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第1話_仔悪魔ちゃん勝手に召喚!

 奥様の名前はアイ。


 そして、旦那さまの名前は直樹。


 ごく普通ではない二人は、ごく普通ではない出会いをして、ごく普通ではない契約を結びました。


 でも、ただひとつ違っていたのは――奥様は、仔悪魔だったのです。


「違う!」


 どこからともなく流れていた、やたら陽気なホームコメディ風BGMをぶち破るように、真央直樹(まおうなおき)は叫んだ。


「奥様じゃない! 旦那さまでもない! というか、その紹介文だと俺が納得して家庭を築いたみたいになるだろ!」


「えー? でも契約者だし」


 天満(てんま)アイは、満面の笑みでスマホを掲げた。


 画面には、黒地に赤い文字でこう表示されている。


『人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約――締結済』


「控え居ろう。この電子契約書が目に入らぬか!」


「スマホを印籠みたいに出すな!」


 直樹は画面を指さした。


「俺は押してない!」


「押したよ」


「読んでない!」


「読まない自由も尊重したよ」


「そもそも契約書が悪魔語だった!」


「だから親切に電子契約版も出したでしょ?」


「その電子契約版も、下までスクロールしたら急に『同意する』ボタンが湧いてきたんだよ!」


 アイは、悪魔らしからぬ天使のような笑顔で言った。


「読まなくても、同意したら同意だよ、ダーリン!」


「悪魔より現代の利用規約のほうが怖い!」


 直樹の叫びに合わせて、どこかで観客の笑い声が響いた。


 いや、観客などいない。


 いるのは、仔悪魔見習いの少女と、人生を勝手に電子署名された高校生だけである。


「というわけで、今日からアタシとダーリンの愛と契約と世界征服の物語が始まります!」


「始めるな! あと愛を混ぜるな!」


 では、時間を少し巻き戻そう。


 どうして真央直樹の平穏な高校生活が、たった一杯のカップラーメンからここまで悪化したのか。


 その原因は、三分待てば食べられるはずのものを、二分で開けたことにある。


* * *


 真央直樹は、ごく普通の高校生である。


 成績は中の上。運動は中の中。部活は一応、文芸部に籍だけ置いているが、活動実績はほぼ幽霊。将来の夢は「平穏に暮らすこと」。


 ただし、ごく普通の高校生は、ポストに入っていた怪しいカップラーメンを食べようとはしない。


「いや、まだ食べるって決めてないからな?」


 誰にともなく言い訳しながら、直樹は自宅の玄関先でポストをのぞきこんでいた。


 学校帰りの夕方。


 教室では今日も、隣のクラスの男子に「真央って苗字も顔も女子っぽいよな」と雑にからかわれ、廊下では一年生に「すみません、先輩って女子の先輩ですか?」と純粋な目で確認され、帰り道ではガラスに映った自分の顔を見て、少しだけへこんだ。


「……俺は男だ。ちゃんと男だ。声変わりも済んでる。たぶん」


 最後の一言で自分の心を折りかけたので、直樹は考えるのをやめた。


 平穏がほしい。


 今の直樹に必要なのは、温かい夕飯と、静かな部屋と、誰にも顔のことをいじられない時間である。


 なのに。


「……なんでポストにカップ麺が入ってるんだよ」


 ポストの中には、郵便物でも宅配の不在票でもなく、赤黒いパッケージのカップラーメンが鎮座していた。


 しかも、妙に高級感のある金文字でこう書かれている。


『悪魔の激辛契約ヌードル 初回登録無料』


 その下には、小さなキャッチコピー。


『三分待てば、人生が変わる。今なら使い魔一体つき』


「アウトだろ。食品表示としても、人生設計としてもアウトだろ」


 直樹はカップ麺をつまみ上げた。


 未開封。


 賞味期限内。


 容器にへこみなし。


 不審物としては満点だが、食べ物としても妙に合格点だった。


「いや、ポストにカップ麺はないだろ」


 直樹はうなずいた。


「いや、でも未開封だし」


 もう一度うなずいた。


「賞味期限も切れてないし」


 さらにうなずいた。


「むしろ今ちょっと腹減ってるし」


 そこで、直樹ははっとした。


「待て。俺、今かなり危ない思考してないか?」


 普通なら捨てる。


 常識があれば通報する。


 よい子なら保護者に相談する。


 だが、直樹は高校生で、腹が減っていて、そして致命的なことに、好奇心がほんの少しだけ常識より強かった。


「……まあ、ひと口だけなら」


 ひと口で済んだ試しはない。


 それは古今東西、あらゆる失敗談の冒頭に書かれている真理である。


 直樹はカップ麺を持って、家の中へ入った。


 この三分後、彼の平穏な高校生活は、麺よりも細く、スープよりも濃く、そして利用規約よりも理不尽な運命に絡め取られることになる。


 もちろん、本人はまだ知らない。


「激辛か……卵入れたほうがいいかな」


 知らないにもほどがあった。


* * *


 台所に、やかんの音が響いていた。


 真央直樹は、例のカップ麺をテーブルに置き、腕を組んでにらんでいた。


『悪魔の激辛契約ヌードル 初回登録無料』


「……初回登録ってなんだ。俺は麺を食いたいんであって、人生のサブスクを始めたいわけじゃないんだが」


 とはいえ、お湯は沸いている。


 空腹も限界に近い。


 直樹はふたを半分開け、かやく袋を取り出そうとして――中にかやく袋がないことに気づいた。


「直入れタイプか。最近のカップ麺、進化してるな」


 進化の方向を疑え。


 直樹はお湯を注ぎ、ふたを閉じ、上に割り箸を置いた。


 表示には大きくこう書いてある。


『三分待てば、人生が変わる』


「いや、人生は変わらなくていい。麺だけ戻れ」


 スマホのタイマーを二分にセットする。


 直樹は固めの麺が好きだった。


 あと、三分も待てるほど人間ができていなかった。


 ピピッ。


 二分。


「よし」


 直樹は割り箸をどけ、ふたに指をかけた。


 その瞬間。


 ぼふんっ!


「熱っ!?」


 カップの中から、ありえない量の湯気が噴き出した。


 台所が一瞬で白く染まる。換気扇が負ける。窓も曇る。もはやカップ麺ではなく、家庭用スモークマシンである。


「な、なんだこれ! 粉末スープ入れすぎたレベルじゃないぞ!」


 湯気の向こうに、人影が見えた。


 小柄な少女の影。


 ただし、普通ではない。


 頭には片方だけ小さな角。


 肩にはやたら立派な黒いマント。


 制服の上着は魔界風なのに、スカートだけどこかの高校指定っぽい。


 靴下は片方がしましま、片方が妙に格式高い。


 背中の小さな翼は、湯気でしなしなになっていた。


 そして頭の上には、乾燥ネギが三つ乗っていた。


「……マジックショーか!」


「三分って書いてあったでしょーっ!」


 湯気の中から、少女が飛び出してきた。


 手には小さなホウキ。


 次の瞬間、そのホウキが直樹の顔面にクリーンヒットした。


「ぐべっ!」


 直樹は見事に床へ転がった。


 星が見えた。


 いや、違う。天井の照明だった。


「まったくもう! 召喚途中で開けるなんて最低! 髪も翼もまだ戻ってないし、マントだけ先に実体化したし、ネギ乗ってるし!」


 少女はぷんすか怒りながら、頭のネギを払った。


 そして、ふと何かに気づいたように固まる。


「あ、やば。登場やり直し」


「は?」


「今のなし!」


 少女はくるりと反転し、すぽん、とカップ麺の中へ戻った。


 台所に静寂が戻る。


 カップ麺が、何事もなかったように湯気を立てている。


 直樹は床に寝転んだまま、しばらく天井を見つめていた。


「……カップラーメンの精か?」


 疲れている。


 きっと疲れているのだ。


 そう思いながら、直樹は恐る恐る起き上がり、もう一度ふたを開けた。


 ぱぁんっ!


