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第24話 「打上」~名前の無い便で空へ~

描線眼鏡シリーズ第3部完結編

『描線眼鏡 または終末の情熱』


観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦う。

終末を超える鍵はあなたの中にある。


「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。

 米国での集中訓練を終えたA stationは、宇宙へ向かう前に、一度だけ日本へ戻された。


 帰国便の窓の外には、雲の下に広がる夜の関東平野があった。羽田に降り立つと、湿った空気が肌にまとわりつく。


 誰も「帰ってきた」とは言わなかった。


 移動車の窓に、高速道路の照明と深夜のコンビニの明かりが流れていく。見慣れているはずの風景が、ガラス一枚向こうの別世界みたいに見えた。


 アツは、窓の外を黙って見ていた。


 ここに帰ってくるために行くのか。

 言葉にはならない。けれど、宇宙へ行くことは遠くへ行くことではなく、戻る場所を失わないために遠くへ行くことなのだと、少しずつ体が理解し始めていた。


 少し離れた席で、サチハも窓の外を見ていた。アツと「一緒に」と言った。けれど、今も座席は隣ではない。その小さな距離が、彼女の横顔に薄い影を落としていた。



 車は西東京にあるYAHO R&Dセンターへ入った。

 久しぶりに姿を見せた黒部が、エントランスの奥で待っていた。作業ジャケット姿で、人間への挨拶より先に接続ログを確認している。そこは以前と変わらない。


「お帰りなさい、と言いたいところですが」


 黒部は、手元の端末を掲げた。


「今回は帰国ではありません。最終同期のための寄港です」


 その言い方に、ケンが小さく苦笑した。


「人間も船扱いかよ」


「今回は半分以上、機材扱いです」


 黒部は真顔で返した。


 描線眼鏡、手甲型描線ペン、EMOwatcher、宇宙服接続部、協会アプリ。米国施設では確認できなかった同期項目が、端末画面にびっしり並んでいた。


 ブリーフィング室では、五郎とYAHO、JAXAのスタッフが待っていた。壁面モニターには、ISSを分離して軌道移送する進捗状況が表示されている。


 表のニュースでは、月近傍前線基地計画は順調とだけ語られていた。人類の知恵、国際協力、未来への足場。


 だがここでは、新サービス系への切替、残置分離、母艦と前進ノードの独立試験が、無機質に表示されていた。


 旧い国際宇宙ステーションは、新しい月近傍前線基地へ姿を変えつつあった。


「ファルコンヘビーやアリアン6をはじめとする重量級ロケットでの追加打ち上げと軌道移送は、ほぼ予定通り進んでいます」


 五郎が模式図を指し説明する。


「月近傍前線基地は、大きく二つの主要部に分かれます。母艦核クラスタと、前進ノード核クラスタです。そこに接触機とアンカー群が付属する」


 五郎は画面上の二つの構造体を示した。


「運用上は母艦、前進ノードの名で統一します。母艦は帰るための場所。前進ノードは、帰る場所を危険の近くへ少しだけ前に出すための場所です」


 一旦言葉を切って、説明を続ける。


「地上から上げられた新しい推進系、電力系、通信系が、旧ISS由来区画の命綱を少しずつ付け替えている。不要な外部構造の残置分離も、最終確認段階です」


 サキが端末のログを追いながら、短く息を吐いた。


「先に維持装置を付けてから切っているんですね」


「ええ」


 五郎は頷いた。


「旧い船を殺さずに、新しい船へ変える作業です」



 最終同期ブリーフィングが終わると、笹崎花子がキズナを呼び止めた。


 会長の端末には、次の予定が表示されていた。


《移動待機時間》


 ただそれだけの、何もない空白。


「記録上は、移動待機時間よ」


 笹崎は端末を閉じた。


「でも、人間は記録だけで宇宙へ行けるわけじゃない」


 キズナは顔を上げる。


「……どこへ行けばいいんですか」


 笹崎は少しだけ目を伏せた。制度の人の顔ではなく、誰かを送り出す大人の顔だった。


「協会会長としては、余計な寄り道を認めるべきではないのかもしれない」


 それから、静かに続ける。


「でも、あなたを送る大人としては、必要だと思った」


 渡された行き先を見て、キズナは息を止めた。


 S station。


 かつて、自分が線の引き方を覚えた場所だった。



 S stationへ向かう車は、YAHO R&Dセンターの裏口から静かに出た。


 運転していたのは黒部だった。車はYAHOの業務車両として処理されているらしい。後部座席のキズナの膝には、小さなケースがあった。中には、アンナから借りたS・F印入りの手甲型ペンが入っている。


