第6章 そして彼女はくちづけをして遂げる
案外簡単に見つけることができた。
忍び込んだ部屋の引き出しに入っていた。
これで、確定だ。――やはり彼女が犯人だ。
そんなことは、もともと、わかってはいたのだが。
――許せない。
でも、それは……
その鍵を持ち去った。
――AM8:34
綾南了の目覚めは、最悪だった。
慣れない場所で寝たせいで、身体が痛かった。いや、寝たといっても、ほとんど眠れていなかったが。
目覚めたのは携帯電話から電子音が鳴り響いていからだ。
綾南が手を伸ばして自身の端末を操作して通話を開始すると、聞こえてきたのは、画面表示通りの悪友の声だった。
『おう、了。おはよーさん』
「…………灰本」
不機嫌な声で、起こされたことへの苛立ちを表現する。
先日の真意の件といい、今日の灰本の件といい、早朝に俺を無理矢理に起こすのがはやっているのだろうか? ――と、綾南は訝しむ。
『おい了、まだ寝てたのか? もう8時半だぞ。もう起きてろよ』
「土曜の一般人はもっと寝てるよ」
綾南は寝ぼけながらも、端末の表示によって、本日が土曜日であることを悟っていた。
『そんなことより――事件の新情報だ』
事件――その言葉で綾南の意識は瞬間的に覚醒してゆく。
そう、例の連続首絞め傷害殺人事件だ。
『てか、俺が気がついた、ってのが正しいけどな。――情報の出所は我らが担任、菊田だ』
「菊田?」
『ああ。菊田は学校から帰宅する時、校内を巡回しているんだそうだ。校内の秩序維持、部活動の監視ていう目的らしいが……――まあ、部活女子好きの変態だから、っていう裏の目的のためみたいだけどな』
「で、それがどうした? 本題は」
『おっと、そだな。で、岡島が殺された事件当日も菊田は学校内を見回ってから帰ったらしいんだよ。7時過ぎくらい。でも、警察の話しに「校内を見回った時は、いつもと変わりなかった」って答えたらしいんだ。体育教員室の鍵も持ってないし、犯行は不可能。だから警察も事件には無関係だとして、詳しく事情聴取を行わなかった』
「ん? それは――」
『ああ、ちょっとひっかかるよな。――萩下の話と一緒に考えると、より一層にな』
灰本自身もおかしいと感じたらしい。
ただのバカには情報屋は務まらないのだ。
灰本はバカだが、ただのバカではない。
『その日は、ソフト部の荻上がハーフパンツを忘れたからってブルマーで部活をしていたんだ。あの美少女がブルマーで、だぞ? 「いつもと変わりない」わけないだろう』
「なんの話だっ」
灰本はただのバカではなかった。――超すごいバカだった。
そんな話は初めて聞いた。先日のコンビと昼食を食べた時に聴いたのだろうか?
『いや、さすがに冗談だぞ?』
「わかってるよ」
『荻上がブルマーだったのは冗談じゃないぞ。本当に穿いていたらしい』
「そんな事はどうでもいいんだよ!」
綾南の「どうでもいい発言」に「どうでもよくねえよ。元気美少女荻上のブルマーだぞ」とかする灰本だったが、綾南は無視して事件のことを考える。
本当の矛盾点とは、体育教員室の照明の話しだ。
萩下冴子の話しでは、帰宅の際には、体育教員室の照明が消えていた。
死体発見の時に、照明がついていたことから、この話は矛盾していた。
第一発見者は『電気の消し忘れ』を理由に死体を発見したのだから。
消灯していたのは見間違いの可能性が高いとして、綾南はあまり深く考えていなかった。
しかし――
「菊田の話しの『いつもと変わりなかった』ってのが、ひっかかるな。――それは、体育教員室の電気が消えていたからいつも通りだったってことだろ。電気が点いていたらおかしいからな。――でも、その日に限っては、電気が点いていなければおかしいのに……」
死体発見時に照明が点いていた。
つまり岡島が殺されていた7時半ごろには照明が点いているはずなのだ。
一晩中、蛍光灯は点灯していたはずなのだ。
だが、照明は消えていた。
『この菊田の話で、萩下の体育教員室の電気が消えていたって話に信憑性が出てきたな』
「時間も7時半ごろと一致するな」
やはり、この時間帯域、教員室の照明は消えていたのだろう。
では、それを再び点ける理由とは、なんだろうか……。
『やはり一回、体育教員室の中を見ておく必要があるかもなぁ。自動照明点灯装置とか発見できるかもしれないぞ』
