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継家族  作者: fumia
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第四話:父の改心

 私立聖心女学園高等部の、自分が所属するクラスである2年3組の教室に到着しても、桃香は今朝の父親の言葉を思い出し、その度にむかついて心が晴れないでいた。

 そんな桃香の様子を見ながら、桜の親友でクラスメイトである、お調子物で元気娘の宮鈴とおっとりして天然な性格の大会社の令嬢である柏木 瑞穂は、長期休み中の夏期講習だとは云え、何故朝からそんなに不機嫌なのか、何かあったのか?とからかい半分で尋ねてきた。

 そんな二人に向かって、桃香は、彼女が両親の本当の子供では無かったと判った事、そして父親が彼女の修学旅行行きに反対している事を打ち明け、どうすればいいかを相談した。

 意外と重い話に、最初こそ二人共戸惑ったが、

「桃香は、桃香のお父さんが、桃香が自分の本当の娘じゃないから意地悪で修学旅行に行く事に反対している、って考えているって言っているけど……。多分、それは違うと思うよ。」

と鈴が桃香に言った。

「どうしてそう言い切れるの?」

と桃香が鈴に問い掛けると、

「だって、うちのお父さんも同意書にサインしてくれないんだもん。お前はおっちょこちょいだから絶対に何処かで迷子になって、人様に多大な迷惑を掛けるに違いない。外国で迷子になったら下手すれば日本に帰って来られなくなるかもしれん。怖くて行かせられん、って。わたしのお父さんは本当のお父さんだから、実の子とかそうじゃないとか関係ないと思うよ。」

と云う答えが返ってきた。また瑞穂も、

「そういえばうちの父も、表立って反対はしませんでしたが、2週間も日本を離れるって聞いてあまりいい気はしていない感じでしたわ。」

と言った。

「噂じゃ、皆便利だからパスポートだけは一応取っているけど親が同意書にサインすることに二の足を踏んでいるって娘、わたし達以外にも結構いるみたいだよ。」


 只でさえ愛娘を2週間近くもヨーロッパという言葉も通じない遠隔地に行かせることをためらう親が多かった上に、昨今の移民政策の失敗や、未だに引きずっているユーロの経済不安などで、特に移民と原住民の白人との間で日常的に小競り合いが勃発し、修学旅行には関係ないとはいえ、特にスラム街ではテロ行為まで行われて社会問題になりつつあったので、今の時期にヨーロッパへ行くことに反対している親、特に社会に出て日常的にそういう情報に触れる機会が多い父親、は多かった。

 だが、世間知らずな女子高生の娘たちがそういう事を知る由もなく、互いに親に対する不満を言い合っていると、

「こら!あなた達。もう始業の時間よ。お喋りは止めて席につきなさい。夏期講習、始めるわよ。」

と、威勢の良い声が教室の前の方から聞こえてきた。

 3人が振り返ると、担任の英語科の教師である香坂 瑞希が両手を腰に当てて怒っているようなポーズを取っても顔はにこやかに笑ったまま立っていた。

 すぐに3人は、

「すみません。」

と謝り、各々自分の席に着こうとしたが、急に鈴が、

「そうだ、瑞希っちに相談してみたら?」

と桃香に提案した。


 香坂 瑞希は勿論、学校側に雅彬と紫苑が桜の入学時に提出した書類によって桜が桐谷夫妻の本当の子供では無い事を知っていたし、長期休暇中にも関わらず、ここ一週間で学校に掛かってきた保護者の修学旅行に関する問い合わせの件数から、保護者の中に修学旅行で2週間近くもヨーロッパに娘を行かせる事を躊躇っている人が多くいる事も知っていた。

 だが、実際に、修学旅行へ行きたくても親が同意しないために行けなくて困っている娘達を目にすると、彼女の中の教師魂が燃え始めた。

「よーし、わかった。先生に任せときなさい!3人とも、いえ、親御さんが反対して修学旅行へ行きたくても行けない娘全員、この休み中に先生が皆の親御さんを説得して行かせるようにしてあげるわ!」


