第52話 裏切りの重さ
下山の前の最後の夜。焚火の前で、マティアスとリーゼが向かい合った。
カイとユーリとベルタは少し離れた場所にいる。これは師弟の対話だ。他の者が入る余地はない。
「マティアスさん」
「うむ」
「一つだけ訊きます」
「何でも訊け」
「犠牲者が出ることを知っていて認可した。それは為政者としての判断だと言いました。では院長としてではなく、マティアスさん個人としては、どう思っていたんですか」
焚火が爆ぜた。火の粉が夜空に散る。
「怖かった」
マティアスの声が小さかった。
「ヘルマンが志願したとき、止めたかった。だが止めれば計画は頓挫する。飢饉が来る。死者が出る。ヘルマン一人の安全と、数万人の命。天秤にかけた。天秤は数万人の方に傾いた。だがわしの心は、ヘルマンの方に傾いておった」
「心は傾いていたのに、天秤に従った」
「院長という立場がそうさせた。立場は人を変える。立場に乗れば、心の声が聞こえなくなる」
「でもヘルマンは一人の人間です。数字じゃない」
「分かっておる」
「分かっていたなら」
「分かっていても止められんかった。それが一番苦しいところじゃ。分からなかったのなら言い訳ができる。分かっていて止められなかった人間に、言い訳はない」
マティアスの手が震えていた。杯を持つ手ではなく、膝の上に置いた空の手。二十年前からずっと、この手が震えていたのかもしれない。
「お前さんは知っておろう。宮廷の大広間で、正しいことを言って追放されたとき、周りの人間が全員黙っていたことを」
「はい」
「エルヴィラも黙った。他の鑑定士も。誰一人、声を上げなかった。あの人間たちが全て悪人か」
「違います。立場が口を塞いだ」
「わしもそうじゃった。院長という立場が、ヘルマンを止める声を塞いだ。そして宰相もまた、為政者という立場に押されて三度目の過ちに手を伸ばそうとしておる」
リーゼは焚火を見つめた。炎の中に、大広間の記憶が揺れている。膝をついた石の床。背中に突き刺さる視線。誰も声を上げなかった。
「許せません」
「許さんでよい」
「でも、理解はできます」
マティアスが顔を上げた。
「理解はせんでよい。お前さんは怒っていい」
「怒っています。父を失った。母を失った。それが人為的な犠牲だった。怒らない方がおかしい」
「では怒れ」
「でもマティアスさんを憎むことはできない」
マティアスの目が潤んだ。焚火の光か、涙か。
「二十年間、茶を淹れ続けた。母の配合で。私を工房に迎えた。鑑定の方法を教えた。直接は何も言わなかったけれど、ずっと——」
「贖罪じゃ。贖罪にもならん。ヘルマンの命は戻らん。クラーラの命も。お前さんの七歳までの両親との時間も」
「でもマティアスさんがいなければ、私はグリュンタールで一人でした。あなたの茶がなければ、工房がなければ。あの半年間を生き延びられなかった」
沈黙。焚火の爆ぜる音。遠くで風が谷を吹き抜けていく。
「許しも恨みも、今は要りません。必要なのは、三度目を止めること。そのために、あなたの知識が要る。あなたの二十年の研究が要る。だから——一緒に戦ってください。師弟としてではなく。共犯者として」
マティアスが笑った。涙を流しながら、笑った。
「共犯者、か。ヘルマンも同じことを言いそうじゃ」
「父に似ていますか」
「瓜二つじゃ。顔は母親似じゃがな。中身はヘルマンそのものじゃ」
* * *
焚火から離れた場所で、カイがリーゼに声をかけた。
「終わったか」
「はい」
「泣いていたな。爺さんが」
「はい」
「お前は」
「泣いていません」
「嘘をつくな。目が赤い」
「……少しだけです」
カイが黙って水筒を差し出した。リーゼはそれを受け取り、一口飲んだ。冷たい水。山の湧き水。ベルタが汲んできたものだ。
「あの爺さんも、逃げずに話した。二十年逃げた後でも、お前の前では正面から語った。それだけは認めてやれ」
「認めています。だから一緒に戦うと言った」
「お前は強いな」
「強くないです。ただ、一人じゃないから」
「……ああ」
カイの声が少し柔らかかった。いつもの皮肉が消えている。夜空を見上げた横顔に、焚火の光が映っている。
「俺も一人で調査を続けて、左遷された。一人で正しいことをやっても限界がある。お前に出会って、それが分かった」
「私に出会って」
「……何でもない。水筒を返せ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることはしていない」
カイは水筒を受け取り、立ち上がった。焚火の方に戻っていく背中を見送った。少しだけ、背中が広く見えた。半年前に会ったときより。気のせいかもしれない。
* * *
同じ頃。王都。
宰相ハインリヒは、フリードリヒからの報告書を読んでいた。山脈の遺跡調査の経過報告。「リーゼ・ヴェーバーの鑑定眼は予想以上。千年前の壁面記録を一人で解読する能力を持つ。代替要員は存在しない」。
宰相がペンを折った。代替要員が存在しない。つまりリーゼを抱え込む以外に方法がない。追放した女に、頭を下げなければならなくなりつつある。
* * *
翌朝。ユーリがスープを作っていた。
リーゼが焚火の傍に座ると、黙って椀を差し出した。
「食え」
「ありがとうございます」
スープは熱くて、少し塩気が強かった。鍛冶師の作る料理は、味が大雑把だ。だがそれが今の体には丁度よかった。
「昨日、爺さんと話したか」
「はい」
「決まったか」
「何がですか」
「お前が何をするか」
リーゼはスープの椀を両手で包んだ。湯気が顔にかかる。
「父の研究を継ぎます。千年前の記録とマティアスさんの研究を繋ぎ合わせて、精髄属性の安全な制御法を見つける」
「大変な仕事だ」
「はい」
「器具が要るな」
「要ります」
「打つ」
それだけ言って、ユーリはスープの鍋に戻った。
カイは言葉で支える。ユーリは手仕事で支える。違う方法で、同じことをしてくれている。
リーゼは熱いスープを飲み干した。体の芯から温まる。今日、遺跡を最後にもう一度調べて、下山する。
持ち去られた記録の続きを。削り取られた壁の最も深い層に、まだ何か残っているかもしれない。
椀を置いて立ち上がった。手袋を外した。遺跡の入口に向かう。
指先に、かすかな光が宿った気がした。一瞬だけ。鑑定眼の反応とは違う、もっと内側からの光。
気のせいだろう。まだ早い。
だが指先は、昨日より温かかった。




