第11話_校則と呪術と悪魔契約!
校則とは、学園に刻まれた最古の呪文である。
入学式の日、まだ制服に着られている新入生たちは、知らず知らずのうちにその呪文体系へ組み込まれる。
遅刻を禁じ。
廊下走行を封じ。
無断早弁を戒め。
授業中のスマホ操作を沈黙させ。
そして、無断飛行を断罪する。
黒板に書かれた文字は、ただの注意書きではない。
生徒手帳に印刷された文言は、ただの約束ではない。
それは、学園という巨大な結界を維持するための、集団承認型拘束術式――。
いま、その条文が、ひとつの悪魔契約へ牙を剥く。
契約名。
『人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約』
対抗術式。
『鏡星学園高等部校則および生徒会規約』
契約者。
真央直樹。
仔悪魔見習い。
天満アイ。
そして、運命の裁定者。
生徒会長、鳴海真奈――。
「剥かなくていい!」
直樹の叫びが、荘厳なナレーションを真っ二つにした。
「校則を呪文にするな! あと俺を契約者代表みたいに紹介するな!」
現実は、いつもの教室だった。
朝のホームルーム前。
電子黒板にはまだ何も表示されていない。
窓の外は普通に晴れている。
机の上には、悪魔契約書でも魔導書でもなく、ただの生徒手帳が置かれていた。
ただし、その生徒手帳の横に、見上宙のワラ人形がちょこんと座っている。
それだけで普通ではない。
アイは生徒手帳を両手で持ち、目をきらきらさせていた。
「ダーリン、校則って強いの?」
「強いけど、そういう意味じゃない」
「悪魔契約より?」
「比べるものじゃない」
「じゃあ、校則に“世界征服してもよい”って書けば、世界征服できる?」
「できないし、書くな!」
アイは真剣な顔で生徒手帳をめくる。
「でも、ここに“校内では先生の指示に従うこと”って書いてあるよ。これ、かなり支配力高くない?」
「支配力で読むな! 普通に学校生活のルールだ!」
宙が無表情のまま、ワラ人形を少し持ち上げた。
ワラ人形が低い声で告げる。
「校則、集団承認型拘束術式」
直樹は即座に振り向いた。
「お前が言うと本当にそう聞こえるからやめろ!」
宙は首をかしげる。
「違う?」
「違う。……たぶん違う。いや、違ってくれ」
自信が揺らぐのが嫌だった。
なにしろ、この学校では悪魔契約アプリが電子黒板に干渉し、魔法少女の決め台詞が測定器にグラフ化され、真奈の赤ペンがベル先生の実験欲を封じる。
校則が呪術ではない、と言い切れる材料がだんだん減っている。
美咲が教室の入口から入ってきて、直樹たちの机の上を見た。
「朝から何やってるの」
直樹は疲れた顔で答える。
「校則が悪魔契約に牙を剥くらしい」
「何言ってるの?」
「俺もそう思いたい」
アリスも続いて教室に入ってくる。
金髪を揺らしながら、生徒手帳とワラ人形を見て、すぐに笑った。
「なにそれ。校則バトル編?」
「編にするな!」
「でも、前回の次回予告、完全にそれだったじゃん。悪魔契約を校則で縛れるのか、みたいな」
「次回予告に現実が追いつくな!」
アイはぱっと顔を上げる。
「アリス、校則バトルって何するの?」
「カードゲームっぽく言うなら、“廊下走行禁止”で相手の移動を封じて、“申請書未提出”で特殊効果を無効化して、“生徒会長の赤ペン”で全部破壊する感じ?」
直樹は頭を抱えた。
「やめろ。真奈会長の赤ペンだけ本当に強そうだからやめろ」
美咲が腕を組む。
「でも、ちゃんと校則で止められるなら助かるんじゃない?」
「そりゃ助かるけどさ」
直樹はちらっとアイを見る。
アイは生徒手帳を真剣に読んでいる。
「校内での無断販売は禁止……じゃあドラ焼きは申請すればいい。校内での危険物持ち込みは禁止……魔界道具は危険物? えーっと、廊下での追いかけっこは禁止……ダーリンが逃げたらどうすれば」
「追いかける前提をやめろ!」
「でも契約者が逃げたら、仔悪魔は追うものだよ?」
「生徒ならまず廊下を走るな!」
アイははっとした。
「そっか。じゃあ早歩きで追う」
「追うなって言ってるんだよ!」
宙のワラ人形が、また低く言う。
「追跡行為、校則抵触」
「ほら見ろ!」
直樹は思わずワラ人形に同意しかけた。
だが、すぐに冷静になる。
「いや、人形に校則判断されるのも嫌だな!」
宙は小さく頷く。
「判定精度、上げる」
「上げなくていい!」
アリスがスマホを出しかけて、止めた。
前回の広報騒動で、少しは学習している。
「これ、校内SNSに流したら盛り上がるけど……やめとくやつだね」
美咲がうなずく。
「えらい」
「何割?」
「八割」
「今日も刻むね」
直樹は少しだけ感心した。
「アリスが撮らないだけで平和度が上がるな」
「真央、褒めてる?」
「褒めてる。かなり」
「じゃあ九割でもよくない?」
「調子に乗るから八割のままで」
そのとき、アイが生徒手帳を掲げた。
「ダーリン、見て! 校則に“他人の学習権を妨げてはならない”ってある!」
「あるな」
「これって、ダーリンの平穏も守れる?」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
校則で自分の平穏が守れる。
そんな都合のいい話があるなら、今すぐ全校放送で読み上げてほしい。
できれば、魔界契約書の上から百回くらい。
「……守れるなら、かなり助かる」
アイは少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあ、アタシがダーリンの平穏を邪魔したら、校則違反?」
直樹は答えようとして、止まった。
いつものように「そうだ」と叫べばいい。
だが、アイが思ったより本気で聞いていた。
美咲も、アリスも、宙も、少しだけ黙る。
直樹は頬をかいて、目をそらした。
「……場合による」
「場合によるの?」
「全部が全部、邪魔ってわけじゃないし」
アイの顔が少し明るくなる。
「じゃあ、ドラ焼きを一緒に食べるのは?」
「それは校則違反じゃない」
「ダーリンって呼ぶのは?」
「俺の精神には負荷がかかる」
「でも校則違反じゃない?」
「たぶん違う」
「じゃあ世界征服は?」
「それは違反以前にやめろ」
アイは真剣にうなずいた。
「人間界の校則、細かい」
「今のは校則じゃなくて俺の判断だ」
宙のワラ人形が低く告げる。
「本人意思、重要」
直樹はワラ人形を見る。
「お前、たまにまともなこと言うな」
宙は小さく頷いた。
「まとも、記録」
「それは記録しなくていい」
その瞬間、電子黒板がぴこんと鳴った。
教室中の視線が、黒板へ向く。
画面には、生徒会からの通知が表示されていた。
『生徒会規約と悪魔契約の整合性確認について』
直樹は固まった。
アイは首をかしげる。
アリスが小さく吹き出す。
美咲がため息をつく。
宙のワラ人形が、ゆっくりと告げた。
「本編、開始」
直樹は机を叩いた。
「開始するなぁぁぁ!」
* * *
電子黒板に表示された通知は、朝の教室を一瞬で静かにした。
『生徒会規約と悪魔契約の整合性確認について』
文字だけなら、ただの事務連絡である。
ただし、その中に「悪魔契約」という単語が混ざっている時点で、事務連絡としては完全に終わっていた。
直樹は電子黒板を見上げ、ゆっくりと顔をしかめる。
「タイトルがもう嫌だ」
美咲が隣の席から覗き込む。
「でも必要なんじゃない?」
「必要なのは分かる。分かるけど、朝一番に見るタイトルじゃない」
アリスはスマホで同じ通知を開きながら笑った。
「たしかに、普通は“体育館シューズを忘れないでください”とかだよね」
「それがいい。俺はそういう高校生活を求めてる」
アイは電子黒板をじっと見つめていた。
難しい言葉を見ると、とりあえず悪魔的に解釈しようとする顔である。
「ダーリン、整合性ってなに?」
「俺に聞くな。俺も今、整合性のある生活をしてない」
「えっと……契約と校則が仲良くできるかってこと?」
「ざっくり言えば、そうかもしれない」
そのとき、教室の入口から穏やかな声がした。
「かなり近いです」
白金光だった。
いつものように丁寧な物腰で、手にはタブレット。
朝から生徒会広報補佐の仕事をしているらしい。
直樹は反射的に身構えた。
「白金。お前が来ると、だいたい俺の人生が文書化される」
「今回は広報ではなく、規約確認です」
「似たような怖さがある!」
光は電子黒板へ視線を向ける。
「簡単に言うと、天満さんの契約が校内でどこまで認められるかの確認です」
アイの顔がぱっと明るくなった。
「アタシのダーリン契約が、学校デビューするの?」
直樹は即座に叫んだ。
「デビューするな!」
「でも、校内で認められるか確認するんでしょ?」
「認められない方向で確認してほしい!」
アイはむっとする。
「ひどい! ダーリン契約は、アタシとダーリンの大事な契約だよ!」
「大事かどうか以前に、俺はその名前を認めてない!」
美咲が冷静に言う。
「正式名称、何だったっけ」
光がタブレットを確認する。
「人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約、です」
教室中が少しだけざわついた。
「長っ」
「世界征服って入ってる」
「仮契約なのに重い」
「真央、やっぱり関係者じゃん」
直樹は机を叩いた。
「関係者って言うな!」
アリスが楽しそうに手を上げる。
「つまり、学園裁判編、再放送?」
直樹は振り向いた。
「続編だよ! 嫌なシリーズ化するな!」
「前回は広報編でしょ? 今回は規約編。次は監査編?」
「言うな! その単語はもう次回予告の匂いがする!」
アイは首をかしげる。
「監査って、悪魔学校でもあったよ。提出物が雑だと、すごく怒られるやつ」
「お前、魔界でも提出物で怒られてたのか」
「世界征服計画書の目的欄に“なんとなく”って書いたら、三回差し戻された」
「そりゃ差し戻される!」
美咲がため息をつく。
「その調子で契約書も作ったんじゃないでしょうね」
アイは目をそらした。
「えっと……魔界実習管理局が作ったから、アタシは悪くない」
直樹は光を見る。
「今の、確認事項に入れてくれ」
光はすでに入力していた。
「入れました」
「仕事が早い!」
アリスが画面をのぞき込もうとして、すぐに手を引っ込める。
「見ないほうがいいやつ?」
光は穏やかに頷く。
「個人情報と契約情報が含まれます」
「じゃあ見ない。前回学んだ」
美咲がうなずく。
「八割五分」
「ちょっと上がった!」
直樹は小さく感心した。
「アリスがちゃんと止まると、世界が少し平和になるな」
「真央、それ褒め方が重い」
その横で、宙が生徒手帳を開いたまま、ワラ人形を電子黒板へ向けていた。
ワラ人形が低く告げる。
「整合性確認。契約と校則の相性診断」
直樹は即座に突っ込む。
「相性診断にするな!」
アイはぱっと顔を上げた。
「相性いいかな?」
「よくなくていい!」
「でも、校則と契約が仲良くなったら、アタシも学校で活動しやすくなるよ?」
直樹は一瞬、言葉に詰まった。
それは、たしかにそうかもしれない。
校則がただアイを縛るだけなら、アイは反発する。
けれど、学校で何をしていいか、何をしてはいけないかが分かれば、アイが無自覚に直樹を巻き込む回数は減るかもしれない。
減るかもしれない。
たぶん。
希望的観測として。
「……ちゃんと守るなら、な」
直樹がそう言うと、アイは嬉しそうに笑った。
「守る! アタシ、最近は申請も覚えたし!」
美咲がすかさず言う。
「申請すれば何でも通るわけじゃないのも覚えなさい」
「うっ」
光が通知の続きを表示した。
『本日放課後、生徒会室にて確認会を行います』
『対象者:天満アイ、真央直樹』
『関係者:佐藤美咲、見上宙、珠瀬那々美、鈴鳴ベル、鏡野アリス』
『補佐:白金光』
直樹は目を細めた。
「対象者に俺がいる」
光は丁寧に頷く。
「契約者として」
「俺はその立場を認めてない!」
「認めていないことも確認します」
「確認されるのかよ!」
アリスが自分の名前を見て笑う。
「私、関係者なんだ」
美咲が言う。
「だいぶ関係してるでしょ」
「まあ、校内SNS止めたしね」
宙のワラ人形が低く言う。
「関係者、増殖」
直樹は頭を抱えた。
「増殖って言うな。俺の周囲だけ関係者欄が膨らんでいく……」
アイは通知を見て、真剣な顔で言った。
「ダーリン、アタシ、ちゃんと説明するね」
直樹は少しだけ警戒する。
「何を」
「アタシとダーリンの契約は、愛とドラ焼きと世界征服の――」
「その説明をするな!」
美咲が即座に赤ペンを取り出した。
「今の、絶対だめ」
アリスが笑う。
「美咲、もう生徒会前に赤入れ始めてる」
「予防よ」
光は微笑む。
「では、放課後までに各自、確認したい点を整理しておいてください」
直樹は小さく手を上げた。
「俺から確認したい点」
「はい」
「俺の平穏は、校則で守れますか」
教室に一瞬の沈黙。
光は少し考えた。
「理念としては」
「理念かぁ……」
アリスが肩を震わせる。
「真央の平穏、理念止まり」
「笑うな!」
宙のワラ人形が低く告げた。