 昼休みに紫苑が作った弁当を箸で突付きながら、雅彬はオフィスにある自分の部屋から孝彦に電話を掛け、桃香に自分達夫婦が本当の両親でないという事実を知られてしまった事と、自分が修学旅行へ娘が行く事を真っ向から反対したばかりに、娘と仲違いして親子の仲が拗れてしまっている事を包み隠さずに吐露し、どうすればいいだろうか?義弟に助言を請うた。

 孝彦は、隠したところでいずれ暴露してしまうであろう事は確実だった訳だから、桃香が義兄夫婦は実の両親でないと知ってしまった事は仕方が無い事だ、と笑いながらも、

「でも、桜を修学旅行に行かせる事に反対したのは不味かったですね。」

と、義兄に進言した。

「桃香だって、楽しみにしていたでしょうし……。」

「それは解っているさ。確かにあの娘の心を傷つけてしまったと思う。でも僕はねえ、親として心配なんだよ。君だってネットやその筋からの情報で知っているだろう?今あの辺りがどういう混乱状態に陥っているのか……。そうじゃなくたって、只でさえ言葉も通じない遠い外国へ2週間近くも愛娘を行かせるんだ。親として心配しない方がおかしいだろ?」

「まあ……、確かに。」

「それに僕は、桃香を飛行機に乗せることが怖いんだ……。」

「……雅彬義兄さん。まだ、あの悪夢に悩まされているんですね?」

「…………。」

 雅彬は何も答えなかったが、この16、7年の付き合いで義兄の人柄を良く心得ていた孝彦は、義兄が今どんな心境でいるのか、ありありと理解する事が出来た。

「雅彬義兄さんは背負い過ぎているんですよ!兄貴達の事も、桃香の事も、桐谷家の人々の事も……。兄貴と雅義姉さんが亡くなった事だって、どうしようもない運命だったんだ。別に雅彬義兄さんが悪い訳じゃない。桃香だって飛行機に乗ったくらいで事故に遭って死んでしまうなんて馬鹿な事がある訳がない。それに、兄貴と雅義姉さんが、桃香をここまで大きく育ててくれた雅彬義兄さん達を恨むなんて事も、ましてや自分達と同じように桃香を飛行機事故に遭わせてあの世へ一緒に連れて行くなんて事も絶対にする訳がないでしょう?桐谷家のお義兄さん達の事だってそうだ。あの人達こそ自業自得であって雅彬義兄さん達は何も悪くはないじゃないか?」

「そんな事は……。」

 捲し立てている内に自分の言葉に気持ちが入り込み過ぎたのか、それとも不甲斐ない様子の雅彬を叱咤激励したくなったのか、熱血漢になった孝彦は受話器の向こう側にいる義兄に向かって大声で訴えた。

「そうですよ。雅彬義兄さんは考えすぎなんですよ。もうそろそろ気張らずに肩の荷を下ろしたらどうですか?」

「しかし……。」

「あの事故から15年も経つんです。もうそろそろ時効にすれば良いじゃないですか。兄貴や雅義姉さんだってもう疾っくの昔に向こうで義兄さん達を許していると思いますよ。」

「そうだといいが……。」

「そうだといいが……、じゃなくてそうなんですよ。早く同意書にサインして桃香を修学旅行に行かせてやって仲直りすればいいじゃないですか……。あ、そうだ!桃香に僕等の分のお土産もお願いしますって伝えといて下さいよ。」