 今度は妙に派手な効果音とともに、少女がカップの中から堂々と現れた。


 角は両方そろっている。


 マントもふわりとなびいている。


 背中の翼も、なんとか乾いている。


 ただし、頭にナルトが一枚乗っていた。


「呼ばれて飛び出て、仔悪魔ちゃん参上!」


 少女は胸を張り、満面の笑みで名乗った。


 直樹は三秒ほど見つめた。


 そして、できる限り冷静な声で言った。


「帰れ」


「第一声ひどくない!?」


* * *


「帰らない!」


 カップ麺から現れた少女は、直樹の拒絶を真正面からはね返した。


 そして、なぜか台所の椅子によじ登る。


「おい、靴のまま椅子に上がるな」


「では改めまして!」


「聞けよ」


 少女はマントをばさっと広げた。


 背中の小さな翼が、まだ湯気で少しふやけている。威厳はない。かわいそうな洗濯物みたいだった。


「アタシの名前は天満アイ。職業は仔悪魔見習い。趣味は世界征服。特技は契約。好きな食べ物は、たぶんこれから見つける予定!」


「情報量が多い」


「あと、将来の夢は魔界のエリート悪魔になって、人間界をばばーんと支配することです!」


「自己紹介で将来の夢を言うテンションじゃないんだよ、それ」


 直樹は額を押さえた。


 頭が痛い。


 ホウキで殴られたからではない。いや、それもある。


「で? その仔悪魔見習い様が、なんでカップラーメンに入ってたんだよ」


「封印されてたの」


「食品に?」


「食品に」


「魔界、衛生管理どうなってんだ」


 アイは腕を組み、ふふんと胸を張った。


「聞いて驚け。アタシは魔界で、壮大なる世界征服計画を立てたのです!」


「おお」


「計画書、全三ページ!」


「少なっ」


「しかも一ページ目はタイトル!」


「実質二ページ!」


「二ページ目はイメージイラスト!」


「実質一ページ!」


「三ページ目に『みんなでがんばる』って書いたら、先生に怒られた」


「当然だよ!」


 直樹は思わず全力で突っ込んだ。


 世界征服以前に、学級会の企画書としても落第である。


「それで反省文の代わりに、人間界実習を命じられたの。人間を誘惑して契約者を作り、立派な悪魔になるための研修ね」


「へえ。悪魔にも研修とかあるんだな」


「今どき悪魔も実績とコンプラが大事なんだよ」


「嫌な現代化だな」


「ところが、実習用の召喚容器を選ぶときに、ちょっとだけ間違えたの」


「ちょっと?」


「本当は高級な魔導ランプに入る予定だったんだけど、隣に置いてあった限定激辛カップ麺と見た目が似てて」


「似てないだろ!」


「魔界の暗い倉庫では似てたの!」


 アイはむっと頬をふくらませる。


「それで気づいたら、アタシはカップラーメンに封印されていたわけです」


「雑だな、魔界」


「雑じゃない。効率化だよ」


「言い方でごまかすな」


 直樹はテーブルの上のカップ麺を見た。


 さっきまで食べようとしていたものから、世界征服志望の仔悪魔が出てきた。


 人生には、知りたくなかったことが多すぎる。


「まあ、事情はわかった。かわいそうではある。だから帰れ」


「だから帰らないってば」


「なんでだよ」


 アイはにこっと笑った。


 その笑顔だけは、やたら自信満々だった。


「だって、ダーリンがアタシの封印を解いたんだもん」


「ダーリン言うな。あと俺は湯を注いだだけだ!」


「悪魔契約では、それを救済行為と呼びます」


「呼ぶな!」


「封印を解いた者は、解かれた悪魔の契約者になる。古来より続く、由緒正しきルールなのです」


「古来より続いてるなら、なおさらカップ麺に対応するな!」


 直樹の叫びが台所に響く。


 アイは椅子の上で、びしっと直樹を指さした。


「というわけで、真央直樹!」


「フルネームで呼ぶな。嫌な予感がする」


「アタシ、天満アイは、アンタを契約者として人間界実習を開始します!」


「拒否権!」


「悪魔にはない!」


「人間側にはあるだろ!」


 アイは満面の笑みで言った。


「大丈夫。アタシが責任を持って、ダーリンを世界の覇者にしてあげる!」


「まず俺の台所を元に戻してくれ!」


* * *


「では、契約を始めます!」


 アイは椅子の上で高らかに宣言すると、マントの内側をごそごそ探った。


「契約って言うな。俺はまだ何も同意してない」


「大丈夫。まずは説明からだから」


「その“まずは”の時点で嫌な予感しかしない」


 アイが取り出したのは、古びた羊皮紙だった。


 端は焦げている。赤黒い封蝋がついている。なぜかうっすら硫黄っぽい匂いもする。


 どう見ても、まともな書類ではない。


「これが由緒正しき悪魔契約書です!」


「由緒正しい不審物だろ」


 直樹は羊皮紙を受け取って、目を細めた。


 そこには、ぐにゃぐにゃした文字がびっしり並んでいた。


 文字というより、寝不足のミミズが深夜テンションで踊った跡に見える。


「読めない」


「魔界公用語だもん」


「じゃあ無効」


「えっ」


「読めない契約書にサインできるか。人間界をなめるな」


 直樹が羊皮紙を突き返すと、アイは一瞬だけ悔しそうに唇を尖らせた。


 そして、すぐに笑顔になった。


「じゃあ電子契約で」


「切り替え早っ!」


 アイはどこからともなくスマホを取り出した。


 画面には、黒地に赤いアイコンのアプリが表示されている。


『魔界契約クラウド Ver.666』


「悪魔がDX化してる!」


「今どき紙だけじゃ契約実績が管理できないんだよ。先生にも言われたもん。これからの悪魔はデータ活用だって」


「悪魔学校、妙に実務的だな!」


 アイは得意げに画面を操作した。


「契約名は、『人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約』です」


「長い」


「通称、ダーリン契約」


「今すぐ正式名称に戻せ」


 直樹は画面をのぞきこんだ。


 内容は箇条書きになっている。


「えーっと……アイは真央直樹の家に滞在できる」


「うん!」


「真央直樹はアイの人間界実習を補助する」


「うんうん!」


「アイは真央直樹の願いを叶える努力をする」


「努力はするよ!」


「努力で逃げ道を作るな」


 直樹はさらに読み進めた。


「対価はドラ焼き百個……なんで?」


「まだ食べたことないけど、名前が強そうだから」


「判断基準が雑!」


「あと契約解除には所定の手続きが必要で、魔界側の審査と実習記録の提出と契約者本人の意思確認と、その他もろもろむにゃむにゃむにゃ」


「急に早口になるな! そこ絶対大事なところだろ!」


 アイは口笛を吹いた。


 下手だった。


「最後に……契約者を愛称で呼ぶ権利を含む」


「最後がおかしい!」


「おかしくないよ。契約者との親密な関係構築は、人間界実習における重要項目です」


「だからってダーリンは飛躍しすぎだ!」


「じゃあ、ご主人さま?」


「悪化した!」


「ナオくん?」


「それも嫌だ!」


「じゃあ、ダーリンで」


「選択肢が機能してない!」


 直樹はスマホを押し返した。


「とにかく却下。俺は契約しない。家にも置かない。世界征服もしない。ドラ焼き百個も出さない」


「……ふーん」


 アイの声が、急に小さくなった。


 さっきまで椅子の上で威張っていた仔悪魔は、ぷいっと横を向く。


「契約してくれない人間に興味ないね」


「いや、その言い方は強がってるだろ」


「強がってないし。仔悪魔ちゃんは孤高の存在だし。別に、封印を解いてくれた人間にちょっと期待したとか、これでやっと外に出られるって思ったとか、そういうの全然ないし」