「…………。そもそも、警察が体育教員室内は調べてるから、もうなにも発見できないと思うけどな……」
綾南は「自動照明点灯装置」が出てきたところで、何なのだろうとか思う。が、灰本はおそらく「長ったらしくてカッコいい感じの言葉」だから好んで使ったのだろう。
綾南、げんなり。
『でも、一応調べるよな?』
「そうだな」
『どうする? 今から行くか?』
「あ、いや。今は――」
『てか了。どこにいるんだ?』
「…………」
綾南はその質問に答えたくなかった。
今いるのはとある集合住宅だった。経済的中間層が契約する簡素な三階建ての一棟の一室。そのリビングルーム。そのフローリングの上のマットに綾南は寝そべっているのだ。
壁のドアがゆっくりと開いた。
「お、……おは、ようございます」
奥の部屋から室内に入ってきたのは、鳥羽綾糸。
淡い暖色のパジャマ。その首には白い湿布薬が巻かれるように貼られていた。
昨夜、『首締め犯』から暴行を受けた鳥羽を綾南は助けた。
すぐにでも救急車や警察を呼ぶべきだと思ったが……
「救急車は必要ありません。呼ばないでください。そんなに大きな負傷ではありませんので大丈夫です。――警察も、今は呼ばないでくれませんか。もう今日はとても疲れているので、休みたいんです……」
当人である鳥羽がそう言うので、綾南としても断る理由はなかった。
警察を呼べば、事情聴取で拘留されることになる。疲れていて休みたいという鳥羽の意見も、綾南の部屋での居眠りで、最もだと理解できた。
その後、綾南は鳥羽を家まで送り届けた。鳥羽の家は――マンションだった。
そこで綾南は帰ろうとしたのだが……鳥羽が綾南の腕を掴んで、拒んだのだ。
「今晩、お母さん、帰ってこないんです。……先程、襲われたばかりで、ひとりで眠れるか……不安で……怖くて、了さん……お願いなんですが……」
不安そうにお願いする鳥羽に、綾南は本当にげんなりしながら、頷いた。
そして、そんな一夜が明けた今現在。
『で、了。おまえ、どこにいるんだ?』
長いこと無言だった電話越しの悪友に、綾南は、
「…………地球上だよ」
大雑把に答えた。
AM8:59
綾南は一度、家に戻って仮眠することにした。
理由は単純明快。よく眠れなかったからだ。眠たいからだ。
捜査は午後からということにして、灰本に話し、電話を切って鳥羽に話した。
その後、鳥羽家から自宅に戻るため綾南は玄関に向かう。
「了さん。……どうもありがとうございました」
ランニングシューズのひもを結ぶ綾南に、見送りに来た鳥羽が言った。
「鳥羽。おまえは捜査に協力しなくていいからな。ちゃんと警察に『昨日の事件』を話してこい。警察署まで行くのが怖かったら、教えた沼場さんの番号に電話して、迎えに来てもらえ」
「はい」
「あと母親が帰ってくるまでは、ちゃんと鍵を閉めておけよ。――もう一度、犯人が襲いに来るって可能性も無いわけじゃないんだからな。心理的『虚』を突いてくるかもしれない。それから、なにかあったら……俺に連絡してもいいから――」
「了さんは、なんでわたしを、……助けてくれたんですか?」
不意に鳥羽が綾南の言葉を遮って聞いた。
「は? どういうことだよ」
「どういうことも、そういうことです。――なぜ、わたしを助けてくれたんですか?」
「そりゃ……当然だろ」
「じゃあ、言い方を変えます。――なぜ、ここまでわたしに親切にしてくれるんですか? 心配してくれるんですか? 家の防犯を案じてくれたり、警察署に行くために配慮してくれたり、……わたしが不安だからって、家に泊まってくれたり……」
――まあ、特に何かしたわけじゃないけどな。
綾南はただ鳥羽家に来て寝ていた――いや寝そべっていただけである。何もしていない。
鳥羽は言い方を変えた。
「わたしのこと、了さんはどう思われているんですか……?」
少女は期待と不安を込めて、綾南に問う。
綾南は考えて、言い渋るが、やがて苦虫をかみつぶしたような顔で、眼を逸らして告げた。
「……ともだち、だから、だろ」
そう言って、鳥羽の元を後にした。
その背後で、一人の少女が決意を固めているとも知らずに。
PM0:02
綾南了は自室で眠っていた。