「はは……、伝えておくよ。ありがとう、孝彦君。君に話したら何か前向きに考えられるような気がしてきたよ。」

「どういたしまして……。兎に角、桃香と早く仲直りして下さい。」

「そう出来るように頑張るよ。舞衣さんと玲奈ちゃんと雅彦くんにも宜しくな。」

「こちらこそ紫苑義姉さんに宜しく。……じゃあ。」

「ああ、じゃあ。本当に有難う。」

と言って彼は携帯電話の終話ボタンを押すと、携帯電話をスーツのスラックスの前の左側のポケットに入れた。


 雅彬が携帯電話を仕舞ったのとほぼ同時に、今度は事務所の方にある電話が鳴り、電話を取ったらしい社員が、

「専務!私立聖心女学園高等部の教師の香坂 瑞希と名乗る方から娘さんの事で専務にご要件があるそうなのですが……。」

と言った。

 聖心女学園と聞いた雅彬はすぐに、

「繋いでくれ。」

と部下に指示した。

「わかりました。3番でお願いします。」


 机の上の固定電話の上の方にある『3』と書かれた細長いボタンを押して雅彬は受話器を取った。

「もしもし、お待たせしました。お電話、替わりました。」

「もしもし、桐谷 桃香さんのお父様ですね?わたくし御息女のクラス担任を努めて居ります香坂 瑞希と申します。」

「これはどうも……。桃香の父の桐谷 雅彬と申します。いつも娘がお世話になっております。」

「こちらこそ。ところで桃香さんから伺ったのですが、お父様は、御息女が修学旅行へ行く事に大変反対されておられるとか?」

「いえ……、別に反対している訳ではないし、出来れば前向きに考えたいとは思うのですが……。何分あの辺の最近の情勢は不安定になってきているし、只でさえ2週間近くも遠隔地へ一人で送り出すわけですから、不安で、不安で……。」

「心配されているお気持ちお察し申し上げます。実際に桃香さんのお父様以外にもかなりの数の保護者の方が同じ様に感じられておられているようですから……。」

「そうなのですか?」

「ただ、わたし達教師としては保護者の方が同意された上で希望する生徒全員を修学旅行へ連れて行って上げたいのです。勿論、わたし達も御息女の安全を確保する為に全力を尽くします。そこで今度、反対されている親御さんを対象に個別の説明会を学校で実施する事になったのですが、空いている時間で構いませんので御足労願いませんでしょうか?」


 電話の向こうの相手の語り口に、根拠は無いが信頼しても良さそうだと直感し、話だけでも聞いておこうと思った雅彬は香坂に都合が出来る日時を伝え、私立聖心女学園で香坂と会って話しあう事になった。


 娘の担任から、娘の修学旅行について保護者向けに個別説明会をするので都合出来る時に来て欲しい、という趣旨の電話を受けてから数日後の夕方、雅彬はスパーチャージャーを着けた3.5LのGRX170マークXで私立聖心女学園高等学校の構内に正門から乗り付けた。

 彼の隣の助手席には妻の紫苑の姿もあった。別に彼女が、娘を修学旅行へ行かせるように、夫を担任と共に説得する為に無理やり付いて来た訳ではない。むしろ逆に雅彬の方が紫苑に、一緒に付いて来て自分の背中を押してくれるように頼み込んだのである。

 そもそも雅彬が桃香を飛行機に乗せたくない理由は、彼女が飛行機に乗ったら、達彦と雅の亡霊が飛行機を事故に遭わせ、娘を自分達がいる冥土に連れて行ってしまうかも知れない、という漠然とし、且つ根拠もへったくれもない被害妄想からだった。少し考えてみれば孝彦の言うとおり、たとえ怨霊になっていたとしても、達彦と菫が彼らの愛娘をそんな非道い目に遭わせるなど、彼らの人柄的に有り得ないのは明白だ。

 それにもかかわらず、彼がこのような意識に囚われる羽目になったのも、必要以上に臆病であるからだ、と雅彬は自己分析した。本心を言えば、彼だって桃香を修学旅行に行かせてやりたいし飛行機にだって乗せてやりたい、と考えていたのだ。


 校門の傍にあった守衛小屋で、中で詰めている初老の少し痩せこけたガードマンに、自分達が生徒の保護者であると説明して用紙に署名をし、また車に戻って校内の奥へと進んで行く。すると、担任だけでなく学校全体で準備していたのか、近くで部活動に励む可憐な少女達に遠慮するように、一面に砂が敷き詰められて濁った黄土色をしている土埃の舞うグラウンドの一角に、地面に棒切れか何かで線を引いただけの簡単な駐車場が設けられていた。

