第4話_悪魔の契約アプリに同意しました
その日、真央直樹は自由を失った。
悪魔の契約アプリが告げる。
従え。
逆らうな。
命令を実行せよ。
仔悪魔アイの一言が、直樹の運命を支配する。
「ダーリン、掃除して!」
「はい、魔王様」
直樹は無表情で雑巾を手に取った。
「ダーリン、宿題して!」
「はい、魔王様」
直樹は無表情でノートを開いた。
「ダーリン、早く起きて!」
「はい、魔王様」
直樹は無表情で布団から起き上がった。
「ダーリン、世界征服して!」
「はい、魔王様」
直樹は無表情で地球儀に付箋を貼った。
そして、仔悪魔アイは最後の命令を下す。
世界を震わせる、恐るべき悪魔の宣告。
「ダーリン、ドラ焼き百個買ってきて!」
「それだけは命令じゃなくて請求だぁぁぁ!」
直樹の叫びが、暗いサスペンス空間を粉々に叩き割った。
「あと俺は魔王様なんて呼ばない! 呼ぶならせめて自分の名前で呼ぶ! いや、そもそも命令に従わない!」
「でもダーリン、掃除と宿題はしたほうがいいと思う」
「そこだけ正論を混ぜるな!」
ナレーションはなおも続けようとした。
契約に縛られた少年。
命令を覚えた仔悪魔。
失われる自由。
増えていくドラ焼きの請求。
次回、悪魔契約サスペンス――。
「サスペンスにするな! 命令の半分が家事と宿題で、残り半分が悪魔の私欲だ!」
そこで、現実に戻る。
真央家の朝。
直樹は自室の床に座り、スマホ画面を見て固まっていた。
画面には、赤黒い通知。
『アップデートがあります』
『新機能:契約者サポート命令機能』
『同意しますか?』
『今すぐ同意』
『あとで同意』
『同意したことにする』
直樹は沈黙した。
長い沈黙だった。
そして、震える指で画面を指さした。
「選択肢が全部、同意に向かってる」
隣でアイが、ぱあっと目を輝かせた。
「ダーリン、便利そう!」
「便利じゃない! これは選択肢のふりをした強制スクロールだ!」
「でも、契約者サポート命令機能だよ? アタシがダーリンをサポートできるんだよ?」
「命令って書いてある時点でサポートじゃない!」
「命令型サポート?」
「一番嫌な組み合わせ!」
アイはスマホをのぞき込み、興味津々で言った。
「押してみる?」
「押さない」
「ちょっとだけ」
「押さない」
「人間界では、こういうの試して覚えるんでしょ?」
「覚えなくていい! 悪魔アプリは触らず、読まず、同意せず!」
直樹はスマホを机の上に置き、両手を離した。
「よし。このまま何もしない。無視する。通知は見なかった。アップデートは存在しない」
「ダーリン、現実逃避が上手になってきたね」
「お前が鍛えたんだよ!」
その瞬間。
スマホが、ぴこん、と鳴った。
『一定時間操作がなかったため、同意したことにしました』
直樹は、ゆっくりと画面を見た。
アイも見た。
部屋の空気が止まった。
「……同意の概念を壊すなぁぁぁ!」
真央家の朝に、直樹の叫びが響いた。
階下から母・真実の声がする。
「直樹ー、朝から元気ねー」
「元気じゃない! 法的に不安なだけだ!」
アイはスマホを両手で持ち、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日から命令機能スタートだね!」
「スタートしない! 今すぐアンインストールだ!」
『アンインストールには、契約解除手続きが必要です』
「先回りするな!」
契約アプリは赤黒く光っている。
その画面には、新しい文字が表示されていた。
『契約者サポート命令機能:有効』
『対象:真央直樹』
『命令者:天満アイ』
『有効期間:本日いっぱい』
『安全フィルター:一応あり』
「一応って何だ、一応って!」
直樹の平穏な一日は、起床前から終了した。
悪魔よりも、契約アプリのほうが悪魔的である。
* * *
スマホの画面には、赤黒い文字が表示されていた。
『一定時間操作がなかったため、同意したことにしました』
直樹は、スマホを見た。
アイを見た。
もう一度スマホを見た。
「同意の概念を壊すな!」
真央家の朝に、直樹の絶叫が響いた。
アイは目を輝かせている。
「ダーリン、便利になったね!」
「便利の基準が悪魔!」
「だって、押さなくても進んでくれるんだよ?」
「それは親切じゃなくて罠だ! 人間界では、押してないボタンは押してない扱いなんだよ!」
「魔界では?」
「聞きたくないけど聞いてやる。魔界では?」
「読んでなくても、燃えてなくても、逃げても、契約書が追いかけてきたら同意」
「怖すぎる!」
直樹はスマホを裏返し、机の上に伏せた。
「見ない。俺はもう見ない。見なければ更新は進まない」
ぴこん。
伏せたスマホから、軽快な通知音が鳴った。
「伏せても鳴るな!」
画面を戻すと、更新バーが勝手に進んでいた。
『アップデート中……六六六%』
「パーセントの限界を超えるな!」
「さすが魔界アプリ、やる気が違うね」
「やる気じゃない。バグだ」
更新バーが最後まで進む。
スマホの画面が一瞬だけ真っ暗になった。
そして、やたら重々しいファンファーレが鳴る。
『契約者サポート命令機能が追加されました』
直樹は、すでに目が死んでいた。
「追加しなくていい機能が追加された……」
画面には、続けて詳細が表示される。
『契約者サポート命令機能』
『対象:真央直樹』
『命令者:天満アイ』
『有効期間:本日いっぱい』
『安全フィルター:一応あり』
直樹は最後の一行を指さした。
「一応って何だ、一応って!」
アイは首をかしげる。
「安全なんじゃない?」
「一応ってついてる安全は安全じゃない!」
「でも、フィルターあるよ?」
「穴の空いた傘も、傘ではあるんだよ!」
アイは感心したようにうなずいた。
「ダーリン、人間界のたとえ、わかりやすいね」
「褒めるところじゃない!」
直樹は画面をスクロールした。
そこには、細かい注意事項がびっしり並んでいる。
『本機能は契約者の生活を円滑に補助するためのものです』
『命令者の発話を自動判定し、必要に応じて契約者の行動を支援します』
『本人の意思は、可能な範囲で尊重されます』
「可能な範囲って何だ!」
『ただし、魔界実習上必要と判断された場合はこの限りではありません』
「限れ!」
直樹は必死に解除ボタンを探した。
しかし画面下には、謎のボタンが三つ並んでいる。
『この機能を楽しむ』
『あとで楽しむ』
『楽しんだことにする』
「楽しむ前提をやめろ!」
アイはにこにこしながら、スマホをのぞき込む。
「ダーリン、これでアタシの実習がはかどるね!」
「はかどらせるな。俺の人生を実習教材にするな」
「でも、命令者がアタシで、対象がダーリンって書いてあるよ?」
「書いてあるからこそ怖いんだよ!」
直樹は深呼吸した。
落ち着け。
こういうときこそ冷静になるべきだ。
まずは機能を使わせない。
アイに余計なことを言わせない。
スマホを触らせない。
それだけ守れば、今日一日なんとかなる。
「アイ」
「なあに?」
「今からお前は、命令っぽいことを一切言うな」
「わかった!」
「本当だな?」
「うん!」
「絶対だな?」
「うん!」
アイは満面の笑みで言った。
「じゃあダーリン、早く支度して!」
スマホが、ぴこん、と鳴った。
『命令を受理しました』
直樹は天井を見上げた。
「終わった……」
契約アプリは、朝から全力で仕事を始めていた。
* * *
『命令を受理しました』
スマホから、やけに事務的な音声が流れた。
直樹は固まった。
アイも固まった。
そして、真央直樹の部屋が動いた。
「え」
まず、床に置いてあった通学鞄が勝手に開いた。
教科書が飛ぶ。
ノートが飛ぶ。
筆箱が飛ぶ。
昨日のプリントが飛ぶ。
なぜか、カップ麺のふたまで飛んだ。
「それは入れるな!」
直樹が叫んだ瞬間、制服のシャツのボタンが、ぱぱぱぱぱっと勝手に留まった。
「うわっ、何だこれ!」
続いて、ネクタイが首に巻きつく。
鏡星学園の制服ジャケットが肩に飛び込んでくる。
片方の靴下が右足へ。
もう片方の靴下が左足へ。
ただし、左右逆。
「早いけど雑!」
直樹は足元を見て絶叫した。
鞄の中では、教科書が曜日順ではなく、なぜか重さ順に並んでいる。
弁当箱は入っていない。
代わりに、ドラ焼きの空き袋が丁寧にファイルへ挟まれていた。
「思い出を保存するな!」
アイはぱあっと目を輝かせた。
「すごい! ダーリンが一瞬で学校に行ける状態になった!」
「なってない! 生活が雑に梱包されただけだ!」
そこへ、部屋のドアが開いた。
遊羅が顔をのぞかせる。
「お兄ちゃん、今の音なに?」
そして、勝手に動く鞄と、左右逆の靴下を見て、目を輝かせた。
