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第6話 四人目の役割

 低音喰鬼が消えたあとも、ライブハウスの空気はすぐには軽くならなかった。

 入口を塞いでいた歪みは消えている。倒れていた客も少しずつ起き上がり始めている。なのに、箱の底にはまださっきまで開いていた怪物の腹の気配が残っていた。床板の隙間や、壁際の黒ずみや、スピーカーの下の影に、嫌な湿り気だけが貼りついている。

 弦はレスポールを下ろし、息を整えた。

 肩が重い。腕はまだ少し痺れている。けれど立っていられる。蓮は壁に手をついたまま、肩で呼吸をしていた。駆はもうPA卓の横にしゃがみ込み、機材の画面を見ている。さっきまで怪物と向き合っていたのに、もう別の戦いに入っている顔だった。

 その誰より先に動いたのは、澪だった。

「照明、全部は戻さなくていい。前だけつけて。通路が見えれば十分」

 声が飛ぶ。

「立てる人から順番に外へ。急がせない。息が戻ってない人は座らせて。水、楽屋とフロア両方」

 現場スタッフがその声に引かれるように動き出す。

 若い男が客席前方へ走る。照明卓のスタッフがフェーダーを少しずつ上げる。楽屋口にいた女が、ペットボトルの入った箱を抱えて奥へ消える。

 澪は立ち止まらない。

「入口、一方向だけ開けて。戻ろうとする人は止めて。押し合いになるから」

 誰も「なぜ」と聞かない。

 聞く暇がないのもある。だが、それだけではない。いまこの場で何を先にやるべきかを、澪だけが迷わず知っている。そんな空気が、もうできていた。

 弦はその背中を見ていた。

 戦っていないのに、中心にいる。さっきの戦いの中でも思ったことを、もう一度思う。

 蓮が隣で、まだ少しかすれた声で言った。

「やっぱすごいな、あの人」

「ああ」

 弦は短く答えた。

 すごい、という言葉だけでは少し足りない。鋭い。冷たい。現実的。全部ある。現場を立て直すために必要なものを、最初から順番に持っている感じだった。

 楽屋口の前で、スーツ姿の男が澪に食い下がっていた。アイドル側のマネージャーだろう。顔色が悪い。

「でも、このあと特典会が――」

「今日はやりません」

 澪は間を置かずに言った。

「ここで無理を通したら、会場ごと駄目になります」

「しかし、客への説明が」

「説明は後。先に倒れた子たちを戻してください。立てるか、飲めるか、吐くか、その三つだけ見て」

 男はまだ何か言いたそうだったが、楽屋の方で若いスタッフが「一人また座り込んだ!」と叫ぶのを聞いて、慌ててそちらへ走った。

 澪はその背中を追わない。代わりにフロア全体を見回した。客の顔色、歩く速さ、照明の落ち方、出口付近の詰まり方。その全部を一度に見ている目だった。

「物販、閉じて」

 今度は別のスタッフへ言う。

「返金の案内は出口でまとめて。フロアに戻らせないで」

 声は大きくない。怒鳴っているわけでもない。なのに、通る。必要な言葉だけで足りているからかもしれない。

 蓮が小さく笑った。

「情より先に実務やな」

「でも助かるのはああいう人だろ」

 弦が言うと、蓮は「そらそう」と頷いた。

 駆が立ち上がった。端末を見たまま、短く言う。

「……最初と、途中で違った」

 弦がそちらを見る。

「何が」

「音の寄り方」

 駆は少しだけ言葉を探すように間を置いた。

「最初は床に張りついてた。スピーカーの下とか、そういう低いところに」

「途中は?」

「人に来た。ざわついた時から、そっちへ移ってた」

 蓮が顔をしかめる。

「客の方へ寄ってったってことか」

「たぶん」

 駆はそう言って、画面を閉じた。

「同じままじゃない」

 その一言だけで十分だった。

 弦はフロアを見る。まだ完全に落ち着いたわけではない。何が起きたのか分からず、呆然としている顔がいくつもある。ああいう空気ごと喰うものがいるのなら、音の出し方ひとつで結果が変わる。さっき澪が手拍子へ切り替えさせたのも、そのためだったのだろう。

