食べ物の恨みには気をつけましょう
夢とは、見る者の願望を映し出すものだという。
だから今まで、何度沙弥が夢の中に出てきても、それを他者に告げることはなかった。
しかし、拓己はあの日以来、『普通の人間』とはかけ離れた生き物になっている。
これはいよいよ人間卒業か、とどこか遠いところを眺めたくなりつつ、拓己は指先で軽く頬を掻いた。
「いや、知ってたっていうか……。その、夢で妹に言われたんです。これからオレが戦うことになる化け物が、めちゃくちゃデカくてうるさいタイプだから気をつけろ。オレはともかく、ほかの仲間たちには耳栓がいるぞ、って」
夢、と三隅が考える顔になる。
拓己に発現した『適合者』としての異能は、熱量支配。
しかし、現在七名しか確認されていない彼らが、これからどんなふうに成長していくものなのか、知る者はこの世界のどこにもいないのだ。
それゆえ、拓己は自分自身に関する変化については、どんな些細なことでも報告するよう言い含められている。
三隅が、慎重な口調で拓己に問う。
「フェンリル。妹さんは、ほかに何か言っていたかい?」
「え? あー……と。その化け物は、今は腹を空かせ過ぎてて砂の中で眠ってるけど、人間が近づいたら目を覚まして襲ってくるよ、って言ってましたね」
思い出しつつ返した言葉に、三隅はそうか、と頷いた。
「了解した。貴重な情報をありがとう」
「いや、ものすごくリアルな夢だったんで、一応報告はしましたけど……。やっぱ夢は夢なんで、的外れなことを言ってたらすいません」
陸上自衛隊の制服に身を包んだ三隅は、短く刈りこんだ髪と太い首、がっちりと鍛え上げられた体躯を持つ、堂々たる偉丈夫だ。
見るからに逞しく謹厳実直な下士官らしい雰囲気を持つ三隅が、ハルファスたちにとって信頼できる親代わりであり、同時に厳しい教官であることは知っている。
拓己にとっても、ネフィリムとの戦い方を一から教えてくれた師でもあるため、彼に『夢』という不確定過ぎる情報を告げるのは、些か申し訳なかった。
しかし、三隅は鷹揚に笑って応じる。
「的外れなんかじゃないさ。念のため、きみもイスラフィールタイプと遭遇した場合には、きちんとイヤープロテクターを装備するんだよ」
ここの大人たちはみな、拓己にはごく普通の子どもに対するような態度で接してくる。正直なところ、いきなり六花たちに対するような自衛隊仕様の振る舞いを求められても困ってしまうため、そのことについて文句はない。
ただ――。
(対応が普通の子ども仕様を通してくれるんだったら、コードネーム呼びもやめてくれたりはしないんだろうか……)
拓己に与えられた『フェンリル』というコードネームは、今の世界で最も大きな発言権を持つ『バエル』という組織が定めたものなのだという。
もしほかの『適合者』たちにも、同じような恥ずかしいコードネームを与えられているのだとしたら、いつか会うことが叶った際には、全力で彼らと愚痴り合いたいところだ。
(……うん。英語、もっと真面目に勉強しておけばよかった)
拓己以外の『適合者』がいるのは、アメリカ、GB、フランスとイタリア、そしてドイツ。
さすがにそのすべての言語を習得するのは不可能だろうが、せめて英語くらいは話せるようになっておきたい。
ありがたいことに、『ラオデキア』の図書室には語学系の教材が豊富に揃っている。残念ながら、今のところはいろいろと忙しすぎてそれらを手に取る時間もないけれど、余裕ができたならぜひ図書室通いをはじめたい。
(世界が壊れるまでは、英語なんて受験科目のひとつでしかなかったのになあ……)
そんなことをしみじみと考えていると、隣に座っていた冬騎が軽く背中を叩いてきた。
「ぼーっとしてんなって。イヤープロテクター、ちゃんとすぐ出せるようにしておけよ?」
「え? あ、おう。……って、どこにしまったっけ」
幼い頃から戦闘訓練を重ねてきたハルファスたちと違い、拓己は装備品の管理が得手ではないのだ。いくつもポケットのあるウエストバッグをあれこれいじっていると、冬騎が呆れた顔で言ってくる。
「左から二番目のファスナーポケット」
「……あ、ホントだ。あった、あった」
プラスチックケースに入ったイヤープロテクターを無事に確認し、へらりと笑う。
「サンキューなー」
冬騎が、じっとりと半目になる。