「わあ! お兄ちゃん、魔法の朝支度だ!」
「感動するな! これは便利機能じゃなくて生活事故だ!」
「いいなあ。私もやってほしい」
「絶対にやめとけ。たぶんリコーダーと体操服が同じ袋に入るぞ」
「それはちょっと困る」
階下の台所から、母・真実ののんびりした声が聞こえてきた。
「あら、便利ねえ。直樹、毎朝それで支度したら?」
「便利じゃない! 俺の生活がアプリに外注された!」
「時代ねえ」
「母さん、時代の受け入れ幅が広すぎる!」
スマホ画面には、追加の表示が出ていた。
『支度完了率:八十二%』
『改善点:靴下左右、弁当未収納、契約者の精神的同意不足』
「最後が一番重要だろ!」
アイはスマホを見ながら、にこにこしている。
「でも、すごくない? 命令するだけでダーリンの支度ができるんだよ」
「命令じゃなくて、俺に普通に支度させろ」
「じゃあ次は、もっと軽いやつ」
「やめろ。今すぐやめろ」
アイは自分の制服のリボンをつまんだ。
今朝も、見事に曲がっている。
「ダーリン、アタシのリボン直して!」
スマホが、ぴこん、と鳴りかけた。
直樹は反射神経だけでスマホをつかんだ。
「それは普通に自分でやれ!」
『命令受理を保留しました』
「保留でも怖い!」
アイは頬をふくらませた。
「えー。ダーリン、冷たい」
「冷たくない。これは人間界の自立支援だ」
「仔悪魔にも自立って必要?」
「必要だ。まずリボンから始めろ」
遊羅が横から手を伸ばす。
「アイお姉ちゃん、私が直してあげる」
「ほんと? ありがと、遊羅ちゃん!」
「妹を命令機能の代替にするな!」
遊羅がアイのリボンを直しているあいだ、直樹は必死に靴下を履き直し、鞄の中からカップ麺のふたとドラ焼きの空き袋を取り出した。
アプリは、まだ画面の隅で点滅している。
『契約者サポート命令機能:正常稼働中』
「正常って何だろうな……」
直樹は遠い目をした。
アイはリボンを直してもらい、満足そうにくるりと回る。
「どう? ダーリン」
「うん。リボンは普通になった」
「じゃあ、次はダーリンの髪も――」
「命令っぽい発話をするな!」
スマホが小さく鳴った。
『命令候補を検出しました』
「候補で検出するな!」
真央直樹の朝は、まだ玄関にもたどり着いていない。
だが、すでに一日ぶんの疲労は、きっちり支度されていた。
* * *
真央直樹は、朝からすでに疲れていた。
鞄は勝手に準備された。
靴下は左右逆に履かされた。
ドラ焼きの空き袋は、なぜか思い出の品としてファイルに保存されかけた。
それでも、学校へ行かなければならない。
高校生とは、つらい職業である。
「ダーリン、待って!」
後ろからアイの声がした。
次の瞬間。
直樹の身体が、ぴたりと止まった。
「……え?」
片足を前に出したまま、動けない。
まるで一時停止ボタンを押された動画である。
スマホが、ぴこんと鳴る。
『命令を受理しました』
『待機モードに移行します』
「待機するな!」
アイが慌てて駆け寄ってくる。
「あ、ごめん。今のただの“待って”だったんだけど」
「ただの“待って”で人間を停止させるな!」
「ダーリン、動いていいよ!」
『命令を受理しました』
『待機モードを解除します』
直樹の身体が動く。
「俺の再生ボタンをお前が握るな!」
アイは申し訳なさそうに笑った。
「じゃあ、気をつけるね」
「本当に頼むぞ」
「うん。じゃあ、早くして!」
直樹の足が勝手に地面を蹴った。
「うおおおおお!?」
『命令を受理しました』
『高速移動補助を開始します』
「開始するな!」
直樹は通学路を全力疾走しかけ、電柱の手前でなんとか踏みとどまった。
アイが後ろから追いかけてくる。
「ダーリン、速い!」
「お前が言ったんだろ!」
「すごいね、命令機能!」
「すごくない! 通学路で全力疾走は朝から目立つ!」
近くを歩いていた小学生が、直樹を見上げた。
「お兄ちゃん、遅刻?」
「違う。人生の制御権を失ってるだけだ」
「もっと大変そう」
「大変だよ!」
アイが横に並び、今度は慎重そうに前を指さした。
「ダーリン、こっち来て」
スマホが鳴った。
『命令を受理しました』
『最短ルートを算出します』
直樹の視界に、なぜか赤黒い矢印が浮かぶ。
その矢印は、まっすぐ住宅の塀を指していた。
「徒歩通学に最短ルート最適化を入れるな!」
『障害物:塀』
『越境ルートを提案します』
「提案するな! 不法侵入だ!」
「ダーリン、塀越えられる?」
「越えない!」
直樹は必死に塀から離れた。
スマホの画面には、しぶしぶといった感じで別ルートが表示される。
『通常通学路を選択しました』
『効率:低』
「人間の社会性を効率で否定するな!」
そのとき、前方から美咲が歩いてきた。
スポーツバッグを肩にかけ、いつものようにきびきびした足取りだ。
彼女は直樹の様子を見て、一瞬で顔をしかめた。
「またアプリ?」
「またアプリだ!」
直樹の返事は、魂の叫びだった。
美咲はアイを見た。
「アイ、命令で直樹を動かすのはだめでしょ」
アイは少しむっとする。
「でも、契約者サポート機能だもん。ダーリンの生活を助けるための機能だよ?」
「サポートなら、本人の嫌がることをしないの」
美咲の声は、いつもより少し厳しかった。
アイは言い返そうとして、口を閉じる。
「……でも」
「でもじゃない。直樹が困ってるでしょ」
直樹は思わず美咲を見た。
「美咲……」
「何よ」
「今だけは、ものすごくまともに見える」
「今だけって何よ」
「普段もまともになってくれたら助かる」
「助けるのやめるわよ」
「すみませんでした」
美咲はため息をつき、直樹の前に立った。
「とにかく、学校に着くまで余計な命令は禁止。直樹、ちょっと止まりなさい」
ぴこん。
直樹の身体が、その場で完全に硬直した。
美咲の顔から血の気が引いた。
「ごめん、今の命令扱いなの!?」
「幼なじみまで命令者側に回るな!」
『周辺発話を命令候補として検出しました』
『発話者:佐藤美咲』
『命令権限:未登録』
『ただし契約者との関係性:幼なじみ枠』
『一時的に補助命令として処理しました』
「幼なじみ枠を権限にするな!」
美咲は慌てて直樹の肩をつかむ。
「動いていいわよ!」
『命令を受理しました』
直樹の身体が動く。
勢い余って一歩前に出た。
美咲とアイが同時に手を伸ばす。
「危ない!」
「ダーリン!」
直樹は二人に支えられる形で止まった。
通学路の真ん中で、妙な三人組の完成である。
通りすがりの生徒たちが、ひそひそ話す。
「真央、朝から何してるの?」
「また契約?」
「今度は幼なじみも巻き込まれてる」
「実況するな!」
美咲は額を押さえた。
「……これ、想像以上に面倒ね」
「今わかったか」
「アイ」
美咲が改めてアイを見る。
「命令じゃなくて、お願いにしなさい。少なくとも、直樹が嫌がってるときは止めること」
アイは少しだけ唇を尖らせた。
けれど、さっきよりは素直にうなずいた。
「……わかった。気をつける」
直樹はほっと息を吐いた。
「よし。じゃあ、このまま普通に学校へ――」
アイが、にこっと笑う。
「ダーリン、お願い。学校まで一緒に歩いて?」
スマホは鳴らなかった。
直樹は一瞬だけ黙る。
「……それは、勝手についてくればいいだろ」
「うん!」
アイは嬉しそうに隣へ並んだ。
美咲はその様子を見て、少しだけ面白くなさそうに目を細める。
「直樹、ちょっと離れなさい」
ぴこん。
直樹の身体が半歩横へずれた。
「美咲ぃぃぃ!」
「あ、ごめん! また命令っぽかった!」
こうして三人は、何度も停止し、動き、横へずれ、最短ルートを拒否しながら、ようやく学校へ向かった。
いつもの通学路は、今朝だけ悪魔アプリのデバッグ現場になっていた。
* * *
学校に着いた時点で、直樹はすでに一日を終えた顔をしていた。
登校中に止まった。
走らされた。
塀を越えさせられかけた。
美咲の何気ない一言で硬直した。
人間は朝の通学路だけで、ここまで疲れることができる。
それを証明した男。
真央直樹である。
「……今日、もう帰っていいかな」
「まだホームルーム前よ」
美咲が即答した。
「現実を突きつけるな」
教室に入った瞬間、クラスメイトたちが一斉に振り向いた。
昨日の魔王騒動、そして今朝の命令アプリ騒動。
情報はすでに流れている。
誰が流したのかは分からない。
分からないが、だいたい教室というものは、秘密より噂のほうが先に席へ着いている。
「真央、命令されたら動くの?」
「動かない!」
ぴこん。
『否定反応を検出しました』
「検出しなくていい!」
「じゃあ宿題見せて」
「見せない!」