 澪が戻ってきた。黒いジャケットの袖をひと折りして、首から下げていたスタッフパスを外している。ようやく一息ついたように見えるのに、目だけはまだ止まっていない。

「大きい怪我はなさそう」

 第一声がそれだった。

「救急車は呼ばなくて済む。過呼吸と失神で収まってる。記憶も少し曖昧になるはずだから、変に思い出させない方がいい」

「慣れてるな」

 蓮が言う。

 澪は少しだけ眉を動かした。

「慣れたくて慣れたわけじゃない」

 その返しは淡々としていたが、少しだけ棘があった。

 弦は聞いた。

「こういうの、前にもあったのか」

 澪はすぐには答えなかった。フロアの奥で、ようやく笑った客が一人いた。別の場所ではまだ吐き気をこらえている顔もある。その差を見てから、ようやく口を開く。

「見えたのは初めて」

 それから、言葉を足した。

「でも、説明のつかない崩れ方は何度かあった。急に会場の空気が死ぬ感じとか。音響事故にしては倒れ方がおかしい日とか」

「それで俺らに連絡した」

「高野さんの名前を、前に聞いてたから」

 蓮が「俺やな」と胸を指す。

「勘、当たってよかったわ」

「そうね」

 澪はあっさり認めた。

「思ったより、ちゃんと異常だった」

 その言い方に、弦は少しだけ口元を緩めた。怪異を前にしてちゃんと異常というのも変な話だ。だが澪の口から出ると、妙に現実に足がつく。

 客席の方から、ぱち、と拍手がひとつ鳴った。

 助かったことへの反射なのかもしれない。だがその拍手は広がらない。みんなまだ、自分が何から戻ってきたのか分かっていない顔をしている。

 澪がそちらを見て、小さく言う。

「いまは盛り上げなくていい」

「厳しいな」

 蓮が笑う。

「戻りきってないのに、上げるとまた崩れる」

 澪はそう言ってから、蓮と弦と駆を順番に見た。

「あなたたち、いつもああいうふうにやってるの?」

 弦が聞き返す。

「いつもって」

「戦いながら、会場まで抱えるやり方」

 少し言葉を選ぶような間があった。

「今日みたいに、敵だけ見てたら勝てる場面ばかりじゃないでしょ」

 蓮が壁から身体を離した。

「今日のは初仕事やからな。正直、そこまで考える余裕なかった」

「見てれば分かる」

 澪の言葉は容赦がない。

「三人とも前しか見てない。前を見る役が必要なのは分かる。でも、前しか見てないなら誰が箱を見るの」

 その場が少し静かになった。

 弦は反論できなかった。悔しいが、その通りだった。客の呼吸も、照明も、逃げ道も、全部澪が見ていた。自分たちは怪物の顔しか見ていない。

 駆が言う。

「会場の拍を戻したのも、あんただった」

 澪は肩をすくめる。

「戻すところまでやらないと、現場は終わらないから」

 それは当たり前のようでいて、自分たちにはまだ抜けていた視点だった。

 蓮が顔を上げる。

「……あんた、要るな」

 澪は少しだけ目を細めた。

「何に」

「俺らに」

 蓮は笑わないまま言った。

「マネージャー」

 その言葉が空気に落ちる。

 弦もそれを聞いて、妙にすんなり納得した。バンドのマネージャーという言葉で足りるのかは分からない。けれど、いまのところそれがいちばん近い。

 澪はすぐには答えなかった。

 ライブハウスのフロアをもう一度見回す。スタッフが客を出口へ流し始め、照明は少しだけ明るくなり、さっきまで座り込んでいたアイドルの一人が水を飲んでいる。その全部を確かめてから、ようやくこちらへ向き直る。

「無理」

 きっぱり言った。

「いきなり身内みたいに組むつもりはない」

 蓮が「即答やな」と苦笑する。

 澪は続けた。

「私は現場の人間。箱を回すのが仕事。あなたたちは……まだそこが混ざりきってない。音楽をやりたいのか、怪異を追いたいのか、その両方なのか。そこが曖昧なままなら、私は組まない」