 声が震えていた。


 直樹はうっと詰まる。


 ずるい。


 契約は怪しい。主張はめちゃくちゃ。呼び名も最悪。


 なのに、ここでそんな顔をされると、完全には突き放しにくい。


「……とりあえず、椅子から降りろ。話はそれからだ」


「契約してくれる?」


「してない。話を聞くだけ」


「じゃあ、お茶も出る?」


「なんで要求が増えるんだよ」


 アイはちらっと直樹を見た。


 涙目のまま、少しだけ期待した顔をしている。


 直樹は盛大にため息をついた。


「……茶くらいなら出す」


「お菓子は?」


「調子に乗るな」


「人間界、厳しい」


「悪魔にだけは言われたくない」


* * *


「……ほら、茶」


 直樹は湯のみをテーブルに置いた。


 アイは椅子にちょこんと座り、両手で湯のみを持つ。


「ありがとう、ダーリン」


「ダーリンじゃない」


「じゃあ、契約予定者」


「それも嫌だ」


「仮ダーリン」


「仮免みたいに言うな」


 直樹は深くため息をついた。


 カップラーメンから出てきた仔悪魔にお茶を出している時点で、もう自分の人生はどこかで分岐を間違えている。


 たぶん二分でふたを開けたあたりだ。


「で、お茶だけ?」


 アイが湯のみをのぞきこみながら言った。


「お茶だけってなんだ」


「人間界では、お茶の横に甘い供物を置くって、魔界の実習動画で見た」


「なんだその偏った教材」


「講師が言ってたよ。『茶菓子のない交渉は、契約成功率が下がります』って」


「悪魔学校、変なところだけ実用的だな」


 直樹はしばらく黙っていたが、やがて棚を開けた。


 母が買っておいた菓子がある。


 袋入りのドラ焼きだった。


「一個だけな」


「なにこれ?」


「ドラ焼き」


「ドラ……?」


 アイは、丸いそれを両手で持ち上げた。


 初めて宝石を見つけた子どものように、目をまん丸にしている。


「これ、食べ物? それとも召喚陣?」


「食べ物だ。召喚陣を茶菓子に出す家があるか」


「魔界にはあるよ?」


「魔界、二度と行きたくない」


 アイはおそるおそるドラ焼きにかじりついた。


 その瞬間。


 ぴこん、と小さな翼が立った。


「……!」


 アイは固まった。


 口の中で、ふわふわの生地と、しっとりした餡子がほどける。


 さっきまで世界征服だ契約だと騒いでいた仔悪魔が、目を見開いたまま、何も言えなくなっていた。


「おい?」


「……なにこれ」


 アイの声が震えた。


「人間界……征服する価値あるじゃん」


「判断基準が餡子なのかよ」


「すごい。甘い。やわらかい。黒いのに怖くない。魔界の闇よりやさしい」


「餡子をそこまで壮大に語るやつ、初めて見た」


 アイは残りを大事そうに食べた。


 一口ごとに、翼がぴこぴこ動く。


 角まで少しつやつやしている気がした。


「ダーリン」


「だから違う」


「決めた」


「何を」


 アイはびしっと直樹を指さした。


「ドラ焼き百個で、アンタを世界の覇者にしてあげる!」


「安いのか高いのか判断に困る!」


「今なら初回契約特典で、仔悪魔ちゃんの人間界実習サポート権もついてくる!」


「それ、俺がサポートする側だろ!」


 直樹は腕を組んだ。


 怪しい。


 ものすごく怪しい。


 だが、世界の覇者。


 高校生男子の心のどこかに、そういう言葉へ反応する中二成分は、少しくらい残っている。


 直樹の脳内で、緊急会議が始まった。


 天使直樹が言う。


『悪魔と契約なんてだめだ。常識で考えろ』


 悪魔直樹が言う。


『でも世界の覇者だぞ。響きがいい』


 現実直樹が電卓を叩く。


『ドラ焼き百個は地味に高い。コンビニ換算でそこそこ痛い』


 空腹直樹が手を挙げる。


『もう一個食べたい』


「最後のやつ、会議から出ていけ」


「ダーリン?」


「いや、なんでもない」


 直樹は咳払いした。


「とにかく、契約内容をちゃんと確認させろ。要約じゃなくて、全部だ。変な条項とか、小さい文字とか、早口でごまかしたところも含めてだ」


「わかった!」


 アイはぱあっと笑って、スマホを操作した。


 画面に契約内容の要約が表示される。


『要するに、アタシが直樹を幸せにします』


「雑!」


「だって全部書くと長いんだもん」


「長いから読むんだよ! 短い契約書ほど罠が多いんだ!」


「じゃあ、こうする」


 アイは画面をぽちぽち操作した。


 要約が更新される。


『アタシが直樹をすごく幸せにします』


「形容詞を足すな!」


「じゃあ、すごくすごく?」


「増やすな!」


 アイはドラ焼きの残り香を惜しむように指先を見つめ、それからにこっと笑った。


「大丈夫だよ。アタシ、悪魔だけど嘘はあんまりつかないから」


「あんまりって言ったな」


「細かいこと気にしてると、世界の覇者になれないよ?」


「なる前提で話すな」


 直樹はもう一度ため息をついた。


 目の前には、ドラ焼きに感動している仔悪魔。


 手元には、怪しすぎる電子契約。


 そして自分の中には、ほんの少しだけ、世界の覇者という言葉に揺れている愚かな心。


「……確認するだけだからな」


「うん!」


「押さないからな」


「うんうん!」


「絶対に同意しないからな」


「はい、スクロールして」


「聞いてるか?」


 直樹はスマホを受け取った。


 このとき、彼はまだ知らない。


 人類史上もっとも危険なボタンは、たいてい画面の一番下にある。


* * *


 直樹はスマホを受け取った。


 画面には、黒地に赤い文字で契約文が表示されている。


『人間界滞在補助および世界征服実習における仮契約』


「……タイトルだけで読む気が削れるな」


「大丈夫。下までスクロールしたら終わるよ」


「その言い方が一番信用できない」


 直樹は画面を指でなぞった。


 契約文が流れる。


 流れる。


 まだ流れる。


 さらに流れる。


「長い!」


「悪魔契約だからね」


「悪魔って、もっとこう、血で名前を書いたら一発アウトみたいな感じじゃないのかよ!」


「昔はそうだったけど、今は説明責任があるの」


「説明責任の結果、誰も読めない量にするな!」


 直樹は必死にスクロールした。


『第六六六条 契約者は仔悪魔見習いの精神的安定に配慮するものとする』


『第六六七条 契約者は合理的範囲内で茶菓子を提供するよう努めるものとする』


『第六六八条 合理的範囲にはドラ焼き百個を含むものとする』


「合理的範囲が広すぎる!」


「広い心、大事」


「悪魔に道徳を説かれたくない」


 さらに下へ進むと、画面の中央にボタンが出た。


『すべて表示する』


「お、やっと全文表示か」


 直樹は親指を伸ばした。


 その瞬間、アイが横から身を乗り出した。


「あ、そこ気をつけて」


「え?」


 ぽちっ。


 画面が光った。


『同意する』


「今のボタン、同意するだったぁぁぁぁ!?」


「うん。魔界アプリって、押した人の心の迷いを検知して最適なボタンに変わるの」


「最悪のユーザー体験!」


 直樹がスマホを投げ捨てようとした瞬間、画面から無駄に荘厳なファンファーレが鳴った。