「なんでおまえの装備品を、おれのほうが把握してんだ。いつまで経っても朝のベッドメイキングも適当だし、片付け下手過ぎか」
そんなことを言われても、だ。
「オレはおまえらと違って、朝起きたらすぐにベッドを片付ける生活なんてしてなかったの! これでも、だいぶがんばってるほうなんですー!」
自衛隊仕様の魔法のようなベッドメイキングなど、そう簡単にできてたまるか。ベッドなど、夜寝るまでにそれなりに整っていれば、問題ないのだ。
しかし、冬騎は肩を竦めてハッと笑った。
「そういうことは、寝ぼけて洗顔料で歯磨きをしたり、うっかりドアノブを握り潰したり、食堂のトースターの順番待ちがいやだからって、コッソリ異能でパンを温めようとして灰にした挙げ句、スプリンクラーで水浸しになったりしなくなってから言えや」
「怒濤の正論パンチはひどいと思う! ていうか、トースターの順番待ちは、今はちゃんとしてるし! やったの一回だけなのに、何度も同じことしているような言い方、やめてくれる!?」
拓己の青少年の主張に、冬騎がすんっと真顔になる。
「おれはもう二度と、食事時にスプリンクラーの直撃を受けたくないんだ。よって、おまえが同じ過ちを繰り返さないようにするための努力は、一切惜しまないことにしている」
「すいませんでしたァー!」
あの日保護されて以来、上手く体を動かせなかった拓己のサポート役として、冬騎はずっとそばについてくれている。それはつまり、拓己が何かやらかすたび、その被害を必ず受けているということだ。
(うぅ……っ。そういえばあのときの飯は、でっかい鱒のグリルがメインで、冬騎がめっちゃ楽しみにしてたやつだった気がする……。狼って、みんな肉が好きってわけじゃないんだな……)
なんにせよ、食いものの恨みを買うような真似は、極力避けておくのが賢明なのだろう。
拓己は、そっと息を吐く。
――今回、自分たちが『ワダツミ』へ向かう第一の理由は、完全抗体の素体となる拓己の血液を、あちらへ運ぶためである。
だが、もうひとつ。
拓己にとって、非常に小さな可能性ではあるけれど、決して無視できない事実を提示されたのだ。
大崩壊の当時、生き残った子どもたち。
彼らの多くは心と体に傷を負い、いまだ日常生活に戻ることができずにいる者も多い。
そして、『ワダツミ』に収容された子どもたちの中には、沙弥と同じ年頃の少女たちもいるという。
意識不明の重体である者も含め、彼女たちの顔写真は可能な限り確認したけれど、カメラを向けられることにさえ怯えて、写真を撮ることが叶わなかった少女も数名いるらしい。
……おそらく、彼女たちの中に沙弥はいない。
だが、たとえどれほどあり得ない可能性であっても、それがゼロではない以上、拓己は直接確かめにいかなければならないのだ。
『ワダツミ』に沙弥がいないということが確認されれば、今後はほかの可能性に目を向けるだけでいいことが、間違いなく確定するのだから。
(ったく……。オレのことばっかじゃなくて、ちゃんと自分のことも話せっての……)
夢の中で、拓己の心配ばかりしている妹は、いったいどこにいるのだろう。
それを教えてくれたなら、今すぐにでも迎えにいくのに。
今の自分には、それだけの力が充分に備わっているのに――。
(……無事で、いろよ)
沙弥と離ればなれになって、もう一年だ。
彼女が生きていることだけは、今も疑いようのない確信としてこの胸にある。
ならば沙弥は、いずれどこかのシェルターに保護されているはずだ。
そしてすべてのシェルターには、沙弥のことは通達してある。
現在、アジアで唯一確認されている人類の希望、『フェンリル』。
その双子の妹であり、大崩壊の当時砂にもネフィリムにも変じることがなかった、おそらく『適合者』である、もうひとりの人類の希望。
彼女に関する情報であれば、どんな些細なものであっても、すぐに『ラオデキア』に共有されるはずだった。
なのに、いまだにそういった情報は入ってきていない。
今回の『ワダツミ』からの情報だって、あり得ないとわかったうえでの一応の確認、という程度のものだ。
……本当は、この旅の先に、沙弥はいないとわかっている。
それでも、行かなければならない。
もしかしたら広い海に繋がる『ワダツミ』で、沙弥の消息に繋がる新たな発見があるのかもしれないのだから。