そして、携帯電話のアラームで目覚めるはずだった。
端末から響いた音を薄い意識の中で止めると、それはアラームではなく電話だった。
「も、もしもしっ……」
『おい、綾南。……おまえ寝てたのかよ』
綾南に電話をかけてきたのは沼場刑事だった。
最近、綾南は誰かに起こされた直後に会話というパターンが多い。トレンド入りだ。
次は鳥羽あたりに起こされるかもな――と、綾南はげんなりする。
『もう昼だぞ。土曜つっても限度があるだろ』
「昨日、ちょっと大変だったんですよ……」
『すまん。まあ、そりゃそうだよな……』
「どうしたんですか、沼場さん」
『どうしたもこおしたもねえ。――なんで、俺に真っ先にいわねぇんだよ』
わかってきた。恐らく鳥羽が警察署に事情を話しに行ったのだ。
例の『連続首絞め傷害殺人事件』の第三の犯行と被害。
だから、沼場が綾南に電話をかけてきた。
――思えば綾南自身もも事件の当事者だ。
「いえ、鳥羽の証言だけで充分かと思いまして……」
『まあ、それもそうだな……。でも、一言連絡がほしかったぜ』
「す、すみません」
たしかに、その通りだった。
だが鳥羽と同じく、綾南自身も事件続きで神経をすり減らしており、疲れていたのだ。
岡島が殺され、捜査をしていたら真意が襲われ、そして鳥羽までもが襲われたのだ。
「でも、これで事件は……なんというか、謎が深まってきましたね……」
岡島を殺した『犯人』は、証拠を隠滅しようとしたところを真意に見られて、襲った。
だが、昨晩の鳥羽を襲ったのは、一体なぜだろうか。
わけがわからない。――鳥羽はなぜ襲われたのか。
まさか、鳥羽が頭のいいことに気がつき、推理によって発見されることを恐れた。
そんなバカけた理由ではないだろう。
犯人は猟奇的な首絞め好きの変態野郎なのだろうか。
『は? 何を言ってるんだ? 綾南』
「え。沼場さん、どういうことですか?」
『おまえが説得したんじゃないのか?』
「せっとく? 俺は、なにも……。何のことですか?」
『…………そうだな。なんか変だと思ったんだ。おまえ裏切れないとか、言ってたもんな』
綾南は沼場の言葉に戸惑う。
会話に齟齬が生じている。
沼場は一体なにを言っているのだろうか?
――違う。
「……いったい何があったんですか?」
『一連の事件は自分の犯行だと、鳥羽綾糸が自首してきたんだよ』
これで事件は解決ということになった。
そんな沼場の言葉は、綾南にはどこか遠い世界から響いているように聞こえた。
PM1:20
綾南は、警察署に来ていた。
どうしても鳥羽綾糸と話がしたかったからだ。
――納得がいかない。
「時間は5分。それ以上は無理だ」
沼場の言葉だ。
綾南は警察署の一室に入った。
窓のないその部屋は、テレビドラマで見る取調室と同じ重い空気に満たされていた。
そんな部屋中央の机のイスに、鳥羽は亡霊のように座っていた。
ドアを閉めて二人きりになる。
うつむいていた顔を上げて、部屋に入ってきた綾南を確認すると、鳥羽綾糸は軽く驚いた。
「え。……了さん。なんでここに……」
「それはこっちのセリフだ」
綾南は眉間にしわを寄せて言う。
「お前がなんで警察の取調室にいるんだ」
「ああ、了さんは沼場さんに無理を言って、ここに入れてもらったんですね」
鳥羽綾糸は勝手に推測して、勝手に納得した。その通りだった。
鳥羽は頭がよく、カンまで鋭いらしい。事態を推測する才能が秀でている。
――俺なんかより、よほど『探偵』向きだ。そんなこいつが……何かの間違いだろ。
「おまえはなにを言ってるんだよ。自首とか……おまえが犯人のわけないだろ」
「いいえ」
鳥羽は冷静だった。
「わたしが岡島先生を殺した犯人ですよ」
そんな事をふつうに話す鳥羽が、今朝までとは別人に見えた。
「そんな……。だって、おまえは――」
「昨晩、襲われたじゃないか、そういうことですか?」
鳥羽が冷静に綾南の言葉を引き継いだ。
「違います。襲われてなんかいません。――あれはフェイクですよ。了さんを騙して、信頼させるための」
鳥羽綾糸は笑っていた。
初めてであった時のような気恥ずかしさの入り混じった笑顔ではなかった。
混沌とした感情が渦巻く、黒くて暗い笑顔だった。
