜。王都の南門近くの教会。礼拝の時間を装った密会。エルヴィラが先に来ていた。


「遅い」


「尾行がついていた。巻いてきた」


「尾行?」


「フリードリヒの部下だ。最近、調査機関の周辺をうろつく人間が増えた。宰相が俺たちを監視している」


 エルヴィラが声を落とした。紫の瞳が教会の薄暗い光の中で揺れている。


「新しい動きがあります。宰相が先月、宰相府の直轄組織として『精髄研究局』を秘密裏に設置しました」


「精髄研究局」


「局長はフリードリヒ・ランゲ。グリュンタールから戻った後、宰相に報告書を提出して昇進した」


「あの男が局長? マティアスの爺さんに怯えて逃げ帰った男が」


「報告書には怯えた話は書いていないでしょうね。『大賢者マティアス・グリムが古代遺跡を独占的に管理しており、宰相府の調査に非協力的』という趣旨のようです。宰相はこれを口実に、マティアスの管轄外の場所で独自に研究を進める体制を作った」


 カイは腕を組んだ。宰相は手が速い。マティアスに正面から阻まれたから、迂回した。


「研究局の活動内容は」


「公式には『先史時代の錬金術遺跡の学術調査と保全』。実態は精髄属性の実用化研究。三カ所に施設を設置する計画があるという噂です。まだ確認は取れていませんが」


「三カ所」


「王都の地下。北方の港町ノルデン。東の鉱山都市エルツ。いずれも錬金術院の出先機関がある場所」


 カイは情報を頭の中で整理した。宰相は黄金律計画を「見直した」と公式に発表した。だが実態は看板を付け替えただけだ。精髄研究局という新しい名前で、同じ研究を続けている。


「もう一つ」


 エルヴィラが鞄から一枚の紙を取り出した。


「これは先週、精髄研究局の文書保管庫から持ち出した写し。局の機密文書の一部です」


 カイが紙を受け取った。古い羊皮紙の写し。文字は古代文字と現代語が混在している。


「何だ、これは」


「山脈の遺跡から宰相が持ち出した記録の翻訳です。私には内容が理解できません。だがリーゼなら読めるかもしれない」


 カイは紙を畳んで内ポケットに入れた。


「エルヴィラ。一つ訊く。宰相はリーゼの能力をどう使うつもりだ」


 エルヴィラが沈黙した。教会の祈りの鐘が鳴った。


「使うのではなく、奪うのかもしれません」


「奪う?」


「この翻訳文書に、一箇所だけ読めた部分があります。『精髄の萌芽を持つ者から、その力を抽出する術式』。古代の錬金術師が考案し、結局使われなかった術式。宰相はその記録を持っています」


 カイの手が一瞬止まった。


「抽出。リーゼの鑑定眼を——」


「そうです。協力を求めるのではなく、能力そのものを取り出して別の装置に組み込む。リーゼ本人が要らなくなる」


 教会の鐘が二度目に鳴った。礼拝の終わりを告げる音。


「エルヴィラ。この情報をリーゼに伝える」


「当然。ただし、方法を考えてください。直接伝えれば、リーゼは宰相に突撃するでしょう。それでは止められない。法で止める方法を見つけてから」


「法で止める。分かっている」


 カイは教会を出た。王都の夜空。尖塔の向こうに宰相府の灯りが見える。


 リーゼの鑑定眼を抽出する。あの指先を。あの力を。機械の部品のように取り出す。


 許せるわけがない。


 だが感情で動けば負ける。法で動く。証拠を集める。内側から。


 カイは宰相府の方角を見つめた。もう少しだけ、仮面をかぶり続けなければならない。


 三日目の実験で、右手の指先の色が変わった。


 人差し指と中指の先端がうっすらと白い。日焼けが消えたのではない。皮膚の下の血流が変化している。精髄を流すたびに、指先の毛細血管に負荷がかかっているのだ。


 リーゼは手袋をはめ直した。マティアスに見せる前に、もう少し実験を続けたい。制御時間は十五秒から二十三秒まで伸びた。三日で八秒の改善。悪くない。


「リーゼ」


 ユーリが鍛冶場から出てきた。リーゼの前に立ち、黙ってリーゼの右手を見た。手袋越しでは分からないはずだ。だがユーリの目は鍛冶師の目だ。金属の表面の微細な変化を見逃さない。