 夜の幹線道路を南へ走る。照明が窓を流れ、街の明かりが少しずつ低く、古いものへ変わっていく。


 浮かんできたのは、インクの匂いと、ペン先が紙をこする音だった。


 雑居ビルの二階。階段の踊り場には、少し湿った紙の匂いが残っていた。ドアの小さなプレートに、見覚えのある文字がある。


 S station。


 扉を開けた瞬間、キズナは息を止めた。

 師匠星野トシロウのスタジオ。


 空調とインクの混じった匂い。積まれたネーム。背景資料の詰まった棚。古いペン立て。A stationとは違う。もっと古く、もっと狭く、けれど線の始まりに近い匂いだった。


 部屋の隅には、かつてキズナがランやマナセと並んで原稿を手伝っていた机が、まだ残っていた。椅子の背もたれの傷も、徹夜明けに頭をぶつけた棚も覚えている。宇宙という言葉からいちばん遠い場所のように、そこにあった。


「遅かったね」


 星野は、作業机の前で振り返った。いつものように飄々とした顔をしている。けれど、目だけは笑っていなかった。


 その隣に、上青石萌音がいた。


「協会には行かないって決めてるからね」


 上青石は、柔らかい声で言った。


「だから、キズニャに来てもらっちゃった」


 軽い言い方だった。けれど、その一言だけで十分だった。上青石は、協会から出ることを選んだ人だった。だから、キズナがここへ来た。


 机の端には、文潮社から送られてきたゲラが積まれていた。


 『眼鏡の女の子』の休載告知。代替企画。星野の応援カット。上青石の寄稿文の校正紙。そこにフクハラの細かい赤字が入っている。


 キズナがいなくても、誌面が落ちないように、誰かが線を繋いでくれている。ありがたくて、少しだけ悔しかった。


「誌面の穴は、こっちでどうにかする」


 星野は、ゲラの束を指で叩いた。


「編集も、作家も、そういう時のためにいる。でも、物語の穴は本人にしか埋められない」


 キズナは何も言えなかった。


 星野は少しだけ表情を変えた。師匠の顔だった。


「任務を果たして帰ってこいとは言わない。漫画家として帰ってこい」


 低い声だった。


「続きを描くために」


 胸の奥が、細く痛んだ。


 世界を救う。小惑星を止める。魔を近接で留める。どれも必要なことだ。けれど、それだけでは足りないのだと、ここへ来て初めて分かった。


 上青石が、机の上の白い原稿用紙に視線を落とす。


「知らない誰かの明日を守りたいと思うことと、誰か一人を好きになることは、同じじゃないよ」


 彼女はゆっくりと言った。


「でも、線の向きは似てる。内側に閉じるんじゃなくて、外へ伸びる」


 キズナは、上青石を見る。


「外へ……?」


「うん。憎しみが世界を重くするなら、その反対に、世界を少しだけ押し広げる感情もあるんじゃないかな」


 理論でも数式でもない。創作者クリエイターの感覚だった。


 けれど、その言葉は、キズナの深いところへ沈んだ。


「守るためだけに描くと、線は少し硬くなる」


 上青石は続けた。


「でも、帰ってきて誰かに見せたいと思って描く線は、もう少し遠くまで伸びる気がする」


 キズナは、ケースの中の手甲型ペンを見た。


 アンナから借りた線。


 星野から命じられた、続きを描くこと。


 上青石から渡された、誰のために描くのかという問い。


 休載告知のゲラ。


 待ってくれている読者。


 それらは別々のものではなかった。

 まだ言葉にはならない。けれど、同じ方向へ伸びている気がした。


「帰ってこい、キズナ」


 星野は言った。


「物語の続きを描くんだ」


 キズナは、小さく頷いた。


「はい。描きます」


 宇宙へ行く前に、キズナが受け取ったのは帰る理由だった。



 翌朝、時間はまた任務のものに戻った。

 西東京のYAHO R&Dセンターでは、早朝から描線眼鏡と宇宙服接続部の最終同期が始まっていた。白い作業灯の下で、端末を叩く音だけが細かく響いている。


 アンナから借りた手甲型ペンの接続部に小さな検査ライトが当たり、白い外装の縁が冷たく光る。


 サチハのEMOwatcherには、感応補助と共鳴線再同期支援の新しいログ項目が追加されていた。サキはそれを見ながら、眉間に小さなしわを寄せる。


「感応補助が、正式な搭乗機能扱いになっています」