 されど、流石腐ってもお嬢様学校、駐車場自体は適当に拵えたお粗末な代物でも、そこに駐車してある車は、メルセデスのSクラス、マイバッハ、ゴースト、ファントム、インペリアル、キャデラック、クワトロポルテ、パナメーラ等、数千万円とか1億円以上もするピカピカの高級外車が当然のように何台も並べられている。十数台程度停まっている車の内、1台だけ国産車を見つけたが、それですらホイールベースが長く伸ばされた特注仕様の漆黒のトヨタ・センチュリーである。新車で購入したとはいえ300万程度のトヨタ車で、しかも次の代の車が発表されてモデルチェンジの直前になってから、ディーラーを泣かせる位大きく値引かせて買い叩いた上にそろそろ5度目の車検を迎えようとしている雅彬のマークXは、どこか霞んでいるというか、貴族やジェントリばかりの社交場に忽然と現れた質素な花売り娘の如く、非常にお門違いな物に思われた。


 小さいとは云え、空いたスペースはまだ十分あった。が、せっかく完成しかけた美しく高尚な名画に一点の染みを付けるような気がして、雅彬は自分の車をそこへ停める事に大いに躊躇った。何とか義父から援助を受けた会社を青息吐息で軌道に乗せ、少々無理をすれば娘をこういう学費の馬鹿高い学校に通わせられる程度の生活レベルを維持しているし、趣味の車だって何台か持つ事が出来るようにもなったが、とてもではないがあんな車を1台でも買う余裕など一片もない。それらの自動車に如何なる類の所有者がいるのかは分からないが、無理をして買っても維持し続ける事の叶わない車ばかりだから、少なくとも自分達よりもずっと上の生活水準で、経済的にとても豊かな類の人々だと容易に想像する事が容易に想像する事が出来る。そして、そんな人種ばかりの空間で同じ時間を過ごす事がどれだけ苦痛で惨めなのかさえも……。


「なあ、やっぱり……。」

 急に弱気になった雅彬は助手席に腰掛ける紫苑に向け、『帰ろう』の『か』の一字を口から出しかけたが、結局押し殺した。

「何?あなた……。」

 何かを言いかけた癖に急に黙り込んだ夫を訝しんだ紫苑が振り向いて追求するような視線を投げ掛けて来たが、それでも雅彬は首を横に振った。

「いや、何でもない。」

 こんな弱音でも、今の紫苑には雅彬の桃香へ対する意気地のない言い訳にしか聞こえないだろうし、たとえそうでなかったにせよ、彼女は彼がそうする事を決して許さないだろうと思われたからだ。

「フ――――ッ!」

と深呼吸をして気分を落ち着かせ、覚悟を決めると、彼らは車を駐車スペースに後退で横列に停め、下車した後校舎へ向かって歩き出した。


 急に決まった保護者説明会の都合で、早々に夏期講習が切り上げられた後、解放されていたプールで友人達と泳いで過ごしていた桃香は、水着から制服へと着替え、教科書と水着類が収まった鞄を手に持ち、友人の鈴と瑞穂と並んで3階の廊下を歩いていたが、

「あっ!」

と叫んだ鈴の声で、階下のグランドに急拵えの手狭な駐車場が造成されている事に初めて気が付いた。


 興味本位に廊下の窓から下の景色を俯瞰すれば、赤い夕陽に照らされて金色になった運動場の一角に、まるでジオラマにミニカーを並べたかのように色とりどりの自動車が並んでいる。そしてその殆どが、勿論父親とは違い、母親以上に疎くて車種の判別など出来ない彼女でも名前と姿が一致する、世界的に名を知られる高価で希少な車ばかりである。

 そんな中、どう見ても1台だけ浮いている自動車が走って来た事に桃香は目敏く感知した。無論、どう見てもその銀色が色褪せ、車体の草臥れた古いマークXの改造車は、紛れもなく彼女の家の車である。

 紫苑は免許を保持しているものの、もう20年近くペーパードライバーで、こんな所へ夫の車でやって来るどころか、桃香は産まれて以来母親がハンドルを握っている姿を見た覚えは無いので、やはり父の雅彬が運転しているのだろう。その証拠にという訳でもないけれど、車の中にそれらしき陰が2つ、仲良く並んでいるのが見て取れる。