「手袋を外せ」


「なぜですか」


「外せ」


 リーゼは手袋を外した。指先の白さが、午後の光の中で目立つ。


「鍛冶師の火傷と同じだ。繰り返しの熱負荷で、皮膚の下の組織が変性する。俺の手にも同じ跡がある」


 ユーリが自分の手を見せた。分厚い手。何千回も金属を打った手。指の関節に古い火傷の跡がある。白く硬くなった皮膚。


「違うのは、お前の場合は内側からだということだ。俺の火傷は外からの熱。お前のは自分の中から出た熱。外からなら冷やせる。内側は冷やしようがない」


「分かっています」


「分かっていて続けるのか」


「続けなければ、第三の方法は完成しません」


 ユーリは何も答えなかった。代わりにリーゼの手を取り、鍛冶場に引き入れた。


 作業台の上に、薬品の瓶がいくつか並んでいた。火傷の治療薬。鍛冶師が常備しているもの。


「座れ」


 リーゼは椅子に座った。ユーリが無言で右手に軟膏を塗り始めた。太い指が、繊細な力加減で指先を扱う。鍛冶師が金属を扱うときと同じ手つき。壊さないように。だが確実に。


「痛いか」


「少し」


「嘘をつくな。鍛冶師は素材の状態を触って読む。お前の指先は熱を持っている。痛くないわけがない」


「……痛いです」


「素直に言え。痛いときは痛いと。壊れかけているものを壊れていないと言うのは、鍛冶師として一番嫌いだ」


 リーゼは黙った。ユーリの手が軟膏を丁寧に塗り終え、薄い布で指先を包んだ。包帯ではない。鍛冶師が繊細な金属加工のときに使う保護布。通気性が良く、指先の感覚を損なわない。


「これで少しは楽になる。明日の実験前にも塗れ。一日三回」


「ありがとうございます」


「壊すなよ、その手。お前の手は、俺が打った器具より高い」


* * *


 深夜。鍛冶場の灯りが消えない。


 リーゼは工房の窓からそれを見ていた。ユーリが何かを打っている。炉の音。金属を叩く音。規則的なリズム。


 何を打っているのか。新しい増幅器の改良か。それとも別のものか。


 マティアスが工房の奥から声をかけた。


「あの鍛冶師は、お前さんのために打っておるのじゃろう」


「何をですか」


「指先への負荷を分散する設計の器具。たぶん、今日のお前さんの指を見て、図面を引き直したのじゃろう。あの男は口で言わず、手で語る」


 リーゼは窓の外を見続けた。鍛冶場の煙突から白い煙が上がっている。夜空に溶けていく。


* * *


 翌朝。エルヴィラからの急使が届いた。


 封書の中に二つの紙。一つはエルヴィラの手紙。もう一つは、カイの筆跡の短いメモ。


 エルヴィラの手紙:「宰相が精髄研究局を設置。三カ所に実験施設を計画。フリードリヒが局長。詳細は別便で送ります」


 カイのメモ:「宰相が動く。二週間以内にグリュンタールに調査団が来る。俺も同行する。ただし——俺の立場が変わっている可能性がある。判断はお前に任せる」


 リーゼはカイのメモに触れた。手袋を外して。


 インクの乾燥パターン。筆圧。紙の折り癖。カイが書いた状況を読む。急いでいた。筆圧に乱れがある。だが最後の一行だけは安定していた。「判断はお前に任せる」。この一行だけ、迷いなく書いている。


「立場が変わっている可能性がある」


 何を意味するのか。判断を任せるとは。


 マティアスが茶を注いだ。


「カイ殿は覚悟を決めたようじゃな」


「何の覚悟ですか」


「内側に入る覚悟じゃ。宰相の懐に。表から殴れんなら、中から崩す。調査官のやり方じゃ」


 リーゼはメモをポケットに入れた。指先の保護布の下で、右手が微かに痛んだ。


 二週間。それまでに何ができるか。

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