第5話「悪役令嬢、水と戦う」
赴任先の村に着いて、最初に感じたのは、風の乾いた匂いだった。
山の裾から緩やかに広がる土地には、畑と小さな集落が点在している。
遠くには青々とした山並みが見えるし、川も流れている。決して荒れ果てた土地というわけではない。
けれど、馬車の窓から見える畑は、場所によってずいぶん様子が違った。
青々と葉を茂らせた畑のすぐ先に、土が白っぽく乾いた畑がある。畝の間には小石が目立ち、作物もどことなく元気がない。
(なるほど。これが噂の扇状地……!)
山から運ばれた砂や小石が積み重なり、水が地中へ染み込みやすい土地。
学校の地理で習った知識が、まさか悪役令嬢の領地経営で役立つとは思わなかった。
(いよいよ『薔薇麦』の領地経営編ですわね! しかも高難度の特別枠。腕が鳴りますわ!)
胸の中で拳を握ったところで、馬車が止まった。
「お嬢様、到着いたしました」
「ありがとう、オルデリク」
私を出迎えてくれたのは、日に焼けた顔の年配の男性と、数人の村人だった。年配の男性はこの屋敷のある村の長で、周辺の村々の事情にも詳しいという。
「村長を務めております。遠いところを、ようこそお越しくださいました」
「アデルミリア・リューヴェルンですわ。三年間、この土地をお預かりいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、村長は慌てたように背筋を伸ばした。
王子の婚約者である上級貴族が、田舎の村長に頭を下げるとは思わなかったのだろう。
まあ、私はもう、頭を下げたくらいで減るものはないと学んでいる。家康だって必要なときには頭を下げたのだから。
案内された屋敷は、立派とは言い難いが、掃除が行き届いていた。
机には土地の記録と簡単な地図が用意されている。
「早速ですけれど、水のことを教えていただけますか?」
村長の表情が曇った。
「……やはり、そこからでございますな」
話を聞くと、この土地は雨が極端に少ないわけではないという。山からの川にも、普段は水が流れている。
問題は、その水を畑まで運ぶことだった。
「川から水路を引いておりますが、下の畑に届く頃には、ずいぶん減ってしまうのです」
「途中で誰かが使ってしまうのですか?」
「それも少しはございます。しかし、一番困るのは、土に吸われることでして」
水路の底も側面も、砂と小石が多い。何度か補修したものの、長い区間を維持するだけの費用がない。
村長の指が、地図の末端にある畑を示した。
「特にこの辺りでは、作物が育ちにくくなっております」
私は窓の向こうに目を向けた。
さっき見た、乾いた畑だ。
*
翌朝、私は村長の案内で用水路を歩いた。
「……確かに、川には水がありますのね」
「はい。ただ、引いた水がすべて畑へ届くわけではございません」
取水口の近くでは、水は勢いよく流れていた。ところが少し下ると、底の小石の隙間へ吸い込まれるように、水が減っていく。
さらに先では、水面が浅く、ところどころ土が顔を出していた。
(よし。原因がわかれば、対策も立てられますわ!)
