第三話:父と娘
……と、ここまで一気に雅彬は桃香に、雅と達彦、彼女の本当の両親について自分が知って話せる事を、古いアルバムの中に見つけた、まだ生まれたばかりの赤ん坊を抱いてこちらを向いて微笑んでいる二人の写真を見せながら聞かせた。
桃香は、どこか感慨深そうに、初めて見る実の両親の顔を見つめていた。雅彬は何故かそうしている娘の姿にはっきりと、雅の面影を感じた。
よく見ると、いや……よく見ないでも、長くて質の良い肩まである長い髪に、二重で大きくぱっちりした目、小さいが面長な美人顔に華奢な体つき、そして紫苑ほどではないが服の下からでもその存在を主張するくらいはある大きな胸といい、要所々々を見てみれば顔つきといい体つきといい桃香は雅彬が知る雅にかなり似ていた。恐らくもう少し経って、彼が知り合った頃の雅の年頃になれば、ますますそっくりになるのだろう。
しかし、雅彬が知る限り、明朗快活で他人に対する思いやりがあり、純真で、誰からも好かれるが少々やんちゃな所がある桃香の性格は、まさしく達彦のそれをしっかりと受け継いでいた。
改めてそんな娘の姿を見ながら雅彬は、本当によくここまで大きくなってくれたものだ、と何かに感謝するように感慨に耽りながら、また昔の時分を思い出していた。
桃香を引き取る、そう決めてから最初に雅彬と紫苑が行ったのは家の模様替えだった。
達彦と雅が事故死する一月程前に今の家が完成した時、雅彬も紫苑も、子供がまだ居なかった上、その前の年に雅彬が殆ど正常な精子を作る事が出来ない体質である事が発覚した為に、子供が出来る事は疾うに諦めていたから、家を建てる時から子供部屋のような部屋を造る心算は全くなかった。そこで、桃香を引き取る事になった折りに、家具を整理して、彼女の為に一部屋開けてやる必要があった。
ところが、幸いにも建てた家が少し広い一軒家で部屋数が多かった事もあり、雅彬と紫苑が夫婦の寝室として使っていた、2階にある紫苑の書斎の隣にある部屋を桜に与え、ダブルベッド等の家具を処分したり、他の部屋に移動させたりしてスッカラカンにし、壁紙も内装業者に頼んでクリーム色の物から女の子らしい薄い桃色に変更した。そして雅彬と紫苑自身は1階のリビングの、雅彬の書斎やキッチンとは反対側の食卓の側に続いて造られた、普段はリビングからは三枚、廊下からは2枚の襖と壁で仕切られた6畳の和室に、夜だけ布団を2枚敷いて就寝する事にしたのである。そしてこの生活は今現在も続いている。
次にした事は、桃香を自分たちの家に連れてくるために、車の後部座席に取り付ける為のベビーシートを購入する事だった。
達彦と菫は、桃香の為に子供服やベビーベッドなど育児に必要な物を殆ど揃えて遺していたが、何故かベビーシートは買ってはいなかったのか、遺品の中には無かった。尤も、当時の達彦の車は2シーターのMR車だったし、桃香も零歳で車に乗せて外に連れ回すような年でもなかった。ただ、達彦の家にミニバンの特集記事が載った自動車情報誌やカタログがあった事から鑑みて、いずれファミリーカーに買い換えた時に一緒に買う事はあっても、その時は必要なかったのだろう。
しかし、体を動かす事が好きだった行動的なアウトドア派の達彦と雅と違い、雅彬も紫苑もインドア派な上に、雅彬が重度の車好きで走り屋だったので、夫婦一緒での通勤は元より、休日等に夫婦で買い物に行くときもいつも雅彬が車を運転し、旅行で遠出するときも高速を飛ばして行く事が多かったという理由で、桃香を引き取るに当たり、ベビーシートと言うものはある意味必需品だった。
そう云う訳で、その当時はもとより、今現在も世話になっているカー用品店へベビーシートを買いに行ったのだが、折しも昨今の小さな子供の後席シートベルトの巻き込み事故を受けた規制によって巻き込み固定するタイプのシートベルトが禁止され、代わりにチャイルドシートを固定する専用の金具を後席シートに設置する事が法律の改定で義務付けられたために、店で取り扱っていたのは専用金具で後席シートに直接脱着固定するタイプだけで、雅彬の車のような古い車に取り付けられるような従来型のシートベルトで固定できるタイプの物はもう売ってはいなかった。