「平穏保護、未実装」
「実装してくれ!」
電子黒板の通知は、最後に一文を表示した。
『なお、本件は今後の魔界関係者来訪時の確認資料となる可能性があります』
直樹は固まった。
アイが首をかしげる。
「魔界関係者?」
光が静かに言う。
「第10話の追記と関連している可能性があります」
直樹は机に両手をついた。
「関連しなくていい!」
美咲が肩をすくめる。
「完全に次への準備ね」
アリスがにこっと笑う。
「次回、監査編?」
「予告するな!」
宙のワラ人形が、低く締めた。
「放課後、生徒会室。校則対悪魔契約、開廷」
直樹は叫んだ。
「だから裁判にするなぁぁぁ!」
こうして、真央直樹の朝は、またしても平穏から一歩遠ざかった。
ただし今回は、悪魔でも魔法少女でもなく、校則と生徒会規約によって。
* * *
放課後の生徒会室は、妙に整っていた。
机は中央に長く並べられ、人数分の椅子が用意されている。
ホワイトボードには、きれいな字でこう書かれていた。
『生徒会規約と悪魔契約の整合性確認会』
直樹は入室した瞬間、その文字を見て足を止めた。
「やっぱりタイトルが嫌だ……」
アイはその隣で、少しだけ緊張した顔をしている。
「ダーリン、ここが校則バトルの会場?」
「会場って言うな。俺はまだ戦うつもりはない」
アリスが後ろから顔を出す。
「でも机の並び、完全に作戦会議じゃん」
美咲がため息をつく。
「作戦会議じゃなくて、事情確認でしょ」
宙はワラ人形を抱いたまま、いつの間にか壁際に立っていた。
ワラ人形が低く告げる。
「開廷」
「だから裁判にするな!」
直樹が叫んだところで、生徒会長の鳴海真奈が静かに顔を上げた。
机の奥。
姿勢よく座る真奈の前には、赤ペン、校則冊子、生徒会規約、そして大量の資料。
その横には白金光が控え、タブレットと紙資料を整えている。
さらに、なぜかベル先生が白衣姿で座っていた。
「教育的観点から同席します」
直樹は即座に言った。
「実験的観点からじゃないですよね?」
「今回は、できるだけ」
「“できるだけ”って何ですか!」
反対側には珠瀬那々美も座っていた。
きっちり背筋を伸ばし、星型チャームを鞄につけている。
真面目な顔だ。
真面目な顔すぎて、逆に怖い。
直樹は小声で美咲に言った。
「出席者の属性が多すぎる」
美咲も小声で返す。
「悪魔、魔法少女、呪術っぽい子、マッド教師、生徒会長、広報補佐、ギャル、幼なじみ、巻き込まれ男子」
「最後が俺か」
「最後があんたね」
直樹は椅子に座りながら、深く息を吐いた。
「普通の生徒会室って、予算案とか文化祭反省とかやる場所じゃないのか……」
光が穏やかに答える。
「本来はそうです」
「本来が遠い」
全員が席につくと、真奈が資料を一枚手に取った。
「では、始めます」
その一言だけで、生徒会室の空気が締まった。
アイが小さく背筋を伸ばす。
那々美も真剣な顔になる。
ベル先生は少し楽しそうに測定器へ手を伸ばしかけたが、真奈の視線を受けて、そっと手を引っ込めた。
直樹は思った。
真奈会長、やっぱり強い。
真奈は淡々と告げる。
「本日の目的は、悪魔契約、魔法少女活動、未確認魔法活動を、校内規則上どのように扱うか整理することです」
直樹はすぐに突っ込んだ。
「整理対象が増えすぎてる」
真奈は表情を変えない。
「増えたため、整理します」
「正論だけどつらい!」
アイが手を上げる。
「アタシの契約は、ダーリンとの大事な契約だよ?」
直樹が横から言う。
「名前はダーリン契約じゃない」
「でもアタシの中ではダーリン契約だもん」
「お前の中で育てるな」
真奈はアイを見る。
「天満さん。契約そのものについて、あなたが大切に思っていることは理解しています」
アイは少し意外そうに瞬きをした。
「否定しないの?」
「否定するための会議ではありません。整理するための会議です」
光が横で小さく頷く。
「言葉を整えることで、扱い方も見えてきます」
直樹は光を見る。
「お前が言うと、また見出しを整えられそうで怖い」
「今回は見出しではありません。取り扱い案です」
「取り扱われる俺の身にもなってくれ」
真奈は続ける。
「校内では、本人の意思確認と安全確認が優先されます」
アイが首をかしげる。
「本人って、ダーリン?」
直樹は即座に身を乗り出した。
「そうだよ。俺の意思だよ。やっと俺が出てきた」
美咲が頷く。
「そこ大事よね。直樹、毎回巻き込まれてるのに、契約者とか関係者とか素材とか、外側の名前ばっかり増えてるし」
「本当にそれな!」
アリスが小さく手を上げる。
「素材って言ったの、反省してます」
美咲がすぐ言う。
「八割五分継続」
「まだ満点じゃないんだ」
那々美が真剣に口を開く。
「本人の意思確認は、魔法少女活動にも必要ということですね」
真奈は頷く。
「はい。たとえ正義のためであっても、相手の意思を無視した行為は認められません」
那々美は少しだけ沈黙した。
「……浄化にも?」
「もちろんです」
直樹は那々美を見る。
「そこで一瞬考えるな」
アイが自分を抱きしめるようにする。
「アタシ、無断浄化されたくない」
「普通に怖い言葉だな、無断浄化」
ベル先生が少し身を乗り出した。
「無断浄化と同意済み浄化の魔力差は測定できるかしら」
真奈が静かに言う。
「鈴鳴先生」
「はい。測定しません」
「早い!」
直樹は感動しかけた。
だが、ベル先生の膝の上には小型測定器が乗っている。
「その機械は?」
「念のため」
「念が危険なんですよ!」
光が資料の束を持って立ち上がった。
「では、皆さんに本日の資料を配布します」
紙が一部ずつ配られる。
表紙には、きっちりした文字でこう書かれていた。
『悪魔契約・魔法少女活動・未確認魔法行為に関する校内取り扱い案』
直樹は表紙を見た瞬間、声を上げた。
「資料名が長い!」
光は丁寧に答える。
「対象を正確に記載した結果です」
「正確にすると怖さが増す!」
アリスが表紙を見て笑う。
「タイトルだけで情報量すごいね。略したら?」
光が少し考える。
「悪魔・魔法・未確認行為取り扱い案」
「それでも強い!」
宙のワラ人形が低く言う。
「三種混合」
「ワクチンみたいに言うな!」
美咲が資料をめくる。
「項目が細かいわね」
中には、以下のような見出しが並んでいた。
『一、悪魔契約の校内効力について』
『二、魔法少女活動の安全確認について』
『三、未確認魔法・魔界・呪術的行為の申請について』
『四、本人同意および周囲への影響確認について』
『五、無断広報・無断撮影・無断契約誘導の禁止について』
直樹は五番を指さした。
「ここだけ俺の人生に直撃してる」
アイは一番をじっと見つめている。
「校内効力……アタシの契約、効力あるかな?」
真奈ははっきりと言った。
「校則上、そのまま効力を認めることはできません」
アイの肩が、少しだけ落ちる。
「だめなの?」
直樹はその反応を見て、少しだけ目をそらした。
契約なんて無効でいい。
そう思っている。
思っているはずなのに、アイがしゅんとすると、少し胸の奥が引っかかる。
真奈は言葉を続けた。
「ただし、天満さんが学校生活を送ることまで否定するものではありません」
アイが顔を上げる。
「ほんと?」
「はい。そのために、どの行為が認められ、どの行為に申請や同意が必要かを整理します」
直樹はほっとしたような、困ったような顔になった。
「つまり、契約はそのまま通らないけど、学校にいるためのルールは作るってことか」
光が頷く。
「はい。契約を学校側が認めるのではなく、学校生活上の行動として整理します」
アイは考え込む。
「悪魔契約じゃなくて、学校生活上の行動……」
宙のワラ人形が低く言う。
「契約、校則に分解」
「分解するな。怖い」
那々美が資料の二番を見て、真剣に言う。
「魔法少女活動も整理対象なのですね」
真奈は頷く。
「はい。変身、結界、魔法弾、浄化、見守り、いずれも校内で行う場合は安全確認が必要です」
那々美は少しだけ固まった。
「見守りも?」
「表現と方法によります」
直樹は小声で言った。
「正義側も逃げられなかった」
美咲が小声で返す。
「公平でいいじゃない」
アリスは資料をぱらぱらめくりながら、目を輝かせる。
「これ、完全に学園ルールデッキだね。悪魔契約カードに対して、校則カードでカウンター」
直樹はすぐに突っ込む。
「カードゲームにするな!」
光が少し反応する。
「内部見出しとしては、“校則と悪魔契約、文書バトル開幕”」
「内部見出しを作るな!」
真奈の赤ペンが、こつんと机を叩いた。
光はすぐに姿勢を正す。
「正式資料には使用しません」
「正式じゃなくても使用しないでください!」
真奈は資料の一番上を指で押さえる。
「本日は結論を急ぎません。まず、現状を整理します」
直樹は手を上げた。
「確認していいですか」
「どうぞ」
「現状を整理した結果、俺の負担が増える可能性は?」
光は静かに答えた。
「あります」
「即答しないでほしかった!」
アイが直樹の袖をつまむ。
「ダーリン、大丈夫。アタシ、ちゃんと校則を守る仔悪魔になるから」
直樹は少しだけ疑わしそうに見る。
「本当だな?」
「うん。まず、校則に世界征服を追加するには、誰に申請すればいい?」
「守る気がない!」
美咲が額を押さえる。
アリスが笑う。
那々美が真面目に「それは悪魔活動の拡大申請では」と考え始める。
ベル先生が測定器をそっと起動しかける。
宙のワラ人形が「契約反応、微増」と告げる。
真奈の赤ペンが、再びこつんと机を叩いた。
全員が止まる。
真奈は静かに言った。
「では、まず校則本文と契約文の照合から始めます」
直樹は天井を見上げた。
「俺の放課後、始まる前から終わってる……」
こうして、生徒会室での校則と悪魔契約の照合は、ようやく始まった。
ただし、すでに全員が薄々分かっていた。
整理するはずの会議は、たぶん整理される前にまた騒動になる。
* * *
生徒会室の中央に、校則冊子が置かれた。
正式名称は『鏡星学園高等部 生徒心得』。
表紙は地味。
紙質も普通。
中身も、おそらく普通。
少なくとも、本来なら悪魔契約と戦うための聖典ではない。
だが、今この場では、妙に重々しい存在感を放っていた。
直樹はそれを見つめながら、小さく言う。
「ただの校則冊子だよな?」
美咲が隣で頷く。
「ただの校則冊子よ」
アリスが首をかしげる。
「でも、置き方がもう封印アイテムっぽいんだよね」
「言うな。俺もそう見えてきた」
アイは校則冊子をじっと見て、少し警戒していた。
「これ、アタシに効くの?」
「効かなくていい。いや、少し効いてほしい。でも変な効き方はするな」
「ダーリン、要求が複雑」
「俺の人生が複雑なんだよ」
そのとき、見上宙が静かに校則冊子へ手を伸ばした。
いつもの無表情。
いつものワラ人形。
ただし、今日はなぜかワラ人形の首元に、小さな紙のしおりが結ばれている。
直樹はそれを見逃さなかった。
「宙、そのしおり何だ」
「目印」
「何の?」
「反応箇所」
「反応する前提で準備するな!」
宙は返事をせず、校則冊子を開いた。
ぺらり。
紙の音だけが、生徒会室に響く。
ワラ人形が、低い声で読み上げた。
「校則、第十二条。校内活動は、本人の同意と管理者の許可を要する」
その瞬間。
ぴくっ。
アイの小さな角が、確かに動いた。
「ひゃっ」
アイが両手で頭を押さえる。
「なんか今、角がむずむずした!」
直樹は椅子から半分立ち上がった。
「校則で角が反応するな!」
美咲が目を丸くする。
「本当に反応した?」
アリスも身を乗り出す。
「え、今の見た? ちょっと動いたよね?」
アイは角を押さえたまま、涙目になっている。
「なんか、耳元で“同意確認”って囁かれた感じがした!」
「校則が囁くな!」
宙は淡々とメモを取る。
「悪魔契約、校則文に干渉反応」
直樹は宙を指さした。
「お前が冷静に言うと実験結果っぽくなるからやめろ!」
那々美は真剣な顔で校則冊子を見つめた。
「校則に、悪魔を抑える力が……?」
アイがびくっとする。
「抑えられるの?」
直樹が即座に言う。
「悪魔を抑えるんじゃなくて、勝手な契約行為を抑える方向でお願いします」
真奈は赤ペンを手元に置いたまま、静かに言った。
「校則は悪魔を抑えるためのものではありません」
ベル先生は、いつの間にか小型測定器を机に出していた。
直樹はすぐに気づく。
「先生、その機械いつ出しました?」
「今よ」
「堂々と出すな!」
ベル先生は測定器の画面を覗き込み、目を輝かせた。
「面白いわね。校則文が悪魔契約に対して微弱な拘束場を作っている可能性があるわ」
真奈は即座に言った。
「校則は拘束場ではありません」
「でも測定値が――」
「鈴鳴先生」
真奈の声は静かだった。
静かすぎて、測定器の電子音まで小さくなった気がした。
「実験計画書はありますか」
ベル先生は少しだけ沈黙した。
「……今から」
直樹は頭を抱えた。
「またこの流れ!」
光が横で資料を確認する。
「現時点では、無許可測定として扱うべきですね」
「白金が完全に生徒会側だ!」
