適合者
以前、何かの報道番組で紹介されていた架空のヒーローが、目の前で恐ろしい獣を倒した。
呆然とつぶやいた拓己の声に気づいたのか、耳にかけたインカムで誰かと話していた少年が、ぱっと振り返る。
ちょうど、同い年くらいだろうか。
一瞬、驚いたように目を瞠った彼は、すぐにインカムに向けて口を開いた。
「CIC。こちら、ヴォルフ2。生存者一名発見。十代半ばの少年、極軽微の外傷あり。直ちに保護・輸送車までの護衛任務に入る。――よく生きていたな。名前と年齢は言えるか?」
そう言い、拓己の前で足を止めた少年は、テレビの中で紹介されていた俳優たちよりも、ずっと端正な顔をしている。
光を弾いて黒銀に輝く髪が、柔らかく風に舞う。
くっきりと線を描く切れ長の瞳と、意思の強そうな眉。青とも緑ともつかない色の瞳が、いつか何かの写真で見た南国の海のようだな、とぼんやり思う。
そんなどうでもいいことを考えていると、少年が困った顔をして再び問うた。
「大丈夫か? 名前と、年齢は?」
「……新堂、拓己。十六歳」
混乱した意識のままそう答えた途端、少年が鋭く息を呑んだ。
「十……六、歳?」
その顔に異常なほど激しい驚愕が浮かぶのを見て、拓己ははっと我に返った。
「あ……沙弥が、妹が、怪我してて……! 頼む、助けてくれ!」
そう言うなり、拓己は踵を返して走り出す。
わからない。何も、わからないけれど。
(保護、とか、輸送車とか……っ、そういうのが、あるんだろ!?)
先ほどの少年の言葉は、今の拓己にとって紛れもない希望だった。
「おい、ちょっと待て! ――CIC! こちらヴォルフ2! 『適合者』だ! 『適合者』を発見! 新堂拓己、年齢は十六歳! 至急、こちらに増援を! 彼は……っ、今、ここにいる!」
少年が、大きな声で何か言っている。
意味はさっぱりわからないけれど、あの化け物を一撃で倒した彼が沙弥を助けにきてくれるならそれでいい。
全力で妹の元に駆けていた拓己の頭上が、不意に陰った。
「……っ!」
ぐっと、右の脇腹辺りに強い力が掛かる。
瞬きひとつの間に、拓己を肩に担ぎ上げた少年が、民家の屋根の上まで跳んでいた。
振り返れば、眼下に不気味な赤黒い獣たち。
大きい。
拓己が最初に見た獣は、昔動物園で見たライオンくらいの大きさだった。
けれど今、目の前に立ち塞がったそれらは象ほどもあり、しかも手とも足ともつかないぐにゃぐにゃしたものが数えきれないほどに生えている。
少年が、ちっと舌打ちした。
「CIC、ヴォルフ2。アズラエルタイプと遭遇。『適合者』を確保。――少し、跳ぶぞ。舌、噛むなよ!」
「う、わ……っ」
再びの跳躍。
直後、すさまじい轟音とともに、自分たちのいた屋根が吹き飛ぶ。
それが巨大な獣から無数に伸びた触手のせいだとわかったのは、屋根を破壊した肉色の不気味なうねりが、すぐさまこちらを追いかけてきたからだ。
左肩に拓己をのせた少年が、右手の剣でそれらを切り払いながら、次々に屋根の上を跳躍していく。
(……いやだ)
遠くなる。
沙弥が、待っているのに。
自分が戻るのを――助けがくるのを、待っているのに。
「フユキ!」
そこに、高く鋭い声が響いた。
直後、上空から降り注いだいくつもの火線が獣を貫く。
触手の動きがわずかに鈍り、その隙に少年は屋根の上を駆け抜けた。
だん、とガルバリウムの屋根を蹴って大きく跳躍した彼が、雑居ビルの屋上にふわりと降り立つ。
少年が拓己を肩から下ろすのと同時にどこからか現れたのは、やはりハルファスの戦闘服を身につけた若者たちだった。
その中で、緩やかに波打つ真っ白な髪を背中まで伸ばした少女が、きびきびとした足取りで近づいてくる。
異国の血が混じっているのか、ちょっと近づきがたいものを感じるくらいに美しい顔立ちをした彼女は、青みがかった灰色の瞳で拓己を見た。
少女は拓己を抱えてきた少年を見上げ、抑揚の乏しい声で口を開く。
「彼が、『適合者』ですって? 間違いないの?」
「ああ、そうだ。えぇと……新堂、拓己さん? 何か、年齢証明できるものとか、持ってないか?」
その問いかけに、瞬時に脳が沸騰した。
沙弥が傷ついて動けずにいるというのに、彼らは何を呑気なことを言っているのか。
「今は、そんな……っ、どうでもいいこと言ってる場合じゃ、ねえんだよ!!」
四肢の隅々まで灼熱が広がって、癇癪を起こした子どものように、座りこんでいたコンクリートに拳を叩きつける。
破砕音。
(は……?)