「購買でプリン買ってきて」
「自分で買え!」
「魔王様のときより便利そうだな」
「俺は便利アシスタントじゃない!」
クラスメイトたちは完全に面白がっていた。
アイは直樹の隣で、少し胸を張る。
「命令権は基本的にアタシだけだよ!」
「そこで誇るな」
「ダーリンはアタシの契約者だから」
「契約者を家電みたいに扱うな!」
男子のひとりが試しに言った。
「真央、座って」
ぴこん。
直樹の身体が勝手に椅子へ沈んだ。
「座った!」
「座るな俺!」
『周辺発話を命令候補として処理しました』
『命令内容:着席』
「候補で実行するな!」
別の女子が、笑いながら言う。
「じゃあ、立って」
ぴこん。
直樹が立ち上がる。
「立った!」
「だから俺の動作確認をするな!」
クラスメイトたちの目が輝いた。
まずい。
この空気は、完全に新しいおもちゃを見つけた小学生のそれである。
「回って」
「やめろ!」
『命令権限不足』
「よし、回転は防いだ!」
「拍手して」
『命令権限不足』
「よし!」
「静かにして」
ぴこん。
直樹の口が動いた。
だが、声が出ない。
「――――!」
直樹は叫んでいる。
全力で叫んでいる。
しかし、音だけがない。
クラスメイトたちが一瞬固まり、次の瞬間、笑い出した。
「静かな真央、レア」
「ツッコミ字幕が必要」
「今たぶん“俺の声を返せ”って言ってる」
直樹は無音で机を叩いた。
ぱくぱくと口が動く。
だが、声は出ない。
美咲が眉を吊り上げた。
「ちょっと、笑ってる場合じゃないでしょ!」
アイも慌ててスマホをのぞき込む。
「え、えっと、どうすればいいの?」
直樹は無音で何かを訴える。
たぶん「お前が戻せ」と言っている。
アイはこくこくとうなずいた。
「わかった! ダーリン、声戻って!」
ぴこん。
『命令を受理しました』
『発声制限を解除します』
「俺の音量をアプリ管理するな!」
直樹の叫びが、教室いっぱいに戻った。
クラスメイトたちは拍手する。
「おかえり、真央のツッコミ」
「音あり版は迫力が違う」
「声量、正常」
「俺を動画設定みたいに言うな!」
美咲が教室を見回した。
「みんな、もうやめなさい。面白がって命令っぽいこと言わない」
「美咲が一番まともだ……」
「何よ、その珍獣を見たみたいな顔」
「いや、感動してる」
「じゃあ感謝しなさい」
ぴこん。
直樹の身体が勝手に美咲へ向かって軽く頭を下げた。
「今の“感謝しなさい”も拾うのか!」
美咲は青ざめた。
「ごめん!」
『謝罪を検出しました』
『契約者の精神的負担を軽減します』
スマホから、妙に明るい効果音が鳴る。
直樹の頭上に、小さな文字が浮かんだ。
『だいじょうぶ!』
「何が!?」
アイは両手をわたわたさせる。
「アプリ、思ったより何でも拾うね」
「今ごろ気づいたか!」
「じゃあ、みんな静かに――」
ぴこん。
直樹は反射的にアイの口を手でふさごうとして、寸前で止まった。
「今のも危ない! お前も命令っぽい言い方をするな!」
「むぐ」
「美咲、アイを止めてくれ。ただし“止まれ”は禁止!」
「注文が多い!」
そのとき、教室の後ろから小さな声がした。
「命令権限、興味深い」
宙である。
彼女はワラ人形を机の上に置き、じっと直樹を見ていた。
直樹は即座に指を突きつける。
「お前は何も言うな」
宙は首をかしげる。
「命令?」
ぴこん。
『命令候補を検出しました』
『発話者:真央直樹』
『自己命令として処理しますか?』
「俺の発言まで拾うな!」
クラスメイトたちはまた笑い出した。
しかし、ベル先生がまだ来ていない教室で、このままでは本当に全員が命令遊びを始めかねない。
直樹は机に手をつき、深く息を吸った。
「いいか、全員。今日一日、俺に向かって短い命令形で話すな。座って、立って、止まって、静かにして、走って、回って、買ってきて、見せて、全部禁止だ」
クラスメイトが手を挙げる。
「じゃあ、“プリンを購入していただけますか”は?」
「丁寧にすればいいって話じゃない!」
「お願いなら?」
アイが小さく言った。
直樹は一瞬だけ言葉に詰まる。
それから、少しだけ目をそらした。
「……内容による」
アイは、なぜか嬉しそうに笑った。
美咲はそれを見て、ほんの少しだけ不機嫌そうに腕を組む。
その空気を、クラスメイトが見逃すはずもない。
「お」
「命令よりお願いのほうが強い説」
「ラブコメ的には重要」
「分析するな!」
直樹が叫んだ瞬間、教室のドアが開いた。
白衣のベル先生が入ってくる。
「あら、朝から楽しそうね」
「楽しくありません!」
ベル先生は直樹のスマホ画面を見て、目を輝かせた。
「契約者サポート命令機能、もう稼働してるのね」
「先生、止めてください」
「もちろん。まずは挙動を確認してから」
「確認より停止!」
直樹の願いは、今日もまっすぐ届かない。
教室はすでに、悪魔契約アプリの実験場になっていた。
* * *
ベル先生が来たことで、教室は少し落ち着く。
はずだった。
普通の教師なら、生徒のスマホアプリが勝手に命令を受理している状況を見て、まず止める。
しかし、鈴鳴ベル先生は普通の教師ではない。
「これは面白いわね」
「面白くありません!」
「周辺発話を拾う。命令権限を判定する。未登録者の発話でも一部補助命令として処理する。なるほど、悪魔契約と音声アシスタントの中間みたいなものね」
「中間に置いちゃいけない二つを混ぜないでください!」
直樹は机にしがみついていた。
立てと言われれば立つ。
座れと言われれば座る。
静かにしろと言われれば声が消える。
つまり今の直樹は、教室にあるどの備品よりも操作されやすい。
そのとき、後ろの席で小さな声がした。
「実験したい」
「しなくていい!」
直樹は即答した。
だが、見上宙はすでに立ち上がっていた。
無表情。
無音。
そして、右手にはワラ人形。
「この子の命令は有効か」
「有効じゃなくていい! 人形に命令権を与えるな!」
ワラ人形が、ちょこんと宙の手の上で直樹を向いた。
妙に間があった。
そして、腹の底から響くような低い声で言う。
「直樹、三回まわって」
ぴこん。
スマホが反応した。
直樹の顔から血の気が引く。
『命令者照合中』
『未登録命令者』
「よし、未登録! 未登録なら終わりだな!」
しかし、画面は続いた。
『ただし呪術的代理権を検出』
「代理権って何!?」
宙が小さくうなずく。
「この子は代理」
「代理じゃない! お前の手に持たれてる!」
ワラ人形が言う。
「私は独立した意思」
「設定を増やすな!」
ベル先生が目を輝かせた。
「面白いわね。腹話術と悪魔契約の境界事例だわ」
「面白がらないでください!」
「通常の音声認識なら発話者は見上さん。でも、呪術媒体を通した発話としてアプリが別個体判定しかけているのね」
「先生、解説が的確なぶん余計に怖いです!」
アイはワラ人形を警戒したように見ていた。
「この子、やっぱり人間界の悪魔なのでは?」
「人形だ!」
「でもアタシの魔界道具より命令通りそう」
「張り合うな!」
スマホが再び鳴った。
『命令権限:不足』
『本体実行:不可』
直樹は胸をなで下ろした。
「よし! 弾いた! やっとまともな判断を――」
『周辺物品への部分実行を開始します』
「まともじゃなかった!」
次の瞬間。
直樹の椅子が、ぎゅるん、と回った。
「うおっ!?」
一回転。
二回転。
三回転。
直樹は椅子に座ったまま、教室の中央で回転した。
「本体じゃなくて椅子に実行するなぁぁぁ!」
クラスメイトたちは拍手した。
「おお、回った」
「本人じゃなくて椅子が」
「命令回避成功?」
「成功してない! 目が回ってる!」
美咲が慌てて椅子を押さえる。
「大丈夫、直樹?」
「大丈夫じゃない。俺の人生、どんどん実験装置に近づいてる」
宙は淡々とノートに書き込んだ。
「部分実行、確認」
「確認するな!」
ワラ人形が言う。
「次は机」
「次を作るな!」
ベル先生は満足そうにうなずいた。
「つまり、未登録命令者の命令は直接実行されない。ただし、契約者の周辺環境には影響する可能性がある、と」
「先生、研究成果みたいにまとめないでください!」
アイは直樹の椅子を見て、少し考え込む。
「じゃあ、命令が通らなくても、周りを動かせばダーリンを動かせるってこと?」
「発想が悪魔!」
「だって仔悪魔だもん」
「そこで開き直るな!」
美咲がアイをにらんだ。
「アイ、今のは真似しちゃだめ」
「わ、わかってるよ。ダーリン、目がぐるぐるしてるし」
「原因は人形とアプリとお前ら全員だ……」
直樹は机に突っ伏した。
しかし、宙はまだワラ人形を直樹へ向けている。