仕方ないので当時乗っていた車全てのリアシートの左側にだけ二つセットの専用金具を後付で取り付ける加工をそのショップで頼み、その上でその当時一番安全性と耐久性で評判が良かった上位機種を買ったのは、雅彬にとっていい思い出である。
桃香を家に連れてきたら連れてきたで、当然の事ながら雅彬と紫苑の夫婦生活は劇的に変わった。
何せ、何から何まで手探りでの育児である。桃香が泣けば、二人共すぐに彼女のもとへ飛んで行き、お腹が空いたのか、それとも漏らしてしまったのか、と二人でああでもない、こうでもないと、赤ん坊が何故泣き始めたのか、その理由を手探りで考えるという日々が続いた。
そうした生活の中で、雅彬と紫苑を一番悩ませたのは桃香の食事だった。
どうも生前に雅は完全母乳で桃香を育てていたらしかった。その為に彼女は、ミルク自体は飲むものの、粉ミルクを哺乳瓶から飲む事を極度に嫌がった。そしてその度に紫苑の乳房にしがみついて、その乳首に吸いついた。
しかしながら、いくら紫苑のおっぱいが大きいとはいえ、孕んだ事もない彼女から母乳が出る訳もなく、どうやって桃香に哺乳瓶からミルクを飲ませるのか苦慮し、試行錯誤する日が続いた。
結局、とうとう桃香が哺乳瓶に慣れる事は一切なく、蓋を外した哺乳瓶に入れたミルクを新品で清潔なスポイトに吸い取って移し、それを紫苑の胸の乳頭付近に垂らして、双丘の片割れをミルクでグチャグチャに濡らしながらどうにか桃香にミルクを飲ませるという荒業を使う日々が続いた。
桃香が乳離れするようになると、今度は離乳食をどうするかと言う問題が持ち上がった。
雅彬も紫苑も、離乳食というと、兎に角食材を食べやすいように具材を細かく切り刻み、成長に合わせて食べさせていい物と、未だ食べさせてはいけない物があるらしい、という事は常識として知ってはいたが、具体的にどの位の大きさまで切ればいいのか、具体的に何ヶ月の時に何を食べさせたら良くて何を食べさせたらいけないのか、という知識は殆ど持ち合わせていなかったので、雅彬は女子大で家政学の教授をしていた母親に連絡して教授を請い、情報が正確で詳しく書いてあるような離乳食関係や他の育児本を教えて貰い、それらの本を書店やアマゾンで見つけ次第買いまくり、紫苑と二人で読んで勉強して桃香の食事を用意してやる生活が続いた。
幸いにも桃香は、おむつからパンツや、おまるからトイレの躾、風呂の世話や月日や時計などの数字や簡単な平仮名の読みや社会常識など、基本的な躾や学習は、覚えが速かった事もあり、覚悟した程度の苦労は殆どしなかったが、その代わりに彼女は物凄く好奇心が旺盛で目について触ったものはすぐに口に入れようとするし、しかも元気が良く、ハイハイを始めるようになると、あっちへヒョコヒョコ、こっちへヒョコヒョコと、それこそ部屋どころか家中をちょこまかと移動するので一秒たりとも目が離せなかった。
桃香が来たことによってもたらされた変化は別に子育てばかりではなかった。雅彬と京都にある彼の実家の関係が、桃香が来た事によって少し悪くなった、というより複雑になった。
というのも、雅彬が彼の実家に、家族三人で初めて帰省した時、仕方が無い事だったのかも知れないが、父の浩彬と母の智恵は、桜と雅彬の弟の3歳下の孝彬の二人の子供、つまり雅彬にとって甥に当たる当時5歳の信彬と2歳の善彬、を比べて差別というか、桃香の方にやや冷たく当たっていた。
今となっては雅彬の両親も理解を示し、彼の実家とは良好な関係を築けてはいるが、当時の彼の父母に取っては、幾ら息子夫婦が決めた事で、且つ桃香が桐谷家の血縁筋だとしても、全く血の繋がりがない他人の子供を息子が自分達の『孫』だと思って接してやってくれ、と言って連れて来た事が心の奥底では快く思えなかったのだろう。いくら自分達の事で手一杯だったとはいえ、当時の自分の両親に対する態度は余りにも思慮に欠いていたと、雅彬は今でも悔いている。
兎に角、桃香を引き取って1年程は、正直軽々しく引き取るなんて言わなきゃ良かったと思い掛けた事も何度かあった。
しかしながら、それでも桃香が雅彬と紫苑にもたらしてくれた物は決して悪いものばかりではなかった。