「生徒会広報補佐ですので」
ベル先生は測定器を少しだけ引っ込める。
「分かったわ。正式な実験ではなく、偶発的観測として――」
真奈が赤ペンを机に置いた。
こつん。
「鈴鳴先生」
「はい。停止します」
直樹は感動した。
「赤ペン、測定器より強い……」
宙のワラ人形が低く告げる。
「赤ペン、術式停止具」
「それも違う!」
真奈はきっぱりと言った。
「赤ペンも術式ではありません」
アリスが小声で美咲に言う。
「でも、今の空気だと完全に封印具っぽかったよね」
美咲も小声で返す。
「分かるけど、真奈会長の前で言わないほうがいいわよ」
アイはまだ角を押さえている。
「ダーリン、校則怖い」
「俺は今までの騒動で、お前の契約書のほうが怖かった」
「でも校則、アタシの角に来たよ?」
「来たって言うな。校則が訪問してきたみたいになる」
宙は再び校則冊子へ視線を落とした。
「再検証」
直樹はすぐに止める。
「するな!」
しかし、真奈は少し考えたあと、言った。
「確認だけであれば、必要です。見上さん、読み上げは一条文ずつ。鈴鳴先生、測定器は停止。白金くん、記録をお願いします」
光が頷く。
「はい」
直樹は顔を引きつらせる。
「結局やるんですか!?」
真奈は冷静だった。
「現象が起きた以上、整理は必要です」
「整理って言葉で怪異に近づいていく!」
宙は次の条文を開いた。
ワラ人形が読む。
「校則、第十五条。無断で校内設備を改変してはならない」
ぴくっ。
今度は、ベル先生の白衣のポケットから、何かの工具が少しだけ震えた。
直樹は叫ぶ。
「先生のほうが反応した!」
ベル先生は工具を押さえながら、少しだけ目をそらす。
「心当たりがないとは言えないわね」
美咲が呆れる。
「ありすぎるんじゃないですか」
真奈は無言で赤ペンを構えた。
ベル先生はすぐに工具をしまった。
「はい、改変しません」
宙は淡々とメモする。
「校則、教職員にも効く」
「効いてるって言い方が嫌だ!」
ワラ人形はさらに続ける。
「校則、第十八条。廊下を走ってはならない」
その瞬間。
部屋の端で那々美の星型チャームが、かすかに光った。
那々美が真剣な顔で言う。
「変身後の移動時に、抵触する可能性があります」
直樹はすぐに反応した。
「変身後の移動を廊下でする前提をやめろ!」
アイも手を上げる。
「ホウキ飛行は?」
真奈が即答した。
「廊下では不可です」
「校庭なら?」
「安全確認と申請が必要です」
「申請すれば飛べる!」
「そこだけ前向きに受け取るな!」
アリスが笑いをこらえている。
「やばい。校則読み上げるだけで全員の違反候補が出てくる」
光がタブレットに入力する。
「内部見出しとしては、“校則、全員に刺さる”」
直樹は即座に振り向いた。
「白金!」
「正式には使いません」
「正式以外でも使うな!」
真奈が資料を見ながら、静かにまとめる。
「現時点で確認できることは、校則文そのものに魔術的効力があると断定するものではありません。ただし、校則が示す内容と、皆さんの特殊活動が抵触しやすいことは明らかです」
直樹は大きく頷いた。
「それは分かります。めちゃくちゃ分かります」
宙のワラ人形が低く告げる。
「特殊活動、多発」
「俺は特殊活動したくないんだよ!」
アイはしょんぼりしながら言う。
「アタシ、校則に嫌われてる?」
真奈は少しだけ表情を和らげた。
「嫌われているわけではありません。校則は、誰かを嫌うためのものではありません」
アイは瞬きをする。
「じゃあ、何のため?」
「全員が学校で安全に過ごすためです」
直樹は、思わずその言葉を聞いていた。
安全に過ごす。
平穏に過ごす。
それは、直樹がずっと求めていたものだ。
ただ、今の直樹の周囲では、そのために校則と悪魔契約と魔法少女活動を同じ机に並べる必要がある。
人生の難易度が高い。
アイは少し考え込む。
「校則って、ダーリンを守るためにもある?」
真奈は頷く。
「もちろんです」
アイは直樹を見る。
「じゃあ、アタシがダーリンの嫌がることをしたら、校則が怒る?」
「校則が怒るわけじゃない」
直樹はそう言いかけて、机の上の校則冊子を見た。
さっき、確かにアイの角は反応した。
ベル先生の工具も震えた。
那々美のチャームも光った。
直樹は言葉を変えた。
「……まあ、真奈会長が怒る」
アイは真奈を見る。
真奈は赤ペンを静かに持っている。
アイは背筋を伸ばした。
「それは怖い」
「校則より効いてるじゃねえか」
ベル先生が小さく笑う。
「やっぱり赤ペンが本体かしら」
真奈が見る。
ベル先生はすぐに黙った。
宙は校則冊子に、しおりを挟む。
「反応確認。次、申請書」
直樹は青ざめる。
「次があるのかよ!」
光が資料をめくる。
「次の議題は、同意確認フォームです」
アイの角が、今度は読む前からぴくっと動いた。
直樹は叫んだ。
「先に反応するなぁぁぁ!」
生徒会室の校則照合は、まだ始まったばかりだった。
* * *
校則冊子は、ただの校則冊子である。
少なくとも、鳴海真奈はそう主張している。
しかし、アイの角は反応した。
ベル先生の工具も震えた。
那々美の星型チャームも光った。
直樹の胃も痛くなった。
つまり、被害はすでに発生している。
「……この学校、校則を読むだけでイベントが起きるのか」
直樹が机に突っ伏しかけると、真奈は静かに資料を整えた。
「では、次の確認に移ります」
「今ので終わりじゃないんですか」
「始まったばかりです」
「俺の放課後、長編シリーズ化してる……」
真奈は新しい書類の束を取り出した。
光が立ち上がり、人数分を配っていく。
白い紙。
きれいなレイアウト。
項目は整っている。
ただし、タイトルが普通ではなかった。
『校内特殊活動における同意確認フォーム』
直樹は紙を見た瞬間、声を上げた。
「普通の学校のフォームじゃない!」
光は穏やかに答えた。
「普通の学校では必要ありませんので」
「うちの学校にも必要ない世界線がよかった!」
アリスが紙を覗き込む。
「うわ、ちゃんとしてる。活動内容、関係者、本人同意、周囲への影響、安全対策、撮影・広報可否……」
美咲も読み上げる。
「魔法・魔界・呪術的要素の有無」
直樹はその項目を指で叩いた。
「この一行が全部を台無しにしてる!」
ベル先生は興味深そうに頷いた。
「でも必要ね。未確認要素を事前に分類できるのは大事よ」
「先生が言うと“分類したあと実験します”に聞こえるんですけど」
「分類だけで終わるとは限らないわ」
「終わってください!」
真奈が赤ペンを持ち上げる。
「鈴鳴先生」
「はい。終わります」
直樹は小さく拍手した。
「赤ペン、今日も即効性が高い」
アイは配られたフォームを両手で持ち、目を輝かせていた。
「ダーリン、見て! ダーリン同意欄がある!」
直樹は即座に叫んだ。
「俺の同意欄を勝手に喜ぶな!」
「だって、ここに“本人同意”って書いてあるよ? ダーリンがここに丸をつけたら、アタシの活動ができるってこと?」
「俺を丸つけ係にするな!」
アイは真剣に考え込む。
「じゃあ、“ダーリンはアイと一緒に世界征服活動を行うことに同意します”って書けば――」
「書かない!」
美咲が横からフォームを取り上げた。
「まず“世界征服活動”って何よ」
「人間界を平和的に征服するための活動」
「平和的でも征服はだめ」
「じゃあ、平和的参加活動」
「最初からそれにしなさい」
アイはむうっと頬を膨らませる。
「人間界、言い換えが多い」
アリスが笑う。
「でも言い換え大事だよ。“征服”って書くと一発アウトだけど、“参加”ならワンチャンあるし」
直樹はアリスを見る。
「その“ワンチャン”がだいたい騒動の入口なんだよ」
「否定できない」
那々美はフォームを両手で持ち、真剣な表情で読んでいた。
そして、おずおずと手を上げる。
「あの、鳴海会長」
「はい」
「魔法少女活動にも必要ですか?」
「必要です」
即答だった。
那々美は少しだけ目を見開く。
「正義でも?」
「正義でもです」
那々美は、ほんの少しショックを受けた顔をした。
「正義でも……申請が……」
直樹はすかさず言った。
「そこはショック受けるところじゃない。むしろ安心するところだ」
アイも那々美を見て、なぜか少し勝ち誇った顔をする。
「魔法少女もフォーム書くんだ」
那々美は真面目に返す。
「悪魔活動と一緒にされるのは、少し複雑です」
「アタシも浄化活動と一緒にされるのは複雑だよ!」
直樹は両手を上げた。
「両方とも、まず活動名を落ち着かせろ!」
光が資料を確認しながら言う。
「今回のフォームは、特定の立場を否定するためのものではありません。校内で特殊な活動を行う場合に、本人同意と安全確認を明確にするためのものです」
アリスが感心したように頷く。
「おお、説明が広報っぽい」
光は少しだけ微笑む。
「規約文書でも、誤解されない表現は重要です」
「見出しは?」
直樹が警戒して聞くと、光は一瞬だけ目をそらした。
「内部見出しとしては、“正義も悪魔も同意制”」
「作ってるじゃねえか!」
真奈の赤ペンが、こつん。
光はすぐに姿勢を正した。
「正式には使用しません」
「正式じゃなくても使用しないでください!」
宙はフォームをじっと見ていた。
そして、ワラ人形が低く言う。
「本人同意欄、強い」
直樹は嫌な予感がした。
「強いって何だ」
「契約干渉点」
「やめろ。フォームまで呪術にするな」
宙は淡々と続ける。
「署名欄、依代に適性あり」
直樹は椅子から立ち上がりかけた。
「署名欄を依代にするな!」
真奈が静かに言う。
「見上さん。このフォームは呪術的用途に使用しません」
宙は少しだけ考えた。
「未使用」
「“今回は”みたいな顔をするな!」
ベル先生がフォームの項目を見ながら、楽しそうに言う。
「でも、本人同意の有無で魔力反応が変わるかどうかは、かなり興味深いわね。たとえば、無断浄化と同意済み浄化で――」
那々美が真っ赤になる。
「同意済み浄化って何ですか!?」
アイも叫ぶ。
「アタシ、同意しても浄化されたくない!」
直樹が叫ぶ。
「誰も浄化実験をするな!」
真奈の赤ペンが、こつん。
ベル先生は即座に黙った。
生徒会室に、妙な静けさが戻る。
直樹は深く息を吐いた。
「この部屋、赤ペンの音で秩序が戻るな……」
美咲はフォームを見ながら、少し真面目な顔をした。
「でも、これがあると分かりやすいわね。直樹が嫌がってるのに巻き込むのはだめって、ちゃんと書けるし」
直樹は頷く。
「そこは助かる」
アイはフォームの“本人同意”欄を見つめる。
「ダーリンが嫌って言ったら、だめ?」
「だめだ」
「契約でも?」
「契約でも」
アイは小さく眉を寄せる。
少し考えている。
さっきまで世界征服の申請欄に丸をつける気満々だった顔とは、少し違った。
「じゃあ、ダーリンが“いいよ”って言ったことだけ?」
「最低限な」
美咲が補足する。
「あと、周りに迷惑かけないこと」
アリスも言う。
「広報に載せるなら、撮影・公開オーケーも確認」
那々美が真面目に言う。
「正義のためでも、相手の同意と周囲の安全確認が必要……」
直樹は那々美を見る。
「そこで学んでくれるなら、俺はかなり安心だ」
那々美は少しだけ視線を下げた。
「……前回は、少し急ぎすぎました」
アイはそっと那々美を見る。
「少し?」
直樹はアイを止める。
「煽るな」
真奈は全員を見回し、淡々と説明を続ける。
「このフォームは、活動を禁止するためだけのものではありません。活動内容、関係者、同意、安全対策を明確にすることで、許可できるものとできないものを判断するためのものです」
アイが手を上げる。
「じゃあ、ちゃんと書けば、アタシも何かできる?」
「内容によります」
「ドラ焼き布教は?」
「食品を扱う場合は、別紙の食品提供申請が必要です」
アイの目が輝いた。
「別紙がある!」
直樹は叫んだ。
「そこに希望を見出すな!」
光がすっと別の薄い紙を出した。
「こちらです」
「用意がいい!」
アイは別紙を受け取り、真剣な顔で読もうとする。
「食品提供……保存方法……衛生管理……供物表記……」
真奈が即座に訂正する。
「供物表記はありません」
「ないの!?」
「ありません」
美咲が言う。
「食品って書きなさい」
アイはしょんぼりした。
「人間界、供物に冷たい」
「供物として出そうとするからだ!」
真奈は配布資料をまとめ、次のページを示す。
「では、次に実際の記入例を確認します」
直樹は嫌な予感しかしなかった。
「記入例って、誰の?」
アイが、すでにペンを握っている。
紙の一番上には、なぜかこう書かれていた。
『活動名:世界征服同好会』
直樹は絶叫した。
「記入例にするなぁぁぁ!」
真奈の赤ペンが、すっと構えられた。
同意確認フォームは、配られただけで終わらなかった。
むしろ、ここからが本番だった。
* * *
同意確認フォームは、配られた瞬間から危険だった。
なぜなら、天満アイがそれを「学校公認で何かをしてよい紙」と理解したからである。
惜しい。
かなり惜しい。
だが、この仔悪魔の場合、その「何か」の中に世界征服が入る。