「ネットで人を探して、お金を渡して、わたしの首を絞めてもらったんです。裏工作です。――本当は見られるのは通行人のどこかの誰かでいいと思っていたんです。でもまさか、了さんが直接、目撃者になるとは思いませんでした。――妙な『運』がありますよね、了さんって」
綾南には、この鳥羽綾糸がわからない。
いや、始めから理解などできていなかった。
だが、それでも、理解できる気がしていたのに、それは幻想だった。
「なんで、そんな事を……」
「アクセルトリップ事件」
鳥羽綾糸が、言い放ったのは単語だった。
それは――
「かつて、あたなが解決した事件ですよね。綾南了さん」
綾南了は思い出した。
3年前、運送会社のトラックが事故を起こした。そのトラックに受け取るはずだった荷物が乗っていたという理由で、綾南は事件に関わった。――そして、偶然解決した。
「その事件の犯人が、わたしのお父さんです」
「………………じゃあ、なんで俺に――」
「了さんは、わたしのことを勘違いしていたんですよ。――いや、わたしが騙していたんです」
彼女は綾南を、憎々しげににらむ。
「わたしは、あなたのことが大っ嫌いです」
その言葉で、綾南は理解した。同時に、何かが崩れる音がした気がした。
「お父さんを刑務所にぶち込んだ男ですよ? そんな人を好きになると思いますか?」
鳥羽の言葉は、冷たかった。冷え切っていた。淡々と語る。
「だから、わたしは復讐するために、了さんに近付いたんですよ」
綾南にたたみかけるように、鳥羽は話す。
「これがわたしの復讐です。――『名探偵』と呼ばれるあなたが、何も知らずに事件の『真犯人』と仲良くして、好意を向けられていると思っちゃって、バカみたいでしょう? プライドがずたずたでしょう?」
だが、それでも、鳥羽は違う。
岡島を殺すためには、必要なモノがあるのだ。
アレがなければ体育教員室のドアは――
そこまで考えて、綾南は気が付く。
机の上にある、銀色の片。
体育教員室の鍵。
ここ、警察署の取調室にあるということは、それは証拠品なのだろう。
――鳥羽が、持っていたっていうのか……。
岡島から脅されていた生徒。鳥羽がその一人。
そもそもこの少女の容姿を鑑みれば、岡島が脅していたのも、納得できた。
鳥羽綾糸は、灰本が言うように学校でも、片手の指に入るほどの美少女なのだ。
それでも、でも――
「だが、鳥羽。おまえは裏切れないはずだ。だって、おまえは……」
「了さんがわたしの全裸写真のデータを持っているからですか?」
話しづらい綾南の言葉を引き継いで、鳥羽は冷淡に告げた。
「それも、あなたを信用させるための『罠』ですよ。裸を見せるくらいであなたの信用を得られるなら、安いものです。解説しないとわからないんですか? ――あれも公開して下さって構いませんよ? わたしは『裏切り者』だったわけですから」
「…………」
綾南は、本当に騙されていた。
呆然とする綾南に鳥羽綾糸は動機を話してゆく。
「岡島先生に脅されて、身体を求められました。だから殺しました。脅されていたネタは女子更衣室に仕掛けられていた隠しカメラの盗撮写真です。――いや、でもそれはきっと岡島先生のハッタリだったのでしょう。『写真』という現物が見つかれば、岡島先生はお終いです。――だから、そういう風に脅して、従わせて、そこから『本当の弱み』を掴んだのでしょう」
冷酷に話す鳥羽に、綾南は背筋が寒くなる。
つまり、この少女は岡島に脅されていたのか。強請られていたのか。脅迫されていたのか。
だから、こんな風に言うのだ。
まるで、だから綾南に裸を見せるくらい恥ずかしくもなんともなかった、というように。
「岡島先生を殺そうと思ったとき、ひらめいたんです。――どうせなら、この殺しを、復讐に役立てようって」
「それで、捜査を混乱させようとして、俺に近付いたっていうのか?」
「捜査を混乱させる……、たしかにその理由もありますが、そんな事よりも、わたしはあなたを傷付けたかった。ダメージを負わせたかった。――だから、必死に仲間になるフリをしていたんですよ」
「ん? …………………………………………ああ、なるほどな」
綾南は一瞬よくわからなかったが、今の自身の状態から、その意味を理解した。
「了さんは、優しいですからね。……友達が殺人者だとしたら、大いに傷付いてくれると思いました」