私の頭の中では、早くも施設の建設画面が開いていた。
水路の全面改修。農業生産力の上昇。税収の改善。余った資金で新しい産業を育成して……。
――けれど、勢いのまま口に出しかけて、私は思いとどまった。
学園での演習でも、工事の規模ばかり見て、人手や時間を考え損ねた。
カレアに指摘されたことを、忘れてはいけない。
「村長さん。もし水路をすべて直すとしたら、どれほど費用と人手が必要ですの?」
村長は困った顔で、あたりの畑を見渡した。
「今は畑仕事の忙しい時期でございます。大勢を工事に出せば、今年の収穫に響きます。それに、水路を止める間の水も必要です。費用もすぐには見積もれません」
「……そうですわよね」
尋ねてよかった。もし勢いに任せて命じていたら、収穫や日々の水まで奪ってしまうところだった。
ゲームなら、建設費を払って完成までの日数を進めるだけだった。建設中だって畑は普通に収穫できたし、足りない労働力は数字を動かして調整できた。
でも、ここでは違う。
工事をする手も、土を耕す手も、同じ村人の手だ。
そこへ、細い道を通って二人の女性がやってきた。肩にかけた棒の両端には、水の入った桶が下がっている。
私たちに気づくと、慌てて道を譲ろうとした。
「お気になさらず。その水は畑へ?」
「はい。下の方まで水路の水が届かないもので」
片方の女性は、桶を支え直しながら答えた。
「少しずつでも運べば、苗が持ちこたえてくれますから」
その手は赤く、指の節には土が入り込んでいた。
私は、桶に目を落とす。
ゲーム画面の『水不足』という赤い警告。その裏側に、こうして水を運ぶ人がいることを、私は考えていただろうか。
「毎日、運んでいらっしゃるの?」
「水の足りない日は。ですが、ほかの仕事もありますので……」
女性はそこで言葉を切り、困ったように笑った。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
学園での演習では、人手不足を数字と予定で考えた。けれど、今目の前にいるのは、家族のために水桶を担ぐ人だ。誰かの暮らしを一枚の計画書に収めることなどできない。
(……学園で学んだつもりでしたけれど、現場に立つと見えるものが違いますわね)
私は村長に向き直った。
「大工事を急ぐつもりはありませんわ。まずは、皆さんの仕事を止めずに試せる方法を考えさせてください」
村長は驚いたようだったが、やがてゆっくりとうなずいた。
「それでしたら、私どもも知恵をお貸しできます」
うん。
その言葉が、今は何より頼もしかった。
*
屋敷へ戻ると、私は机いっぱいに地図を広げた。
川の流れ、用水路の枝分かれ、集落の位置。現地で聞いた話を、余白へ書き足していく。
(さて。家康なら、どうするかしら)
天正十八年、関東へ移った徳川家康は、江戸を新たな拠点にした。
当時の江戸城の周囲には入り江や低湿地が広がっていたけれど、その後、城下の土地や水路が整えられ、人や物資が行き交う町の基盤が築かれていった。
もちろん、一人の力で一夜にして成し遂げた話ではない。長い時間をかけ、多くの人が関わった仕事だ。
(江戸では入り江や湿地と向き合い、ここでは水が地中へ逃げるのを防ぐ。抱える問題は正反対でも、まず土地の性質を見極めることが大切ですわね)
まずは、どこでどれだけ水が減っているのかを知ること。
それから、直せるところを少しずつ直して、効果を確かめること。
さっそく村長と水路に詳しい職人を呼び、相談した。
「水が特に減る場所を、一か所だけ試しに補修したいのです。砂の隙間を埋めるような土はありませんか?」
「粘りの強い土でしたら、山裾から少し離れた場所で採れます。ただ、量は多くありません」
「では、まず少しだけ使わせてもらえないか、土地の持ち主に相談しましょう。運ぶ費用も計算してくださいな」
職人はうなずき、末端の畑へ向かう短い支線なら、仕事の合間に手を入れられると教えてくれた。
そこなら水の流れを一時的に切り替えられるので、ほかの畑への配水を止めずに試せるという。
「底と側面に粘土を敷いて、しっかり突き固める。まずはそれで、どこまで変わるか見てみますわ」
「うまくいけば、ほかにも使えますな」
「ええ。ただし、成功してからですわ。使えるお金も、人手も限られていますもの」
我ながら、ずいぶん慎重なことを言うようになった。
以前なら『資金不足? なら交易施設を建てましょう!』などと勢いで進めていただろう。現実では、その交易施設を建てる人手から考えなければならない。
そこへ、オルデリクがお茶を運んできた。