『音声認証を開始します。契約者本人の氏名を発声してください』


「キャンセル! キャンセルはどこだ!」


「ダーリン、名前言って」


「言うか!」


「本人確認だから」


「本人確認で人生を奪うな!」


『十秒以内に氏名を発声してください。九、八、七――』


「待て待て待て!」


 直樹は慌てて画面を叩いた。


 だが、どこを押しても反応しない。


 表示されるのは、赤い文字のカウントダウンだけ。


『六、五、四――』


「アイ! 止めろ!」


「止め方知らない」


「契約アプリ持ち主だろ!」


「初めて使うもん」


「初心者が悪魔契約するな!」


『三、二――』


「名前!」


「だから言わないって!」


『一――』


「ダーリン、名前!」


「真央直樹だよ!」


 怒鳴った。


 怒鳴ってしまった。


 台所に、数秒の静寂が落ちる。


 直樹は、自分の口を両手で押さえた。


 スマホが、ぴこん、とかわいらしい通知音を鳴らした。


『契約が完了しました。おめでとうございます。あなたは仔悪魔見習い・天満アイの人間界滞在補助者に選ばれました』


「選ばれたくなかった……」


 直樹は真っ白になった。


 アイは両手を胸の前で組み、ぱあっと笑った。


「よろしくね、ダーリン!」


「誰がダーリンだ!」


「契約書に書いてあるもん」


 アイは得意げに画面を見せた。


 下のほうに、小さな小さな文字が並んでいる。


『契約者を愛称で呼ぶ権利を含む』


 直樹は目を細めた。


 さらに目を細めた。


 それでも読みにくかった。


「小さすぎる! 悪魔の契約書よりスマホの規約のほうが悪魔的だ!」


「褒めてる?」


「怒ってる!」


 アイは椅子の上でくるりと回り、マントを広げた。


「こうして、アタシと直樹のダーリン契約は無事成立しました!」


「無事じゃない! 事故だ! これは契約成立事故だ!」


『契約成立事故に関するお問い合わせは、魔界サポートセンターまで』


 スマホが親切そうに告げた。


 直樹は震える手で画面を見た。


『現在の待ち時間:六百六十六分』


「サポートする気ないだろ!」


 アイはにこにこしている。


 直樹は頭を抱えている。


 テーブルの上では、食べそこねたカップ麺がのびている。


 たった一杯のカップラーメン。


 たった一個の同意ボタン。


 それだけで、真央直樹の平穏な高校生活は、正式に悪魔へ外部委託されたのだった。


* * *


『契約が完了しました』


 スマホの無慈悲な通知音が、台所に余韻を残して消えた。


 直樹は石になっていた。


 人間、あまりにも理不尽なことが起きると、叫ぶより先に固まるらしい。


「よろしくね、ダーリン!」


 アイが満面の笑みで飛びついてきた。


 がしっ。


 直樹の腕に、仔悪魔がしがみつく。


「これでアタシたちは運命共同体だね!」


「共同体になる同意はしてない!」


「でも同意ボタンは押したよ?」


「その話を蒸し返すな! 俺の心が再炎上する!」


 直樹はアイを引きはがそうとした。


 だが、アイはなぜかぴったりくっついて離れない。


 物理的な力というより、目に見えない磁石のようなものが働いている感じだった。


「……なんか、近いな」


「契約者と仔悪魔は、一定距離以上離れられないんだって」


「さらっと重要事項を今言うな!」


「だって契約書の第七百二十一条に書いてあったもん」


「七百条超えてる時点で読ませる気ないだろ!」


 直樹は玄関を指さした。


「とにかく出ていけ。契約とか実習とか世界征服とか知らん。ここは普通の家だ。魔界の研修施設じゃない」


「えっ」


 アイの笑顔が、少しだけしぼんだ。


 それでも彼女は、マントの内側から例のスマホを取り出す。


「追い出してもいいけど、契約不履行で魔界サポートセンターに通報するよ?」


「どこにあるんだよ魔界サポートセンター!」


「契約者専用ダイヤルがあるよ」


「いらない!」


 アイが画面を押した。


 すると、スマホから黒いもやが立ち上り、台所の空気が急にコールセンターっぽくなった。


 なぜか保留音まで流れる。


『お電話ありがとうございます。魔界サポートセンターです。この通話は品質向上と契約者の逃亡防止のため録音されます』


「録音目的が不穏!」


『契約内容の確認は一番を。契約不履行の通報は二番を。ドラ焼き百個の分割払い相談は三番を。オペレーターに罵倒されたい方は四番を――』


「四番だけ魔界らしさ出してくるな!」


 直樹は慌ててスマホを伏せた。


 しかし音声は止まらない。


『なお、契約者が仔悪魔見習いを完全拒絶した場合、契約不安定化により、周辺環境へ軽微な魔法事故が発生する可能性があります』


「軽微ってどの程度だよ」


 次の瞬間、テーブルの上ののびたカップ麺が、ぽん、と小さな翼を生やした。


 カップ麺はぱたぱた飛び、直樹の頭に着地した。


「これが軽微か!」


「かわいい!」


「かわいくない! 食べ物が進化の袋小路に入った!」


 アイは涙目のまま、直樹の袖をつかんだ。


「だから、追い出さないでよ。アタシ、まだ人間界のこと全然わかんないし。契約者がいないと、実習もできないし……」


「……」


「それに、ドラ焼き百個もまだだし」


「最後で台無しだよ!」


 直樹は頭の上の羽つきカップ麺をつかみ、そっとテーブルに戻した。


 追い出す。


 絶対に追い出す。


 そう決めていたはずなのに、アイの目が少し赤いのを見て、言葉が一瞬だけ詰まった。


 その一瞬を、アイは見逃さなかった。


「じゃあ、決定ね!」


「何が!」


「ダーリンはアタシを追い出さない!」


「決定してない!」


『契約者の沈黙を好意的意思表示として記録しました』


「記録するなぁぁぁ!」


 台所に、直樹の叫びが響き渡る。


 その声に合わせて、羽つきカップ麺がぱたぱたと飛び上がった。


 真央直樹の平穏は、今日、正式に魔界サポート対象になった。


* * *


「だったら俺が逃げる!」


 直樹は叫ぶなり、勝手口へ走った。


「えっ、ダーリン!?」


「ダーリンじゃない! あと契約者専用磁石みたいにくっついてくるな!」


 台所を飛び出し、廊下を抜け、勝手口のサンダルをつっかける。


 人間、追い詰められると判断力が消える。


 特に、カップ麺から仔悪魔が出てきて、電子契約で人生を外部委託された直後の高校生は、だいたい冷静ではない。


「待ってよー! 契約者が逃げたら、アタシの実習記録が真っ赤になる!」


「成績表のために追いかけてくるな!」


 直樹は住宅街へ飛び出した。


 夕方の道。


 犬の散歩をするおじいさんが、直樹の全力疾走を見て目を丸くする。


 その後ろを、マントをばさばささせた少女がホウキを抱えて追いかける。


 町内の治安は、今この瞬間だけファンタジーに敗北した。


「くそっ、普通に走っても追いつかれる……!」


 直樹は角を曲がった。


 そして、ひらめいた。


「敵の死角を突く完璧な作戦!」


 数分後。


 アイは住宅街の電柱の下で、上を見上げていた。


「ダーリン、降りてきなさい」


「断る」


