第十三話 王宮中に噂が広がっています
『恋人のふり』が始まった翌日、私は事態の深刻さを思い知った。
朝、出勤してきた瞬間から、書記官室の同僚たちの視線が今まで以上に私へ集まっていた。
別に誰も露骨には何も言わない。けれど、見ている。ものすごく見ている。
その気配だけで、すでに落ち着かない。
「……おはようございます」
「おはよう、ございます……ベルラン書記官」
向かいの席のマリウスが、妙に丁寧な口調で言った。
その不自然な間の取り方で、もうだいたい察する。
「どうかしましたか」
「いや、その……昨日、殿下と書庫から出てこられるところを、騎士の方が何人か見ていたようで」
「……はあ」
「それで少し、王宮の中で話題になっているみたいで」
「どんな話題ですか」
「あ、えと、その……王太子殿下が書記官と親しくされている、というような」
やはりそうか。
私は内心でだけため息をついた。
「気になさらないでください。お仕事上のことです」
「はあ、そうでしょうね。そうですよね」
マリウスは明らかに気にしている顔のまま、自分の席へ戻っていった。
私も平常心を装って仕事を始めたが、午前中だけで三度、他部署の書記官が「書類を届けに来た」という名目で覗きに来た。
全員が私の顔をちらちら見て、特に大した用事もないまま去っていく。
「……人間の好奇心というのは変わらないな」
前世でも同じだった。
職場で誰かが誰かと親しくしていると、あっという間に話が広まる。
ただ前世と違うのは、この世界ではそれが『王太子殿下との関係』という、だいぶ規模の大きい話題になることだ。
できれば巻き込まれたくない種類の大きさである。
昼前に、また殿下の側近ラルフが現れた。
「殿下より、本日の昼食はご一緒にとのお言葉です」
書記官室が、ぴしりと静まり返る。
紙をめくる音まで止まった気がした。
「……わかりました」
私はできるだけ自然な顔で答えた。
お前がなぜそんなに落ち着いて『わかりました』と言えるのだ、というマリウスの目線がものすごく痛かった。
昼食は執務室の一角のテーブルで、簡単なものだった。
パンとサラダとスープとチーズ。それに果物。
簡単な食事でも、どれも質が良いとひと目でわかる。
殿下はいつも通り涼しい顔で対面に座っていたが、私の方はあまり落ち着かない。
落ち着けるわけがない。
「……昨日から、視線が増えています」
「気にするな」
「気にしないようにはしているんですが、書記官室の同僚の目が怖くて」
「じきに慣れる」
「慣れるものですか、そういうのは」
「お前は昨日、書庫で七年分の不正の証拠を整理することに慣れていたではないか。それより大したことではない」
「……それはそれ、これはこれです」
殿下はスープを一口飲むと、まるで業務命令を下すみたいな落ち着いた口調で話し始めた。
「今日から少し動いてもらう」
「具体的には?」
「来週、王宮内で小さな音楽会がある。貴族の子弟向けの集まりで、宰相も出席する予定だ。そこに同席してもらいたい」
「……音楽会に、私が?」
「服を用意する」
「服の問題ではなく、立場的に」
「お前には先日、男爵令嬢相当の仮の格を与える手続きを進めた。元々男爵家の出身だから問題はない」
「そういう手続きをしていたんですか……速いですね」
「こういうことは速く動かないと意味がない」
行動が早い。
正直、少しタチが悪いくらいに。
殿下は私を見た。
「音楽会での役割は難しくない。私の隣にいて、来る人間と適当に話し、俺の恋人として振る舞えばいい」
「振る舞い方が全くわかりません」
「普通にしていればいい。お前が普通にしていることが、俺には十分だ」
「……それは、私の普通が基準として成立していることが前提ですが。私の普通は相当奇妙だと思います」
「奇妙なのは知っている。むしろそれでいい」
そう言われて、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
褒められているのか、便利だと言われているのか、いまだに判別が難しい。
「なぜですか」
「計算ずくに見えない」
「あ、なるほど」
私はようやく腑に落ちた。
完璧に作られた令嬢がいきなり現れたら、どうしても政略の匂いがする。
でも、あまり貴族的ではない書記官が自然体で殿下の隣にいる方が、『殿下が本当に気に入った相手』としては見えやすい。
「……わかりました。普通にします」
「それからもう一点」
「はい」