「追加実験」
「却下!」
「短い命令」
「却下!」
「椅子を戻して」
ぴこん。
椅子が半回転して、妙な角度で止まった。
「戻りきってない!」
宙は小さくうなずく。
「命令精度、低い」
「俺の椅子で精度検証するな!」
ベル先生が端末を操作しながら言った。
「次は安全フィルターを確認しましょうか」
「次があるんですか!?」
「ええ。命令機能に禁止項目があるかどうか、確認しないと」
直樹は青ざめた。
命令機能。
ワラ人形。
ベル先生の解析。
この三つが同じ教室にある時点で、今日の平穏はとっくに失われている。
直樹は、ふらふらしながら椅子を元の向きに戻した。
「……俺、次の授業まで生きてるかな」
宙のワラ人形が言った。
「生存、観察対象」
「祈ってくれ!」
* * *
教室の前方に、なぜか簡易解析セットが組まれていた。
ベル先生がどこからともなく取り出したノートパソコン。
赤黒く光るケーブル。
小型の魔力っぽいもの測定器。
そして、直樹のスマホ。
「先生、授業は?」
「これも授業よ」
「何の!?」
「現代社会における契約アプリと未成年保護」
「急にそれっぽい科目名を作らないでください!」
ベル先生は楽しそうにキーボードを叩く。
画面には、魔界文字と日本語と謎の絵文字が混ざった利用規約が流れている。
直樹は一瞬だけ読もうとして、すぐに目をそらした。
「無理だ。読むだけで魂が削れる」
「ダーリン、人間界の利用規約みたいだね」
「魔界アプリが人間界の悪いところを学習してる!」
ベル先生が、ぱちんと指を鳴らした。
「分かったわ。この命令機能には、一応、安全フィルターがあるみたい」
「一応を外してください、一応を」
「禁止される命令は、恋愛感情の強制、身体接触の強制、暴力や危険行為、財産を大きく損なう行為、公序良俗に反する行為、それから炎上リスクが高すぎる行為ね」
美咲が少しだけほっとする。
「そこはちゃんとしてるんですね」
「悪魔も現代ではコンプラが大事なのよ」
「悪魔にコンプラで負けたくない……」
直樹がつぶやいた。
だが、ベル先生はさらに画面をスクロールする。
「一方で、通ってしまう命令もあるわ。生活補助、学業補助、移動補助、片付け、実習補助、それから……」
ベル先生の声が一瞬止まった。
「ドラ焼き関連の軽微な供物調達」
「最後だけザル!」
直樹は机を叩いた。
「ドラ焼きだけ魔界の法をすり抜けるな!」
アイは胸を張る。
「ドラ焼きは重要だからね」
「重要じゃない!」
「重要だよ。アタシのやる気に関わる」
「それはお前の私情だ!」
宙はノートに書き込む。
「供物調達、軽微」
「軽微にするな!」
ワラ人形が言う。
「百個までは軽微」
「重いわ!」
ベル先生はさらに端末を操作した。
「試しに、安全フィルターが働くか確認しましょう」
「嫌な予感しかしないんですが」
アイが、ぱっと直樹を見た。
その顔には、ちょっとしたいたずら心と、ほんの少しの期待が混ざっていた。
「じゃあ……ダーリン」
「待て。今の間は危険だ」
「アタシのこと好きって言って」
ぴこん。
スマホが反応した。
直樹は思わず身構える。
しかし、画面には冷静な文字が表示された。
『恋愛感情の強制は禁止されています』
『命令を拒否しました』
直樹は、全身の力が抜けるほど安心した。
「そこだけは悪魔アプリに感謝する!」
クラスメイトたちも、おお、と感心する。
「意外とちゃんとしてる」
「恋愛強制はアウトなんだ」
「悪魔アプリの倫理観、妙に現代的」
「人間界も見習うところがあるな」
「いや、俺の声をミュートした時点で見習わなくていい!」
アイは、スマホの画面を見つめたまま、少しだけ肩を落とした。
「……そっか」
その小さな声に、直樹は言葉を止めた。
さっきまでの調子に乗った顔ではない。
命令が通らなくて不満、というより。
命令で言わせるものじゃないと分かって、少しだけ寂しそうな顔だった。
美咲がそれを見逃さなかった。
「アイ」
「な、なに?」
「そういうのは、命令で言わせるものじゃないでしょ」
アイは、珍しくすぐに言い返さなかった。
視線を少し落として、小さくうなずく。
「……うん」
直樹は気まずくなって、頬をかいた。
「そもそも、命令で言わせた言葉なんて、意味ないだろ」
アイが顔を上げる。
「意味ない?」
「少なくとも、俺はそう思う」
「……そっか」
アイは少し考えてから、無理に笑った。
「じゃあ、いつか命令じゃなく言わせる!」
「その宣言も怖い!」
美咲がすかさず突っ込む。
「そこは普通に仲良くなりなさいよ!」
「仲良くって、どうやって?」
「知らないわよ! でも命令じゃないことは確か!」
クラスメイトがざわつく。
「命令よりお願いルート?」
「好感度システム?」
「契約アプリよりラブコメアプリのほうが必要なのでは」
「分析するな!」
ベル先生は満足そうにうなずいた。
「なるほど。恋愛強制は禁止。ただし、関係性改善による自発的発言は別扱い、と」
「先生、今のを研究データにしないでください」
「するわよ。貴重だもの」
「やっぱり教師より研究者だ!」
宙が静かに手を挙げた。
「追加実験。好きの代替表現は通るか」
「やらない!」
ワラ人形が低い声で言う。
「直樹、好意を示せ」
「人形に言われて示す好意なんて、この世で一番信用できない!」
スマホが、ぴこんと鳴った。
『命令候補を検出しました』
『恋愛感情関連のため保留します』
「保留もするな!」
アイは少しだけ笑った。
さっきより、ちゃんと笑っていた。
「じゃあ、命令機能でできるのは、掃除とか宿題とかドラ焼きなんだね」
「最後を当然みたいに混ぜるな」
「ダーリン、宿題手伝って!」
ぴこん。
『学業補助命令を受理しました』
直樹の鞄から、数学のノートが勝手に飛び出した。
「今じゃない!」
教室中が笑い声に包まれる。
ベル先生は画面を見ながら、楽しそうに言った。
「安全フィルターは確認できたわね。次は、命令解釈の範囲を――」
「確認できたなら止めてください!」
直樹の叫びは、今日もアプリにも教師にも届かない。
ただひとつ分かったことがある。
悪魔の命令機能にも、越えてはいけない線はある。
ただし、ドラ焼きだけはなぜか、その線の外側で自由に飛び跳ねているのだった。
* * *
昼休み。
直樹は決意していた。
今日は絶対に、静かに昼食を食べる。
朝から命令機能に振り回され、教室で声をミュートされ、椅子ごと三回まわされ、安全フィルターの実験台にされた。
もう十分だ。
これ以上、悪魔契約アプリに人生を操作されてたまるか。
「ダーリン」
「その呼び方だけで嫌な予感がする」
隣でアイが、購買のショーケースを見つめていた。
目がきらきらしている。
とても危険な輝きだった。
「ドラ焼き買ってきて!」
ぴこん。
直樹は、天を仰いだ。
『ドラ焼き供物調達命令を受理しました』
「受理するな!」
スマホの画面に、赤黒い魔法陣のような検索画面が開く。
『校内在庫検索中……』
『該当商品:なし』
「よし、ない! 解散!」
だが、アプリはそこで止まらなかった。
『代替供物を検索します』
「するな!」
『候補:あんぱん』
『候補:どら焼き風デザート』
『候補:たい焼き』
『候補:ホットケーキ』
『候補:パンケーキ』
『候補:丸いもの全般』
「最後が雑すぎる!」
次の瞬間、購買の電子メニューが一斉に切り替わった。
『ドラ焼き候補:あんぱん』
『ドラ焼き候補:ハンバーガー』
『ドラ焼き候補:目玉焼き』
『ドラ焼き候補:十円玉』
「丸ければ何でもドラ焼きにするな!」
購買前にいた生徒たちがざわつく。
「十円玉って食べ物?」
「魔界では供物なんじゃない?」
「ハンバーガーはちょっと分かる」
「分かるな!」
アイは感心したようにうなずいた。
「人間界って、ドラ焼き候補が多いんだね」
「候補じゃない! 全部別ジャンルだ!」
購買のおばちゃんが、ショーケースの中を見ながら言った。
「真央くん、あんぱん全部ドラ焼き扱いでいいの?」
「よくないです!」
『ドラ焼き候補を一括予約しますか?』
「しない!」
『契約者の拒否反応を検出しました』
「検出したなら止まれ!」
だが、アプリは止まらない。
学食の券売機まで反応し始めた。
『ドラ焼き候補:丸いコロッケ』
『ドラ焼き候補:カレー皿』
『ドラ焼き候補:学食主任の眼鏡』
「眼鏡を供物にするな!」
美咲が走ってきた。
「ちょっと、何やってるの!」
「俺じゃない! 俺は昼飯を食べようとしただけだ!」
アイは少し慌てて両手を振る。
「アタシも、ちょっとドラ焼きがほしかっただけで……」
「アイ、取り消しなさい!」