 直樹は電柱の上にいた。


 なぜ登れたのか。


 本人にもわからない。


 火事場の馬鹿力という言葉があるが、直樹の場合は、悪魔場の馬鹿判断だった。


「そこ、危ないよ?」


「お前のほうが危ない!」


「降りてきたら、優しく契約内容を説明してあげる」


「優しく詐欺の手口を説明されても困るんだよ!」


 直樹は電柱にしがみつきながら、震える足で必死にバランスを取っていた。


 逃げ切った。


 少なくとも、地上からは。


 ただし、重大な問題がある。


「……降りられない」


「え?」


「なんでもない!」


 アイはじとっとした目で直樹を見上げた。


「ダーリン、もしかして降りられないの?」


「違う。これは戦略的高所確保だ」


「かっこよく言っても、電柱だよ?」


「うるさい!」


 アイはため息をつくと、ホウキを持ち直した。


「じゃあ、降りてこないなら、アタシが登る」


「悪魔なのに地味な追跡方法!」


「ホウキ、まだ湯気で湿ってて飛べないんだもん」


「召喚直後の悪魔、生活感がありすぎる!」


 アイは電柱に両手をかけた。


 マントが引っかかる。


 角も引っかかる。


 翼がぺしょっと電柱にくっつく。


「むむむ……人間界の柱、思ったより手ごわい」


「電柱相手に苦戦する世界征服志望、初めて見たぞ」


「うるさい、ダーリン! 今、登って捕まえるから!」


「来るな! そしてその呼び名を町内に響かせるな!」


 そのときだった。


 ぱん、ぱん、と地面でボールが弾む音がした。


 部活帰りの少女が、バスケットボールを片手に立ち止まる。


 佐藤美咲。


 直樹の幼なじみである。


 美咲は、電柱の上の直樹を見た。


 次に、電柱を登ろうとしている角つきマント少女を見た。


 最後に、もう一度直樹を見た。


「……夕方から何やってんの、直樹」


 直樹は、電柱の上で心から思った。


 終わった、と。


* * *


「……夕方から何やってんの、直樹」


 バスケットボールを小脇に抱えた佐藤美咲は、心底あきれた顔をしていた。


 部活帰りなのだろう。ジャージ姿で、額にはうっすら汗がにじんでいる。


 その視線の先には、電柱の上にしがみつく真央直樹。


 そして、電柱の下でマントを引っかけながら登ろうとしている角つき少女。


 普通の住宅街で見る光景ではない。


 少なくとも、進学校に通う高校生の放課後ではない。


「美咲!」


 直樹は、天から救いの蜘蛛の糸を見つけた罪人のような顔をした。


「助けてくれ。この悪魔を追い払ってくれ」


「悪魔?」


 美咲はアイを見た。


 アイは電柱から手を離し、くるりと振り向く。


 マントがばさっとなびいた。


 ただし端っこが電柱の金具に引っかかって、ちょっと戻された。


「いたっ」


「威厳がないな」


「うるさい、ダーリン!」


 アイは咳払いをして、胸を張った。


「アタシは天満アイ。直樹の契約者で、未来の世界征服パートナーで、ダーリンの一番近くにいる女!」


 美咲は固まった。


「……情報量が多い」


「違う!」


 電柱の上から、直樹が全力で叫ぶ。


「半分くらい違う!」


 美咲の目が細くなった。


「半分は合ってるんだ?」


「言葉のあやだ! 合ってる部分も、合ってない方向に合ってるだけで!」


「なにそれ。言い訳まで怪しいんだけど」


 美咲はボールを地面についた。


 ぱん、と乾いた音が住宅街に響く。


「で? この子、誰。まさか本当に彼女とか言わないよね」


「言わない!」


「彼女じゃないよ」


 アイがにこっと笑った。


「契約者の伴侶候補」


「悪化させるな!」


 美咲のこめかみがぴくっと動いた。


「ふーん。直樹、あんた私に何も言わずに、そういう変な契約ごっこ始めたわけ?」


「始めてない! 事故だ! 電子契約事故!」


「なにそれ。新手の迷惑メール?」


「だいたい合ってる!」


 アイは美咲をじっと見つめた。


 そして、何かを悟ったように目を光らせる。


「わかった。あなた、幼なじみだね」


「だったら何?」


「幼なじみって、古参アピールでマウント取るタイプの人だ」


「はあ?」


 美咲の声が一段低くなった。


「契約者面する新規が何言ってんの」


「新規じゃないもん。正式契約済みだもん」


「直樹、あんた本当に契約したの?」


「契約というか事故というか、消費者センター案件というか……」


「したんだ」


「してないと言いたい!」


 直樹は電柱の上で頭を抱えた。


「あと俺はコンテンツじゃない! 古参も新規もない!」


 アイはびしっと美咲を指さした。


「とにかく、ダーリンはアタシの契約者だから!」


「ダーリンって呼ばれてる時点で、直樹がかわいそうなんだけど」


「かわいそうって言うな! 俺もそう思ってるけど!」


 美咲はため息をついた。


「直樹、とりあえず降りてきなさい。話がややこしい」


「降りられたら苦労してない!」


「……あんた、また変なところだけ行動力あるわね」


 アイが勝ち誇ったように笑う。


「ふふん。これがダーリンの魅力だよ」


「魅力じゃない。欠陥だ」


「幼なじみなのに辛口!」


「幼なじみだから辛口なの」


 美咲とアイの視線が、ばちっとぶつかった。


 直樹は電柱の上で、嫌な予感しかしなかった。


 カップ麺から始まった騒動は、ついに幼なじみを巻き込んだ。


 そして直樹は悟った。


 これは助けが来たのではない。


 ツッコミ役が増えただけだ。


* * *


「つまり」


 美咲はバスケットボールを小脇に抱えたまま、電柱の上の直樹を見上げた。


「直樹は、ポストに入ってた怪しいカップ麺を開けたら、この子が出てきて、電子契約で人生を取られたと」


「言い方は最悪だけど、だいたい合ってる!」


「じゃあ、やっぱり契約済みなんだ」


 アイが勝ち誇った顔で胸を張る。


「そう! ダーリンはアタシの契約者!」


「だからダーリンじゃない!」


「契約者って言い方もなんか腹立つんだけど」


 美咲の声が低くなる。


「直樹、あんたこの変な子と本当に契約したの?」


「契約というか事故というか、消費者センター案件というか……」


「したんだ」


「だから、したくてしたわけじゃない!」


 直樹の必死の弁明は、夕方の空にむなしく吸い込まれた。


 なお、本人はいまだ電柱の上である。


「だいたいね」


 アイは美咲をびしっと指さした。


「幼なじみだからって、ダーリンに対する優先権があると思ったら大間違いだよ」


「優先権?」


 美咲の眉が跳ねた。


「私は直樹がランドセル背負ってた頃から知ってるんだけど」


「古参アピール!」


「昨日今日カップ麺から出てきた新規が何言ってんの」


「新規じゃないもん、契約者だもん!」


「契約者面する新規って一番厄介なんだけど」


「俺をコンテンツ扱いするな!」


 直樹は電柱の上から叫んだ。


 しかし、二人は聞いていない。


「ダーリンはアタシの契約者だよね?」


「直樹、あんたまさか、この子の言うこと認める気じゃないよね?」


「どっちのものでもない! 俺は俺のものだ!」


「ダーリンは黙ってて!」