アイはペンを握り、真剣な顔でフォームの一番上に書き込んだ。
『活動名:世界征服同好会』
直樹は即座に紙を押さえた。
「最初の一行でアウト!」
アイは不満そうに頬を膨らませる。
「まだ活動名しか書いてないよ?」
「活動名だけで審査落ちする破壊力なんだよ!」
真奈は無言で赤ペンを持ち上げた。
赤い線が、すっと走る。
『世界征服同好会』
ざくっ。
アイは胸を押さえた。
「アタシの夢が!」
「学校の申請書に乗せる夢じゃない」
美咲が淡々と言う。
アリスは横から覗き込み、感心したように笑った。
「でもタイトルだけなら強いよね。文化祭の裏企画っぽい」
直樹は睨む。
「褒めるな。タイトルの強さで世界が壊れる」
光はタブレットにメモを取りかけた。
「内部見出しとしては、“仔悪魔、同好会で世界征服を申請”」
「白金!」
「正式には使いません」
「正式じゃなくても使うな!」
アイは気を取り直し、活動名の下に目的を書き込んだ。
『目的:人間界を平和的に征服し、ダーリンと楽しく暮らす』
直樹は机を叩いた。
「全部アウト!」
「全部!?」
「全部だ!」
美咲が指を折りながら言う。
「人間界、征服、ダーリン。危険語が三つ並んでる」
アイはむっとした。
「“平和的に”って書いたよ?」
「征服の前に“平和的に”をつければ許されると思うな」
真奈の赤ペンが再び動く。
『人間界を平和的に征服』→不可。
『ダーリン』→校内文書では不適切。
『楽しく暮らす』→活動目的として曖昧。
アイは赤くなった紙を見て、目を丸くする。
「ダーリンもだめ?」
直樹は即答した。
「だめだ。むしろ一番だめだ」
「じゃあ、“契約者”なら?」
光が穏やかに言う。
「本人の意思確認が必要です」
直樹は力強く頷いた。
「俺は認めない」
アイはペン先を止める。
「じゃあ、ダーリンって書けない……」
「書かなくていい!」
宙のワラ人形が低く告げた。
「呼称、文書化失敗」
「文書化しようとするな」
それでもアイは諦めなかった。
むしろ、悪魔としての粘り強さが妙な方向に発揮されている。
活動内容欄に、さらに書き込む。
『活動内容:ドラ焼き布教、契約者支援、魔界風広報、校内支配率向上』
美咲がすぐに突っ込んだ。
「支配率向上って何よ」
アイは胸を張る。
「文化祭で支配率センサーが――」
直樹は叫んだ。
「ベル先生の機材を参考にするな!」
ベル先生は少し嬉しそうに手を上げる。
「来場者支配率センサーは、正確には心理的関心度と導線誘導率を――」
真奈の赤ペンが、こつん。
ベル先生はすぐに黙った。
「はい。説明しません」
直樹はしみじみ言う。
「赤ペン、今日も仕事が早い……」
真奈はアイのフォームへ、淡々と赤を入れていく。
『ドラ焼き布教』→食品を伴う場合は申請別紙。
『契約者支援』→本人同意が必要。
『魔界風広報』→広報内容の事前確認が必要。
『校内支配率向上』→不可。
アイは真っ赤になったフォームを見下ろした。
「ドラ焼きだけ残った!」
直樹は即座に言った。
「逆にそれだけでいいだろ!」
「でも、世界征服同好会なのに?」
「だから世界征服同好会をやめろ!」
アリスが手を上げる。
「じゃあ、“ドラ焼き研究会”とかなら?」
真奈は少し考える。
「食品を扱わず、既製品の感想共有程度であれば、通常の同好会活動として検討できます」
アイの目が輝いた。
「ドラ焼き研究会!」
直樹は嫌な予感で背筋が冷えた。
「待て。それはそれで危ない」
美咲が頷く。
「アイの場合、研究の最終目標がまた供物になるでしょ」
「供物って書かなければいい?」
「考え方から離れなさい」
光が穏やかに補足する。
「校内活動として提出するなら、目的は“交流”や“文化理解”のようにするとよいかもしれません」
アイは真剣にメモを取る。
「交流。文化理解。ドラ焼き」
直樹は横から覗き込む。
「今、“征服”って小さく書き足したな?」
「心の中だけ」
「心の中にも書くな」
那々美が少し困った顔で言う。
「悪魔活動としては不適切ですが、ドラ焼き研究なら……悪しき活動ではない、のでしょうか」
アイがぱっと那々美を見る。
「魔法少女にも認められた!」
「まだ認めたわけでは」
「じゃあ、那々美も入る?」
「えっ」
那々美が固まった。
直樹は即座に止める。
「魔法少女をドラ焼きで懐柔するな」
アイは胸を張る。
「正義にも甘味は必要だよ」
美咲が小さく笑う。
「そこだけはちょっと正しいかも」
那々美は戸惑いながらも、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……ドラ焼きは、嫌いではありません」
アイは勝ち誇った。
「ほら!」
直樹は頭を抱える。
「くそ、ドラ焼きだけは毎回妙に強い……」
宙のワラ人形が低く告げる。
「供物改め、食品。征服改め、交流」
真奈が頷く。
「その方向なら、再提出は可能です」
アイは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、世界征服同好会はだめだけど、ドラ焼き交流会ならいい?」
「内容次第です」
「内容次第!」
アイはその言葉を、まるで希望の呪文のように受け取った。
直樹はすぐに釘を刺す。
「“内容次第”は“だいたい通る”って意味じゃないからな」
「分かってるよ。まず申請、次に同意、最後にドラ焼き」
「最後にドラ焼きを固定するな」
光がタブレットに修正版を打ち込む。
「活動名案。“ドラ焼き文化交流会”」
アリスが笑う。
「急に文化的になった」
美咲が言う。
「最初が世界征服だったことを考えれば大進歩よ」
アイは真っ赤になった最初のフォームを見て、少しだけしょんぼりした。
「でも、世界征服って書くとだめなんだね」
直樹は言う。
「校内文書じゃなくてもだめだ」
真奈は静かに補足した。
「少なくとも、学校では“征服”ではなく“参加”と書いてください」
アイはその言葉を聞いて、少し考えた。
「参加……」
文化祭のときにも言われた言葉だ。
征服より参加。
勝手に支配するのではなく、みんなと一緒に何かをする。
アイは新しいフォームを一枚もらい、活動名欄にゆっくり書いた。
『ドラ焼き文化交流会』
その下に、小さく。
『目的:みんなと楽しく参加する』
直樹はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。
「……それなら、まあ、だいぶましだな」
アイはぱっと顔を上げる。
「ほんと?」
「世界征服同好会よりは百倍まし」
「百倍!」
アイは嬉しそうに笑った。
その横で、光が小さくメモを取る。
「内部見出し。“世界征服、ドラ焼きに敗れる”」
直樹は叫んだ。
「白金、最後に台無しにするなぁぁぁ!」
真奈の赤ペンが、再びこつんと鳴った。
その音だけで、世界征服同好会は正式に消滅した。
残ったのは、ドラ焼きだけだった。
* * *
世界征服同好会は、赤ペンによって消滅した。
残ったのは、ドラ焼き文化交流会である。
直樹は思った。
世界征服がドラ焼きに負ける光景を、生きているうちに見るとは思わなかった。
だが、生徒会室の戦いはまだ終わっていない。
なぜなら、この場にはもう一人、強めの活動名を抱えた少女がいたからである。
珠瀬那々美。
校内に現れた魔法少女。
正義感が強く、真面目で、困っている人を放っておけない。
ただし、悪魔を見つけると浄化という単語が出てくる。
那々美は、アイの真っ赤になった申請書を見届けたあと、静かに自分のフォームを机の上に置いた。
「私も、提出します」
直樹は嫌な予感で背筋を伸ばした。
「その真面目な顔、逆に怖いんだよな……」
那々美はまっすぐな字で書かれたフォームを、真奈の前へ差し出す。
活動名。
『校内正義活動』
目的。
『悪しき魔法・悪魔反応から校内を守る』
活動内容。
『変身、結界、浄化、魔法弾、正義の見守り』
直樹は即座に叫んだ。
「こっちも強い!」
アイは自分を指さした。
「アタシ、また守られる側じゃなくて浄化される側?」
那々美は真剣に答える。
「現時点では浄化保留です」
直樹は机を叩いた。
「保留って言われる側の気持ちを考えて!」
アイは両手で自分の角を押さえた。
「保留って、あとで浄化される可能性があるってこと?」
「必要がなければ、行いません」
「必要があったらするの!?」
那々美は少し困ったように言う。
「悪しき反応が強まった場合は……」
アイは直樹の袖をつかんだ。
「ダーリン、アタシ悪しき反応出てる?」
「ドラ焼きを見ると出るかもしれない」
「それは喜び反応!」
美咲が那々美のフォームを見て、額に手を当てた。
「アイの申請書と別方向で危ないわね」
アリスはスマホを出しかけて、すぐにしまった。
「撮らない。これは撮らない。でも言わせて。活動名が強すぎる」
光はタブレットへ視線を落とした。
「内部見出しとしては、“正義、申請書に降臨”」
直樹は振り向いた。
「白金!」
「正式には使いません」
「もうその返答ごと禁止にしてくれ!」
真奈は那々美のフォームを受け取り、静かに赤ペンを構えた。
その瞬間、那々美がわずかに緊張する。
アイも息をのむ。
直樹は思った。
悪魔と魔法少女が、同じ赤ペンを恐れている。
ある意味、平等だった。
真奈はまず、目的欄に線を引く。
『悪しき』→主観表現のため不可。
那々美が目を瞬かせた。
「主観、ですか」
「はい。相手を十分に確認せず“悪しき”と定義することは避けてください」
アイが少しだけ胸を張る。
「ほら、アタシ悪しきじゃないって!」
直樹はすぐに言う。
「調子に乗ると悪しき寄りになるから黙ってろ」
「ダーリンひどい!」
真奈は次に、活動内容へ赤を入れる。
『浄化』→相手の同意なしには不可。
アイは即座に言った。
「同意しません!」
「早いですね」
那々美は少し戸惑った。
「でも、相手が悪魔反応を出していた場合でも?」
真奈は表情を変えない。
「まず事情確認です。校内で一方的な浄化行為は認めません」
直樹は深く頷いた。
「その一文、額に入れて飾りたい」
光がメモする。
「掲示用文案として検討します」
「本気にするな!」
真奈の赤ペンは止まらない。
『魔法弾』→校内使用不可。
那々美は少しだけショックを受けた。
「魔法弾も、ですか」
美咲がすぐに突っ込む。
「校内で魔法弾が残るほうが困るわよ」
直樹も大きく頷く。
「廊下で撃たれたら、俺の回避能力がまた変な評価される」
ベル先生が興味深そうに言う。
「真央くんの回避データは、前回かなり優秀だったわね」
「掘り返さないでください!」
真奈の赤ペンが、こつん。
ベル先生は黙った。
那々美は活動内容の最後を見る。
『正義の見守り』
真奈の赤ペンがそこにも入る。
『正義の見守り』→安全確認に表現変更。
那々美は唇を引き結んだ。
「正義の見守りも、だめですか」
光がやわらかく説明する。
「“見守り”という言葉自体は悪くありません。ただ、特定の個人を継続的に対象にする場合、監視と受け取られる可能性があります」
直樹はアイを見た。
「な?」
アイは頷いた。
「アタシ、見守られるよりドラ焼きを見たい」
「それは別問題だ」
アリスが笑う。
「“正義の見守り”って字面はかわいいけど、やられる側はちょっと怖いかもね」
那々美は少しだけ顔を伏せた。
「……守るつもりでした」
美咲が、少し声をやわらげる。
「それは分かる。でも、守るって言いながら相手を怖がらせたら、たぶん逆効果よ」
那々美は美咲を見る。
それから、アイを見る。
アイは少し警戒しながらも、じっと那々美を見返していた。
「私、悪魔だからって理由で、最初から決めつけられるのはちょっと嫌」
アイがぽつりと言った。
生徒会室が、少しだけ静かになる。
いつものアイなら、ここで「アタシは良識ある参加型仔悪魔だよ!」と胸を張るところだ。
けれど、今は少し違った。
那々美は、フォームの赤い線を見つめる。
「……分かりました。表現を変えます」
直樹は少しだけほっとした。
だが、那々美はすぐにペンを持ち直す。
「では、“校内安全活動”ならどうでしょう」
真奈は頷く。
「活動目的としては適切です」
那々美の表情が少し明るくなる。
「活動内容は、変身、結界、浄化、魔法弾――」
直樹はすぐに叫んだ。
「戻すな!」
真奈が淡々と修正する。
「変身については、周囲の安全確認が必要です」
「はい」
「結界は、通行・避難経路を妨げないこと」
「はい」
「浄化は、相手の同意なしには不可」
「はい……」
「魔法弾は校内使用不可」
「はい……」
「見守りは、安全確認として必要最小限に」
「はい」
那々美は、しゅんとした。
「魔法少女活動、ほとんど残りません」
美咲がきっぱり言った。
「校内で魔法弾が残るほうが困るわよ」
直樹も頷く。
「あと浄化も困る」
アイも頷く。
「すごく困る」
那々美は少しだけ眉を下げた。
「では、私にできることは……」
光が修正版を画面に表示する。
『校内安全確認活動』
『目的:未確認魔法・魔界反応による校内混乱を防ぐ』
『活動内容:状況確認、関係者への声かけ、生徒会・教職員への報告』