「う、うん! 命令取り消し!」
ぴこん。
『取り消しには、命令者本人による丁寧なお願いが必要です』
直樹はスマホを二度見した。
「急に礼儀を求めるな!」
美咲がアイを見る。
「ほら、お願い」
「え、えっと……」
アイは直樹のほうを見た。
いつもの勢いで「ダーリン、止まって!」と言いかけて、そこで口を閉じる。
少しだけ頬を赤くして、声を小さくした。
「ダーリン、お願い。止まって」
ぴこん。
『丁寧なお願いを確認しました』
『供物調達命令を縮小します』
電子メニューから、十円玉と眼鏡が消えた。
ハンバーガーも普通のハンバーガーに戻る。
目玉焼きだけは、しばらく『半月型ドラ焼き候補』として粘っていたが、美咲が画面を叩いたら消えた。
「よし……収まった……」
直樹は購買前で膝に手をついた。
アイは少ししょんぼりしている。
「ごめん、ダーリン。ドラ焼きって言っただけなのに」
「お前が言う“だけ”は、だいたい世界を巻き込むんだよ」
「でも、お願いって言ったら止まったね」
「……最初からそう言え」
直樹は気まずそうに目をそらした。
美咲が腕を組む。
「そうよ。命令じゃなくて、お願い」
アイは小さくうなずいた。
「うん。お願い」
その言い方だけは、いつもの世界征服テンションではなかった。
直樹はため息をついて、購買の棚からあんぱんをひとつ取った。
「ほら」
「え?」
「ドラ焼きじゃないけど、丸いから……いや、今のなし。丸いからじゃない。お前が騒ぐとまた面倒だからだ」
アイの顔がぱっと明るくなる。
「ダーリン、買ってくれるの?」
「一個だけな。百個じゃない」
「うん!」
スマホがぴこんと鳴った。
『自発的供物調達を確認しました』
「供物じゃない!」
宙がいつの間にか横に立っていて、ノートに記録していた。
「命令よりお願いのほうが有効」
「記録するな!」
ワラ人形が言う。
「関係性、進展」
「さらに記録するな!」
ベル先生も学食の隅から顔を出した。
「興味深いわね。強制命令より、自発的協力のほうが契約安定率が上がっているわ」
「先生まで昼休みに観察しないでください!」
アイは、受け取ったあんぱんを大事そうに両手で持った。
「ありがとう、ダーリン」
「ドラ焼きじゃないからな」
「うん。でも、ちょっとドラ焼きっぽい」
「その判定基準を今すぐ捨てろ」
直樹は自分の昼食を買いながら、心の底から思った。
命令機能は危険だ。
だが、それ以上に危険なのは、アイが「お願い」を覚えたときなのかもしれない。
なぜなら、それにはアプリよりも断りにくい何かがあるからだ。
* * *
昼休みの終わり。
購買の電子メニューは、ようやく元に戻った。
あんぱんはあんぱんに戻り、ハンバーガーはハンバーガーに戻り、学食主任の眼鏡は無事に眼鏡として職務を続けている。
直樹は廊下の窓際で、ようやく買えたパンをかじっていた。
「……昼飯を食うだけで、なんでこんなに疲れるんだ」
隣にはアイがいる。
さっき直樹が買ったあんぱんを、両手で持っている。
だが、いつものように「人間界の供物、最高!」と騒がない。
ちょっと静かだった。
「アイ?」
「ん」
「食わないのか」
「食べる」
アイは小さく一口かじった。
けれど、やっぱり元気がない。
直樹は嫌な予感がした。
怒っているわけではなさそうだ。
泣きそう、というほどでもない。
ただ、しゅんとしている。
このタイプの沈黙は、直樹が一番苦手なやつだった。
「……さっきの、まだ気にしてるのか」
「ううん。ドラ焼き候補が消えたのは、ちょっと残念だけど」
「そこは残念がるな」
アイはあんぱんを見つめたまま言った。
「命令できたら、ダーリンがもっとアタシのこと手伝ってくれると思ったんだけど」
直樹はパンを持つ手を止めた。
「……命令されたから動くのと、自分で動くのは違うだろ」
「うん」
「命令で動かされるのは嫌だ」
「うん」
アイは素直にうなずいた。
その素直さが、逆に直樹を困らせる。
「アタシ、命令しないと、ダーリンに嫌がられるだけかなって」
廊下の向こうから、教室のざわめきが聞こえる。
午後の授業前の、なんでもない学校の音。
アイはその音を聞きながら、小さく笑った。
「アタシ、ダーリンと契約してるから、ここにいられるでしょ」
「……まあ、そういうことにはなってるな」
「契約があるから、真央家にもいられるし、学校にも来られるし、ダーリンの隣に座れる」
「隣の席は先生の研究都合だけどな」
「それでも」
アイは、少しだけ視線を落とした。
「契約とか、命令とか、そういうのがないと、アタシ、ダーリンのそばにいる理由がなくなっちゃう気がして」
直樹は何も言えなかった。
アイはいつも強引だ。
勝手に来る。
勝手に呼ぶ。
勝手に契約者扱いする。
勝手に世界征服計画へ巻き込む。
でもその強引さの裏側にある不安を、直樹はもう何度か見ている。
直樹はため息をついた。
「嫌がることは嫌がる」
「うん」
「勝手に命令されるのも嫌だ」
「うん」
「ドラ焼き百個も嫌だ」
「それは契約だから」
「そこだけ急に強いな」
アイが少しだけ笑った。
直樹は窓の外へ視線を向ける。
「でも、困ってたら手伝うくらいはする」
アイが顔を上げた。
「命令しなくても?」
「命令しなくても」
「契約じゃなくても?」
「内容による」
「そこは即答じゃないんだ」
「即答すると悪魔につけ込まれるからな」
アイはじっと直樹を見た。
直樹はその視線から逃げるように、パンをかじる。
「……なんだよ」
「ダーリン、やっぱり優しい」
「違う。これは一般的な人間の最低限の対応だ」
「人間界の最低限、けっこうあったかいね」
「そういう言い方をされるとツッコミにくいからやめろ」
アイは、ぱっと笑った。
さっきまでのしょんぼりした顔が、あんぱんの甘さで少しずつ戻っていく。
「じゃあ、お願いならいい?」
直樹はそっぽを向いた。
「内容による」
「ダーリン、今日の帰りドラ焼き――」
「それは却下」
「まだ最後まで言ってない!」
「言わなくても分かる!」
「百個じゃないよ? 九十九個」
「誤差だ!」
「じゃあ一個」
直樹は少し黙った。
アイが期待に満ちた顔で見上げてくる。
ものすごく断りにくい。
悪魔の命令機能より、たぶんこっちのほうが危険だ。
「……帰りにコンビニ寄るだけならな」
「ほんと!?」
「ただし、自分の小遣いで買え」
「ダーリンの供物じゃないの?」
「自費で買ったらただのおやつだ」
「じゃあ、お願い。おやつ買うの付き合って」
「……内容によるって言っただろ」
「今の内容は?」
直樹は顔をそらしたまま、ぼそっと言った。
「まあ、却下はしない」
アイは、あんぱんを抱えたまま嬉しそうに笑った。
「命令じゃなくても、ダーリン来てくれるんだ」
「だから、コンビニに行くだけだ」
「うん。コンビニ征服だね!」
「征服するな! 買い物だ!」
廊下の隅で、宙がいつの間にかメモを取っていた。
「命令よりお願いのほうが有効。再確認」
「再確認するな!」
ワラ人形が低い声で言う。
「契約関係、変化」
「お前は黙ってろ!」
そのとき、教室から美咲が顔を出した。
「直樹、次の授業始まるわよ。早く戻りなさい」
ぴこん。
直樹の身体が一歩動きかけた。
美咲が青ざめる。
「あっ、ごめん!」
「まだ命令っぽい言い方してる!」
アイが慌ててスマホを押さえる。
「えっと、ダーリン、お願い。自分の意思で教室に戻って?」
ぴこん。
『自発的行動を確認しました』
直樹は画面を見て、眉をひそめた。
「……なんか今、アプリに判定されたぞ」
「でも止まったよ?」
「納得はしてない」
そう言いながらも、直樹は自分の足で教室へ向かった。
アイはその隣を歩く。
命令ではなく、お願いでもなく。
ただ、同じ方向へ。
少なくとも今は、それだけでアプリよりずっとましだった。
* * *
昼休み明け。
教室の空気は、妙に疲れていた。
直樹は机に突っ伏し、アイはその横であんぱんの袋を大事そうにたたみ、美咲は腕を組んでアプリをにらみ、宙はノートに「お願い、有効」と書き足している。
ベル先生だけが、やけに真剣な顔でスマホ画面を見つめていた。
「分かったかもしれないわ」
「本当ですか!?」
直樹は顔を上げた。
その瞬間、ベル先生は白衣をひるがえす。
「少し席を外すわ」
「今!?」
「こういう発想はね、座って考えるのが一番なの」
「椅子ならここにありますけど!」
「違うのよ」
ベル先生は、意味深に微笑んだ。
「もっと孤独で、もっと密室で、もっと人間の尊厳と向き合う場所」
「言い方が重い!」
五分後。
ベル先生は、職員用トイレの方向から戻ってきた。
