狼人間
(……沙弥?)
妹の声が聞こえた気がして、ぼんやりと目を開く。
真っ白な天井に、LEDの淡い光。
消毒薬のにおい。病院の、においだ。
どうして病院などに、と思った瞬間、甦った記憶の波に呑み込まれ、上手く息ができなくなる。
人が、崩れた。化け物になって、子どもを殺した。
母が、消えた。
化け物。
双子の妹が、血塗れになって――。
「あ……ぁあ……っ」
ひゅう、と喉が鳴る。
「ああぁあああああああっっ!!」
絶叫した途端、全身に叩きつけるような勢いで水が降ってきた。
瞬時に蒸発したそれに驚くのと同時に、天上から声が聞こえてくる。
『――新堂拓己くん。目が覚めたのだね。大丈夫だ。落ち着いてくれたまえ。ここには、きみを傷つけるものは何もない』
「は……は……っ」
無意識に胸元を掴めば、少し硬い布の感触。
さらりとした肌触りのそれは、着慣れた高校の制服ではない。
『ここは、ラオデキア。かつて厚木基地と呼称されていた、極東最大のシェルターだ。私はラオデキアの最高責任者、陸上自衛隊一等陸佐の宇賀武雄』
落ち着いた低い声で淡々と語られ、混乱しきっていた頭が少しずつ冷えてくる。
『すまないが、きみの妹さんの安否はいまだ確認できていない。現在、ラオデキア所属のハルファス部隊が、鋭意捜索中だ』
「ハル……ファス……?」
掠れた声で復唱すると、気を失う前の最後の記憶が甦った。
黒髪の少年。
長い白髪の少女。
ほかにも大勢、戦闘服を着た子どもたちが戦っていた。
『ああ。きみを保護した者たちを中心に、いくつものチームが捜索任務に当たっている。……ただ、シェルターの外は今、ネフィリムが跋扈する砂の大地だ。あまり進捗がいいとは言えないことは、許してほしい』
ネフィリム。
そうだ。それが、あの化け物たちの名だ。
気持ちが悪い。吐き気がする。
ぐっとこみ上げてきたものに、体を捩って咳き込むけれど、口からは何も出てこなかった。何度も嘔吐いて、脂汗にまみれた額を手の甲で拭ったとき、違和感を覚える。
――自分の手は、これほど大きかっただろうか。
視界を邪魔する前髪が、長すぎる。
襟足から首にも髪の張り付く感触があって、拓己はぞっとした。
生まれてこの方、鎖骨の下まで伸びる自分の髪など、見たことがない。
こんなにも髪が伸びるほど長い間、自分は意識を失っていたというのか。
「今……っ、いつ、だよ……! あれから、どれくらい……っ」
『三日だ』
パニックを起こしての問いかけに、あっさりと返された答えは、あまりに想定外のものだった。
「三、日……? 三年、じゃなくて……?」
情けなく、声が揺れる。
たった三日で、人間の髪がここまで伸びるはずはない。
こんなにも、手が大きくなるはずがない。
しかし、宇賀と名乗った相手の声は、どこまでも静かに落ち着いている。
『そうだ。きみの肉体はラオデキアに収容した直後、急激に成長をはじめた。絶え間なく音を立てて軋みながら伸びる骨と、破壊と修復を繰り返す肉体のもたらす激痛に絶叫し続けていたことを、覚えていないか?』
「え……ぇ……?」
そんなことを言われても、と拓己は改めて自分の体を見下ろす。
病院で着る入院着のような、前あわせの服に包まれた体は、言われてみればなんだか妙に大きく見える。
『十六歳の未熟な体では、発現したきみの異能を最大限に発揮するのが難しかったのだろう。きみはたった数時間で、その能力を発揮するのに最も適した年齢まで、自身の肉体を成長させたのだよ』
「は……?」
間の抜けた声を零す拓己に、宇賀は続けた。
『今のきみは、推定年齢22才。昨日計測した時点では、身長186㎝、体重69㎏。この数値は、肉体の再構築が完了した時点から変動がない。おそらく今の状態が、きみの肉体が最も成熟した状態なのだろうね』
「ちょっと……ちょっと、待って。マジで、意味わかんない」
のろのろと頭を抱えて、きつく目を閉じる。
たった三日で、肉体が六年分も成長するなどあり得ない。
そう思うのに、気を失う直前に見た『あり得ない』光景の数々が、そんな常識的な判断を揺らがせる。