「お嬢様。必要な手配は私の方で進めましょうか」
「お願いします。費用は細かく記録しておいてくださいな。後で皆さんと確認したいのです」
「……かしこまりました」
彼はいつもどおり丁寧に一礼した。
私は再び地図へ向き直る。水の問題が見えてきた気がした、そのときだった。
「アディ様、お邪魔いたします」
「まあ、カレアさん!」
戸口に立っていたのは、隣の領地に赴任したばかりのカレアだった。
互いの土地を一度見ておこうと約束していたのだ。
「お忙しいところ、すみません。こちらでも川のことを調べておりまして……」
「ちょうどよかったですわ。私も今、水路の補修を考えていたところですの!」
私たちは机に二枚の地図を並べた。
同じ川が、私の領地を通って、カレアの領地へと流れている。
「改修がうまくいけば、水が届かなかった畑にも流せるかもしれませんわ」
「それは素晴らしいことです。でも、アディ様」
カレアは地図の川下を指さした。
「将来、こちらで取水を増やすことになれば、私の領地へ届く水が減るかもしれません。今の水の使い方も、あわせて確かめておきたいです」
「……あっ」
水路の途中で失われる水を減らすことと、川から好きなだけ水を取ってよいことは、まったく別の話だ。
私は、自分の領地の地図だけを見ていたことに気づいた。
「おっしゃるとおりですわ。試験工事では今の取水量を増やしません。今後の計画は、川の水量と両方の領地で使う量を調べてから、一緒に決めましょう」
「はい。私も、こちらの村々の話を聞いてきます」
カレアはほっとしたように微笑んだ。
「私、アディ様の領地が豊かになるのは嬉しいんです。でも、私も任された土地の人々を守りたいので」
「もちろんですわ! そのために隣同士になったのでしょう?」
私たちは顔を見合わせて笑った。
味方だから、何でも賛成してくれるわけじゃない。むしろ、言いにくいことも言ってくれるからこそ、頼りになる。
(同盟って、こういうことなのね)
学園で結んだ友情が、今度は二つの土地の暮らしにつながろうとしていた。
*
数日後、小さな試験工事が終わった。
作業をしたのは、職人と、農作業に支障のない時間に集まってくれた村人たちだ。もちろん、働いた分の賃金は支払った。
短い支線の底と側面には、粘りのある土が丁寧に敷かれている。見た目は地味だ。ゲームなら、改修完了の派手な演出が出るところなのに。
「では、水を流しますぞ」
職人の合図で、せき止めていた水を支線へ通した。
流れがゆっくりと先へ伸びていく。
以前は途中で浅くなっていた場所を越え、水は支線の先まで届いた。
「……おお」
村長が、小さく声を漏らす。
工事前に職人が残してくれた記録にならい、支線の出口で一定の時間に流れ出す水を桶に受ける。
川の水位と取水口の開き具合を確かめ、条件をそろえて比べると、以前より桶にたまる水が多かった。職人も手応えを感じたらしく、うなずいている。
大成功、と叫びたくなる。
けれど、まだ短い区間での試験だ。粘土が長く持つかも、雨の多い時期にどうなるかも、これから確かめなければならない。
「よかった……。これで、少しは手桶で運ぶ水を減らせそうです」
あの日、水を担いでいた女性が、笑っていた。
私は思わず、その手元を見た。
今日も働き者の手だ。けれど、これからはその手で、別の仕事ができる時間が少し増えるかもしれない。
「お礼は私だけでなく、工事をしてくださった皆さんに。私は、口を出しただけですもの」
「そんなことはございません。私どもの事情を聞いて、無理のない工事にしてくださった。それがありがたいのです」
村長にそう言われて、私は苦笑した。
「……危うく、大工事を命じるところでしたけれどね」
その夜、カレアから手紙が届いた。
彼女の領地でも水の使い方を調べ始めたこと。川の上流と下流で記録を持ち寄り、共同の水路について話し合いたいこと。
端正な文字で、びっしりと書かれている。
(さすがカレア。仕事が早いですわね)
私はすぐに返事を書いた。
次は、二つの領地で力を合わせる番だ。
窓の外では、遠くを流れる川の音がかすかに聞こえる。
水が足りない。人手もお金も足りない。三年間でできることには、きっと限りがある。
それでも、今日流れた水は、ほんの少しだけ誰かの暮らしを楽にした。
(家康のように大きな町を築くのは無理でも……まずは、目の前の一つからですわね)
地図の上で、私の領地とカレアの領地をつなぐ川を指でなぞった。
「ふふ。水と戦うつもりでしたけれど、まずは仲良くなるところからですわね!」
さて。明日も忙しくなりそうだ。




