第32話 地下書庫
王立錬金術院。リーゼが卒業した場所。
白い石壁の建物が中庭を囲む学府の風格。門をくぐると、懐かしい薬品の匂いがした。学生時代、この回廊を何千回と歩いた。触れたものの真実を読むことが楽しくて仕方がなかった頃。
「地下書庫への立ち入り許可は取ってある。閲覧のみだ」
カイが管理官から受け取った許可証を見せた。
「閲覧のみ、ですか」
「持ち出しは許可が下りなかった。宰相府が書庫の管理権限を握っている。中で見る分には妨害できないが、証拠を持ち出させない仕組みだ」
「見るだけで十分です。触れられれば」
「だな。お前の指が最強の複製機だ」
地下書庫は本館の地下三階。石の階段を下りるにつれ空気が冷たくなる。防湿の術式が壁面に刻まれ、数百年前の文献も保存状態が良い。リーゼの鑑定眼が壁の術式に反応する。第3等級の標準的な保存術。精度は高いが力は弱い。日常的な維持に適した術式だ。
天井まで届く棚が何列も並び、羊皮紙と皮装の書物がぎっしり詰まっている。術式灯の青白い光が書架の間に影を落としている。
「膨大だな」
「研究記録は東棚、人事記録は西棚です。学生時代に何度も来ました」
「お前は本当にここが好きだったんだな」
「埃っぽくて、薄暗くて、誰もいなくて。物に触れて読むには最高の環境でした」
二手に分かれた。カイが東棚で黄金律計画の公式認可文書を探し、リーゼは西棚の人事記録を調べた。
西棚の奥。歴代の院長名簿と人事異動記録。分厚い羊皮紙の綴りを一つずつ手に取る。埃が舞い、術式灯の光に金色に光った。
カイの声が東棚から聞こえた。
「あった。黄金律計画の公式認可文書。20年前に認可された国家プロジェクトだ」
リーゼは東棚に向かった。カイが広げた文書を見下ろす。
「認可者は?」
「当時の宰相ヨハン・フォン・アイゼンベルク。そして認可に同意した機関の長として」
カイの指が名前を指した。
「王立錬金術院院長。マティアス・グリム」
リーゼの手が止まった。
分かっていた。院長室専用紙の件でほぼ確信していた。だが文書に名前を見ると、確信が衝撃に変わる。
院長名簿を引き出した。歴代院長の名前と在任期間が丁寧な書記官の字で記されている。
「第31代院長。マティアス・グリム。在任期間、元暦302年から306年。退任理由、一身上の都合」
四年間の在任。二十年前に退任。弟子を失った事件がきっかけだろう。精髄属性の実験中に弟子が命を落とし、マティアスは全てを捨てて辺境に消えた。計画を認可した責任から逃げたのか。それとも、計画の行く末を見たくなかったのか。
「マティアスさんは元・王立錬金術院院長。第7等級の大賢者。黄金律計画の初期段階を認可した当事者」
「あの爺さんが、か。グリュンタールで薬草茶を淹れていた老人が」
「第3等級の看板を掲げて辺境に隠居していたのは、過去から逃げるためだった」
口に出して、胸が痛んだ。マティアスに怒りは感じない。裏切りとも思わない。ただ、あの穏やかな老人の背中に、こんな重荷が乗っていたのか。
「リーゼ。来てくれ」
カイの声が書庫の最奥部から響いた。
壁面に一枚の大きな石の扉。扉の周囲に複雑な術式の紋様が刻まれている。封印。通常の鑑定器具では解析できない高度な術式。
リーゼは扉に手を当てた。冷たい石の表面から、強力な術式の残留が流れ込んでくる。
「精髄属性の封印です。高度な術式で封じられている。そして——この封印の設計者の痕跡が読める」
「誰だ」
「マティアスさんです。グリュンタールの工房で触れた器具と同じ波長の残留。間違いありません」
「あの爺さんが封じた部屋が、ここにある。中には何がある」
「分かりません。でもマティアスさんに聞けば、開けてもらえるかもしれない」
地下書庫を出た。石の階段を上りながら、カイが横顔を見た。
「大丈夫か。信頼していた相手が、計画の当事者だった」
「裏切りとは思っていません。マティアスさんは計画を認可した後、弟子を失って辞任した。計画から離れた理由も、辺境に隠れた理由も、今なら分かります」
「きつくないか」
「きつくないと言えば嘘です。でも知らないままよりはまし。触れてしまったものは、読むしかない」
陽光の中に出た。中庭の木々が風に揺れている。地下の冷たい空気から解放されて、二人とも少し肩の力が抜けた。
「足元、気をつけろ。階段が崩れかけている」
「あなたの方が暗いところ苦手でしょう。さっき壁にぶつかっていましたよね」
「見るな」
「見えました」
「……頑固な鑑定士だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
二人は並んで錬金術院を出た。