現に騒がしくなったとはいえ、桃香が来たことで雅彬と紫苑の生活は確実に賑やかで楽しい物になったし、彼女が七五三、幼稚園、小学校、中学入学、十三参りと成長して人生の節目に立つ度に、そして誕生日やクリスマスなどの年間行事を通して娘の成長を実感しながら動画や写真を撮り、それらを見返してその成長を実感する度に、報われると言えば多少の語弊があるかも知れないが、彼ら夫婦は彼女を育ててきて本当に良かったと、実感というか感慨に耽る事が出来たのである。
だが、惜しむべきは本来、今の自分達の立ち位置にいる筈だった達彦と雅と共にこの歓びを共有することが不可能であるという事だった。死んだ二人がもう二度と味わえないであろう歓びを噛み締める毎に、雅彬はあの世にいる彼らに対して物凄く申し訳ない気持ちになった。それに反して、桃香が元気に成長する度に、実子以上に彼女に対する愛情が強くなり、この娘と離れたくない、平凡でも家族三人での生活が何時迄も続けばいい、でも娘に本当の両親のことを話せば、彼女は自分たち夫婦の元を離れてしまうかも知れない、と雅彬は心の何処かでそう思っていた。
だからこそ、今の今まで二人の存在を桃香に話す事は無かったのである。
その代わり、草葉の陰にいる達彦と雅へのせめてもの慰めとして、雅彬は事故の慰霊祭に出席する度に、一年分の桃香の成長記録の中の動画や写真をPCで編集してBDに焼き、そのBDと小型のBD対応ビデオカメラを引っ提げ、彼らにも桜の成長を三途の川の向こう側で見て喜んで貰おう、と彼らの霊前へカメラの液晶モニターを向けて上映して祈っていた。
15年経った今でもなお雅彬は、達彦と菫が死んだ原因は自分にあると、後悔していた。
もしあの時、達彦の提案に乗らず、秘密の計画を二人に実行しないように説得していれば、きっと例の事故機に乗る事はなかった。そもそも、彼が義弟に義妹と旅行へ行ってきたら?と軽々しく提案しなければ、二人は未だ現在も元気に生きて現在の自分達の立ち位置に居り、桃香と家族3人で、ひょっとしたらもう一人二人増えているかもしれないが、幸せに暮らしていた筈だ。そう思う度に雅彬は胸の奥が冷たくなって重くなり、息苦しくて辛かった。
その所為か、いつの頃からか雅彬は、あの世で雅彬と紫苑を恨んだ達彦と雅が、雅彬と紫苑から桃香を取り上げるために、自分達と同じように彼女を飛行機事故に遭わせて一緒に冥界へ連れて行くという悪夢に、何ヶ月かに一度だが悩まされるようになった。
だからこそ彼は、その夢が正夢にならないように、態々桃香と飛行機を引き離すように立ち回るようになったのである。
食卓で箸を進める手を休めて、実の両親と幼い頃の自分自身の写真を見ながら考え込んでいる桃香の様子を見て、雅彬は一抹の不安を抱きつつも、胸の中で突っ掛っていた物が取れたような、これでよかったのだと安堵していた。後は運命に委ねて自分は事態をただ見守ろうと、そっとその場から立ち上がると書斎の方へ引っ込んでいった。
翌日朝食を食べに自分達夫婦がいるリビングへ桃香が降りてきた時、彼女が案外元気そうに見える事に、雅彬と紫苑はホッと安堵した。
そして桃香が、
「お父さんとお母さんが、本当のお父さんとお母さんじゃないって聞いて最初は驚いたけど、やっぱりわたしのお父さんとお母さんは、お父さんとお母さんだから。」
と言ってくれたのを聞き、雅彬は正直とても嬉しく思った。
食事中、桃香は雅彬に修学旅行へ行かせて貰えるように懇願した。長きに渡る厳冬を越えてやっと暖かな春を迎えた連山のように穏やかな雰囲気を見に纏った今の父親が相手ならば、十分勝算があると踏んだのである。
「お父さん!お父さんは反対するかも知れないけど、わたし修学旅行に行きたいの。だから行かせてください。」
だが、桃香と紫苑の予想に反し、雅彬は素直に首を縦に振ろうとはしなかった。
「……少し、考えさせてくれないか?」
「え?」
「あなた……。」
「出来ればお父さんもお前を修学旅行へ行かせたいさ。だけどその行き先が飛行機を使わないと行けないような遠い異国なら話は別だ。そう軽々しく子供を行かせる事は、お父さんには出来ない。」
雅彬は今まで娘に真実を隠していたという後ろめたさからは確かに開放されたが、達彦と雅が桃香を連れて行ってしまうのではないか、という幻想に未だに取り付かれていた。