人の力では、絶対に砕くことなどできないはずのコンクリートが、細かな破片となって飛び散った。骨が折れていてもおかしくないほどの衝撃を受けたはずの右手を持ち上げれば、無傷のまま揺らぐ陽炎をまとっている。
(なんだ……これ)
意味不明な現実を前に固まった拓己の耳に、白い髪の少女の声が響く。
「傾注! フユキは『適合者』を最優先で本部に移送、シオネはそのフォロー。トオヤとヒミは私とともにアズラエルタイプの――」
彼女が言い終えるより先に、フェンスに足を掛けた小柄な少年が、彼自身の体ほどもある巨大な武器の引き金を引いた。
耳を劈くような射撃音とともに、撃ち抜かれた触手が千切れ飛ぶ。
そのグロテスクな光景をどこか夢のように感じながら、拓己は掠れた声で口を開く。
「沙弥、が……」
それまでまったく表情を動かさなかった少女が、わずかに眉根を寄せた。視線だけで、拓己をここまで連れてきた少年に問いを向ける。
少年は、感情の透けない声で淡々と答えた。
「どうやら、負傷して動けない妹さんがいるらしい。彼の血縁なら、その子も『適合者』である可能性がある。どうする? リッカ」
白い髪の少女が思考したのは、ほんの数瞬。
「残存戦力では、アズラエルタイプの殲滅とあなたの撤収支援でギリギリよ。――CIC、こちらヴォルフ1。『適合者』を確保。至急、こちらに輸送ヘリを回してください」
インカムに向かってそう言った彼女は、そのまま少年に視線を向けた。
「フユキ。彼を、全力で守りなさい」
「イエス、マム」
一体何を、と思う拓己に、フユキと呼ばれた少年が手を差し伸べてくる。
「立てるか? 新堂さん。あんたを、安全なところへ連れていく」
「……ダメだ」
無意識に頭を横に振りながら、拓己は後退った。
「オレは……沙弥を、迎えにいく。オレだけ先に逃げるなんて、できない」
そんな彼に、白い髪の少女が冷ややかな声で言う。
「申し訳ありませんが、そのような時間も装備もありません。あなたの妹さんが、ほかのチームに保護されていることを願いましょう」
「……っ沙弥は、怪我をしてるんだ! もういい! オレがあいつを連れてくる!」
こんなことなら、沙弥のそばから離れるんじゃなかった。
吐き気のするような後悔とともに立ち上がった拓己は、しかし屋上のフェンス越し、眼下に広がった地獄のような光景に立ちすくむ。
(なん……だよ、これ……)
幼い頃から見慣れているはずの街並みが、まるで悪趣味なパニック映画の舞台のようだ。
あちこちから火の手が上がり、不吉な炎と煙の中をおぞましい姿の化け物たちが、我が物顔で這いずり回っている。
そんな化け物たちに対峙しているのは、様々な武器を操る『ハルファス』の制服を着た者たちだ。人間にはありえない速度で駆け、跳躍し、自分よりも遙かに巨大な化け物たちに立ち向かっていく。
呆然と目の前の光景に見入る拓己に、白い髪の少女が口を開いた。
「新堂さん。よく聞いてください。あれは、ネフィリム。哀れな人類のなれの果て――人間を捕食する、化け物です」
「ネフィ……リム?」
耳慣れない単語を繰り返すと、少女は無表情のまま小さく頷く。