白衣のポケットには、なぜかメモ用紙と魔力ペン。
表情は晴れやかだった。
「ひらめいたわ」
「先生、どこで何をひらめいてきたんですか」
「個室は偉大ね。便座は発明家の玉座よ」
「名言みたいに言わないでください!」
アイが首をかしげる。
「魔界にもそういう研究法あるよ?」
「あるのかよ!」
ベル先生は黒板に大きく書いた。
『命令機能停止条件』
「この契約者サポート命令機能は、命令依存度が上がると強制命令モードが継続する。でも逆に、命令ではない協力関係が一定回数成立すると、停止判定が入るみたい」
直樹は黒板を見た。
そこには、三つの条件が並んでいる。
『命令者が、契約者に対して命令ではなくお願いとして発話する』
『契約者が、自分の意思でそれに応じる』
『一定回数成功すると、強制命令モードが解除される』
「……つまり?」
「アイちゃんが命令ではなくお願いをする。真央くんが自分の意思で手伝う。それを何回か成功させれば、命令機能は止まるはずよ」
「俺の意思を要求されるタイプの解除条件!」
「よかったじゃない。尊重されているわ」
「今までさんざん無視してきたアプリに、急に尊重されても信用できません!」
アイは、少し緊張した顔で直樹を見る。
「ダーリン……お願いしていい?」
「内容による」
「黒板消すの、手伝ってくれる?」
スマホは鳴らない。
命令ではない。
直樹はしばらく黙ったあと、ため息をついて立ち上がった。
「……これでアプリが止まるならな」
直樹は黒板消しを取り、ベル先生の書いた謎の条件式を消していく。
ぴこん。
『自発的協力を確認』
『命令依存度、低下』
クラスメイトが、おお、と声を上げた。
「普通に手伝った」
「真央が自分から」
「これは珍しい」
「珍獣観察みたいに言うな!」
アイはぱっと笑った。
「ダーリン、ありがとう!」
「アプリ停止作業だ」
「でも、命令じゃないのに手伝ってくれた」
「だから、アプリ停止作業だ!」
ベル先生はうなずく。
「いい調子ね。次」
アイは教卓の上に積まれたプリントを見た。
「ダーリン、プリント運ぶの、手伝ってくれる?」
「なんで俺なんだ」
「お願いだから」
「それを言われると断りにくいな……!」
直樹はぶつぶつ言いながら、プリントの半分を持った。
アイも残りを持つ。
二人で列ごとに配っていく。
ぴこん。
『自発的協力を確認』
『命令依存度、さらに低下』
クラスメイトがにやにやする。
「普通に仲いいじゃん」
「共同作業だ」
「命令よりお願いのほうが強い説、実証中」
「これはアプリ停止作業だ!」
美咲が、少しだけ面白くなさそうに言う。
「まあ、命令されて動くよりはマシだけど」
「だろ?」
「でも、あんたも簡単にお願い聞きすぎ」
「アプリ停止のためだって言ってるだろ!」
宙が静かにメモを取る。
「言い訳、確認」
「確認するな!」
ワラ人形が言う。
「自発的照れ隠し」
「人形に心理分析される筋合いはない!」
ベル先生はスマホ画面を確認した。
「あと一回くらいね」
アイは直樹の前に立った。
さっきより、少しだけ真剣な顔だった。
「ダーリン」
「なんだ」
「このアプリ止めるの、手伝ってくれる?」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
命令ではない。
お願いだ。
そしてそれは、直樹自身にとっても必要なことだった。
「……最初からそれを言え」
直樹はスマホをベル先生へ差し出し、アイと一緒に画面をのぞき込んだ。
ベル先生の指示通り、解除確認の画面を開く。
『命令機能停止確認』
『契約者は自分の意思で停止を希望しますか?』
「希望する! 全力で希望する!」
『命令者は、契約者の意思を尊重しますか?』
アイは直樹を見た。
それから、小さくうなずく。
「尊重する」
ぴこん。
『自発的協力を確認』
『命令依存度、基準値以下』
『強制命令モードを一時停止します』
教室中が拍手した。
直樹は机に手をつき、深く息を吐く。
「……終わった」
「お疲れ、直樹」
美咲が言う。
「今日は本当に疲れた……」
「まだ放課後じゃないけどね」
「現実を突きつけるな」
アイはスマホ画面を見つめていた。
命令機能は止まった。
なのに、彼女は少し嬉しそうだった。
「ダーリン」
「今度は何だ」
「命令じゃないのに、手伝ってくれたね」
「だから、アプリ停止作業だって」
「うん」
アイは笑った。
「でも、嬉しかった」
直樹は返事に困った。
美咲がじっと見ている。
クラスメイトたちもじっと見ている。
宙とワラ人形までじっと見ている。
「……見るな!」
ベル先生は満足げに端末へメモを残した。
「命令よりお願いのほうが効果的。実に教育的な結論ね」
「先生の個室発明から教育的結論に着地するの、納得いかないんですが」
「発明とは、だいたいそういうものよ」
「絶対違う!」
直樹は叫んだ。
だが、少なくとも命令機能は止まった。
今日はじめて、アプリに勝った気がした。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、平穏に近づいた気がした。
ただし、ベル先生が画面の隅に残る小さなログアイコンを見つめていることに、直樹はまだ気づいていなかった。
* * *
強制命令モードは、一時停止した。
スマホの画面には、たしかにそう表示されている。
『強制命令モードを一時停止します』
直樹は、椅子に深く座り込んだ。
「……勝った」
朝から続いた命令地獄。
支度を雑に自動化され、通学路で止まり、走らされ、教室で声を消され、椅子ごと回された一日。
そのすべてに、ようやく終わりが来た。
直樹は、心の底から息を吐く。
「終わった……本当に終わった……」
「ダーリン、お疲れさま!」
アイが嬉しそうに笑う。
命令ではなく、お願い。
それに直樹が自分の意思で応じる。
その積み重ねで、アプリは止まった。
つまり、人類は悪魔アプリに勝利したのだ。
たぶん。
おそらく。
今だけはそう信じたい。
ぴこん。
スマホが鳴った。
直樹の顔から、勝利の二文字が消えた。
「……今の音、何?」
アイが画面をのぞき込む。
「えーっと……」
赤黒い文字が、楽しそうに点滅している。
『命令よりお願いのほうが有効と判断しました』
『お願い学習モードへ移行します』
『自発的協力サンプルが不足しています』
『お願い成功率向上キャンペーンを開始します』
直樹は机を叩いた。
「キャンペーンするな!」
クラスメイトたちのタブレットが、一斉に鳴った。
ぴこん。
ぴこん。
ぴこん。
『本日の学習テーマ:真央直樹に丁寧にお願いしてみよう』
「学習テーマにするな!」
教室がざわついた。
「丁寧にお願い?」
「命令じゃなくてお願いならいいの?」
「お願い成功率って何?」
「真央、実験教材として完成度高いな」
「完成したくない!」
ベル先生は、目を輝かせている。
「なるほど。強制命令モードを止めるための手順が、そのまま学習データになったのね」
「先生、冷静に言わないでください!」
「命令依存度を下げた結果、今度はお願い依存度を測定し始めたわけね。興味深いわ」
「俺の人生を依存度測定に使うな!」
宙がノートを開く。
「お願い実験、開始」
「開始しない!」
ワラ人形が言う。
「丁寧さ、重要」
「人形に礼儀を説かれたくない!」
最初に手を挙げたのは、前の席の男子だった。
「真央、お願い。消しゴム貸してくれない?」
ぴこん。
『丁寧なお願いを確認しました』
『自発的協力判定待ち』
直樹は固まった。
命令ではない。
身体は動かない。
ただ、画面にじっと見られているような圧がある。
「……消しゴムくらいなら」
直樹は消しゴムを渡した。
『自発的協力を確認』
『お願い成功率:上昇』
「上昇するな!」
別の女子が手を挙げる。
「真央くん、お願い。そこのプリント、一枚回してくれる?」
「それは普通の教室内会話だろ!」
直樹はプリントを渡す。
『自発的協力を確認』
『お願い成功率:さらに上昇』
「普通の親切までカウントするな!」
教室の空気が一気に変わった。
命令すると危ない。
でもお願いなら、直樹は文句を言いながら動く。
つまり、クラスメイトたちは新しい遊びを見つけてしまった。
「真央、お願い。窓ちょっと開けて」
「真央、お願い。黒板の端、消し残しある」
「真央、お願い。さっきの数学の答え教えて」
「最後は自分でやれ!」
直樹は叫びながらも、窓を少し開け、黒板を消し、数学の答えだけは拒否した。
『お願い拒否を確認』
『理由:学業倫理』
「そこはまとも!」
アイは最初、楽しそうに見ていた。
けれど、だんだん眉を下げる。