直樹は画面を見て、目を丸くした。
「急にまともになった」
アリスが言う。
「決め台詞感は消えたね」
那々美は少し寂しそうにする。
「正義感も薄くなりました」
真奈は静かに言った。
「正義は、表現を強くしなくても示せます」
那々美はその言葉を聞いて、少しだけ背筋を伸ばした。
「……はい」
アイは小さく手を上げる。
「あの、那々美」
「はい」
「アタシ、まだ浄化保留?」
那々美は一瞬考える。
そして、真奈の赤ペンを見る。
直樹を見る。
最後にアイを見る。
「……安全確認継続、です」
アイはほっとしたような、よく分からないような顔をした。
「それなら、ちょっとまし」
直樹はうなずいた。
「ましだな。かなり」
宙のワラ人形が低く告げる。
「浄化、文書上消滅」
アイはぱっと笑った。
「消えた!」
直樹はすぐに釘を刺す。
「だからって暴れるなよ」
「暴れないよ。アタシ、申請を覚えた仔悪魔だから」
美咲が静かに言う。
「申請しても暴れたらだめよ」
「人間界、難しい!」
光がまた小さくメモを取る。
「内部見出し。“魔法少女、校則により丸くなる”」
直樹は反射的に叫んだ。
「だから見出しにするな!」
那々美が少し驚いた顔で光を見る。
「丸く……?」
アリスが笑う。
「まあ、角が取れたって意味でしょ。魔法少女だけど」
アイが自分の角を触る。
「アタシの角は取れないよ?」
「そこじゃない」
真奈の赤ペンが、こつんと机を叩いた。
全員の声が止まる。
「次に進みます」
真奈は修正版のフォームを那々美へ返した。
「珠瀬さん。正義感は否定しません。ただし、本校では正義であっても手続きと安全確認を必要とします」
那々美は両手でフォームを受け取った。
「分かりました」
その横で、アイが小さくつぶやく。
「悪魔も魔法少女も、赤ペンには勝てないんだね」
直樹は心から言った。
「そこだけは、今日一番正しい理解だ」
こうして、世界征服同好会に続き、校内正義活動もまた、大幅な赤入れを受けた。
残ったのは、ドラ焼き文化交流会と、校内安全確認活動。
名前だけ見れば、かなり平和である。
中身が平和かどうかは、まだ誰にも分からなかった。
* * *
世界征服同好会は、ドラ焼き文化交流会になった。
校内正義活動は、校内安全確認活動になった。
悪魔と魔法少女が、そろって赤ペンに丸められた瞬間である。
直樹は生徒会室の椅子に座りながら、しみじみと思った。
この学校で一番強いのは、魔法でも悪魔契約でもない。
赤ペンだ。
「赤ペンで世界が救われる日が来るとはな……」
美咲が横から言う。
「まだ救われてないでしょ」
「少なくとも、世界征服同好会は救われなかった」
「救わなくていいやつよ」
その横で、アリスが同意確認フォームをじっと眺めていた。
活動内容。
関係者。
本人同意。
周囲への影響。
安全対策。
撮影・広報可否。
魔法・魔界・呪術的要素の有無。
アリスの目が、だんだん面白いものを見つけたときの色になっていく。
直樹は嫌な予感がした。
「鏡野、今なに考えてる」
アリスは顔を上げ、にこっと笑った。
「これ、テンプレ化したら面白くない?」
「何をテンプレにする気だ」
「“あなたの推し活動、校則的にセーフ?”みたいな診断」
直樹は即座に叫んだ。
「やめろ!」
アリスは指で項目をたどる。
「例えばさ、“放課後に推しの布教会を開きたい!”ってなったら、活動内容、関係者、本人同意、撮影可否をチェックして、最後に“校則的にセーフ度八十パーセント”みたいに出るの」
アイがぱっと顔を輝かせる。
「アタシもやりたい! “世界征服セーフ度”出る?」
「ゼロだ!」
直樹、美咲、真奈がほぼ同時に言った。
アイはしょんぼりする。
「三方向から否定された……」
那々美が少し真面目に考え込む。
「魔法少女活動セーフ度も測れるのでしょうか」
「あなたも乗らないで!」
直樹は那々美のほうを向いた。
那々美は少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「いえ、正義活動の適正範囲を確認できるなら、有用かと」
美咲がため息をついた。
「真面目に言ってるぶん、余計に危ないわね」
光がタブレットを見ながら、静かに口を開く。
「面白いですが、誤解を招く可能性があります」
アリスはすぐに手を引いた。
「分かってる。勝手に流さない」
直樹は目を丸くした。
「止まった」
「止まるよ。前回ちゃんと学んだし」
アリスは少し得意げに胸を張る。
「面白いからって、本人が嫌がるものを勝手に広げちゃだめなんでしょ?」
美咲がうなずいた。
「成長したわね」
「九割くらい偉い?」
「八割」
「厳しい!」
アリスは机に突っ伏しかける。
直樹は少しだけ笑った。
「八割でもだいぶ進歩だろ」
「真央まで刻む側に回った!」
光は少し微笑む。
「ただ、校内用の正式な説明資料としてなら、分かりやすくする余地はあります」
直樹は警戒する。
「正式って言葉が出た」
光はタブレットに簡単な図を表示した。
『やってよいこと』
『確認が必要なこと』
『やってはいけないこと』
『本人同意が必要なこと』
『撮影・公開前に確認すること』
アリスはそれを見て、ぱちんと指を鳴らす。
「そうそう、こういうの。バズ用じゃなくて、普通に説明用ならいいじゃん」
真奈は頷く。
「校則を理解してもらうための補助資料としてなら、検討できます。ただし、診断風にして遊び化しすぎることは避けてください」
「はーい」
アリスは素直に返事をした。
直樹は少しだけ安心しかけた。
が、その横で宙が同意確認フォームを見ながら、ワラ人形を掲げた。
「校則診断。凶、無断契約。大凶、魔法弾。末吉、ドラ焼き」
「おみくじにするな!」
アイが食いつく。
「末吉でもドラ焼き出るの?」
「食いつくな!」
美咲が宙を見る。
「それ、文化祭の契約おみくじの時と同じ方向で危ないから」
宙は小さく頷く。
「改良案」
「改良しない!」
ベル先生が楽しそうに言う。
「診断フォームと魔力反応を組み合わせれば、活動リスクを数値化できるかもしれないわ」
直樹は即座に叫ぶ。
「先生も乗らない!」
真奈の赤ペンが、こつん。
ベル先生は微笑んだまま黙った。
「はい。今回は乗りません」
「“今回は”が怖い!」
アイはまだ同意確認フォームを見つめていた。
眉を寄せ、真剣に考えている。
「でも、アリス。ルールって難しいね。書く言葉を変えたら通ったり、通らなかったりする」
アリスは少し考えてから、アイの隣へ椅子を寄せた。
「うーん。ルールって、敵じゃなくて、炎上防止のガイドラインみたいなものだよ」
アイが首をかしげる。
「炎上防止の魔法陣?」
直樹が即座に突っ込む。
「近いようで違う!」
アリスは笑いながら続ける。
「たとえばさ、悪魔ちゃんが“世界征服します!”って言ったら、みんなびっくりするじゃん」
「うん。かっこいいから?」
「怖いから」
「怖いのか……」
アイはちょっと落ち込んだ。
アリスは指を一本立てる。
「でも、“みんなでドラ焼き食べて交流します”なら、だいぶ平和じゃん?」
「うん」
「やっていいこと、だめなこと、誰に確認するか。それが分かってると、悪魔ちゃんも怒られにくいし、真央も巻き込まれにくいし、周りもびっくりしない」
アイは直樹を見る。
「ダーリンも巻き込まれにくい?」
直樹は腕を組む。
「それはかなり大事だ」
「じゃあ、ルールはダーリンを守る魔法陣?」
「魔法陣ではないけど、その方向で理解するなら、まあ……少しは」
真奈が静かに補足する。
「校則は魔法ではありません。ただし、全員が安全に過ごすための約束です」
アイはその言葉をゆっくり飲み込む。
「約束……」
宙のワラ人形が低く告げる。
「約束、契約に近似」
直樹はすぐに指さした。
「混ぜるな!」
光が冷静に言う。
「似ている部分はありますが、悪魔契約のように一方が相手を縛るためのものではありません。学校のルールは、全員に同じように適用されます」
那々美が小さく頷く。
「正義にも、ですか」
「はい」
真奈が答える。
那々美は少しだけ悔しそうに、けれど納得したようにフォームを見た。
「正義でも、同意と安全確認が必要……」
アイは那々美を見る。
「悪魔でも?」
真奈は頷く。
「悪魔でも、です」
アイは少しだけ嬉しそうになった。
「じゃあ、アタシだけ特別に怒られてるんじゃないんだ」
美咲が言う。
「まあ、怒られる頻度は高いけどね」
「美咲!」
「事実でしょ」
直樹は頷く。
「頻度は高い」
「ダーリンまで!」
アリスが笑う。
「でも、同じフォームで怒られるのって、ちょっと平等じゃない?」
直樹はアイと那々美を見た。
悪魔と魔法少女。
普通なら敵対していそうな二人が、同じ紙を前にして同じように赤ペンを恐れている。
たしかに、妙な平等ではあった。
「校則ってすごいな……」
直樹がつぶやくと、宙のワラ人形が低く続けた。
「校則、種族差を超える」
「急に壮大にするな」
光がタブレットに何かを入力している。
直樹はすぐに気づいた。
「白金、何を書いてる」
「説明資料の案です」
「見せてみろ」
光は画面を見せた。
『校則は、みんなの学校生活を守るためのガイドラインです』
『特殊な活動を行う場合は、本人同意、安全確認、撮影・広報可否を確認しましょう』
直樹は目を細める。
「まともだ」
光は少しだけ微笑む。
「正式資料ですので」
「内部見出しは?」
光は一瞬止まった。
「“炎上防止の魔法陣、校則”」
「やっぱりあるじゃねえか!」
アリスが笑う。
「それ、ちょっと好き」
「好きになるな!」
真奈の赤ペンが、こつん。
光はすぐに画面から内部見出しを削除した。
「削除しました」
直樹は胸をなで下ろす。
「よし」
宙のワラ人形が低く告げる。
「記録済み」
「お前が残すな!」
アリスはフォームをひらひらさせながら、アイに言った。
「まあ、悪魔ちゃん。これから何かやりたいときは、“これ校則的にセーフ?”って一回考えればいいんじゃない?」
アイは真面目に頷く。
「分かった。校則的にセーフか考える」
「世界征服は?」
「アウト」
「浄化は?」
那々美が小さく言う。
「同意なしでは、アウト」
「魔法弾は?」
美咲が言う。
「校内ではアウト」
「ドラ焼きは?」
直樹が言う。
「食品申請別紙」
アイは顔を上げた。
「ドラ焼きは希望あり!」
「そこだけ目を輝かせるな」
真奈は資料をまとめる。
「では、同意確認フォームについては、説明資料を作成します。鏡野さんの提案は、正式資料として使える部分のみ反映します」
アリスはぴしっと敬礼した。
「了解です。勝手に流しません」
美咲が言う。
「八割五分」
「上がった!」
直樹はアリスを見る。
「九割までは遠いな」
「真央まで採点しないで!」
生徒会室に、少しだけ笑いが広がった。
校則テンプレは、流行らなかった。
少なくとも、校内SNSには流れなかった。
ただし、アイの頭の中には新しい言葉が残った。
校則的にセーフ。
本人同意。
安全確認。
撮影・広報可否。
そして、食品申請別紙。
直樹はその最後の一つだけが、どうにも不安で仕方なかった。
* * *
校則は、炎上防止の魔法陣ではない。
本人同意は、呪術の依代ではない。
赤ペンは、術式停止具ではない。
生徒会室では、そのような常識確認が一通り行われた。
直樹は、少しだけ安心しかけていた。
校則は魔法ではない。
ただの約束だ。
全員が安全に学校生活を送るためのルールだ。
なら、これ以上変なことにはならない。
そう思った直樹が甘かった。
なぜなら、その場には鈴鳴ベル先生がいたからである。
「つまり、校則文の読み上げ、赤ペン修正、同意欄の署名。その三つで、悪魔契約反応がどれくらい変化するか測ればいいのね」
ベル先生は、白衣の内側から小型測定器を取り出した。
直樹は反射で叫んだ。
「測るな!」
測定器は、手のひらサイズのくせに無駄に本格的だった。
黒い画面。
魔界文字っぽい波形表示。
赤と青に点滅するランプ。
そして側面には、なぜか小さく『教育用』と貼られている。
「先生、その“教育用”ってシール、今貼りましたよね?」
「事実ではあるわ。教育に使うつもりだから」
「目的をあとから貼るな!」
ベル先生はにこにこしている。
「大丈夫。今回は教育的――」
真奈が静かに言った。
「実験計画書は」
ベル先生は一拍だけ止まった。
そして、今までより少しだけ胸を張って答える。
「提出します」
直樹は目を見開いた。
「少し学習した!」
美咲も驚いた顔になる。
「ベル先生が事前提出を覚えた……」
アリスが小声で言う。
「成長判定、何割?」
美咲は少し考えた。
「六割」
「大人に厳しい!」
光はタブレットに入力する。
「“鈴鳴先生、実験計画書提出の意思あり”と記録します」
直樹は光を見る。
「意思だけで記録されるんだな」
「意思確認は重要です」
「今日のテーマが重い」
真奈はベル先生を見た。
「提出後、内容を確認します。許可が下りるまでは測定を行わないでください」
「もちろん」
ベル先生は穏やかに頷いた。
