フェンリル
夜刀が半目になるより先に、顔を真っ赤にしたフェンリルがぎゃあと喚く。
「ちょ……っ、六花! いきなり人をセクハラ野郎扱いするの、マジでやめてくれる!?」
「セクハラ野郎扱いをした覚えはない。そうならないよう、助言しただけ」
『ラオデキア』のハルファスたちは、どうやら思いのほかフェンリルと気の置けない関係を築いているようだ。
しかし、今は呑気に若者たちのほほえましいやり取りを眺めている場合ではない。
エレベータで地上の本部に入り、フェンリルと六花、それにフェンリルのサポーターである『ヴォルフ』の冬騎以外のメンバーは、適当な理由をつけて医療棟に向かわせる。
渡部の指示で、ハルファス専属の医療班が待機しているはずだ。
血のにおいのしない者も、これだけ厳しい旅のあとだ。一通り、メディカルチェックはしておくべきだろう。
やはり、フェンリルにメンバーの負傷を知られるのは不本意だったのか、六花が視線で感謝を伝えてきた。
彼女の左手には、無骨なジェラルミンケース。完全抗体サンプルが入ったそれを『ワダツミ』のトップに届けるのが、彼女に与えられた第一の任務だ。
彼らを本部中央棟の最上階応接室に案内すると、渡部海佐と彼の副官である初老の三等海尉、そして研究所の人間が二名待機していた。
六花が渡部たちに挨拶し、ジェラルミンケースを手渡す。
渡部はすぐにローテーブルの上でケースを開き、中を検めてうなずいた。
「『ラオデキア』からの貴重な贈り物、たしかに受領いたしました。それでは――」
「渡部くん。完全抗体とやらのサンプルが届いたそうだね。まったく、待ちくたびれたよ」
突然響いた声に、その場の全員が振り返る。
渡部が、強張りきった顔で声の主を見た。
彼の許可がなければ、入室を許されないはずの応接室に現れたのは、場違いに上質のスーツに身を包んだ中年の男。
男は、夜刀に気づくと一瞬驚いたように目を瞠り、それから不快げに眉根を寄せた。
「きみたちが、けだものと人間を混ぜて作った化け物を、生物兵器として使っているのは承知しているがね。そんなものを、私の目に入るところに置いておかないでくれないか」
その瞬間、室内に渦巻いた殺気は、『ラオデキア』から命がけの長旅を越えてきたハルファスたちが発したものだ。
夜刀は、男の背後に能面のような顔で控えている若い准海尉を、心底げんなりとした気分で見た。『竜宮』と『ワダツミ』とのパイプ役である彼は、コンピュータシステムへのハッキングの腕を買われて任官されたと聞いている。
フェンリル一行の訪問も、あちらにすべて筒抜けだったということか。
そっと、ため息をつく。
(この『竜宮』の腰巾着がいなければ、渡部海佐もずっと楽に『ワダツミ』の統括官をやっていられたのかしら)
ハルファスたちの放つ殺気にあてられ、渡部たちばかりかフェンリルまで青ざめている。
しかし、男はこれほどあからさまな敵意にも、まるで気づいていないらしい。堂々とした足取りで、室内に入ってきた。
そして、不快げに眉をひそめたフェンリルを見ると、軽く片眉を上げた。
「資料には、十七歳とあったはずだが……何かの間違いだったか。――きみが、新堂拓己くんかね?」
「……ああ」
フェンリルが、低い声で答える。
男は満足そうにうなずいた。
「そうか。私は、海底シェルター『竜宮』の代表、尾木真澄という。我々は、きみを歓迎するよ」
夜刀は、驚いた。
いずれ『竜宮』のお偉方のひとりだろうとは思っていたが、まさかトップが直々にやってくるとは思わなかったのだ。
フェンリルは、ますます苛立ったように目を眇めている。
見かねた渡部が、尾木に声をかけた。
「尾木代表。彼らは『ラオデキア』から到着したばかりです。彼とのお話は、またの機会にしていただけませんか」
尾木は一瞬、むっとしたように眉を寄せたが、すぐにやれやれとうなずく。
「まあ、いい。これから彼は、『竜宮』で暮らすのだからな。話をする機会など、いくらでもある」
「……は?」
目を瞠った渡部に、尾木は当然だろう、と笑う。
「彼は、我が国で生まれた唯一の希望だ。危険な地上になど、置いておけるはずがない。――新堂くん、ついてきたまえ。『竜宮』の一員となる者が、いつまでもそんな薄汚いけだものどもと同じ格好をしているものではない」
『ラオデキア』のハルファスたちの放つ殺気が、今にも明確な殺意に転じようとしたとき――。
「――夜刀」
(……っ!?)