「みんな、ダーリンにお願いしすぎじゃない?」
「お前が言うな!」
「でも、ダーリン疲れてるよ」
美咲もうなずいた。
「そうよ。お願いなら何でもいいわけじゃないでしょ」
その言葉に、アプリが反応した。
『お願いマナー講座を開始します』
「講座を開くな!」
電子黒板に、赤黒いスライドが表示された。
『よいお願い』
『相手の意思を尊重する』
『断られても怒らない』
『ドラ焼き供物を添えると成功率が上がります』
「最後に悪魔要素を混ぜるな!」
アイはぱっと顔を上げる。
「やっぱりドラ焼きは有効なんだ!」
「食いつくな!」
その瞬間、アプリがさらに暴走した。
『お願い成功率向上のため、補助演出を追加します』
教室の照明が少し柔らかくなる。
電子黒板に、ふわふわした文字が浮かぶ。
『お願いしてみよう!』
『やさしく頼もう!』
『契約者の自由意思を大切に!』
「教育番組みたいにするな!」
クラスメイトたちは笑い転げる。
宙は無表情で録画している。
「貴重な道徳教材」
「録るな!」
ベル先生は腕を組んでうなずいた。
「これはこれで、クラス運営に使えるかもしれないわね」
「使わないでください! 悪魔アプリで道徳を教えるな!」
アイが慌ててスマホをつかむ。
「えっと、お願い学習モード、止まって!」
『命令形式に近い発話を検出しました』
『お願いとして再入力してください』
「え、えっと……お願い。止まってください?」
『丁寧なお願いを確認しました』
『しかし、学習サンプルが不足しています』
「まだ足りないの!?」
直樹は頭を抱えた。
「もういい。俺が言う」
直樹はスマホに向かって、はっきり言った。
「お願いだから、この機能を止めてくれ」
ぴこん。
スマホが一際大きく光った。
『契約者からのお願いを確認しました』
『命令者への協力要請と判断』
『相互お願いモードを開始します』
「悪化したぁぁぁ!」
次の瞬間、教室中の物が動き出した。
黒板消しが勝手に黒板を消す。
プリントが空中を飛んで各席に配られる。
窓が一斉に開いて、すぐ閉まる。
チョークが勝手に『みんなで助け合おう』と書き始める。
直樹の机の上には、なぜかあんぱんが一個置かれた。
「なんで最後に供物が来る!」
アイが叫ぶ。
「アタシじゃないよ!」
「じゃあ誰のお願いだ!」
ワラ人形が低い声で言った。
「教室の善意」
「善意が物理的に暴走するな!」
美咲が飛んできたプリントをつかみ取り、窓を押さえる。
「ちょっと、本当に危ないって!」
ベル先生が端末を叩く。
「お願い学習モードが、教室内の“手伝ってほしい空気”まで拾ってるみたいね」
「空気を読むな! 読んだうえで暴走するな!」
宙はメモを取る。
「善意の自動化、失敗」
「最初から成功する気がしない!」
アイは直樹の隣に走ってきた。
「ダーリン、どうしよう!」
「まず、お前が落ち着け!」
「お願い、ダーリン。止めるの手伝って!」
その言葉に、直樹は一瞬だけ目を見開いた。
命令ではない。
ちゃんと、お願いだった。
直樹は舌打ちした。
「……内容によるって言ったけどな」
「うん!」
「これは、内容的に断れないやつだ!」
直樹は飛んできたチョークを避け、スマホをつかんだ。
ベル先生が叫ぶ。
「真央くん、画面右下の“学習終了”!」
「どこですか!」
「広告の下!」
「悪魔アプリに広告を入れるな!」
直樹が必死に画面をスクロールする。
『お願い成功率向上キャンペーン』
『今ならドラ焼き供物ポイント二倍』
『学習終了はこちら』
「広告が邪魔!」
アイが横から指を伸ばす。
「ここ!」
二人の指が同時に画面を押した。
ぴこん。
『学習終了を受理しました』
『お願い学習モードを停止します』
教室の物たちが、ぴたりと止まった。
黒板消しは黒板の途中で落ちる。
プリントは各席に着地する。
チョークは最後に、黒板へこう書いた。
『お願いは計画的に』
直樹は床に座り込んだ。
「……アプリにだけは言われたくない」
教室中が、ようやく静かになる。
アイは直樹の隣にしゃがみ込んだ。
「ダーリン、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも止まった」
「ごめんね。アタシ、お願いでも暴走すると思わなかった」
「お前じゃなくて、アプリが悪い。いや、お前も少し悪い。あと先生と宙も悪い。クラスも悪い」
「ほぼ全員ね」
美咲がため息をついた。
ベル先生は、画面を見ながら小さくうなずく。
「今度こそ、強制命令モードもお願い学習モードも停止したみたいね」
「本当でしょうね?」
「たぶん」
「その“たぶん”はやめろ!」
宙がスマホ画面をのぞき込む。
「ログ、増加」
「ログ?」
直樹は嫌な予感を覚えた。
しかし、画面はすぐ通常表示に戻った。
『契約者サポート命令機能:停止準備完了』
直樹は深く息を吐いた。
「……次こそ、本当に終わりだよな」
誰も答えなかった。
ただ、契約アプリの隅で、小さなログアイコンだけが、赤黒く点滅していた。
* * *
教室は、ようやく静かになった。
黒板消しは落ちた。
プリントは机に収まった。
窓は勝手に開閉しなくなった。
チョークも、もう道徳めいた標語を書かない。
黒板には、最後に残された一文だけが白く残っている。
『お願いは計画的に』
「アプリにだけは言われたくない……」
直樹は机に突っ伏した。
この一日で、彼は命令され、お願いされ、協力判定され、善意まで自動化された。
もはや直樹の高校生活は、本人よりアプリのほうが詳細に管理している。
ベル先生が端末を操作した。
「強制命令モード、お願い学習モード、どちらも停止処理に入ったわ」
スマホ画面に、赤黒い文字が表示される。
『契約者サポート命令機能:一時停止』
『理由:命令よりお願いのほうが有効と判断』
『補足:ただしお願いは計画的に』
「補足が腹立つ!」
直樹は叫んだ。
だが、表示はたしかに停止になっている。
もう勝手に動かない。
声も消えない。
椅子も回らない。
ドラ焼き候補も増えない。
たぶん。
「……やっと終わった」
直樹は、心の底から息を吐いた。
アイもほっとしたように笑う。
「よかったね、ダーリン」
「よかったの八割は、お前が今後余計なことを言わない前提だけどな」
「じゃあ、お願いも控えめにするね」
「その学習は大事だ」
美咲も腕を組んだまま、少し表情を緩める。
「まあ、今回はちゃんと反省したみたいだし」
「うん。命令はよくないって分かった」
アイは素直にうなずいた。
「お願いも、いっぱいしすぎると大変」
「そこも分かったなら上出来だ」
直樹がようやく背もたれに体を預けた、そのときだった。
ベル先生の指が止まった。
「……待って」
直樹の全身に、嫌な緊張が走る。
「先生。その“待って”は、命令ですか?」
「違うわ。発見よ」
「もっと嫌です」
ベル先生は端末画面を拡大した。
「命令機能そのものは止まっている。でも、今日の命令ログとお願い学習ログが残っているわ」
「ログくらい残るでしょうね。嫌ですけど」
「問題は、保存先ね」
ベル先生が画面を横に滑らせる。
そこには、見慣れない送信先一覧が表示されていた。
『魔界実習管理局』
『契約品質向上センター』
『供物嗜好分析部』
『人間界共有形式変換中』
直樹は固まった。
「最後、何ですか」
ベル先生は、さすがに少しだけ表情を引き締めた。
「命令ログが外部送信されかけているわ」
「外部ってどこですか」
「魔界実習管理局……だけじゃないわね。人間界向けの共有形式にも変換されてる」
宙が、静かにスマホをのぞき込んだ。
「SNS形式」
「言うな! その単語だけで心拍数が上がる!」
画面がぴこんと鳴った。
『本日の命令ログを共有しますか?』
『タイトル案:仔悪魔ちゃん、契約者を一日使ってみた』
『サムネイル案:叫ぶダーリンと笑う仔悪魔』
『推奨タグ:#悪魔契約 #命令してみた #ダーリン観察日記 #お願いは計画的に』
「共有するな! タグをつけるな! 観察日記にするな!」
クラスメイトたちがざわつく。
「タイトルの引きは強い」
「サムネちょっと見たい」
「ダーリン観察日記、シリーズ化できそう」
「できない! させない!」
アイは慌ててスマホを見る。
「アタシ、投稿なんてしてないよ!」
「分かってる。お前がやったらもっと雑なタイトルになる」
「ひどい!」
「たぶん『ダーリンを命令してみた! ドラ焼きもあるよ!』とかだろ」
「ちょっといいかも」
「よくない!」
美咲が画面をのぞき込み、顔をしかめた。
「これ、本当に外に出たらまずいんじゃない?」