直樹は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
だが、その瞬間。
ぴ。
測定器から、小さな電子音が鳴った。
全員がベル先生を見る。
ベル先生は笑顔のまま、視線を横へそらした。
「……簡易モードは、もう起動していたみたい」
直樹は机を叩いた。
「学習してない!」
真奈の赤ペンが、こつんと机を叩く。
「鈴鳴先生」
「はい」
「停止してください」
「はい」
ベル先生は停止ボタンを押そうとした。
その直前、宙のワラ人形が低く告げる。
「一回だけ」
「お前が煽るな!」
宙は無表情で校則冊子を開いていた。
直樹は嫌な予感で身を乗り出す。
「宙、読むなよ」
「確認」
「読むなって言った直後に確認するな!」
宙のワラ人形が、低い声で読み上げた。
「校則、第十二条。校内活動は、本人の同意と管理者の許可を要する」
その瞬間。
アイの鞄の中から、びりっと音がした。
「ひゃっ!」
アイが慌てて鞄を開ける。
中に入っていた小さな魔界契約書が、かすかに震えていた。
表面の魔界文字が、淡く光ったり消えたりしている。
「アタシの契約書がびりびりした!」
直樹は叫んだ。
「本当に効くな!」
測定器が、ぴぴっと反応する。
画面には、謎の波形が表示された。
『契約反応:微揺』
『同意関連語句:反応あり』
『管理者許可:要確認』
直樹は画面を指さした。
「測定器が校則を理解するな!」
ベル先生の目は完全に研究者のそれになっていた。
「やっぱりね。本人同意と管理者許可という文言に、悪魔契約側が反応しているわ。これは、契約の拘束対象が人間界の規則構造に触れたときに発生する微小干渉――」
真奈が言う。
「鈴鳴先生。無許可測定は停止してください」
「はい」
ベル先生は今度こそ測定器を停止した。
直樹は真奈を見た。
「会長、強い……」
真奈は平然としている。
「許可のない測定は認めません」
「その一文だけで、魔法より強い」
アイは契約書を両手で持ち、怖そうに見つめていた。
「校則、本当にアタシの契約に触った……」
直樹は少しだけ眉を寄せる。
「痛かったのか?」
「痛くはないけど、くすぐったいというか、怒られる直前みたいな感じ」
「すごい嫌な感覚だな」
美咲がアイの契約書をのぞき込む。
「でも、これで分かったんじゃない? 直樹の同意って、ちゃんと契約にも関係あるんでしょ」
アイは小さく頷く。
「うん。ダーリンの同意って言葉で、契約書が反応した」
直樹は少しだけ黙った。
契約書が反応した。
それは、アイの勝手な呼び方や押しかけとは別に、直樹の意思が本当に関係しているということだ。
迷惑だ。
面倒だ。
でも、完全に無視されているわけではない。
その事実に、直樹は少しだけ複雑な気持ちになった。
宙がメモを取る。
「本人意思、契約干渉点」
直樹はすぐに現実へ戻る。
「お前はメモるな!」
那々美が真剣に言う。
「では、浄化の可否にも本人同意が影響する可能性が……」
アイは即座に契約書を抱きしめた。
「同意しない!」
直樹も即座に言った。
「しない方向で固定しろ!」
那々美は少しだけしゅんとする。
「分かっています。確認しただけです」
アリスが苦笑する。
「魔法少女も悪魔も、同意欄にめちゃくちゃ弱いじゃん」
光が穏やかに言う。
「弱いというより、必要な確認です」
アリスは頷く。
「はい。正式資料っぽい」
ベル先生は停止した測定器を名残惜しそうに見ている。
「でも、赤ペン修正前後の波形だけでも測れたら、かなり有益なデータが――」
真奈が赤ペンを構える。
「鈴鳴先生」
「実験計画書を提出します」
「許可が下りるまでは」
「測定しません」
直樹は感動した。
「会長、教師にも校則を適用してる……」
美咲がうなずく。
「当然だけど、すごいわね」
ワラ人形が低く告げる。
「秩序、強い」
真奈はその言葉に反応せず、資料へ視線を戻した。
「今回の確認で分かったことは、校則文そのものが悪魔契約を制御するということではありません」
ベル先生が小さく手を上げる。
「可能性としては――」
真奈が見る。
「仮説は、正式な資料と実験計画書に記載してください」
「はい」
直樹は思わず呟いた。
「魔導実験も書類に負けるんだな……」
光が資料に追記する。
「では、現時点の整理としては、“本人同意および管理者許可に関する文言が、天満さんの契約書に微弱な反応を生じさせた。ただし、原因は未確定。無許可測定は禁止”でよろしいでしょうか」
真奈は頷く。
「その表現で構いません」
直樹はぼそっと言う。
「まともな文章にすると、逆に何が起きたのか分からないな」
アリスが笑う。
「内部見出しなら、“校則、悪魔契約に効く”?」
光が反応しかける。
真奈の赤ペンが、こつん。
光はすぐに手を止めた。
「正式には使用しません」
「だから正式以外もだ!」
アイは契約書を見つめながら、ぽつりと言った。
「ダーリンの同意って、ほんとに大事なんだね」
直樹は少し照れくさそうに目をそらす。
「最初から言ってるだろ」
「アタシ、ちゃんと聞いてなかったかも」
「今さらすぎるけど、聞くなら今からでもいい」
アイはこくんと頷く。
「うん」
生徒会室に、ほんの少しだけ落ち着いた空気が流れた。
だが、ベル先生が小声で言う。
「それにしても、次は署名欄の反応も見たいわね」
直樹は即座に叫んだ。
「落ち着いた空気を返してください!」
真奈は資料を一枚めくる。
「では、次は本人同意欄の具体的な扱いについて確認します」
アイの契約書が、またかすかに震えた。
直樹は天井を仰ぐ。
「もう先に震えるな……」
校則文は、魔法ではない。
少なくとも、真奈はそう言う。
だが、真央直樹の周囲では、ただの文書ですら油断すると騒動の種になる。
それだけは、確かな事実だった。
* * *
校則文を読めば、アイの契約書が震える。
同意確認フォームを出せば、悪魔も魔法少女も赤ペンで丸くなる。
測定器を出せば、真奈の一言でベル先生が止まる。
直樹は、ここまでの流れを見て、ひとつの結論に至った。
この学校の校則は、もしかすると本当に使える。
いや、魔法的な意味ではなく。
人間界の秩序的な意味で。
直樹はゆっくりと手を上げた。
「鳴海会長」
「はい」
「じゃあ、俺の平穏を守る校則を作ってください」
生徒会室が、一瞬だけ静かになった。
アイがぱちぱちと瞬きをする。
美咲が「とうとう言った」という顔をする。
アリスは笑いをこらえきれずに肩を震わせる。
宙のワラ人形は、なぜかうなずいた。
真奈だけが、まったく動揺しない。
「具体的には?」
「そこ、真面目に聞いてくれるんですか」
「要望として聞きます」
直樹は勢いよく机に両手をついた。
「悪魔契約、魔法少女活動、魔界実習、実験、広報見出し、全部俺を巻き込む前に本人同意必須!」
言い切った。
かなり本気だった。
美咲が腕を組んで頷く。
「それは普通に必要ね」
「だろ!」
直樹は思わず美咲を見る。
「やっと俺の主張が普通に通った!」
「普通は最初から通るのよ。あんたの周りが普通じゃないだけで」
「それは知ってる!」
アイが小さく手を上げる。
「ダーリンを巻き込む前に、ダーリンに聞く」
「そうだ」
「じゃあ、“ダーリン、一緒に世界征服していい?”って聞けばいい?」
「聞き方がだめ!」
那々美も真剣に考え込む。
「では、救出対象として判断する前にも、本人確認が必要ですね」
直樹は即座に指さした。
「必要です! まず俺に聞いてください!」
「“あなたは悪魔に囚われていますか?”と」
「その質問からやめてください!」
ベル先生が楽しそうに言う。
「実験に巻き込む前も、本人同意が必要ね」
「先生は今まで何だと思ってたんですか」
「教育的協力?」
「言い換えで逃げるな!」
光がタブレットに文案を打ち込む。
「“真央直樹さん本人の同意確認を必須とする”」
直樹はその文面を見て、少し目を輝かせた。
「お、いいじゃないか」
自分の名前。
本人同意。
必須。
それは、直樹にとって、魔法よりもありがたい言葉だった。
アイの契約書より強くあってほしい。
魔法少女の変身バンクより早く発動してほしい。
ベル先生の測定器より確実に自分を守ってほしい。
直樹は、久しぶりに希望を見た。
その希望を、宙のワラ人形が低い声で告げる。
「平穏保護条項、成立」
「成立した!」
直樹が思わず身を乗り出す。
アイがぱっと顔を上げた。
「ダーリン保護条例?」
「言い方!」
アリスが手を叩いて笑った。
「タイトル強いね。“ダーリン保護条例”、めっちゃ覚えやすい」
「強くするな!」
光の指が、ほんの一瞬だけタブレットの上で止まった。
直樹は見逃さない。
「白金、今メモろうとしたな」
「内部見出しとしては――」
「するな!」
光は静かにタブレットから手を離した。
「正式には使用しません」
「正式以外もだ!」
美咲は少し呆れつつも、直樹の肩を持った。
「でも、直樹専用じゃなくても、本人同意の確認はちゃんと入れたほうがいいと思います」
那々美も頷く。
「はい。私も、救出や浄化の判断を急ぎすぎました」
アイが小さく言う。
「アタシも、ダーリンが嫌がること、契約だからってやりすぎたかも」
直樹はその言葉に、少しだけ目を瞬いた。
会議の空気が、ほんの一瞬だけまともになった。
まともになりかけた。
だが、宙がペンを持ち上げ、余白に何かを書こうとする。
「正式名称。“真央直樹平穏保護条項”」
「正式名称にするな!」
ベル先生が軽く手を上げる。
「略称は“NHP条項”かしら」
「英字略称にするな!」
アリスが笑う。
「グッズ化しやすそう」
「しない!」
アイが目を輝かせる。
「ダーリン保護ステッカー?」
「作らない!」
光が静かに補足する。
「広報物としては、本人の許可が――」
「許可しない!」
直樹の希望は、またしても周囲のノリに食い荒らされかけていた。
そのとき、真奈が赤ペンを机に置いた。
こつん。
全員の声が止まる。
真奈は、光の文案を見たあと、冷静に言った。
「特定個人名を校則に入れることはできません。一般条項として整えます」
直樹は固まった。
「……え」
「校則は、特定の生徒だけを対象にした保護規定ではなく、全生徒に適用されるものです」
「いや、それは分かりますけど」
「真央くん本人の状況は理解しています。ただ、校則としては“校内特殊活動に生徒を関与させる場合、事前に本人の明確な同意を得ること”とするのが妥当です」
光がすぐに文案を修正する。
『校内特殊活動に生徒を関与させる場合、事前に本人の明確な同意を得ること』
美咲が頷く。
「それなら全員を守れるわね」
那々美も少し真面目に頷く。
「正義活動にも適用されますね」
アイは文字を追いながら言う。
「悪魔活動にも?」
真奈は頷く。
「もちろんです」
アイは直樹を見る。
「じゃあ、ダーリンだけじゃなくて、みんなに聞く?」
「そうだ」
「そっか。ダーリンだけを守るんじゃなくて、みんなを守るルールなんだ」
「まあ、そういうことだな」
直樹はそう言いながらも、机に突っ伏した。
「俺専用の平穏、守られなかった!」
アリスが笑う。
「でも、全校生徒用の平穏保護条項になったじゃん」
「俺の平穏の希釈率が高い!」
美咲が肩をすくめる。
「でも、あんたも含まれるんだからいいでしょ」
「含まれるけど! もっとピンポイントに守られたかった!」
宙のワラ人形が低く告げる。
「個別結界、失敗。広域結界、成立」
「結界にするな!」
ベル先生が少し感心したように言う。
「でも、一般条項にしたほうが効果範囲は広いわね」
「先生まで術式っぽく言わないでください」
真奈は文案を確認し、赤ペンで一部を整える。
『校内特殊活動』の横に、小さく注記が入る。
『魔法・魔界・呪術的要素を含む活動、実験、広報、撮影、契約行為等を含む』
直樹はそれを見て、顔をしかめた。
「注記の情報量がひどい」
光が穏やかに言う。
「真央くんの周囲で実際に発生した事例を反映しています」
「俺の人生を注記にするな!」
アイはフォームを見ながら、まじめな顔で言った。
「じゃあ、アタシがダーリンに何かお願いするときは、まず聞く」
「そうだ」
「ダーリンが嫌って言ったら?」
「やめる」
「どうしてもやりたいときは?」
「やめる」
「ドラ焼きが関係するときは?」
「やめるか相談する」
「相談!」
アイは少し嬉しそうにうなずいた。
那々美も同じように言う。
「私も、救出や浄化の前に確認します」
「救出はまだしも、浄化は基本しないでくれ」
「安全確認に表現変更します」
「それでお願いします」
アリスが軽く手を上げる。
「私は、面白そうでも勝手に撮らない、流さない」
「助かる」
光が言う。
「私は、内部見出しを正式文書に使いません」
「内部にも残すな」
「努力します」
「そこは断言してくれ!」
ベル先生が最後に言う。
「私は、実験計画書を出します」
「実験しないって言ってほしかった!」
真奈は全員を見回した。
「では、この文案は仮条項として、生徒会内で確認します」
直樹は顔を上げる。
「仮でもいいです。俺の平穏が一ミリでも守られるなら」