「我々は彼らと戦う者ですが、今は時間がありません。妹さんの身を案じる気持ちはわかりますが、まずはあなたの安全を確保させてほしいのです」
「……っ」
ぐっと、唇を噛みしめる。
まるで意味がわからないけれど、それでも目の前に広がる光景は現実だ。
人を食う巨大な化け物が、街中で蠢いている。
なんの武器も、戦う術も持たない自分が、あんな化け物たちの中を突破して、沙弥の元へたどり着けるわけがない。
それでも――。
「おれが行く」
動けない拓己の耳に、フユキと呼ばれた少年の声が届く。
「新堂さん。あんたの妹さんは、おれが迎えに行く。彼女は今、どこにいる?」
「え……?」
顔を上げると、ブルーグリーンの瞳がまっすぐに拓己を見ていた。
「早くしろ」
「え、あ、住所は――」
相手に気圧されるまま自宅の住所を告げようとした刹那、ぞわりと背筋がそそけ立つ。
周囲にいる者たちが、一斉に武器を構えた。
激しい銃声と同時に、背後でびちゃびちゃと濡れた音が響く。
白い髪の少女が叫んだ。
「シェテルタイプ、複数出現! CIC! 輸送ヘリを急がせろ!」
そんな彼女の声に被せるように、凄まじい獣の叫び声が聞こえた。
(……あ)
知っている。
この耳を劈くような調子外れの咆哮は、あのとき自宅を破壊し、沙弥を傷つけた巨大な猿とも爬虫類ともつかない化け物の――。
「新堂さん!?」
誰かの呼ぶ声が、背後で聞こえる。
沸騰した意識のまま、ふいごのような呼吸音のするほうを振り返れば、濁ったオレンジ色の瞳と視線が絡んだ。
ひゅっと、喉が鳴る。
目の前で、自分を庇って血だらけになった沙弥の姿が、コマ送りのように思い出される。
彼女を傷つけたのは、この化け物。
その醜くも巨大で強靱な体躯を、忘れるわけがない。
これは、危険。
大切な家族を、傷つけるもの。
危険。……危険。
排除すべきもの。
――だから。
「ギィアアァアアアアッッ!!」
聞き苦しい断末魔の声を、化け物が吐き出せたのは、ほんの数秒のことだった。
突然、全身から火を噴いて燃え上がった巨体が、あっという間に炭化して崩れ落ちていく。
「は……は、はは……っ」
自分の喉から滑り落ちていく、調子外れの笑い声が、妙に遠くから聞こえてくる。
気分がいい。
体が軽い。
一瞬ごとに、全身の細胞が新しく生まれ変わっていくような高揚感に、ぞくぞくした。
わかる。
今の『自分』に、何ができるのか。
――どうすれば、『敵』を殺すことができるのか。
軽く右手を持ち上げ、ぐっと手指を握りしめる。
「死ねよ」
その宣言と同時に、周囲で蠢いていた化け物たちが、一瞬で火柱に包まれた。
断末魔さえなく、瞬時に燃え尽きたそれらの残滓――細かな煤と異臭が、風に攫われ消えていく。
(……沙弥)
すっかり、待たせてしまった。
迎えにいく。
今の自分なら、それができる。
できる、はずなのに――。
「ぁ……れ……?」
急激な目眩と同時に、視界が揺らいだ。
「新堂さん!」
誰かの呼ぶ声。
意識が、遠ざかる。
ダメだと思うのに、冷えた指先から急激に力が抜けていく。
――拓己。
意識が闇に塗りつぶされる寸前、自分を呼ぶ沙弥の声が聞こえた気がした。