「まずいどころじゃない。俺の高校生活がネットのおもちゃになる」
「もう教室ではわりとおもちゃだけど」
「外部公開は別問題だ!」
ベル先生がキーボードを叩く。
「大丈夫。まだ完全送信はされていないわ。共有確認画面で止まっている」
「本当ですか?」
「たぶん」
「先生の“たぶん”は、爆発予告と同じなんですよ!」
宙が画面の端を指さす。
「下書き保存、確認」
「下書き?」
直樹が見ると、そこにはさらに小さな文字があった。
『共有用下書きを作成しました』
『公開予約:未設定』
『おすすめ公開時間:本日二十一時』
「おすすめするな!」
ワラ人形が低い声で言う。
「夜の投稿は伸びる」
「人形がSNS運用を語るな!」
アイは直樹の袖をつかんだ。
「ダーリン、どうしよう。アタシ、本当にそんなつもりじゃ……」
直樹は一瞬だけ、アイの顔を見た。
さっきまでの調子に乗った顔ではない。
本気で困っている。
本気で、直樹に迷惑をかけたと思っている。
直樹はため息をついた。
「分かってる。悪いのはアプリだ」
「でも、アタシが命令機能を面白そうって思ったから」
「それも少し悪い」
「少しなんだ」
「だいぶ悪い。でも、今は責めてる場合じゃない」
直樹はスマホを手に取った。
「共有を止める。下書きを消す。ログも消す。今日の俺の尊厳をネットに放流させてたまるか」
ベル先生がうなずく。
「手伝うわ。技術的には面白いけれど、生徒の個人情報保護は大事だもの」
「その順番に少し不安があります」
美咲がアイに言った。
「アイも、ちゃんと止めるの手伝いなさい」
「うん!」
宙もメモを取りながら言う。
「削除過程、記録」
「記録するな!」
「では記憶する」
「もっと嫌だ!」
画面には、共有確認ボタンが三つ並んでいた。
『今すぐ共有』
『あとで共有』
『共有したことにする』
直樹は震えた。
「また選択肢が全部地獄に向かってる!」
ベル先生が冷静に言う。
「下に小さくキャンセルがあるわ」
「小さすぎる!」
直樹は必死に画面をスクロールした。
広告が出る。
『ドラ焼き供物ポイント二倍キャンペーン』
「今出るな!」
さらにスクロールする。
『命令ログを思い出に残しませんか?』
「残さない!」
さらにスクロール。
ようやく、米粒のような文字が見えた。
『共有を取り消す』
「これだ!」
直樹が指を伸ばす。
その瞬間、予鈴が鳴った。
びくっとして、指が画面の上で止まる。
アプリが、ぴこんと鳴った。
『一定時間操作がありません』
『共有設定を保留します』
『夜に再確認します』
直樹は、画面を見つめた。
「……夜?」
アイも、青ざめた。
「夜に、また出るってこと?」
ベル先生は端末を見ながら、少しだけ困ったように笑う。
「ひとまず、今すぐ公開は止まったみたいね」
「“ひとまず”と“みたい”を同時に言わないでください!」
直樹は机に突っ伏した。
命令機能は止まった。
お願い学習モードも止まった。
ログの即時共有も、どうにか止まった。
だが、画面の端にはまだ、小さな通知が残っている。
『夜に再確認します』
その一文だけで、直樹の平穏は再び予約投稿されたも同然だった。
「……今日はもう、スマホを金庫に入れて寝る」
アイがそっと言う。
「ダーリン、お願い。金庫に入れる前に、アタシにも見せて」
「そのお願いは却下だ!」
教室に、いつもの直樹の叫びが戻った。
命令機能は止まった。
だが、悪魔アプリはまだ終わっていない。
* * *
その日の夜。
真央家。
直樹は自室の机にスマホを置き、画面をにらみつけていた。
画面には、赤黒い文字が並んでいる。
『夜になりました』
『命令ログ共有設定を再確認します』
「再確認しなくていい……」
直樹は、目の下にうっすら疲労をにじませていた。
朝は命令機能。
昼はお願い学習モード。
午後はログ共有未遂。
もはやスマホアプリひとつで、人間の一日がここまで削られるとは思っていなかった。
アイはベッドの横に正座している。
少し反省している顔だった。
ただし、時々スマホ画面をちらちら見ているあたり、完全に反省だけではない。
「今日はごめんね、ダーリン。命令しすぎた」
「命令しすぎた、で済む量じゃない。俺の朝支度と通学路と教室と購買と尊厳が、全部アプリに処理された」
「でも、最後はお願いで止められたよ」
「それはよかった。だから次からは、命令じゃなくてお願いにしろ」
アイは少し照れたように笑った。
「じゃあ、お願い」
「今か?」
「明日も一緒に学校行って?」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
断るのは簡単だ。
いや、簡単ではない。
アイはもう勝手に来るし、母は受け入れるし、遊羅は喜ぶし、学校側もベル先生のせいでだいたい通る。
つまり、直樹の拒否権は書類上は存在するが、運用上はほぼ飾りである。
「……それは、まあ、勝手にしろ」
アイの顔がぱあっと明るくなった。
「うん!」
「ただし、登校中に“早くして”とか“待って”とか言うなよ」
「お願いも?」
「お願いなら、内容による」
「じゃあ、明日もお願いするね」
「学習が早いのか遅いのか分からないな……」
直樹はスマホへ視線を戻す。
画面には、共有設定の画面が出ていた。
『本日の命令ログ共有』
『現在の設定:保留』
『おすすめ:共有』
「おすすめするな」
直樹は指先でスクロールする。
『今すぐ共有』
『あとで共有』
『共有したことにする』
「だから選択肢を全部地獄に向けるな!」
さらに下へ。
広告が挟まる。
『ドラ焼き供物ポイント二倍』
「今じゃない!」
さらに下へ。
ようやく、小さな文字が見えた。
『共有を取り消す』
「これだ……!」
直樹が指を伸ばした瞬間。
アイが横から身を乗り出した。
「ダーリン、そこ押すの?」
「押す。今すぐ押す」
「これで投稿されない?」
「されないはずだ」
「じゃあ、お願い。失敗しないでね」
「そのお願いが一番プレッシャーなんだよ!」
直樹は慎重に、慎重に、画面を押した。
ぴこん。
スマホが鳴った。
『共有設定を更新しました』
直樹は息を止めた。
『命令ログの一部が外部に投稿されました』
直樹は固まった。
アイも固まった。
「……今、何て?」
画面に、続けて文字が表示される。
『再生数:増加中』
『コメント:この悪魔ちゃん面白い』
『コメント:契約者のツッコミが良い』
『コメント:命令よりお願い回、尊い』
『コメント:謝罪配信まだ?』
直樹の指が震えた。
「何を投稿したぁぁぁ!」
階下から真実の声がする。
「直樹ー、夜は静かにねー」
「俺は今、静かに終われない状況なんだよ!」
遊羅の声も聞こえた。
「お兄ちゃん、配信者になるの?」
「ならない!」
アイは慌ててスマホをのぞき込む。
「アタシ押してないよ! 本当に押してない!」
「分かってる! このアプリが勝手に“取り消し操作のハイライト”を投稿したんだ!」
『切り抜きタイトル:仔悪魔ちゃん、命令よりお願いを覚える』
『サムネイル:叫ぶダーリン』
「サムネにするな!」
アイは画面を見て、小さくつぶやいた。
「……でも、コメントでアタシ、面白いって言われてる」
「喜ぶな! 今は喜ぶ場面じゃない!」
「契約者のツッコミが良いって」
「俺のツッコミを評価するな! こっちは命がけなんだよ!」
ここで、ナレーションが静かに始まる。
悪魔契約アプリから流出した命令ログ。
人々は笑い、拡散し、炎上する。
謝罪会見。
涙の釈明。
スポンサー契約。
魔界案件動画。
そして、仔悪魔アイは世界へ向けて宣言する。
「アタシは悪くありません!」
「言うなぁぁぁ!」
直樹が全力で割り込んだ。
「断罪するな! あと謝罪配信で“悪くありません”は一番言っちゃだめなやつだ!」
ナレーションはなおも続けようとする。
次回、炎上法廷サスペンス。
『悪魔ちゃん断罪配信――世界は彼女を許すのか』
「だからサスペンスにするな! 法廷にも行くな!」
アイはスマホを抱え、やけにきらきらした目で立ち上がった。
「じゃあ、本当の次回タイトル!」
「言うな! 言ったら現実になる!」
「第5話、謝罪配信は悪魔のはじまり!」
「はじめる前に謝れぇぇぇ!」
直樹の叫びが、真央家の夜に響いた。
画面の中では、コメントがまたひとつ増える。
『コメント:ツッコミのキレがいい』
「そこを評価するなぁぁぁ!」
命令機能は止まった。
お願い学習モードも止まった。
だが、悪魔アプリは最後に、とんでもない置き土産を残していった。
直樹の平穏は、今度はネットの海へ投げ込まれようとしている。
第4話、完。
ただし、謝罪はまだ始まっていない。




