第一話 ピュア・ラブ First Sip
はじめまして。
普段は、別の作品として異世界を舞台にした物語を書いています。
そちらを執筆する一方で、現代を舞台にした、少し不思議で少し怖い短編も書いてみたいと思い、この『SHAKER & STIRRER』を始めました。
この作品では、実在するカクテルを一つ選び、その名前や色、味わいから生まれた物語を、三話に分けてお届けします。
異世界ものとは、雰囲気も物語の進み方もまったく異なりますが、人の心に隠されたものや、何気ない言葉の裏にある想いを描いていけたらと思っています。
こちらは、カクテルと物語の組み合わせを一つずつ考えながら、ゆっくり書いていく予定です。
定期的な更新ではなく、新しい一杯と物語が出来上がるたび、少しずつ追加していきます。
夜のバーでカクテルを一杯楽しむような気持ちで、気長にお付き合いいただけるとうれしいです。
それでは、最初の一杯をどうぞ。
秋の雨は、いつもより街を静かに見せていた。
激しく降っているわけではない。
けれど、細い雨粒が途切れることなく降り続き、歩道を濡らし、行き交う人々の足を早めている。
二十八歳の瀬和良子は、駅へ向かう途中で足を止めた。
ビルの壁に、控えめな灯りが浮かんでいる。
地下へ続く階段。その脇に、小さな看板が置かれていた。
以前、一度だけ訪れたことのあるバーだった。
女子校時代からの親友、友田忍に連れられて入った店だ。
あのときは、久しぶりに二人で食事をした帰りだった。
大声で騒ぐ客もいなければ、流行の音楽が鳴っているわけでもない。
忍は「こういう店、落ち着くでしょ」と言っていたが、当時の良子には少しだけ大人びて感じられた。
今夜は、雨宿りをする場所を探していただけだった。
それでも、見覚えのある看板を見つけたことに、良子は小さな縁を感じた。
腕時計を見る。
終電までは、まだ少し時間がある。
良子は濡れた髪を手で整えると、地下へ続く階段を下りた。
重い扉を開く。
カラン――。
控えめなベルの音が、静かな店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、落ち着いた声が返ってくる。
白いシャツに黒いベスト。
年齢の読み取りにくいバーテンダーが、磨いていたグラスを置き、良子へ軽く頭を下げた。
客はほかにいなかった。
「一人なんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろんです。お好きな席へどうぞ」
良子はカウンターの中央に腰を下ろした。
以前、忍と並んで座った場所だった。
自分がこちら側で、忍が隣。
何を話していたのかまでは思い出せない。それでも、忍が楽しそうにグラスを傾けていた姿だけは、妙にはっきりと覚えている。
バーテンダーがおしぼりを差し出した。
「以前も、いらっしゃいましたね」
「あ、覚えてるんですか?」
「ええ。ご友人とお二人で」
「すごい。もう結構前なのに」
「お客様のお顔を覚えるのも、仕事の一つですから」
良子は濡れた指先を拭きながら、店内を見回した。
あのときとほとんど変わっていない。
背後の棚に並ぶ色とりどりの酒瓶。磨かれた木のカウンター。天井から落ちる、柔らかな琥珀色の光。
外の雨音は、扉を閉めた瞬間に遠ざかっていた。
「マスター。何か、おすすめあります?」
「お好みはございますか?」
「今日はお任せで。あまり強すぎないものがいいかな」
「かしこまりました」
バーテンダーは棚から数本のボトルを選び、シェイカーに氷を入れた。
ジン。
ラズベリーのリキュール。
そこへライムジュースを加える。
小気味よい音が、静かな店内に響いた。
良子は頬杖をつきながら、その手元を眺めていた。
こうして一人でバーに入れるようになったのだから、自分も少しは大人になったのかもしれない。
やがて、淡い赤色のカクテルが良子の前に置かれた。
「あ……これ」
良子はグラスを覗き込んだ。
「前に来たとき、忍が飲んでいたものですよね?」
「ええ。よく覚えていらっしゃいますね」
「きれいな色だったから。これ、何ていう名前なんですか?」
バーテンダーは、グラスへ視線を落とした。
「ピュア・ラブです」
「ピュア・ラブ?」
「ジンをベースに、ラズベリーの甘みとライムの酸味を合わせ、ジンジャーエールで仕上げたカクテルです」