 桃香は、父親自らが説明会に赴いたという事は、即ち彼が例の件に関して前向きに考えているという事だろう、と直感して舞い上がり掛けたが、友人達の手前、あれが自分の父親の車だと言う事は非常に気が引けた。


 ウチも古い国産車なんかじゃなくて、他所の娘達の家の車のような真新しい高級外車だったらいいのに……。いくら沢山持っていたって、ボロ車ばかりでは恥ずかしいわ……。


 雅彬が耳にしたら心底気落ちしそうな本音を、10代特有の精神的に複雑な佳境へ差し掛かったお年頃の桃香はひっそりと抱かえていた。


 車が駐車して、二人が車外へ降りて来る。

 元々超お嬢様育ちの紫苑の方は、この年になっても姿勢一つ乱れず、容姿も若い時とそれ程変わらない清楚で上品な、いかにも上流階級の奥様といった感じの、他の娘の母親とも絶対に引けを取らない自慢の母親だ。だが雅彬の方は、確かに品が良い紳士ではあるが、研究畑と不遇な時代が長かった所為か、何処か卑屈というか、頭も白髪混じりで年の割に老けて見える上に、服装も何処か年寄りじみていて眼鏡を掛けているので、会社の社長と言うよりも大学の偏屈な先生と言った方がしっくりとくる。禿げていない所がせめてもの救いか……、少なくとも難しい年頃の娘が思うような理想の父親像にはかなり程遠い。

 長い月日を過ごした夫婦よろしく、寄り添うように歩く両親の姿を上から見下ろしつつ、友人達には知られないように桃香は小さな溜息を吐いた。そのタイミングは、丁度雅彬が深呼吸をした直後だったので、もしも神が偶然にもこの父娘の様子に目を留めていたとしたら、きっと微笑まれたに相違ない。


 その時、ガタンっと運動場とアスファルトの屋外通路を仕切る側溝に敷かれた、網目状の鉄製の蓋が大きな音を立て、ザ――――ッという音と共に砂埃を舞い上がらせながら1台の、それこそ雅彬のマークXなど足元にも及ばぬ程年代物の、白い400系ハイエース・バンが滑り込んできた。

 丁度此方へテールランプを向けていたので判り難かったが、どうやら横腹に『成宮商会』と緋色の字で大きく書いてあるようである。

「やだ!あれ、ウチのだわ……。」

 全く聞き耳を立てた心算は毛頭もなかったのだが、突然血の気が引いたように曇った声を上げた友人を見つめ、桃香は至極居た堪れないもどかしさを感じ、その場で立ち竦んだ。


 ブンブンブロロロ……プスンップスンッ……。

 青息吐息というか、今にも寿命を迎えそうな姑息なエンジン音を轟かせながら駐車場に徐に進入してきた土方のセルシオに、無論車好きの雅彬が気付かない筈が無かった。そうでなくても1世代前初期型という古い車である上に、相当酷使されたのだろうか。白いボディーから輝きという物が完全に失われ、車体全体にこびり付いた土埃によってうっすらと黄土色に変色し、彼方此方に凹みや傷が出来てしまっている。

 運転席には、如何にも下町の商店街で堅実に商売をしています、という雰囲気の少し強面なスキンヘッドの蛸の様な風貌をした、50弱位のチョビ髭を生やして真一文字に口を結んだ大柄の男が座っており、その隣には少し頬の痩けている細身の女性が何処か不安そうな面持ちで座席に腰掛けていた。


 二人が乗った車は、雅彬の車がそうしたように、他に倣って後ろから横列駐車し、そのまま静かになった。

 ガチャンッと金属同士が擦れ合う派手な音を立ててハイエースの前席の両扉が同時に開閉すると、その夫婦は表情を固めたまま駐車場の出口、件の説明会が行われるという校舎の方角へ向けてスタスタと歩き出した。