鳥羽綾糸は頭がいい。
――俺よりも、よほどに人の心を理解している。
現に綾南は、苦しかった。
身体は痛くない。どこかが悪いわけじゃない。
それでも――押し潰されそうだった。
「なかなか苦労しましたよ。……わたしが必死にアピールしているのに、了さんは全くなびいてくれませんでしたし……」
綾南はあらゆる事件を解決してきた『名探偵』だ。
それは否応なく事件に携わってしまう『運』を持っているからだ。自身と関係者を事件に巻き込んでしまう。巻き込まれてしまう。――そんな呪われた『運命』を。
よって綾南は友達を作らない。知り合いを増やさない努力をしている。
――俺なんかと関わる人を増やすべきじゃない。俺と関わったら不幸になるだけだ。
いつか誰かに言った言葉だ。
「でも、それも時間が解決してくれました」
鳥羽の言葉には、努力が報われたような達成感が含まれていた。
「ここ数日間、毎日、了さんと話して、徐々に距離を近づけることができました。――まあ、最後の方は、多少強引な手段も使いましたが……」
鳥羽は今朝、最後に言っていた。
――わたしのこと、了さんはどう思われているんですか? と。
あれは確認だったのだ。綾南と鳥羽、二人の関係性の。
「了さんはわたしのことを『友達』だと言ってくれました。これで、あなたは盛大に傷付いてくれる。痛みを感じてくれる。――だから、もうおしまい。終わらせることにしたんです。わたしは疲れました」
「なる、ほどな……」綾南の口から、かすれた声が出た。
その理由を理解できた。苦しかったから、だ。
鳥羽綾糸を疑う余地にないほどに、信じていたから。
綾南は信じていた物を失って、目の前が真っ暗になる。
錯覚だとわかっている。でも、暗闇に包まれた。
「さて、最後です。……了さん」
その声で綾南の世界に色が戻る。虚空に飛んだ意識を現世に戻す。
急に息苦しくなった。
「ん? ………………んんっ」
鳥羽綾糸は、綾南了にキスをしていた。
綾南が呆然として気付かないうちに、立ち上がり正面に回り込み、彼の頭を両腕でそっと包んで、唇を重ねていた。
その後、鳥羽は綾南から、ゆっくりと唇を離した。
「…………これで、あなたはわたしのことを一生忘れられません。――誰かとキスするたびに、わたしのことを思い出すんじゃないですか」
そう言って、鳥羽は冷酷にわらった。それは魔女の呪いのようだった。
きっと一生この女のことを忘れられない。
これほど強力な呪いは、解呪できそうもなかった。
「これで、わたしの復讐は終わりです。――どうぞ、帰ってください」
復讐。
綾南はその理由を理解できた。
だがしかし、納得はできなかった。
「……鳥羽」
「なんですか。もうあなたと話すことは無いので帰ってください」
「岡島を殺した『凶器』はなんだったんだ?」
「教える気はありません。この事件の凶器は『謎』のままです。――その方が、了さん苦しみますよね? 『名探偵』なのに事件のことが見抜けなかったってことで……より一層、傷付いてください」
「ああ、わかったよ……」
綾南は、まだわからなかった。
「ちなみに、鳥羽……」
「……なんですか? もうわたしが答えることはありません。これ以上あなたと話したくありません。はやく消えてください」
「……そこの壁に、鏡があるだろ」
綾南はその鏡に目を向けない。顔を逸らして話す。
「……気づいてないよな? ……あれ、マジックミラーになっているんだ。この部屋、見られてんだよ。沼場さんと吉家さんに……」
「…………」
鳥羽は鏡から眼を逸らし、うつむいた。
「……人目もはばからずにキスするとか、おまえ、かなり大胆な奴だったんだな……」
綾南は、前々からわかっていたことを、げんなり言った。
だが、それを聞いた鳥羽は肩に力が入り、顔が紅潮してゆくように見えた。
「…………」
そんな彼女は何も答えない。
「プライバシーの観点から、マイクとスピーカー……音声は切ってやるって、言われていたけど、さすがに『行動』はごまかしようがない……」
少女の肩が、震えだした。恐らく羞恥の感情だ。
先ほどまでの『魔女』の雰囲気は何処にもなかった。
綾南は思った。――やはり、この少女は、ふつうの女の子なんじゃないのか?