「あんたは落ちないように黙ってて!」


「理不尽!」


 直樹は電柱にしがみついたまま、人生で初めて自分の所有権を主張することの難しさを知った。


 そのとき、美咲がふっと息を吐いた。


「……まあいいわ。直樹を降ろすのが先ね」


「えっ、助けてくれるのか?」


「もちろん」


 美咲はにっこり笑った。


 直樹は少しだけ安心した。


 だが、その笑顔は体育会系がボールを持ったときの笑顔である。


 安心してはいけない。


「直樹、受け止めるから飛び降りなさい」


「無理!」


「じゃあ、この子をどかす」


 美咲はボールを軽く構えた。


「ちょっと脅かすだけだから」


「美咲さん? それ、脅かすフォームじゃなくてシュートフォームなんだけど?」


「大丈夫。直撃はさせない」


「直撃しなければいいってものじゃない!」


 美咲の手から、バスケットボールが放たれた。


 それは見事な放物線を描き、アイの頭上すれすれを通る――はずだった。


「ふふん」


 アイが指を鳴らした。


 ぽんっ。


 次の瞬間、バスケットボールは空中で黄金色の丸い物体に変わった。


 ふわっと甘い匂いが広がる。


 それは、どう見ても巨大なドラ焼きだった。


「え」


 美咲が固まる。


 巨大ドラ焼きは、ぽすん、とアイの両手に落ちた。


 アイは目を輝かせた。


「やっぱり人間界、征服する価値ある!」


「お前が変えたんだろ!」


 直樹が叫ぶ。


 美咲は、アイの足元を見た。


 夕陽に伸びた影。


 その影にだけ、小さな尻尾がゆらゆら揺れている。


 アイ本人の背中にも、一瞬だけ黒い羽がぱたっと出て、すぐに引っ込んだ。


「……本当に悪魔なの?」


 美咲の声から、さっきまでの怒気が少しだけ抜けた。


 アイは巨大ドラ焼きを抱えたまま、胸を張った。


「泣く子も黙る仔悪魔ちゃんだよ!」


「泣くのはだいたい俺だけどな」


 電柱の上で、直樹が遠い目をした。


 美咲は半信半疑の顔でアイを見つめる。


「悪魔って、もっと怖いやつじゃないの?」


「怖いよ。契約とかできるし、世界征服とかするし、ドラ焼きも食べる」


「最後だけ急にかわいいな」


「かわいくない! 凶悪!」


 アイは巨大ドラ焼きにかじりついた。


 ほっぺたがゆるんだ。


 まったく凶悪ではなかった。


 美咲はため息をつき、直樹を見上げた。


「直樹」


「なんだ」


「あんた、面倒なの拾ったわね」


「拾ってない。開封した」


「一番だめなやつじゃない」


 正論だった。


 直樹は何も言い返せなかった。


* * *


「で、結局どうするのよ、直樹」


 美咲が巨大ドラ焼きを抱えたアイを横目に、電柱の上を見上げた。


「どうするも何も、まず俺を下ろしてくれ」


「飛び降りれば?」


「体育会系の解決策は信用できない!」


「じゃあ、消防呼ぶ?」


「それはそれで近所に伝説が残る!」


 直樹は電柱にしがみついたまま、精神的にかなり追い詰められていた。


 下には幼なじみ。


 隣には仔悪魔。


 自分は電柱。


 人生の立ち位置として、かなりおかしい。


 そのとき、通学鞄を肩にかけた少女が、住宅街の角からひょこっと顔を出した。


「あれ?」


 真央遊羅。


 直樹の妹である。


 遊羅は電柱を見上げた。


 電柱の上には兄。


 その下にはバスケットボールを抱えた美咲。


 さらにその隣には、角とマントと小さな羽を備えた少女。


 普通なら悲鳴を上げる。


 少なくとも、家族会議案件にはする。


 しかし遊羅は、きょとんとしたあと、にこっと笑った。


「お兄ちゃん、なにしてるの?」


「見てわからないか。人生の危機だ」


「また?」


「またって言うな!」


 遊羅はてくてく近づいてきた。


「美咲ちゃん、こんにちは」


「こんにちは、遊羅ちゃん」


「お兄ちゃん、今日も変なことしてるね」


「俺がしてるんじゃない。俺に起きてるんだ」


 直樹は必死に手を伸ばした。


「遊羅、助けてくれ。この状況を母さんに説明する前に、まず俺を人間社会へ戻してくれ」


「うん。あとでね」


「あとで!?」


 遊羅の視線は、すでにアイへ向いていた。


 ぱあっと目が輝く。


「かわいい!」


「えっ」


 アイが巨大ドラ焼きを抱えたまま、少し照れたように胸を張る。


「見る目あるね、人間の妹!」


「角ある! 羽ある! マントもある! お兄ちゃんの友達?」


「違う!」


 直樹は即答した。


 だが、アイは一歩早かった。


「未来のお姉ちゃんだよ!」


「違う!」


 今度は魂から叫んだ。


 遊羅は両手を合わせた。


「えっ、すごい! お兄ちゃん、ついに彼女できたの?」


 直樹の心に、見えない何かが刺さった。


「ついにって何だ。俺はそこまで心配されてたのか」


「お母さんも言ってたよ。直樹は顔はいいのに、口を開くと残念ねって」


「母さん!」


 家族からの評価が思ったより具体的だった。


 美咲がなぜか、少しだけ不機嫌そうにボールをつく。


 ぱん。


「遊羅ちゃん、まだ彼女って決まったわけじゃないから」


「そうなの?」


「そうよ」


「でも美咲ちゃん、なんでちょっと怒ってるの?」


「怒ってない」


 ぱん。


 ボールの音がさっきより強くなった。


「怒ってるじゃん!」


 直樹が電柱の上から突っ込む。


 アイはふふんと勝ち誇った顔をした。


「ふっふっふ。これが契約者の余裕というものだよ」


「巨大ドラ焼き抱えて言うセリフじゃないでしょ」


「これは戦利品!」


「元は私のボールなんだけど?」


 遊羅はアイの周りをくるくる回った。


「ねえねえ、本当に悪魔なの?」


「泣く子も黙る仔悪魔ちゃんです!」


「すごい! じゃあ、お兄ちゃんを助けに来たの?」


「うん!」


「違う!」


 直樹は即座に否定した。


「こいつは俺の平穏を破壊しに来たんだ!」


「お兄ちゃん、照れてる?」


「どうしてその解釈になる!」


「だって、変な女の子に振り回される主人公って、だいたいそういう感じじゃない?」


「妹がジャンルのお約束で兄を処理し始めた!」


 遊羅はにこにこしながらアイの手を取った。


「アイちゃんだっけ? よろしくね」


「よろしく、遊羅!」


「わあ、呼び捨て早い。お姉ちゃんっぽい」


「違う! お姉ちゃんじゃない!」


「未来だからね!」


「未来でもない!」


 直樹の叫びは、夕方の住宅街にむなしく響いた。


 美咲はため息をつき、遊羅は楽しそうに笑い、アイは巨大ドラ焼きを抱えて勝ち誇っている。


 収拾がつかない。


 いや、もう最初からついていなかった。


「……誰か、俺の味方はいないのか」


 電柱の上でつぶやいた直樹に、遊羅が無邪気に手を振った。


「お兄ちゃん、とりあえず降りておいでよ。お母さんに紹介しなきゃ」


「紹介する流れにするなぁぁぁ!」


* * *


 結局、直樹が電柱から降りられたのは、美咲が近所の脚立を借りてきて、遊羅が下から「お兄ちゃん、がんばれー」と無邪気に応援し、アイが横で「ダーリン、落ちてもアタシが契約者として受け止めるよ!」と余計なことを言ったあとだった。