ぶわり、と全身が総毛立った。
低く己の名を呼ぶ、その声に。
尾木に牙を剥く寸前だった『ヴォルフ』のふたりが、同時にフェンリルを振り返る。
「拓……己?」
冬騎の呼びかけに、フェンリルはくくっと肩を揺らして顔を上げた。
そこに、幼く苛立った表情はかけらもない。
彼はゆっくりと腕を組み、傲然とした眼差しで夜刀を見る。
「来い」
その命令に、夜刀の体は勝手に応えた。
渡部の背後の壁際からフェンリルの前まで、ほんの数歩のこととはいえ、己の意思によらず動いた体に驚愕する。
体の支配権を奪われ、不快に感じて然るべきなのに、フェンリルを間近に見上げる夜刀の全身を包んでいるのは、紛れもなく歓喜だった。
ぞくぞくとした陶酔感に、背筋が震える。
フェンリルは、完全抗体の入ったジェラルミンケースをちらりと見ると、困惑しきった顔をしている研究員のひとりに視線を向けた。
「それを、今すぐこいつに投与しろ」
「……は?」
ぽかんと目を丸くした相手に、フェンリルはすぅっと目を細める。
「聞こえなかったのか? その完全抗体を、今すぐ夜刀に投与しろと言ったんだ。どうせ、予備のサンプルも入っているんだろう」
「は、はい……。しかし」
研究員が、わたわたと無意味に両手を踊らせる。
フェンリルの声が、一段低くなった。
「おまえは俺に、三度も同じことを言わせる気か?」
明確な怒気を孕んだ声に、研究員がますます蒼白になる。
ひんやりと、肌に触れる空気が温度を下げた。
顔を強張らせた研究員が慌ただしくジェラルミンケースを開き、同梱されていた注射器のパッケージを開く。
「や……夜刀。腕を」
促されるまま、消毒用アルコール綿の感触と注射針の小さな痛みを、どこかぼんやりとした意識で受け入れる。
完全抗体のサンプルを使うのは、渡部の部下だと聞いていた。
有能で年若く、将来『ワダツミ』を率いていくのに相応しい――こんな、いつ寿命を迎えてもおかしくない自分などではなかったはずだ。
夜刀に残された時間は、あまりに少ない。
それでも最後に、生まれてはじめて体の芯から震えがくるほどの歓喜を知った。
生きていてほしい、と心の底から願える存在に巡り会えた。
これが同族意識というものなのか、それとも違う何かなのか。
なんだっていい。
ただ、フェンリルの目に自分の姿が映ったとき、感じたのだ。
彼は『キメラ』として生まれた自分から、孤独を奪った。
彼がこの世に存在する限り、自分はひとりではないのだと。
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも胸が痛むほど嬉しくてたまらないのだろう。
そして、少しだけ悔しかった。
自分が生まれてくるのがもう少し遅ければ、あるいは彼と出会えたのがもう少し早ければ、これからも彼のそばにあることを、最初からあきらめずとも済んだだろうに。
空になった注射器が離れていっても、まだ実感がわかない。
わからない。
なぜフェンリルが、こんなことを命じたのか。
自分の体から発症の危険を拭い去って、一体なんの意味がある。未来のない自分が彼のためにできることなど、せいぜい死ぬまでの間にわずかな敵を屠るくらい。
そんな夜刀の顎をぐいと強引に持ち上げたのは、この場を支配している覇王の指だった。
「なあ、夜刀。――今ここで、おまえを殺せる男の名を言ってみろ」
目眩がする。
彼の瞳に、今は自分の姿だけが映っている。
「フェン、リル」
それは、夜刀の主の名。
彼は、満足げに笑ってうなずいた。
なんという――法悦。
「そうだな。おまえに命じていいのは俺だけだ、夜刀。これからは、俺のためだけに飛べ。おまえの翼は、俺のもんだ。必ず、俺の腕に帰ってこい。今後おまえが、ほかの人間の腕を止まり木にするのは許さない」
「……はい」
最初で最後の主に、頭を垂れる。
夜刀は、孤独と人類への隷属から解放された。