だから、綾南は一つの疑問を少女に告げる。
「鳥羽、おまえは岡島を殺した犯人じゃないんじゃないか?」
「え……」
それを聞いた鳥羽の顔が、羞恥よりも困惑に染まる。
綾南は、まだわからなかった。――鳥羽綾糸が、本当に犯人なのか。
こんな少女が殺人を犯すなんて、信じられなかった。
そんなところで――
「綾南了。何やってんだ! それに時間だ。5分だ。出ろ」
沼場が部屋に呼びとめに入ってきた。その後ろには吉家も続いていた。
任意事情聴取の休憩中に、特例で入室させた少年が容疑者少女とキスを交わしていたら、驚くし、止めに来るだろう。
沼場は綾南を部屋の外に連れ出すために腕を掴む。
心情としては、綾南に猶予を与えてやりたいであろうことが、その半端な力加減から綾南に伝わる。だが、後輩刑事の吉家の前だ。心を切り離して、沼場は行動に移る。
だが、綾南は構わずに鳥羽に語る。
――今を逃せば伝えられるチャンスを永久に逃してしまう。
「鳥羽、俺は諦めないぞ。――おまえが犯人じゃない可能性があるなら、全力でそれを探す」
「な、なにをいっているんですか。犯人は、わたしです。なぜ、そんな事を言うんですか」
「じゃあ、おまえは何を根拠に、自分が岡島を殺したって言うんだ?」
「わたしの証言ですよ。自供です。わたしが殺したんです」
「それは嘘だろっつってんだよ!」
「嘘なんか言ってません。わたしがやったんです!」
「……じゃあ、なんでおまえ泣いてるんだ?」
鳥羽の眼からは涙があふれていた。
綾南の言葉で、鳥羽はようやく自身の瞳から流れる水滴に気が付いた。
この少女は、非情になりきれていなかった。
――俺を本当に傷付けたいのなら、もし鳥羽が本当に岡島を殺したのであれば――
最後の最後まで犯行を隠し通した方が……効果的だ。
捜査を続け、鳥羽綾糸に犯行の疑いがかけられる。鳥羽は容疑を否認する。そうなれば綾南は必死に友達である鳥羽の無実を証明するために動く。たとえ鳥羽が本当に犯人だったとしても「わたしはやっていません」と否定し続ければ、綾南はそれを信じて、一生を賭けてでも、鳥羽の無実を証明しにかかるだろう。それが不可能でも――
最悪のシナリオだ。
だが、鳥羽綾糸はそれをしなかった。
もう疲れたからと、ここで終わらせた。
それは復讐者として、あまりにも出来損ないだ。
「綾南、いい加減にしろ。部屋から出ろ」
綾南を部屋の外に連れ出そうとする沼場の腕に、力が入った。手加減抜きだった。
吉家も、綾南の腕を掴み、手荒に引っ張り始めた。
痛い。
だが、綾南は力に抗いながら告げる。
「鳥羽。おまえにどんな思惑があるのか知らないが、絶対に暴いてやるからな!」
その言葉で少女は不安を顔に示したが、何も言わなかった。
ドアが閉まる。綾南了は二人の刑事に連れられて、部屋から追放された。
PM2:08
「しかし、綾南くん。君は冷静な子かと思っていたけれど、意外と熱い男なんだね」
助手席に座るに、運転席のが声をかけた。
「いえ。…………あ、吉家さん。そこ右です」
綾南は吉家の車で自宅まで送迎されていた。
沼場の仕事が詰まっているため、沼場は吉家に綾南を送るように命じたのだ。
田舎道を、吉家の物であるらしい4WDの自動車は、軽快に走ってゆく。
「彼女、鳥羽綾糸ちゃん。……綾南くんの彼女か何かだったのかい?」
「……いいえ。違います」
もう何度目かのその質問に、綾南は普通に答えた。
「友達、だと思っていたんですが、正直わかりません」
「そうかい」
車は、赤信号で停まった。
「でも、なかなか格好いいこと言うよね。『俺が暴いてやる』なんて、シビレるセリフだよね」
「…………」
恥ずかしくなった。――が、表情には出さず、顔はいつものげんなりで対応する。
綾南は『げんなり』を基本ペースにしている。が、あの時はテンションが上がっていたのだ。
――そりゃ、それくらい言ってもいいだろう。
吉家は沼場から、綾南を頼るなと、注意を受けた。
だから、友好的な態度が表面上できないのだろう。よって、なにかと嫌味っぽくなる。
沼場とは対照的な綾南の扱いだった。
「でも、暴くも何も彼女はもう自首をして、犯人だと自ら認めているんだ。もう、なにも暴きようがないよ」
「そんな事もありません」
綾南は推論をハッキリと話す。
「たとえば、鳥羽は『真犯人』から何らかの事情で脅されている。――『犯人』として警察に捕まれ、と脅迫されているとも考えられます」
「……たしかに、それは、そういうこともあるかもしれないね」
吉家は穏やかに車を発進させながら話した。
「だが、綾南くん。脅迫されて殺人事件の犯人として自首するなんて、それこそ本末転倒だよ。殺人事件の犯人として捕まることに、釣り合うほどの『理由』なんて、ないんじゃないかい?」
「……そうとは限りませんよ。人の考えは、人それぞれですから。命よりも大切な『何か』があるのかもしれません」
「なるほどね」
だが、そう言いつつも、綾南はそんな『何か』は思いつかなかった。
殺人事件の犯人として逮捕される。
それは、刑期という何年もの時間、信頼や自由の消失、人としての尊厳の崩壊。
あらゆるものが破壊される。――夢も希望も家族も……
――それほどのリスクと引き換えにしてでも、守りたい『何か』は、あるのだろうか?