「二度と電柱には登らない」


「普通の人は一度も登らないわよ」


 美咲の正論が、夕方の住宅街に突き刺さる。


 直樹は精神的にぼろぼろになりながら、アイを連れて真央家へ戻った。


 目的はひとつ。


 玄関先で、穏便に、しかし確実に、仔悪魔を追い返すこと。


「いいか、アイ。ここから先は家族の領域だ。俺の母さんに変なことを言うな。契約とか、ダーリンとか、世界征服とか、未来のお姉ちゃんとか、全部禁止だ」


「じゃあ、短期留学生ならいい?」


「よくない」


「魔界からの?」


「もっとよくない」


「じゃあ、迷える仔羊」


「悪魔が仔羊を名乗るな」


 直樹は玄関のドアを開けた。


「ただいまー……」


 その瞬間、台所から母の声がした。


「あら、直樹。おかえりなさい」


 そして、もうひとつ。


「お邪魔してまーす!」


「先回りしてる!?」


 直樹は靴を脱ぐのも忘れて、台所へ駆け込んだ。


 そこには、テーブルでお茶を飲む真央真実と、当然のように椅子に座っているアイがいた。


 アイの前には、せんべいとみかんと、なぜか追加のドラ焼きまで置かれている。


「母さん! なんでこいつがもう家の中にいるんだよ!」


「裏口から入ってきたわよ?」


「防犯意識!」


「ちゃんと『こんにちは、ダーリンのお母さま』って挨拶してくれたし」


「その挨拶の時点で通すな!」


 真実はおっとりと微笑んだ。


「直樹、お友達ならちゃんと紹介しなさい」


「友達じゃない」


 即答した。


 すると、アイの肩がびくっと震えた。


 さっきまでドラ焼きを狙う猛禽類のような目をしていた仔悪魔が、急にうるっと目を潤ませる。


「ひどい、ダーリン……アタシとの契約は遊びだったの?」


「遊びどころか事故だ!」


「直樹」


 真実の声が、少しだけ低くなった。


「女の子を泣かせちゃだめでしょ」


「母さん、そいつ悪魔!」


「あらあら」


 真実はにこにこしている。


「思春期って、いろいろな呼び方をするのね」


「思春期の範囲が広すぎる!」


 遊羅が後ろからひょこっと顔を出す。


「お母さん、この子アイちゃん。未来のお姉ちゃん候補だよ」


「候補にするな!」


「まあ」


 真実は楽しそうに手を合わせた。


「そういうことは、ちゃんと順番を守ってね」


「そういうことじゃない!」


 美咲が玄関先から半分だけ顔を出した。


「……おばさん、たぶん直樹の説明、今回は少しだけ聞いたほうがいいです」


「あら、美咲ちゃんまで。にぎやかねえ」


「にぎやかじゃない。災害だ」


 直樹は力なく言った。


 だが、母はまるで気にしていない。


 アイは涙目のまま、ちらっと直樹を見る。


「アタシ、行くところないんです。人間界実習中で、契約者に追い出されたら魔界サポートセンター案件で……」


「ほら! 怪しい単語が出た!」


「まあまあ。困っている子を放っておくわけにもいかないでしょう?」


「悪魔だぞ!」


「でも、ちゃんと靴はそろえていたわよ?」


「評価基準が家庭的すぎる!」


 アイはすかさず胸を張った。


「アタシ、悪魔だけど礼儀は大事にするタイプです!」


「カップ麺から出てきた時点で礼儀も何もないだろ!」


 真実は、アイの前に新しい湯のみを置いた。


「とりあえず、お茶を飲んで落ち着きましょう。直樹も、そんなに怒ってばかりだと疲れちゃうわよ」


「もう疲れてるよ!」


 台所には、母の穏やかな笑顔。


 遊羅の期待に満ちた目。


 美咲の呆れた視線。


 そして、勝ち誇った仔悪魔の笑顔。


「よろしくお願いします、お母さま!」


「はい、よろしくね、アイちゃん」


「成立させるなぁぁぁ!」


 直樹の叫びが、真央家の台所に響いた。


 しかし、悲しいことに。


 この家で一番発言力があるのは、叫ぶ息子ではなく、微笑む母だった。


 真央直樹、敗北。


 敗因は、母親の受け入れ力が高すぎたことである。


* * *


「というわけで」


 真央真実は、にこにこと微笑みながら湯のみを置いた。


「アイちゃんには、しばらくうちにいてもらいましょう」


「というわけがわからない!」


 直樹は台所の椅子から立ち上がった。


「母さん、今の会話のどこに居候決定の要素があった!?」


「困っている子を放っておけないでしょう?」


「困っている悪魔だぞ!」


「魔界からの短期留学生なんです!」


 アイがすかさず手を挙げた。


「短期留学生はカップ麺から出てこない!」


「今どき留学の形も多様化してるし」


「母さん、柔軟性が暴走してる!」


 遊羅は目をきらきらさせている。


「私、お姉ちゃんができるの?」


「できない!」


「未来のお姉ちゃん候補だよ!」


「候補にも入ってない!」


 美咲は台所の入口にもたれ、複雑そうな顔で腕を組んでいた。


「……まあ、家出少女を外に放り出すわけにもいかないしね」


「美咲まで!?」


「悪魔だけど」


「そこを重視しろ!」


 アイは、真実の前にそっと皿を差し出した。


 皿の上には、さっき美咲のボールから変化した巨大ドラ焼きが、なぜか上品に切り分けられている。


「お母さま、よかったらどうぞ。人間界最高の供物です」


「あら、ありがとう。気が利くのね」


「母さん、買収されてる!」


「直樹、お菓子を分けてくれる子に悪い子はいないわ」


「悪魔だって言ってるだろ!」


 真実はドラ焼きを一口食べ、ほわっと笑った。


「おいしいわね」


「でしょ! 人間界、征服する価値ありますよね!」


「征服はちょっと困るけど、お茶には合うわね」


「母さん、会話の危険部分を流さないで!」


 直樹は頭を抱えた。


 真実、遊羅、アイ。


 ついでに美咲まで、完全反対ではない。


 つまり、この家の空気はすでに負けている。


「多数決ね」


 真実がさらりと言った。


「賛成の人」


「はい!」


 アイが元気よく手を挙げる。


「はい!」


 遊羅も挙げる。


「……まあ、保留寄りの賛成」


 美咲が小さく手を挙げる。


「私は賛成ね」


 真実も挙げる。


「反対!」


 直樹だけが、天井を突き破る勢いで手を挙げた。


 真実はにこりと笑う。


「じゃあ、決まりね」


「多数決で悪魔を住まわせるな!」


 直樹の叫びは、またしても台所の空気に吸収された。


 アイは椅子から飛び降りると、嬉しそうに直樹の腕へ抱きついた。


「これからよろしくね、ダーリン!」


「だからダーリンじゃない! 離れろ!」


 直樹は反射的にアイを引きはがそうとした。


 けれど。


 その手が、途中で止まった。


 アイが、一瞬だけ不安そうな顔をしていた。


 さっきまでの勝ち誇った笑顔ではない。


 世界征服を叫ぶ仔悪魔でもない。


 ただ、居場所を失うのが怖い子どもみたいに、直樹の袖をきゅっとつかんでいた。


「……アタシ、ちゃんと邪魔しないようにするから」


「もう十分してる」