 たまたま、雅彬と紫苑の方が出口に近い場所にいた事もあり、彼はその夫婦と互いに会釈したが、適当な言葉が見つからなかったので特に話をする事は出来なかった。

 が、紫苑の方はその夫婦の女房の方と面識があったのか、

「こんにちは。」

と挨拶すると、俯いてぼそぼそと呟くように話す奥さんを相手ににこやかにお喋りを始めた。仕方なく残された男同士も、互いに気まずく思いつつも改めて頭を下げた。


 どうやら目の前の夫婦は、桃香の親友の両親らしかった。雅彬は夫の方と二つ三つ言葉を交わす中で、夫婦が某下町で所謂土建屋を営んでいる事を知った。少し前までは少し盛り返した景気の波に乗ってそれなりに日銭を稼げていたが、再び陰って来た昨今の世界情勢の煽りを受けて、ここ最近はかなり逼迫しているのだという。正直来年度以降の授業料を払うのが精一杯で、修学旅行へ娘を行かせる余裕などないのだそうだ。ただ、お金が無いとは口が裂けても言えないから、当の娘さんには、海外に行かせるのが心配だから、と適当に口を濁しているらしい。

 雅彬は成宮夫妻の話に同情するように相槌を打ちながら、彼らの切羽詰まった事情に比べれば自分の悩みはなんと下らなく女々しい物だろう、と心の中で反省した。少なくとも彼は、決して余裕がある訳ではないけれども、桃香を修学旅行へ参加させる費用を捻出する事は十分出来るのだから。


 桃香を修学旅行へ行かせる、と彼女の担任の瑞希に伝えて雅彬と紫苑が教室を出ると、丁度そこへ居合わせた娘とその友達2人に出会した。

「あっ!」

と家族揃って異口同音に声を発する。


「帰る所なのか?」

と、精一杯平静を装おうとする雅彬が尋ねると、

「うん。」

と、親友達の前で両親に遭遇してしまったという恥ずかしさで紅潮した顔を隠すように目を逸らしながら、桃香は小さく頷いた。


 そんな親友の様子を一瞥し、丁度それぞれの保護者達が教室から出てきたのに目を遣ると、場の空気を察した鈴と瑞穂は桃香と雅彬と紫苑に礼儀正しく一回頭を下げ、それぞれの両親の元へ歩いて行った。

 雅彬と紫苑も、三々五々と別れていく彼女等とその親達に向かって軽く黙礼をすると、互いに両側から桃香の手を引き、車に向かって歩いて行った。


 9月初旬。羽田空港。

 天晴な程空の青い色が眩しい快晴の下、空港の駐車場の一角で、雅彬は自分の147アリストのエンジンを静かに停めた。

 車から降りると、目の前に既に降車していた桃香が車のトランクから出した薄桃色の少し小さなスーツケースを持って紫苑と共に立っているのが彼の視界に入る。

「じゃあ、行こうか。」

と声を掛けると、

「うん!」

と彼女が答えたので、彼は妻子と共に足早に歩き出した。


 空港の出発ロビーは、既に聖心女学園の黒いセーラー服姿の少女達で埋め尽くされていた。教師たちの点呼を取る声が雑踏の中で声高に響き、黒い集団を迷惑そうに一瞥しつつスーツを着たビジネスマン達が避けて通って行くのが遠目からもよく分かる。空港での現地集合なので、雅彬と紫苑と同じ様に娘を見送りに来た父兄が多いのか、制服を着た少女と談笑するそれらしき大人達の姿もちらほらと見て取れた。


 そんな中、出発ロビーの一角に修学旅行生の集団よりも浮いた一団がいる事に雅彬は気が付き、思わずそちらの方へ目を遣った。

 恐らく大学生か、大学を卒業して間がないのか、兎に角10人程の若者達が円を描く様に立ち話に興じている。その輪の中心にいるのはそれぞれ銀と黒のスーツケースを手にした、黒いハンドバッグを左腕に掛け、白いワンピースにベージュ色のダウンを羽織った黒いストレートロングの清楚な感じがする少女と、ベージュのチノパンと薄青色のポロシャツの上に紺色のジャケットを羽織るというラフな格好をした青年である。よく見ると二人の左手の薬指には揃いの金色の結婚指輪が填められている。恐らく新婚旅行へ旅立つ若い夫婦とそれを見送る友人達という構図だろう。