――素手でコンクリートを砕いても、傷ひとつつかなかった自分の皮膚。
一瞬で、燃えて消えた化け物たち。
そうだ。
今の自分には、あの化け物たちを殺せるだけの力がある。
ならば――。
「沙弥……っ、オレも、沙弥を探しにいく!」
カチン、とようやく意識の歯車が噛み合った。
こんなところで、のんびり寝ている暇はない。
白い掛け布団をはね除け、勢いよくベッドから降り立った拓己は、大股で歩きだそうとしてそのままコケた。
びったん! といういい音とともに床へ張り付いた彼に、宇賀の気遣わしげな声が掛けられる。
『……大丈夫かね?』
「……っ、なんっっだよ、これ!? めちゃくちゃ動きにくいんだけど!?」
肉体の最盛期云々という話は、どこへいった。
顔面からもろに床にいったはずなのに、不思議と痛みはほとんどなかったけれど、動きにくいことには変わりない。
ぷるぷると震えながら癇癪を起こした拓己に、宇賀が言う。
『変容前のきみの身長は171㎝、体重は55㎏だ。いきなり15㎝も身長が伸びれば、バランスもまるで違ってくるだろうし、今まで通りの感覚では動かしにくいと思うよ』
拓己は、絶望した。
こんな体たらくでは、沙弥を探しにいけないではないか。
「なんっちゅう、無駄なスペック変更! リセット! リセットお願いしまーす!」
『いや……さすがにそれは、無理ではないかな……』
それからひとしきり現状を嘆いたものの、元の姿に戻る気配はまるでなかった。
三日間絶食していたという体が、激しい空腹を訴えはじめたこともあり、拓己はひとまず現状を受け入れることにした。
『ヴォルフのツートップが帰投したのでね。ここからは、彼らに対応してもらおうと思う。のちほど、改めて挨拶をさせてもらっていいだろうか?』
「それはいい、ですけど……ヴォルフ? の、ツートップ?」
誰だそれは、と首を傾げると、宇賀は小さく笑ったようだ。
『きみを最初に保護した、ハルファスたちだよ。ヴォルフ1のリッカと、ヴォルフ2のフユキ。リッカは、雪の六花。フユキは、冬の騎士と書いて冬騎だ。仲よくしてやってくれると嬉しいな。――それでは、失礼する』
(六花……冬騎?。そう言えば、あのとき最初に会ったやつらが、周りからそう呼ばれていたような?)
風に舞う黒銀の髪と、日本人にはあり得ないブルーグリーンの瞳を持つ少年。
そして、緩やかに波打つ長い白髪に、やはり不思議なブルーグレーの瞳を持つ少女。
揃ってやたらときれいな顔をしたあのふたりは、たしかにハルファスの制服を着て戦っていた。
床に座りこんだまま、ぼんやりと記憶を辿っていた拓己の耳に、ばたばたと廊下を駆けてくる足音が届く。
次第に大きくなってきたそれが止まるのと同時に、横に滑らせるタイプの扉が勢いよく開いた。
現れたのは、たった今拓己が脳裏に描いていた少年少女。
ふたりとも記憶通りに、揃ってハルファスの制服を着ている。
少女は相変わらずの無表情だが、黒髪の少年――冬騎のほうは、床に座りこんだ拓己の姿を認識するなり、顔色を変えてすっ飛んできた。
「新堂さん!? どっか、具合悪いのか!? 気分悪い!?」
「落ち着きなさい、冬騎。彼の心拍及び呼吸音は、すべて正常。――おはようございます、新堂拓己さん。わたしは、ヴォルフの六花。こちらは、同じくヴォルフの冬騎。今後、あなたのお世話は我々が担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
(わあ。めっちゃ対照的ですなあ)
感情表現が驚くほどストレートな冬騎と、まるで感情が読めない六花。
冬騎が随分自分の心配をしてくれていたらしいのはありがたいが、ひょっとして六花には嫌われているのだろうか。
ふたりの温度差に風邪を引きそうだな、と思っていると、拓己のそばに膝をついた冬騎がまじまじと顔をのぞきこんできたあと、大きく息を吐いた。
「よかった。つうか、体がこれだけ大きくなってるのに、においは子どものままなのって、やっぱ少し混乱するな」
(……はい?)