綾南には、わからない。
でも、他に犯人がいるという前提で、綾南は動く。
「なんで警察は、鳥羽を犯人と認めたんですか?」
「ん?」
「鳥羽を犯人と認めた根拠ですよ。――なんの確証もなく逮捕なんてできないでしょう? 近頃は寝る食うに不自由しているから刑務所に入りたいって人もいるくらいです。やはり、なにか決定的な理由があったんじゃないですか?」
「ああ、そういうことか。――そうだね。根拠は三つあるよ」
吉家は筋道を立てて、明快に話す。
「第一に、一般の生徒では知らない情報を知っていたからだね。岡島さんの遺体は絞殺された後に、首の皮膚が切り裂かれていたんだけれど、それを彼女は知っていた。そのほかにも事件関係者しか知らないようなことを供述していたよ」
吉家は車を停止線で再びストップさせた。横断歩道だ。
「第二に、体育教員室の合い鍵を持っていたことだ。――鍵がなければ、体育教員室のドアを外から閉めることができない。それに鍵を持っていたということは、岡島さんから脅されていた、という動機にもつながるわけだ」
歩行者のいないことを確認して、吉家は滑らかに車を発進させながら、話す。
「第三に、彼女が自ら犯行を認めたことだよ。自首してきたことだ。――なによりも本人の証言は、一番効力を発揮する」
吉家の話しを聞いて、綾南は――困惑した。
やはり、鳥羽綾糸は――
「あいつは……犯人じゃないかもしれないですね……」
「綾南くん。僕の話しを聞いていたかい?」
「それらの根拠は、すべて否定できるんです」
綾南の言葉には、意志が宿っていた。
――論破を開始する。
「まず第一の根拠である鳥羽が『情報を知っていた』ということですが、真犯人が鳥羽を脅迫して『自首』をさせたならば、それらの情報も、もちろん伝えるはずです。真犯人は実際に岡島先生を殺しているわけですから」
「なるほどね」
だが、綾南はこの考えを言っただけで、まったく見当違いであることをわかっていた。
その理由は――
「それに、警察の情報がどこかから漏れていた可能性もあります。捜査員の方も多いですし、人の口に蓋はできませんから……」
そう。
これこそが『第一の根拠』を否定する最たる理由だ。
――鳥羽は、綾南の家で、沼場から不正にもらった捜査資料を読んでいるのだ。
事件の内情を知っていることは、当然だ。
「続いて第二の根拠『鍵を持っていたから』という根拠を否定する理由ですが――真犯人と鳥羽につながりがあるのならば、やはり真犯人が鳥羽に鍵を渡した、ということもあるでしょう」
「ほう。なるほど。綾南くん、だが、やはりね――」
吉家は感心したように頷くが、否定を口にした。
「――その理由は、『弱い』よ。ならば彼女は警察署で真実を告げればいい。真犯人から鍵を持って行って自首をしろと脅された、と」
「それはそうですが……」
「先ほどの話に戻るけれど、殺人事件の犯人として送検されること――釣り合うような脅迫も報酬も、そうそうあるものじゃないよ。だから、やはり岡島先生に脅されていたのは、彼女自身と考えるのが自然だよ」
「でも吉家さん、いま4月下旬ですよ?」
「え。そうだね。この間まで、お花見シーズンだったし……で、それが?」
「あいつ、一年生なんです」
「ん、だから……?」
「高校に入学して一か月弱、そんな短期間で岡島に脅迫されるようなネタをつかまれるでしょうか?」
「……なるほど。たしかに」
綾南は最後の否定をする。
「そして、第三の根拠『鳥羽自身の自供』を否定する理由ですが、これは言うまでもないかもしれませんが――」
――――それは鳥羽が嘘をついていると思うからです。
綾南は自分の心情を語った。先程話したどんな否定よりも強く発した。
「思う……かい?」
吉家は猜疑的な相槌を打った。
「さっき話しましたよね。鳥羽綾糸は何らかの事情で犯人の身代わりになろうとした。――俺はそう考えています」
「なるほどね」
二人を乗せた車は綾南の自宅に到着した。
綾南は礼を言って、車を降りる。そこに吉家が綾南に優しく言った。
「でも、綾南くん。それは君の妄想の可能性もあるんだろう?」
「そうですね。――これは俺の妄想かもしれませんね」
心にも思っていないことを綾南は言った。
PM8:40
綾南了は、風呂場で湯船に浸かりながら考えていた。
岡島を殺したのは鳥羽綾糸ではない。――では、一体誰であろうか?