真奈は少しだけ表情を和らげた。
「真央くんの平穏だけではありませんが、守るための条項です」
「そこは分かってます」
直樹は、少しだけ肩の力を抜いた。
自分専用の平穏保護条項は、成立しなかった。
ダーリン保護条例も却下された。
真央直樹平穏保護条項も、名前ごと消えた。
けれど、本人の明確な同意を必要とする一般条項は残った。
それは、直樹だけでなく、アイも、那々美も、美咲も、アリスも、ほかの生徒も守るものになる。
たぶん。
きっと。
うまく機能すれば。
宙のワラ人形が、ぽつりと告げた。
「平穏、実装予定」
直樹は机に突っ伏したまま言った。
「予定じゃなくて、今すぐ実装してくれ……」
生徒会室に、小さな笑いが広がった。
その笑いだけは、少し平穏に近かった。
ほんの少しだけ。
* * *
真央直樹専用の平穏保護条項は、成立しなかった。
ダーリン保護条例も却下された。
平穏保護ステッカー案も、グッズ化前に消滅した。
だが、代わりに残ったものがある。
『校内特殊活動に生徒を関与させる場合、事前に本人の明確な同意を得ること』
直樹はその文案を見て、少しだけ救われたような、でもやっぱり物足りないような顔をしていた。
「俺専用じゃないけど、まあ……ないよりはマシか」
アリスが笑う。
「全校対応版・真央平穏パッチって感じ?」
「俺の人生をアップデート配信にするな」
光がほんの少しだけ反応する。
「内部見出しとしては――」
「するな」
「正式には」
「全部するな」
光は静かにタブレットを閉じた。
真奈は赤ペンを机に置き、全員を見回した。
それだけで、生徒会室の空気が切り替わる。
さっきまで、世界征服同好会だの、魔法少女活動だの、校則診断テンプレだの、騒がしかった場が少しだけ静かになった。
真奈が口を開く。
「では、現時点での結論を整理します」
直樹は姿勢を正した。
アイも、手元の魔界契約書をぎゅっと持つ。
那々美は修正版のフォームを膝の上に置き、真面目な顔で前を向いた。
宙のワラ人形も、なぜか背筋を伸ばしているように見えた。
真奈は静かに告げた。
「校則は、悪魔契約そのものを消すものではありません」
直樹は思わず声を漏らした。
「消せないんですか」
自分で言ってから、少しだけ驚いた。
消せるなら消してほしい。
ずっとそう思っていた。
契約事故で始まった関係。
カップラーメンから出てきた仔悪魔。
ドラ焼き百個。
ダーリン呼び。
世界征服実習。
命令アプリ。
案件動画。
文化祭。
魔法少女。
校則。
どれもこれも、直樹の平穏を破壊してきた。
だから、校則でまとめて消せるなら、どれだけ楽だろう。
そう思ったはずなのに。
隣でアイが、不安そうに直樹を見ていた。
いつものように胸を張っていない。
いつものように「ダーリン契約は最強だよ!」とも言わない。
魔界契約書を抱えたまま、少しだけ小さく見えた。
直樹は、その視線に気づいて、言葉を続けられなくなった。
美咲も、その空気を察して、何も言わなかった。
真奈は冷静に続ける。
「ですが、校内において、本人の意思を無視した行為、周囲の安全を損なう行為、無断の広報利用、無許可の魔法・魔界活動は認めません」
光が資料に同じ文言を入力する。
那々美が小さく頷いた。
「魔法少女活動も、ですね」
「はい。正義であっても同じです」
那々美は少しだけ表情を引き締める。
「分かりました」
アイは恐る恐る手を上げた。
「じゃあ、アタシとダーリンの契約は……」
直樹は、その言葉に少し身構えた。
ダーリン契約。
いつもなら全力で否定する呼び方だ。
だが今は、茶化すタイミングではなかった。
真奈は、はっきりと言う。
「学校が認めるものではありません」
アイの肩が、わずかに落ちた。
「そっか……」
直樹は、その反応を見て、胸の奥が少しだけ引っかかった。
自分は契約を認めていない。
認めていないはずだ。
なのに、アイが否定されたような顔をすると、うまくツッコめない。
真奈は言葉を続けた。
「ただし、天満さんが本校で生活するうえで、真央くん本人の意思を尊重するなら、校内生活は継続できます」
アイが顔を上げた。
「学校にいていいの?」
「校則を守り、本人同意と安全確認を行うなら、です」
アイは直樹を見る。
「ダーリンの意思……」
直樹は、少しだけ息を吸った。
そして、まっすぐ言う。
「そうだ。俺の意思」
アイの指が、契約書の端をぎゅっと握る。
「アタシ、ダーリンの意思をちゃんと聞いてなかった?」
「聞いてないことのほうが多い」
「即答……」
「即答できるくらい多い」
美咲が横から言う。
「でも、最近は少し聞こうとしてるでしょ」
アイは美咲を見る。
「ほんと?」
「少しね」
「少し……」
直樹は小さく笑った。
「お前の成長、だいたい“少し”から始まるな」
「だって、人間界のルール多いんだもん」
アリスが軽く手を上げる。
「でも、前よりはセーフ寄りになってるよ。最初だったら、校則に世界征服を追加しようとしてたじゃん」
直樹は突っ込む。
「今日もしてた!」
「じゃあ、ちょっと前の最初ね」
「刻むな!」
光が穏やかに言う。
「大切なのは、契約という言葉で相手の意思を上書きしないことです」
宙のワラ人形が低く告げる。
「上書き禁止」
直樹はワラ人形を見た。
「今日はたまにまともだな」
「たまに」
「そこは否定しろ」
ベル先生が、珍しく測定器を出さずに言った。
「悪魔契約が残っていても、人間界のルールがまったく無力というわけではないのよ。契約の外側に、学校生活の約束がある。そこに本人同意を挟めば、少なくとも一方的な行使は止められる」
直樹はベル先生を見る。
「先生、機材を出さないとまともですね」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ次は測定器を――」
「出さないでください」
真奈の赤ペンが、こつん。
ベル先生は微笑んだまま黙った。
アイは契約書を見つめた。
魔界文字で書かれた、直樹には読めない契約。
これまでアイにとって、それは直樹のそばにいられる証拠だった。
直樹を「ダーリン」と呼べる根拠だった。
世界征服実習を続けるための命綱だった。
でも今、その契約書は、校則文を読まれただけで震えた。
本人同意という言葉で、反応した。
アイは小さく言う。
「じゃあ、ダーリンが嫌がることは、契約でもだめ?」
直樹はうなずいた。
「そういうことだ」
「アタシが“契約者だから”って言っても?」
「だめだ」
「魔界の実習課題でも?」
「まず俺に聞け」
「ドラ焼きが関係してても?」
「それは余計に警戒する」
「ダーリン、ドラ焼きに厳しい」
「お前がドラ焼きに甘すぎるんだよ」
アイは少しだけ唇を尖らせた。
でも、すぐに小さくうなずく。
「……分かった。少し」
直樹は思わず突っ込んだ。
「少しなのかよ」
けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
アイもそれに気づいたのか、少しだけ笑う。
「だって、全部いきなり分かるのは難しいよ。でも、少し分かった」
「まあ、少しでも分かったなら前進か」
美咲が微笑む。
「直樹も、少し甘くなったわね」
「なってない」
「なってる」
「なってないって」
アリスが小声で言う。
「この空気、ラブコメ的にはかなりセーフ?」
直樹は即座に振り向く。
「診断するな!」
光がタブレットを開きかける。
「内部見出し――」
「作るな!」
真奈が赤ペンを持ち上げる。
「白金くん」
「はい。作りません」
那々美はアイを見て、少しだけ迷ってから言った。
「天満さん」
「なに?」
「私も、悪魔だからという理由だけで決めつけないようにします」
アイは目を丸くした。
それから、少しだけ照れくさそうに笑う。
「じゃあ、アタシも魔法少女だからって、いきなり敵って思わない」
直樹は横から言う。
「前回、敵っぽい言い方したのお前だからな」
「ダーリン!」
那々美は少しだけ苦笑した。
「その点は、まだ安全確認継続です」
「継続された!」
生徒会室に小さな笑いが起きる。
さっきよりも、空気はずっと軽くなっていた。
契約は消えない。
校則は契約をなかったことにはできない。
でも、契約があるからといって、直樹の意思が消えるわけではない。
そのことだけは、この場にいる全員が少しずつ理解していた。
真奈は資料をまとめる。
「では、結論として記録します。本校では、悪魔契約そのものの有効性は判断しません。ただし、校内においては、本人の意思確認、安全確認、周囲への影響確認を優先します」
光が文面を入力する。
「記録しました」
直樹は深く息を吐いた。
「ようやく、俺の意思が契約書に勝ちそうな気がしてきた」
宙のワラ人形が低く告げる。
「勝利未確定」
「最後に不安を足すな」
ベル先生が小さく言う。
「魔界側がどう見るかは、また別問題ね」
直樹はその言葉に、ぴたりと止まった。
「今、嫌な伏線が聞こえたんですけど」
ベル先生は微笑むだけだった。
アイの契約書が、かすかに光る。
それはまるで、この結論をどこか遠くへ送ったようにも見えた。
直樹はその光を見て、嫌な予感しかしなかった。
「……頼むから、これで終わってくれよ」
誰も、はっきりとは答えなかった。
ただ、宙のワラ人形だけが、ぽつりと告げた。
「契約、未終了」
直樹は机に突っ伏した。
「分かってるよ……」
* * *
契約は消えない。
けれど、校内では本人の意思が優先される。
その結論を受けて、光はすぐに校内通知文を整えた。
さすが生徒会広報補佐。
見出しは穏当。
文面は丁寧。
危険な単語は最小限。
直樹の叫びも、アイのダーリン契約も、那々美の浄化保留も、ベル先生の測定器も、宙のワラ人形も載っていない。
つまり、かなりまともな文書だった。
光はタブレットの画面を、生徒会室の中央に表示する。
『校内特殊活動に関する同意確認および安全確認について』
直樹は思わず目を細めた。
「まともだ……」
心からの声だった。
ここまで何度も見出しに裏切られてきた直樹にとって、まともなタイトルはそれだけで癒やしである。
アリスが横から覗き込む。
「ちょっと地味だけど、ちゃんとしてる」
光は頷いた。
「ちゃんとしていることが目的です」
「広報担当なのにバズらせない勇気」
「今回は、読まれることより誤解されないことを優先します」
直樹は軽く拍手した。
「白金、今日は本当に助かる」
「今日は、ですか」
「普段は内部見出しが怖い」
光は少しだけ視線をそらした。
「自覚はあります」
真奈が通知文を確認し、赤ペンを置いた。
「この文面でよいでしょう」
そこには、こう書かれていた。
校内特殊活動を行う場合は、事前に活動内容を申請すること。
関係者本人の意思確認を行うこと。
周囲の安全に配慮すること。
無断撮影、無断広報、無断公開を行わないこと。
未確認魔法、魔界、呪術的要素を含む活動は、事前に生徒会および教職員へ相談すること。
契約を伴う行為は、本人の明確な同意を必要とすること。
美咲が腕を組む。
「これなら普通に必要な注意よね」
「内容は普通なんだよな」
直樹は頷く。
「単語だけが普通じゃないけど」
那々美も真剣に読む。
「魔法少女活動にも適用されますね」
真奈が頷く。
「はい。全生徒に適用されます」
アイは少しだけ不満そうに画面を見つめる。
「でも、悪魔にはちょっと厳しい」
真奈は静かに答えた。
「人間界では必要です」
「魔界より書類が多いかも」
直樹は即座に言う。
「魔界にも実習管理局とか監査とかあるだろ」
「あるけど、もっと怖いフォントで来る」
「フォントの問題かよ」
宙のワラ人形が低く告げる。
「文字の圧、重要」
「お前は黙ってろ。今かなりまともな時間なんだ」
ベル先生は通知文を見ながら、少し感心したように言う。
「でも、これだけ整っていると、魔界契約側から見るとかなり強い干渉文かもしれないわね」
直樹は顔をしかめた。
「やめてください。まともな文書を不穏にしないでください」
「だって、“契約を伴う行為は本人の明確な同意を必要とする”でしょう? 悪魔契約の根幹に触れる文言よ」
「触れなくていい! 文言は文言として静かにしてろ!」
アイの魔界契約書が、鞄の中で小さく震えた。
びりっ。
直樹は固まる。
「今、震えた?」
アイが慌てて鞄を押さえる。
「震えてない! ……ちょっとしか」
「ちょっと震えたんだな!?」
光が通知文の最終確認をしようとした、その瞬間だった。
タブレットが、ぴこん、と鳴った。
生徒会室にいる全員が、画面を見る。
表示されたのは、校内システムの通知ではなかった。
『外部システムより照会あり』
直樹は一秒で青ざめた。
「外部って、嫌な予感しかしないんだけど」
光の表情が、少しだけ硬くなる。
「照会元を確認します」
光がタブレットを操作する。
画面に、妙に仰々しい魔界文字が一瞬流れた。
その下に、自動翻訳された日本語が表示される。
『魔界実習管理局・契約ログ照会システム』
直樹は叫んだ。
「反応するな!」
アイは目を丸くする。
「実習管理局?」
那々美が身構える。