「今日からしばらく、昼食は一緒に取ってもらう」
「毎日ですか」
「毎日だ」
私はスープを一口飲んだ。
温かい。美味しい。でも、内容は全然おだやかではない。
「……食事の内容は?」
「今日のように、簡単なものが多い。特別なものではない」
「今日のスープは美味しかったです。宮廷料理というのは、すごいですね」
「気に入ったなら、好みを言え。料理人に伝える」
「……えっと、甘いものと、果物は全般的に好きです。バターが多いものも。辛いものは少し苦手で」
「わかった」
殿下はスープ皿を脇へ寄せ、果物の皿をこちらへ引き寄せた。
「ここ二週間の調査のまとめをしたい。書類の話だ」
「はい」
昼食のテーブルが、いつの間にか作業机に変わっていた。
私はケーキも食べていないのに、なぜかこういう時間がいちばん落ち着くのだと気づく。
書類の話をしている時の殿下は、余分なことを言わない。
こちらも余分なことを考えずに済む。
ただ情報を整理して、必要なことを確認して、順番に積み上げていけばいい。
それが、心地よかった。
「……なにか考えているか」
不意に聞かれて、私は少し慌てた。
「えっ、いえ、その。今の状況が、思ったより不思議だなと」
「不思議というのは」
「私みたいな人間が、殿下と昼食を共にしながら、宰相の不正を整理しているというのが」
「奇妙か」
「はい」
「俺にも、こういう展開は予想外だった」
「殿下も?」
「夜会の前日まで、書記官のベルランという人間は俺の認識には存在していなかった」
「それは当然でしょう。私は北棟の地味な書記官ですから」
「廊下でぶつかって、捏造書類を指摘されるまではな」
「……すみません。あの時は本当に、思わず」
「謝らなくていい」
殿下は私を、静かな目で見た。
責めるでもなく、試すでもなく、ただまっすぐ見てくるから、かえって落ち着かない。
「あの日、お前がいなければ、エリーン令嬢は今頃どうなっていたか。そしてドレイクの不正も、このまま誰にも気づかれずに続いていたかもしれない」
「……大げさです」
「いや、大げさではない」
そこでスープ皿が片付けられ、代わりに紅茶が置かれた。
湯気がふわりと立つ。その香りで、少しだけ張っていた肩の力が抜ける。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は、この先どうしたいと思っているんだ」
「この先、というのは」
「人生の話だ。王宮書記官を続けて、ケーキを食べて、それで満足しているのか」
「……はい、満足しています」
「本当に?」
「……まあ、それが一番穏やかな人生だと思っていますので」
「前世で死んだから、穏やかさに価値を置くようになったのか」
私は少し言葉に詰まった。
的確だな、と思う。
「……そうかもしれないですね。前世では理不尽に終わらされたので、今世は静かに過ごしたいという気持ちが強いんだと思います」
「それはわかる」
「殿下も前世が?」
「いや、俺には前世はない。正しくは、あったかもしれないが、記憶はないな。ただ——お前の気持ちは理解できる」
「どういった意味で」
「静かに過ごしたいと思っていても、周りがそれを許さないことがある」
「……王太子殿下ですから」
「そうだ」
殿下は紅茶を一口飲んだ。
「俺が望む望まないにかかわらず、やらなければいけないことがある。それは仕方がない。だが、やるなら——意味のある形でやりたいと思っている」
「……その一環がドレイクの件ですか」
「ああ」
私は紅茶を飲みながら、その言葉を反芻した。
前世でも今世でも、私は『大きな目標に向かって動く人間』ではなかった。
ただ目の前のことをこなして、穏やかに過ごす。
それで十分だと思っていた。
でも、この人は違う。
静かな外見の内側で、もっと大きなものを見ている。
自分の立場も、王国の先も、その先にいる人たちのことまで見据えているのだ。
「……殿下のお役に立てることがあれば、精一杯やります」
「ああ」
「ケーキの件は本当によろしくお願いします」
「……わかっている」
殿下の口元が、かすかに動いた。
笑っているのか、笑っていないのか、微妙なところだった。
でも私には、笑っているように見えた。
それが、なんとなく嬉しかった。
……なんとなく、ね。
それ以上の意味はない、と私は心の中で念を押した。
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