 弦はその言葉を、少し痛いところへ刺された気分で聞いた。

 音楽をやりたい。怪異も見過ごせない。両方だ。だが、本当に両方やる覚悟があるのかと聞かれたら、たしかにまだ口ごもる。

 蓮は一歩だけ前へ出た。

「両方やる」

 迷いなく言う。

「中途半端には見えるやろうけど、それでも両方やる。どっちか捨てたら、多分俺らの音は変になる」

 澪は黙っている。

 弦も口を開く。

「俺もだ」

 レスポールのケースに手を置きながら言った。

「音楽だけやるなら、今日みたいな現場に首突っ込む必要はない。でも、見た以上、知らないふりは無理だ。だから両方やるしかない」

 駆も最後に言った。

「分けて考える方が危ない。相手は音を使ってる」

 短いが、駆なりの答えだった。

 澪は三人の顔を順番に見た。値踏みというより、嘘がないかを見ている目だった。しばらく黙ったあとで、小さく息を吐く。

「……じゃあ、条件」

 蓮の顔が少し明るくなる。

「早いな」

「まだ受けてない」

 澪は釘を刺した。

「条件を守るなら、しばらく見る」

「何でもどうぞ」

 蓮が勢いよく言うと、澪は指を一本立てた。

「勝手に現場を増やさない」

 二本目。

「無理なライブを受けない」

 三本目。

「戦いの最中に勝つことだけで突っ走らない。戻すところまで考える」

 そこで少しだけ間を置いて、最後に言う。

「私の判断で止めた時は、止まること」

 蓮が「最後だけ重いな」と小さく言った。

「命に関わるから」

 澪の返しは即答だった。その重さに、誰も笑わなかった。

 弦は頷いた。

「分かった」

 蓮も続く。

「俺も」

 駆は短く、「異論ない」と言った。

 澪はそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ、今日から仮」

「仮マネージャー?」

 蓮が聞く。

「現場マネージャー兼、監視役」

「監視役って言い方」

「その方が近いでしょ」

 弦はその言い方が少しおかしくて、思わず笑った。

 身内になる、という柔らかい言い方ではない。けれど、その距離感の方がこの人らしい。いきなり近づかない。必要な分だけ入ってくる。たぶん、それが信頼できる。

 フロアの片付けが少しずつ進んでいた。スタッフがケーブルをまとめ、床の水を拭き、出口で返金の案内をしている。さっきまで戦場だった場所が、また普通のライブハウスへ戻ろうとしている。

 澪が言った。

「今日はここまで。あとは向こうで回せる」

「向こうって」

「現場」

 当たり前みたいに言って、それから少しだけ視線をやわらげる。

「あなたたちも帰って。いまここに残る理由はもうない」

 それは、追い出しているようでいて、労っている言い方でもあった。

 蓮が伸びをする。

「じゃあ帰るか、仮の人」

「その呼び方はやめて」

 澪は即座に言った。

 駆がぼそりと付け加える。

「長い」

「じゃあ何て呼べばいいんだ」

 蓮が聞くと、澪は少しだけ考えてから答えた。

「澪でいい」

 それだけで十分だった。

     

 ライブハウスを出ると、渋谷の夜気が頬に当たった。

 地下の熱がまだ身体に残っているせいで、外の空気が少し冷たく感じる。車の音。信号待ちのざわめき。コンビニの自動ドア。いつもの街の音が、さっきまでの戦いとは何も関係ない顔で流れていく。