においが子ども、とはいったいなんぞ。
目を丸くした拓己をよそに、近づいてきた六花も軽く首を傾げて口を開く。
「そうね。彼の体格の向上は、成長というより能力への最適化といったほうが正しいのだと思う。髪以外の体毛に変化がないのも、そう考えると納得できるわ」
(体毛て)
まさか同年代の少女にそんなことを言われるとは思わず、拓己は思わず顎先を指で撫でた。
同級生の中には、ちらほらと髭が生えている者もいたけれど、一向にそんな気配のなかった顔は、相変わらずつるりとした感触のままだ。
少なくとも、身体年齢が本当に22才まで上がっているなら、髪と同様に髭も生えていなければおかしいだろう。おかしいはずだ。
(え……まさかオレって、22才になっても髭が生えないとかいう体質なわけじゃないよね? そのうち、普通に年を食ったらちゃんと生えてくるよね?)
そこはかとない恐怖を感じた拓己だったが、六花はダンディな髭に憧れる青少年の葛藤を、一切斟酌しないタイプだったらしい。
インカムでどこかと連絡を取り合っていたかと思うと、扉の向こうに運ばれてきた衣服をベッドに置いて言う。
「あなたは、三日間絶食していました。今のところ身体に異常は見られませんが、食事は流動食からはじめさせてもらいます。我々は席を外しますので、そちらに着替えたら出てきてください」
「……ハイ」
きびきびと敬語で指示してくる六花に、なんだか抗い難い圧を感じる。
まじめなクラス委員タイプは、女子の中ではむしろ話しやすいほうだと思っていたのだが、何事も例外はあるらしい。
どうにも動かしにくい体で、Tシャツにカーゴパンツという楽な格好に着替える。足下は相変わらず裸足にスリッパだが、問題はない。
むしろ、服のサイズがちょうどよすぎて、眠っている間にどれだけ綿密に体を測定されたのかと思うと、ひどく複雑な気分になってくる。
(いやまあ……今のオレは、いきなり六年ぶんも成長する不思議生物なわけだし。いろいろ計測したくなるのは、当然かもだけどさあ。つうか、髪が邪魔過ぎるー)
沙弥といい六花といい、女の子というのはよくあれほど長い髪をキープしているものだ。
感心しながら部屋を出れば、はじめて出会ったときにはさほど目線が変わらなかったふたりを、思いきり見下ろす羽目になった。
――身長186㎝の視界とは、こんなにも高いものなのか。ちょっと、自動販売機の気持ちがわかってしまったかもしれない。
幼い頃から、どちらかといえば小柄だった自分の体が、最終的にはこんなにも大きくなるとは、想定外にもほどがある。
きっと成長痛もとんでもないことに――と思った瞬間、宇賀の言葉を思い出す。
(か、体が壊れては修復される激痛とか、想像するだけでもアウトなんですが! 覚えてなくて、ほんっっとうによかったー!!)
「新堂さん? どうかしましたか?」
訝しげな六花の問いかけに、どんよりと答える。
「いや……。オレの体がこうなるまでのプロセスって、めっちゃグロそうだなって……」
六花が、あっさりと頷く。
「そうですね。あなたの肉体が不規則に千切れては即座に修復されていく様は、客観的に見てかなりおぞましいものだったと思います」
「見てたんかーい! なんか、ゴメンね! 女の子にそんなグロいもの見せちゃって!」
ここの大人たちは、いったい何をしていたのだろう。
拓己と同い年くらいに見える少女に、リアルスプラッタを見せるとは何事か。
そう考えたところで、ふとハルファスの制服を着たふたりを見る。
「えっと……。きみたちって、今いくつ? つうか、下の名前しか聞いてないけど、苗字は?」
「我々は、十五歳です。それから、ハルファスに苗字はありません」
へ、と拓己は目を丸くした。
苗字がないとは、どういうことだ。
そんな彼の疑問を感じたのか、冬騎が口を開いた。
「新堂さん。おれたちハルファスは、ネフィリムと戦うために作られた。あー……。そうだな。あんたにわかりやすい言い方で言うなら、おれと六花は狼人間ってやつなんだ」
「………………はぃい?」