その上、そうでなくても2週間も言葉が通じぬ遠い異国へ、修学旅行とはいえ高校生の娘を行かせて大丈夫なのか?と半ば深刻に心配していた。
そんな父親の心情などいざ知らず桃香は、
「……そんな!どうして?」
と叫んだ。
「心配なんだ。もし飛行機が事故に遭わなかったとしても、子供が2週間も遠い異国へ行くんだぞ。もしも逸れて迷子になったらどうする?親なら心配して当然だろ?!」
「心配って、お父さんが、飛行機が嫌いな事をわたしに押し付けているだけじゃない!それに親なら心配して当たり前だなんて軽々しく言わないでよ。本当の父親じゃないくせに!お父さんなんか、知らない!」
そう雅彬に向かって怒号を浴びせると、桃香は走ってリビングから廊下へ出て行った。
「待ちなさい、桃香!」
紫苑は咄嗟に娘を追いかけようとしたが、
「よせ。」
と、雅彬に制止された。
「でもあなた……。」
「あの娘の気持ちを考えずにあんな事を言ってしまった僕に非がある。あの娘は悪くない。そっとしておいてやれ。」
そう言ってみたものの、しまったなと後悔しながら雅彬も出かける準備をし始めた。
朝っぱらからの険悪の空気を感じたまま、シルバーメタリックの初代フーガGTのハンドルを握る雅彬は、信号待ちで止まる瞬間ルームミラーへちらりと目をやり、リアシートの左側に座って右側のセンターに学生鞄を置き、窓の内張りに肘を掛けて頬杖を突いて未だに不貞腐れている桃香の様子を観察した。
桃香が来てから、紫苑は在宅勤務が主になったので、基本的に会社の方には雅彬一人が通勤していたが、娘が中学に上がって電車通学となり、彼が出勤する時間と彼女が登校する時間が上手く被るようになってからは、毎朝彼女を車の後部座席に乗せて、徒歩10分、車でぐるりと回れば5分ほど掛かるところにある最寄りの地下鉄の駅か、それか車で20分程掛かるところにあるJRの駅まで送り届ける事が彼の日課になっていた。
大雨が降っている訳でもないのに、娘が遅刻しないようにと思って車での送りを、家にいる限り毎朝している雅彬に対し、当然のように周囲の人間は皆、娘を甘やかしすぎだ、と非難していたが、普段から家にいて娘と接している紫苑と違い、昼間は本社や秋葉原の営業所に勤務し、その上出張で家に居ない事も多く、基本夜から翌朝位しか娘と顔を合わせる機会がない雅彬にとって、5分から20分程度とはいえ娘とコミュニケーションが出来る数少ない時間が毎朝の見送りの時間だったので、この習慣を止める気は全然なかった。
そして桃香の方も、普段家に居ない父親と一緒に入られる少ない機会でもあり、また、母が朝の弁当の用意等が遅れて電車に乗り遅れて遅刻しそうになっても、雅彬が車で送ってもらう事によって電車に間に合って遅刻せずに済むので、父親の好意に思い切り甘えている節があった。
この日の朝も母親の弁当の用意が遅れた事と、先に車を近くに持っている駐車場へ車を取りに先に出た父親の弁当を、自分の弁当を受け取る時に一緒に父の所に持って行ってくれと母から頼まれたので、いつも通り桃香は父親の車に乗り込んだ。
信号が青に変わるのを待ちながら、頭の中で桃香がいつも乗っている電車の時刻と最寄りの地下鉄の駅の構造、後どの位で駅に到着出来るか?等と時計で時間を確かめて考えながら、今この時間なら、地下鉄の方でも間に合うな、と思った雅彬は彼女に、
「多分間に合うと思うから、今日は地下鉄でいいよな?」
と聞くと、彼女はまだ機嫌を損ねているのか、腕時計で時間を確かめると不機嫌な声で、
「うん……。」
と答えた。
暫く走ってから地下鉄の入口の前辺りに、ハザードを焚きながら車を左に寄せて停車すると、雅彬は学生鞄を持って車から降りようとドアノブに手を掛けた桃香に、運転席から声を掛けた。
「出る時、後ろの方とかに気を付けて出ろよ。」
「……わかっている。」
「あと、気を付けて行くんだぞ。」
「……うん、行ってきます。」
「……ああ、行ってこい。」
いつもよりやや乱暴にバンッと音を立てながら車を降り、地下鉄の入口から改札へ続く階段を駆け下りていった娘を、姿が見えなくなるまで見送ってから、こりゃ完全に嫌われたか?参ったなあ……、と思って雅彬は苦笑した。そしてハザードを切って右ウインカーを点滅し、後続する車に注意しつつ車を発進させると、彼は一路会社に向かって走りだした。