「魔界側の組織ですか?」
ベル先生の目が、明らかに輝いた。
「来たわね」
「来なくていい!」
光は画面を確認しながら言う。
「魔界実習管理局側の契約ログが反応しています」
直樹は両手で頭を抱えた。
「まともな通知文を出しただけで、なんで魔界が反応するんだよ!」
宙のワラ人形が低く告げる。
「校則文、外部契約干渉として検知」
「検知するな!」
アイは不安そうに契約書を取り出した。
魔界文字が、うっすら光っている。
さっきよりもはっきりと。
「ダーリン、これ、怒られるやつ?」
「俺に聞かれても困る!」
ベル先生は、楽しそうに、しかし少し真面目な口調で言った。
「つまり、人間界の校則が魔界契約に干渉したと判断された可能性があるわね」
直樹は天井を仰いだ。
「可能性が一番嫌な方向に行った!」
真奈は冷静に光へ言う。
「照会内容を確認してください。返信はまだしないで」
「はい」
光が画面を拡大する。
そこには、さらに自動翻訳文が表示された。
『照会対象:人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約』
『関連人間界文書:校内特殊活動に関する同意確認および安全確認について』
『検知内容:契約者本人の意思確認を優先する旨の外部規約文』
『判定:契約履行条件への干渉可能性あり』
直樹は机を叩いた。
「俺の意思確認が、契約干渉扱い!」
美咲が眉をひそめる。
「でも、本人の意思確認って当然でしょ」
真奈も頷く。
「本校の立場は変わりません」
那々美が真剣に言う。
「正義の側から見ても、本人同意は必要です」
アイは小さく言う。
「悪魔側から見ると、邪魔されたことになるのかな」
直樹はアイを見る。
「お前はどう思うんだよ」
「アタシは……ダーリンが嫌がることは、だめだって分かった。少し」
「また少し」
「でも、魔界実習管理局がどう判断するかは分からない」
アイの声は、いつもより小さかった。
直樹は眉を寄せる。
魔界実習管理局。
それは、アイの実習を管理する組織だ。
これまでも通知だけは出してきた。
案件動画。
供物プロモーション。
契約ログ。
だが、今度は少し違う。
学校側の校則文が、魔界側に拾われた。
つまり、直樹たちの学校生活に、魔界側が正式に目を向け始めたということだ。
アリスが小声で言う。
「これ、完全に次回、監査編じゃん」
直樹は即座に叫ぶ。
「言うな!」
光が続けて通知を読み上げる。
『追加照会:契約者本人の意思確認状況』
『追加照会:契約履行における学校側規約介入範囲』
『追加照会:実習対象者・天満アイの人間界適応状況』
アイがびくっとする。
「アタシの適応状況?」
美咲がアイを見る。
「適応……してる、のかしら」
直樹が言う。
「少なくとも、ドラ焼きと申請書には適応してる」
「ダーリン、それ褒めてる?」
「半分くらい」
「半分!」
ベル先生が呟く。
「これは、魔界側が正式確認に入る前段階かもしれないわね」
直樹は顔をひきつらせる。
「正式確認って何ですか」
真奈が静かに言う。
「外部からの照会である以上、学校として不用意な回答はできません。まずは内容を整理します」
直樹は苦笑した。
「会長、魔界相手でも書類で戦う気だ……」
真奈は当然のように答える。
「本校生徒に関わることですから」
その一言で、アイが少しだけ顔を上げた。
「アタシも?」
「天満さんも、本校で生活している以上、対象です」
アイは少し驚いたあと、ちょっとだけ嬉しそうにした。
「そっか」
直樹はその顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
だが、画面はさらにぴこんと鳴る。
『照会内容を魔界実習管理局・上級監査部へ転送します』
直樹は凍りついた。
「上級監査部?」
光が画面を見つめる。
「転送されました」
「戻せ!」
「戻せません」
宙のワラ人形が低く告げる。
「魔界、既読」
直樹は叫んだ。
「既読をつけるなぁぁぁ!」
ベル先生はにこにこしている。
「上級監査部ということは、監査官が動く可能性があるわ」
アリスが手を合わせる。
「次回予告、完成じゃん」
美咲がアリスを睨む。
「完成させない」
那々美が真剣に言う。
「魔界からの監査官……悪魔反応が強まる可能性があります」
アイは契約書を抱きしめる。
「魔界の監査官、怖い人だったらどうしよう」
直樹は、少しだけアイを見る。
いつものアイなら「アタシが悪魔らしく対応する!」と胸を張るところだ。
でも今は違う。
不安そうに契約書を抱えている。
直樹はため息をついた。
「怖い人でも、勝手に俺を契約者代表にするなよ」
アイは小さく頷く。
「うん。ダーリンの同意、確認する」
「そこは覚えてろ」
「少し」
「少しじゃなくて、しっかり」
「……しっかり少し」
「混ぜるな」
真奈は通知文を保存し、光へ指示する。
「校内通知は予定通り、ただし外部照会に関する部分は生徒会預かりとします。関係者には続報を出します」
直樹は即座に反応した。
「続報を出すなって言いたいけど、今回は出さないとまずいんだろうな……」
光が頷く。
「はい。今回は必要な続報です」
アリスがぽつりと言う。
「“続報を待つな”から“続報が必要”へ」
「タイトルっぽくするな!」
宙のワラ人形が、低く締める。
「校則文、魔界へ到達」
直樹は机に突っ伏した。
「到達しなくてよかったんだよ……」
生徒会室の空気は、さっきまでより少しだけ重くなっていた。
校則は、契約を消せない。
でも、契約に触れた。
そして、その触れた先で、魔界がこちらを見た。
直樹の平穏は、また一歩、遠のいた。
* * *
生徒会室を出たころには、窓の外が少し茜色になっていた。
放課後の廊下には、部活へ向かう生徒の声が響いている。
普通の高校の、普通の夕方。
少なくとも、見た目だけは。
直樹は肩を回しながら、長い息を吐いた。
「……終わった」
美咲が隣を歩きながら、半眼で見る。
「本当に終わったと思ってる?」
「思いたいんだよ」
直樹は、手元の資料を見下ろす。
『校内特殊活動に生徒を関与させる場合、事前に本人の明確な同意を得ること』
結局、自分専用の平穏保護条項はできなかった。
ダーリン保護条例もできなかった。
だが、本人同意を求める一般条項は残った。
それだけでも、今日の成果としては大きい。
たぶん。
きっと。
できれば。
「校則で全部は守れなかったけど、少しは平穏に近づいた気がする」
直樹がそう言った瞬間、美咲がすぐに言った。
「その台詞、もう危険フラグよね」
「言うな!」
アリスが後ろから笑う。
「“少しは平穏に近づいた気がする”って、次の瞬間に爆発するやつじゃん」
「爆発させるな!」
光はタブレットを抱えながら、穏やかに言う。
「内部見出しとしては、“平穏、目前で足踏み”」
「白金、最後まで見出しを作るな!」
「正式には使用しません」
「正式じゃなくてもだ!」
宙のワラ人形が、直樹の肩越しに低く告げる。
「平穏、未確定」
「お前も最後まで不安を足すな!」
ベル先生は廊下を歩きながら、なぜか機嫌がよさそうだった。
「でも、今日は有意義だったわね。校則文、本人同意、悪魔契約、魔界実習管理局。かなり面白い相互干渉が見えたもの」
「先生の“面白い”はだいたい俺の不幸なんですよ」
「あら、今回は真央くんの平穏にも一歩近づいたじゃない」
「今のところは、ですけどね」
那々美は修正版の申請書を大事そうに持っている。
『校内安全確認活動』
最初の『校内正義活動』よりは、かなり平和な名前になった。
「私も、今後は安全確認を優先します」
アイがその横で少し胸を張る。
「アタシも、ダーリンが嫌なことはちゃんと聞くよ」
直樹は足を止めた。
「本当だな?」
アイはにっこり笑う。
「たぶん!」
「たぶんを取れ!」
「じゃあ、かなり!」
「そこは“絶対”って言え!」
「悪魔は絶対って言うと契約っぽくなるから危ないかなって」
「そこだけ妙に慎重になるな!」
美咲が苦笑する。
「まあ、前よりは聞こうとしてるんじゃない?」
直樹はアイを見る。
アイは契約書を抱えたまま、少しだけ照れくさそうにしていた。
「ダーリンが嫌がることは、契約でもだめ。少し分かった」
「だから“少し”を取れって」
「じゃあ、分かった。少し多めに」
「増やし方が雑!」
それでも、直樹の声は少しだけ柔らかかった。
今日の会議で、契約は消えなかった。
けれど、アイは直樹の意思を前よりちゃんと見ようとしている。
那々美も、浄化より安全確認を選ぼうとしている。
アリスも、勝手に流さないことを覚えている。
ベル先生は……実験計画書を出すと言った。
光は……内部見出しを正式文書に載せない。
宙は……不安を足す。
完全な平穏には遠い。
だが、今日くらいは、少しだけ前に進んだと思ってもいい。
そう思った、その瞬間だった。
ぴこん。
アイのスマホが鳴った。
直樹は固まった。
美咲も固まった。
アリスが「あ」と言った。
光がタブレットを構えた。
宙のワラ人形が、低く告げる。
「来た」
「来るな!」
アイは恐る恐るスマホを見る。
画面には、黒い背景に赤い魔界文字。
そして、自動翻訳された日本語が浮かび上がっていた。
『魔界実習管理局より通知』
直樹は叫んだ。
「通知するな!」
アイが続けて読み上げる。
『人間界側規約による契約干渉を確認』
直樹は頭を抱える。
「確認するな!」
『実習継続可否および契約者意思確認のため、監査官派遣を準備中』
アイの顔から血の気が引いた。
「監査官……?」
那々美が真面目に身構える。
「魔界から、正式な担当者が来るということですか」
ベル先生は、楽しそうに微笑んだ。
「ついに魔界側の正式な担当者が来るみたいね」
直樹はベル先生を指さした。
「先生、楽しそうに言わないでください!」
光がタブレットへ通知内容を入力する。
「記録します。人間界側規約による契約干渉、実習継続可否、契約者意思確認、監査官派遣準備中」
「一語一語が重い!」
アイは震える指で、最後の行を読む。
『詳細は追って通達』
直樹は即座に叫んだ。
「追ってこなくていい!」
廊下にいた数人の生徒が、びくっと振り返った。
美咲が小声で言う。
「直樹、声」
「だって追ってくるんだぞ、魔界が!」
アリスは苦笑する。
「普通に言うと怖いね、“魔界が追ってくる”」
「普通じゃなくても怖い!」
アイはスマホを握りしめて、小さく言った。
「監査官って……アタシの実習、見に来るんだよね」
直樹はアイを見る。
「そう書いてあるな」
「失格って言われたら、どうしよう」
その声は、いつものアイらしくなかった。
世界征服を夢見る仔悪魔見習いではなく、先生に怒られる前の生徒みたいな声だった。
直樹は少しだけ言葉に詰まる。
契約解除。
魔界送還。
平穏の回復。
それは、直樹がずっと望んでいたはずのものだ。
なのに、アイが不安そうにしていると、素直に喜べない。
「……とりあえず、勝手に俺の意思を代弁するなよ」
アイが顔を上げる。
「うん。ダーリンの意思は、ダーリンに聞く」
「そこは今日覚えたばかりだからな」
「覚えた。少しじゃなくて、ちゃんと」
直樹は少しだけ目をそらす。
「なら、いい」
美咲がその様子を見て、小さく笑った。
「少しは進歩したじゃない」
「俺は不安が増えたけどな」
宙のワラ人形が低く告げる。
「監査、来訪」
「だから不安を確定させるな!」
光は、静かに言った。
「内部見出しとしては、“校則、魔界を呼ぶ”」
直樹は振り返る。
「白金、最後に見出しを作るな!」
「正式には使用しません」
「正式じゃなくても、最後くらい我慢しろ!」
その瞬間、廊下の照明が一瞬だけちらついた。
アイの契約アプリから、さらに短い通知音が鳴る。
『次回通達予定:監査官情報』
直樹は、心の底から叫んだ。
「俺の平穏、校則でも守れなかったぁぁぁ!」
その叫びは、夕方の鏡星学園にむなしく響いた。
そして、いつものように誰かが聞いていた。
宙のワラ人形が、ぽつりと告げる。
「記録完了」
「記録するなぁぁぁ!」
◆
ナレーションが、突然、重々しく響いた。
人間界の校則が、魔界契約に干渉した。
その報告を受け、魔界実習管理局はついに監査官を派遣する。
優雅なる魔界貴族。
その隣に立つ、苦労人補佐。
仔悪魔見習い・天満アイの実習は継続か、失格か。
そして、真央直樹は契約解除を望むのか。
揺れる契約書。
沈黙する生徒会。
震えるドラ焼き。
次なる審判の扉が、いま開かれる――。
「急に重くするな!」
直樹のツッコミが、ナレーションを叩き割った。
アイは不安そうなまま、しかしどこか真剣に直樹を見上げる。
「ダーリン、監査ってドラ焼き出したほうがいい?」
「供物で解決しようとするな!」
ベル先生が顎に手を当てる。
「でも、魔界側の来訪者なら、手土産の反応を見るのも資料になるかも」
「先生も乗らない!」
宙のワラ人形が低く告げた。
「ドラ焼き、監査対応品」
「対応品にするなぁぁぁ!」
次回。
『第12話 魔界から来た監査官!』
真央直樹の平穏は、またしても通達待ちになった。




