5-あの人が戻る夜
帰りの電車の中で、恵子は何度もスマートフォンの電源を入れ直した。
画面は点く。圏内にも戻った。
けれど、時間が一切進んでいなかった。
午前11時12分のまま。メールもLINEも更新されていない。
駅の掲示板を見ると、17時を過ぎていた。
「……え? 6時間も……?」
村では、そんなに時間が経った感覚はなかった。
にもかかわらず、スマホの中だけが“閉じ込められていた”ように沈黙していた。
その不自然さに、説明のつかない違和感が募る。
それでも、自宅のドアノブに触れた瞬間――
恵子の身体は、ごく自然に『ここが最後の安全圏ではない』ことを理解した。
*
部屋に入る。
異常は、なかった。
……ように見えた。
だが、靴を脱いでリビングに入った瞬間、
全身に鳥肌が立った。
空気が、“焼けた匂い”に満ちている。
今までの焦げ臭さとは違う。
これは明確な“肉の焦げる匂い”だ。
人間の体温を持ったものが焼ける、生々しい脂のにおい。
「……誰か、いるの……?」
声を出した瞬間、自分の舌が震えているのに気づく。
……そして、ソファの向こう。
影が、膨らんでいた。
ゆっくり、ゆっくりと、それは立ち上がる。
暗がりの中で、赤黒くただれた皮膚がひび割れて、はがれかけている。
焦げた髪の束が垂れ下がり、
両腕は、何かを差し出すように恵子の方へ伸びてきた。
「……ひ……っ」
それは――
“彼”だった。お焚き上げで忘れようとした彼――――
顔は、ところどころ焼け落ちている。
左頬が爛れて歪み、目はひとつしか残っていない。
だけど、残った右目が、あの人特有の眼差しで、恵子を見つめていた。
「……返しにきた。
俺を、燃やしただろ……?
でも、忘れてないよな。
おまえ、まだ“思い出してる”だろ……?」
声が、ぐつぐつと煮えるように濁っていた。
「ちがう……違う、もう終わったの、焚き上げたの!」
「終わってないよ
あれは、“処理”じゃない
お前が、“最後まで見なかったから”
焼かれた俺は、途中で止まったんだ
俺の顔も、名前も、声も――
お前の記憶の中で、まだ“未完成”なんだよ」
そう言って、彼は自分の胸を裂いた。
熱に焼けた皮膚がばりばりと音を立てて剥がれる。
中から出てきたのは――あの高級ペン。
けれど、それはもう書くための道具ではなかった。
軸が骨でできていて、先端が砕けた歯のように尖っている。
「思い出すたび、形を取り戻す......
でも――今の俺には、“顔”が足りないんだ……
恵子、ちょっと貸してくれないか」
彼は、恵子の顔に向かって手を伸ばした。
恵子は、叫びながら部屋を飛び出した。
足がもつれ、廊下の壁にぶつかる。
ドアの鍵をかけ忘れたのが、頭の中で何度も反芻される。
エレベーターはなかなか来ない。
廊下の奥、部屋のドアが――静かに開いた音がした。
「ほら、思い出せば、いつでも会えるんだよ。
それが、“お焚き上げ”ってやつだろ?」
**
外に出ても、匂いは追ってきた。
生焼けの肉と脂のにおい。
そして、部屋の奥で囁かれた、彼の言葉。
「お前が、燃やしきるまで、
俺は“ここにいる”。」