 四人はしばらく、並んで歩いた。

 まだ誰も多くは喋らない。けれど、沈黙が気まずくはない。さっきまでいなかった四人目が、もう歩幅の中に入っている。その感じだけがあった。

「腹減った」

 最初に言ったのは蓮だった。

「急に普通だな」

 弦が笑う。

「戦ったら腹減るやろ。真言もカロリー使うんや」

「そんな理屈あるのか」

「ある。たぶん」

 澪が、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。

「糖分は要る」

 不意にそう言ったので、三人とも少しだけそちらを見る。

「あるんや、その理屈」

 蓮が言う。

「ある。現場のあとに水分と糖分は要る」

 澪はいつもの調子で答える。真顔のままなのに、言っていることだけ少し生活感があった。

「何その、救護室みたいな言い方」

「間違ってないでしょ」

 言い返しながら、澪はちょうど通りかかったコンビニの明かりをちらりと見た。その視線が妙に速かったので、弦は少しだけ可笑しくなる。

「寄るか」

 弦が言うと、澪は即答しなかった。

 一拍だけあってから、

「……五分なら」

 と言う。

「何やねん、その会議通したみたいな返事」

 蓮が笑う。

「現場の人間やからな」

 弦がそう返しながら、自動ドアをくぐった。

     

 店を出る頃には、蓮の手にはおにぎりが二つ、駆の手には水、弦の手には缶コーヒーがあった。澪は小さいスプーンをつけたプリンのカップを持っていた。

「やっぱ甘いもんやん」

 蓮がすぐ言う。

「糖分補給」

「便利やな、その言葉」

「事実だから」

 澪はまったく崩れない。けれどプリンを持つ指先だけが、さっきより少し力を抜いていた。

 店の前の壁際で、四人は立ったまま少しだけ食べることにした。渋谷では、座る場所を探す方が面倒な時がある。

 蓮が包装を剥がしながら言う。

「しかし、マネージャー初日で怪物対応って、労働条件終わってるな」

「初日じゃない。まだ仮」

 澪はそう言って、スプーンでプリンをひと口掬った。そこでようやく、少しだけ人間らしい顔になる。ほんの一瞬だけだが、緊張がほどけるのが見えた。

「仮でも十分すごかったけどな」

 弦が言うと、澪はプリンを飲み込んでから視線だけ寄越した。

「あなたたちが前しか見てなかったからでしょ」

「言い方」

 蓮が笑う。

「でもまあ、その通りやな」

 駆は前を向いたまま言った。

「近くに二十四時間の店がある」

「案内早いな」

「この辺の動線は把握してる」

「忍者か」

「忍者だ」

 そのやり取りに、弦は少し笑った。笑いながら、ふと澪の手元を見る。プリンの蓋を持つ指が、ほんのわずかに震えていた。寒さのせいではない。地下で張っていたものが、いま少しだけ遅れて抜けているのだと分かった。だが澪は気づかれたくない顔をしていた。気づかれたくないというより、そこに触れられるのを嫌がる顔だった。

 弦は何も言わない。ただ、さっきまで現場の中心で立っていたこの人も、平気なわけではないのだと、その時初めて少しだけ実感した。

 夜の街は相変わらず無関心だ。だがその無関心の中に、一つだけ新しい線が引かれている気がした。三人だった線に、もう一本加わったような。まだ細い。けれど、簡単には消えない線だった。

     

 その少しあと。

 渋谷の別の路地、ネオンの届かない壁際で、ミストはスマートフォンを耳に当てていた。

 黒いロングコートの裾が夜気に揺れる。白いヘッドフォンは首に落ちている。通話の向こうから聞こえてくるのは、人の声ではない。低く擦れるようなノイズだ。

「ええ」

 ミストは言った。

「増えました」

 少しだけ目を細める。

「ギター、ラッパー、DJ。それに、箱を見る女」

 向こうで、低い音が一度だけ鳴った。

 ミストはそれを聞いて、小さく頷く。

「厄介ですね。前しか見ていなかった三人に、周りを見る役がついた」

 街の音が遠くで鳴っている。タクシー。笑い声。看板の電源音。その全部の底に、まだ薄いノイズが流れていた。

「はい。こちらも変えます」

 ミストの声には熱がない。

「もう、同じやり方は通らないでしょうから」

 通話が切れる。

 ミストはスマートフォンを下ろし、少しだけ空を見た。ビルに切り取られた狭い夜空の上を、雲が速く流れていく。

「四人目、ね」

 その声は独り言だった。だが、少しだけ楽しそうでもあった。

 ミストは踵を返し、渋谷の暗がりへ溶けていく。黒い影はすぐに人混みへ紛れ、あとには夜の雑音だけが残った。


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