「う」


「……いや」


 直樹は視線をそらした。


「少なくとも、これ以上はするな」


 アイの顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ、いていい?」


「俺はまだ認めてない」


「でも、追い出さない?」


「……今すぐはな」


「やった!」


 アイは再び直樹の腕に抱きついた。


「大好き、ダーリン!」


「調子に乗るな! 今の情緒を返せ!」


 遊羅がぱちぱち拍手した。


「お姉ちゃん決定!」


「違う!」


 真実はにこにこお茶を飲む。


「にぎやかでいいわねえ」


「これはにぎやかじゃない。占拠だ」


 美咲がぼそっとつぶやいた。


「……直樹、ほんとに大変なのに好かれるわね」


「好かれ方が全部災害なんだよ!」


 こうして、真央家に仔悪魔が住むことになった。


 原因はカップ麺。


 決定方法は多数決。


 対価はドラ焼き。


 そして被害者は、もちろん真央直樹である。


* * *


 その夜。


 真央直樹は、自室のベッドに倒れこんだ。


「……一日って、こんなに長かったっけ」


 朝は普通に学校へ行った。


 帰りにポストを開けた。


 カップ麺を見つけた。


 お湯を注いだ。


 仔悪魔が出てきた。


 電子契約で人生を取られた。


 電柱に登った。


 幼なじみに見られた。


 妹に未来のお姉ちゃん扱いされた。


 母に悪魔を受け入れられた。


 並べてみると、どこから警察に相談すればいいのかわからない。


「だめだ。疲れすぎて、カップ麺が一番まともな出来事に見えてきた」


 机の上には、アイが置いていった契約アプリの通知が光っている。


『本日の実習達成率:三パーセント』


「三パーセントでこの被害かよ……」


 直樹は枕に顔を押しつけた。


 もう寝よう。


 寝て起きたら、全部夢だったことにしよう。


 カップ麺の賞味期限を見間違えたせいで見た悪夢。


 それでいい。


 そう思った直後。


 こんこん、とドアが鳴った。


「ダーリン」


「夢じゃなかった」


 直樹は枕から顔を上げた。


「ダーリン、怒ってる?」


「怒ってる」


 即答だった。


 ドアの向こうで、アイが黙った。


 いつもの「えー」とか「ひどーい」とか、そういう軽い返事は返ってこない。


 少しだけ、廊下が静かになった。


「……でも」


 アイの声が、いつもより小さく聞こえた。


「アタシ、ダーリンに封印を解いてもらえて嬉しかったんだよ」


「……」


「ずっと暗かったし、狭かったし、誰も開けてくれなかったから。だから、呼んでくれたのがダーリンで、よかった」


「呼んでない。湯を注いだだけだ」


 いつものように突っ込んだつもりだった。


 けれど、声は思ったより弱くなった。


 ドアの向こうで、アイが小さく笑った気配がした。


「それでも、嬉しかったんだよ」


 直樹は言葉に詰まった。


 迷惑だ。


 理不尽だ。


 勝手だ。


 でも、あの一瞬だけ不安そうな顔をした仔悪魔を、完全には追い出せなかった理由も、たぶんそこにある。


「……明日からは、少しは大人しくしろよ」


「うん!」


 返事が明るすぎた。


 嫌な予感がした。


「だから明日から、学校にも一緒に行くね!」


 直樹は固まった。


「……今なんて?」


 ドアが少しだけ開いた。


 隙間から、アイが満面の笑みをのぞかせる。


「契約者の生活を観察するのも、実習のうちだから!」


「待て。学校って、俺の学校か?」


「ほかにどこがあるの?」


「あるだろ! 悪魔学校とか! 通信教育とか! 地獄のオンライン授業とか!」


「ダーリンの隣が一番勉強になるもん」


「不吉なことを無邪気に言うな!」


 アイはにこにこしながら、ドアの隙間から小さく手を振った。


「じゃあ、おやすみ。明日からよろしくね、ダーリン」


「よろしくしない!」


「制服、用意しなきゃ」


「用意するな!」


「転入の挨拶、考えなきゃ」


「考えるな!」


「世界征服の第一歩は、まずクラス制覇からだね!」


 直樹はベッドから跳ね起きた。


「俺の高校生活まで侵略する気かぁぁぁぁ!」


 その叫びは、真央家の二階から夜の住宅街へ突き抜けた。


 近所の犬が一匹、わん、と鳴いた。


 こうして、真央直樹の平穏な一日は終わった。


 なお、平穏な高校生活のほうは、明日から本格的に終わる予定である。


* * *


 翌朝。


 真央直樹は、一睡もできなかった顔で制服に着替えていた。


「……夢じゃなかった」


 机の上には、黒地に赤いアイコンの契約アプリ。


 廊下の向こうからは、母と遊羅と、そして昨日まで存在しなかった仔悪魔の声。


 夢ではない。


 悪夢なら、もう少し起承転結がまともなはずだ。


「学校に行けば、少しは普通に戻れる……」


 直樹は鞄を手に取った。


 そう。


 家には悪魔がいる。


 でも学校は別だ。


 学校には授業があり、先生がいて、クラスメイトがいて、提出物があり、平凡で退屈でありがたい日常がある。


 さらば魔界。


 おかえり平穏。


 真央直樹は玄関へ向かった。


「おはよう、ダーリン!」


 玄関に、アイが立っていた。


 しかも。


 なぜか、直樹と同じ鏡星学園高等部の制服を着ていた。


 リボンは少し曲がっている。


 角はぎりぎり隠れていない。


 背中の羽も、鞄からちょっとはみ出している。


 だが本人だけは、完全に転入生の顔をしていた。


「今日からクラスメイトだよ!」


 直樹の手から、鞄が落ちた。


 どさっ。


「……なんで」


「契約者の生活を観察するのも、人間界実習のうちだから!」


「誰が許可した!」


「お母さま」


「母さぁぁぁん!」


 台所から、真実ののんびりした声が飛んできた。


「直樹、アイちゃんに学校案内してあげてね」


「家庭内で俺の拒否権が絶滅してる!」


 そのとき、どこからともなく、やたら陽気なナレーションが流れた。


 次回!


 真央直樹、ついに魔界学園へ転校!?


 担任は地獄の校長、給食は激辛契約ヌードル、体育は火の輪くぐり!


 さらに美咲が魔王軍バスケ部にスカウトされ、遊羅が悪魔生徒会長に立候補!?


 どうなる直樹!


 どうする人類!


 次回、『さらば地球! 真央直樹、魔界に散る!』


「散らない! 嘘予告が壮大すぎる!」


 アイは悪魔のような笑顔で、直樹の腕にぎゅっと抱きついた。


「本当の次回はこっち!」


 そして、玄関いっぱいに響く声で宣言した。


「第2話、悪魔ちゃん勝手に転校!」


「予告するなぁぁぁ!」


 こうして、真央直樹の平穏な高校生活は終わった。


 いや、正確には。


 まだ始まってもいないうちから、悪魔に転校手続きされたのである。

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