「純愛、か……」
良子は小さく笑い、グラスを口元へ運んだ。
甘い香りのあとに、ライムの酸味が広がる。
見た目ほど甘すぎず、思っていたよりも飲みやすい。
「おいしい」
「ありがとうございます」
良子はもう一度、淡い赤色の液体を見つめた。
「でも今の私には、あまり縁のない名前ですね」
バーテンダーは何も答えなかった。
ただ一瞬だけ、良子の隣にある空席へ目を向けた。
「少し前までの私だったら、喜んでたかもしれませんけど」
「以前は、恋愛を?」
「もう、彼氏ができると、そればっかりになるタイプでした」
良子は照れを隠すように笑った。
「休みも全部合わせるし、行きたいところも相手に合わせるし。友達からは、恋愛すると周りが見えなくなるって、よく言われてました」
「今は違うのですか?」
「今は仕事のほうが楽しくて」
良子は少し誇らしげに背筋を伸ばした。
「人材派遣会社で営業をしてるんですけど、駅前に大きな商業施設ができるんです。そこのスタッフの手配を、まとめて任せてもらえることになって」
「それは、大きなお仕事ですね」
「そうなんです。販売員に、案内スタッフ、事務、清掃。必要な人数も多いし、オープンまで時間もないし。毎日バタバタですけど、自分が集めた人たちで新しい施設が動き始めるって考えると、楽しくて」
仕事について話す良子の表情は明るかった。
大きな案件を任されたことが、純粋にうれしいのだろう。
「だから、今は恋愛よりも仕事かなって」
「なるほど」
「この前も、取引先の人に告白されたんですけど、お断りしちゃいました」
バーテンダーの手が止まった。
「その商業施設の?」
「はい。先方の担当窓口の人です。打ち合わせで何度も顔を合わせているうちに、仕事が終わったあと、食事に誘われるようになって」
良子はカクテルを一口飲んだ。
「悪い人ではないんですよ。仕事もできるし、気も利くし。でも、そういう目で見たことがなかったから」
「お気持ちは、はっきりと伝えたのですか?」
「もちろん。曖昧にするほうが失礼だと思ったので」
良子は、あの日のことを思い出した。
仕事が一段落したあと、二人で食事をした帰りだった。
駅前の人通りが少なくなった場所で、彼は足を止めた。
――仕事の相手としてではなく、これからも会ってほしい。
突然の言葉に驚きはしたが、迷いはなかった。
――ごめんなさい。今は仕事が楽しいんです。
彼はしばらく黙ったあと、「分かりました」と笑っていた。
少なくとも、良子にはそう見えた。
「それで終わったと思ってたんですけど……」
良子の声から、先ほどまでの明るさが消えた。
バーテンダーは急かさず、次の言葉を待った。
「その人、二、三日前から会社に来ていないらしいんです」
「お休みではなく?」
「無断欠勤みたいで。電話にも出ないし、家にも帰っていないって」
「それは、心配ですね」
「今日、その会社の別の方から連絡が来たんです。何か聞いていませんかって」
良子はグラスの脚を指先でつまんだ。
「私が知るわけないのに」
そう言って笑ったが、その笑顔はわずかに引きつっていた。
「告白を断った直後だったから、なんとなく気になっちゃって」
「何がです?」
「私が付き合うのを断った腹いせかしら、なんて」
冗談めかした声だった。
けれど、良子の指はグラスから離れない。
「どこかに隠れて、私を困らせようとしてるとか。仕事を放り出したら、私が大変になるって分かってますから」
「その方が、そのようなことをする人物だと?」
「まさか。そんな人には見えませんでした」
良子はすぐに否定した。
「だから、考えすぎだと思うんです。たまたま時期が重なっただけで、きっと何か事情があって……」
言葉が途中で止まる。
淡い赤色の水面が、照明を受けて小さく揺れていた。
バーテンダーは、黙ったまま良子を見ている。
良子は少しためらってから、声を落とした。
「でも……」
「何か?」
「最近、誰かに後ろをつけられている気もするんです」
バーテンダーの目が、わずかに細くなった。
「それは、いつ頃からですか?」
お読みいただき、ありがとうございます。
第一話「ピュア・ラブ」は、このあと「Second Sip」「Last Sip」と続きます。
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