 そんなよくある光景に、雅彬が妙に興味を持って眺めた理由は、その面子に少しだけ面識があったからだ。


 数ヶ月前、6月になる直前の頃、雅彬は突然権三郎に呼び出され、ある結婚式に会長の代理として出席するように命令された。

 それは、富士之宮製薬の社長の次男坊と綾小路グループの孫娘の結婚式、という物だった。両社とも大きな企業だから桐谷グループとも縁故が無い訳ではないが、特に家族ぐるみでの付き合いがある訳でもないし、主催が興して間もない富士之宮家によるものだったので、権三郎も当初は出席を断る意向を示していた。が、どうやら新婦と、桐谷家も懇意にしている有栖川コンチェルンの会長の孫娘と親しい間柄にある関係で、その有栖川コンチェルンの会長が式に出席すると耳にしたので、急遽雅彬を代役に立てて出向させる事にした、との事だった。

 旧華族である家柄の矜持から、話しにならぬ程格下の新興の家の結婚式になど出る気にもならないが、付き合い上入婿でこういう場をよく弁えている雅彬を自分の代わりとして行かせて面目だけは立てる。実に権三郎らしいやり方だ、と話を受諾しつつ雅彬は感じた。


 その時の結婚式の主役だったのが、今雅彬達の目の前にいる新婚の若夫婦だった。夫の方の名は和樹、妻の方は薫、と言ったか……。特に薫の方の交友関係が凄かった、というのが雅彬にとって非常に印象に残る式だった。

 今も、夫婦を取り巻いているのは夫婦の友人達、何方かと云うと妻よりの関係者だろう。有栖川コンチェルンの会長の孫娘、とその婚約者、日英のハーフである龍宮司グループの令嬢、八重樫産業の令息とその新妻、某大臣の愛娘等錚々たる面々である。妻の方があるお嬢様学校の出身者で、そこでの間柄だと云う話だったが、それにしても凄い、と雅彬は改めて舌を巻いた。


 一応出席していた訳だし、彼らの保護者達とも仕事上付き合っている事が多いので、一応は挨拶に出るべきだとも雅彬は考えたが、こんなおっさんが場の空気を読まずに水を差すのも野暮だろう、とも思えたので彼は桃香と紫苑を促してそっとその場を離れる事にした。


「あ、あれ。お嫁さんかな?」

 新郎が新婦をお姫様抱っこし、周囲からワッと上がった歓声を聞いて気が付いたのか、そちらの方向を見つめながら桃香が呟いた。

「ああ、真新しい結婚指輪をしているからな。これから新婚旅行へ旅立んだろう。」

 そう雅彬が答えると、桃香は更に続けた。

「いいなあ、わたしにもああいう王子様がいたらなあ。」

「あなたにだって、その内素敵な人に巡り会う事が出来るわよ。」

「そうかなあ?」

「そういうものよ。」

 そんな娘と妻の遣り取りを聞きつつ、意外にメルヘンチックな桃香の性格の一端を目の当たりにし、雅彬は久々に驚いた。それと共に、いつの間にか以前と同じように垣根無く娘と談笑出来ている事実を実感し、心の底から安堵した。


「そんな事より、今は修学旅行だろう。ほら、先生が呼んでいるぞ。行ってこい!」

「あ、本当だ!じゃあ、お父さん、お母さん、行ってきます!」

「行ってらっしゃい。楽しんでくるのよ!」

「はい、行ってきます!」


 遙か空の彼方へ飛び去って行く、桃香達が搭乗しているであろうANAのジェット機の小さな機影を雅彬と紫苑は第二ターミナルの5階の展望デッキから並んで見送った。

「行ってしまったな。」

と雅彬が独り言ちると、

「行ってしまいましたね。」

と紫苑も同調して答えた。ただそれだけだったが、何処か感慨深い物が彼ら二人の心を覆っていた。


「行こうか……。」

「ええ……。」

 雅彬はそっと彼の妻の手を取ると、空港を後にした。

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