あやしいと思う人物が――1人いる。
灰本に確認したところ、その人物はやはり岡島に脅されていた1人だった。
真意が襲われた日、学校周辺にいたことも理由になる。
だがしかし、
「アリバイがあるんだよなぁ……」
そう。その女子生徒には、殺害時刻に部活をしていたという。
完璧なアリバイだ。
「沼場さんが死亡推定時刻がどーのいっていたな……」
殺害時刻をごまかした。そういうトリックを考える。
「部活の前に、すでに岡島を殺していたとすれば――死体を温めることができれば、って無理だよなぁ。そもそも部活の前は授業がある」
綾南が湯けむりの中で独り言をブツブツ吐く。
「あれ? おにいちゃん入ってるの?」
脱衣所から声をかけられた。
「真意、か……。俺、まだ入ってるから、もう少し待ってくれ」
「えー。あたし、もう服脱いじゃったんだけどなー」
「……着ろ」
「一緒に入る?」
「バカを言うな」
綾南は多少ドギマギしたが、脱衣所にいる妹に、自然にげんなり言い返す。
「チラリ」
「…………何の擬音だよ」
「兄の入浴をのぞき見する擬音」
「見るな!」
「チラ」
「だから覗くな。のぞきは犯罪だぞ」
「今のはあたしの生足を見せびらかしてあげようかなぁ、って擬音なんだけど」
綾南は脱衣所に目を向ける。
マジで一瞬、生足が見えた。それはスッと隠れて見えなくなった。
今度は開いた扉の隙間から、真意が顔だけ覗かせて、眼を合わせて小悪魔のように笑った。
「何やってんだよ……真意」
「うわぁ。妹の足をのぞき見するとかおにいちゃん、さいてー。この足フェチ」
「お前が見せてきたんだろうが」
「足フェチなのは否定しないの?」
「…………」
綾南はげんなり黙った。――なにを言っても無駄だと観念したからだ。
「おにいちゃん、また風呂場で考え事してたんでしょ。のぼせるよ? そう言えば昔、風呂場で倒れて、パパに救助されたことあったよね……」
真意はしみじみと語る。
「そんな昔の話しを蒸し返すな」
「…………綾糸ちゃんのこと、考えてたの?」
真意は少し声のトーンを下げて、聞いてきた。
おそらく沼場や灰本といった知人を伝手に、鳥羽が警察に自首をしたことを知ったのだろう。
「おにいちゃんも、綾糸ちゃんが犯人だと思うの?」
その真意の問いに綾南は、
「わからないよ」
正直に答えた。
「わたしは違うと思うんだけどなぁ。とても人を殺せるような子には見えなかったもん」
「そうだな」
だが、わからないのだ。――本当のところは、心は、他人にはわからない。
「あ、今日の晩御飯、もう食べちゃったからね」
「は?」
「ばあちゃんとあたし、もう晩御飯食べちゃったから。おにいちゃんが悪いんだからね。夕飯時に行方不明だと思ったら、ずーっとお風呂に入ってたのね。――ばあちゃん、むちゃくちゃ怒ってたわよ」
夕飯はみんなでそろって「いただきます」が綾南家のハウスルールだ。
それなのに綾南了は風呂に入っていた。
そんな孫に祖母はキレていらっしゃるらしい。チョップをお見舞いされるかもしれない。
綾南は少々ビビる。
「あ、でも明日、ばあちゃん、ゲートボールあるから今日はもう寝るってさ。明日になったら少しは怒りも収まるじゃないかな?」
「そうか」
ひと安心。
「ちなみに今日のご飯は焼き飯よ。ほら、この前とおなじやつ。もう冷めちゃってるから、あんまり美味しくないかもだけど」
「ん? 真意、いま何時だ?」
「8時半過ぎ」
「…………マジか」
綾南は2時間半も湯船に浸かっていたらしい。
「じゃ、ほんと、早く出てよね」
ようやく真意が脱衣所を出ていく気配がした。
綾南は湯船から出る。
今後の予定を考える。
――まず晩飯の炒飯を食べて、再び灰本に電話で確認。念のために『彼女』の授業時間のアリバイも調べてもらって――
――ん?
そこで違和を感じた。その違和感は広がってゆく。
そして、それがヒントになり、パズルのピースがそろうように、
――答えが出てきた。
綾南了はわかった。
事件の真相が、発見できてしまった。
「ああ、ウソだろ。――――――――そんな事は……ありえない、だろ」
そう、言葉に出してみるが、綾南の世界はその答えを認めていた。
矛盾を考えてみるが、どこも矛盾はなかった。
納得の答えだった。――だが、認められない。
綾南了には殺意が芽生えた。――あいつを俺が、殺してやりたい。
それが、事実を認めていることだとわかっていても、止められない。
でも、それは、もう不可能だ。死んだ人間を殺すことはできない。
――終わっている。
この事件は、終わっている。
でも、認めない。そんな事があるわけがない。
綾南はふらつく身体をコントロールして、風呂場を後にして脱衣所にてバスタオルで身体を拭いて着衣をする。脱衣所を出て、冷蔵庫に向かう。
――そんな事を考えてしまうのは、のぼせているからだ。頭を冷やそう。
あるわけねえだろ! そんなこと。