 サチハは、少しだけ肩を縮めた。


「……はい」


 返事は小さい。けれど、もう補助欄にいた頃の声ではなかった。


 少し離れた休憩スペースで、ランとマナセが向かい合っていた。窓の外は曇っていて、遠くの作業音だけが二人の間に残っている。


「私が行けない分まで見てきて、なんて言わない」


 ランは笑った。


「そんなの言ったら、マナセ、背負いすぎるでしょ」


 いつもの軽さをまとった声だった。けれど、その奥にある悔しさは消えていない。マナセはそれを分かってしまう。分かるから、すぐには何も言えなかった。


 ランは少しだけ息を吸う。


「ただ、帰ってきて」


 マナセの喉が、わずかに詰まった。


「帰るよ」


 声が、自分で思ったより低かった。


「ちゃんと、話の続きをしに」


 ランは、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をした。それから、いつものように笑い直す。


「うん。じゃあ、それまでに怒る内容、いっぱい考えとく」


「それは帰還の難易度が上がる」


 マナセは小さく笑った。笑うと、胸の奥が少し痛んだ。


 ランはそのまま、近くにいたサチハにも顔を向ける。


「サチハ」


「はい」


「怖くなったら、戻れる方を見て」


 わざと軽く言う。


「たぶん、サチハはそれが一番うまいから」


 サチハは目を伏せた。泣きはしない。ただ、両手を胸の前で小さく握る。


「……持っていきます。ランさんの線も」


「うん。お願い」


 その時、壁面モニターに協会の速報ログが流れた。


《国内共鳴防衛ログ更新》

《東京湾岸通信中継施設:SR級異常》

《出動班:サイファーチーム》

《指揮:栗原アンナ》


 続けて、港湾、変電所、通信中継施設、空港島。国内の異常ログが、以前より短い間隔で並んでいく。


 異常は、広がっていた。

 間隔も、規模も、以前とは違っていた。


 サイファーチームは、地上で別の線を引いていた。


 キズナは、そのログを黙って見つめた。アンナの名前が、短い文字列の中にある。出動中。対応中。それだけで十分だった。


 キズナは腰のケースに触れる。白い手甲型ペンの端に刻まれた、S・Fの印。


 返しに来なさい。


 声は聞こえない。けれど、その言葉だけは、まだ手の中に残っていた。


 端末に、最終搭乗班の表示が出た。


《非公開搭乗班/A station》

《戸隠キズナ》

《加藤アツ》

《上迫ケン》

《湧口マナセ》

《盛沼サキ》

《村上サチハ》


 続いて、二つの便名が表示される。


《装備輸送B-1/バイコヌール宇宙基地》

《接触機核予定》

《戸隠キズナ》

《加藤アツ》

《湧口マナセ》


《装備輸送J-2/酒泉衛星発射センター》

《同期支援装備搭載》

《上迫ケン》

《盛沼サキ》

《村上サチハ》


 移動は横田からになる、とだけ告げられた。その先で、二つのルートに分かれる。バイコヌールと酒泉。どちらも報道資料には載らない名前だった。表向きの便名は装備輸送。搭乗者欄は、別系統の秘匿ファイルに分けられている。


 アツは、表示された二つの便名を見た。

 自分の名前と、サチハの名前は別の欄にある。

 隣に行ってほしい。


 そう言ったばかりなのに、座席は隣ではなかった。サチハも同じことに気づいたのだろう。ほんの少しだけ視線が合う。


 けれど、彼女は泣かなかった。

 小さく頷いただけだった。


 地上に残る線がある。

 空へ伸びる線がある。


 そのどちらも切れないように、A stationの六人は、二つの名前のない便へ向かうことになった。



 バイコヌールの夜と、酒泉の夜は、同じ暗さをしていた。


 二つの発射台に、同じ名前のない任務が載せられている。表向きの便名は、どちらも装備輸送。A stationの名前は、どの発表にも出ない。

 ただ、秘匿された搭乗者ファイルの中にだけ、六つの名前があった。


 バイコヌール側の改装機には、キズナ、アツ、マナセが乗っていた。ソユーズの機体を基にした船内は、訓練施設で見た模型よりもずっと狭かった。シートに身体を沈めるというより、金属と機材の隙間に押し込まれている感覚に近い。


 ハッチが閉じる。

 重い金属音が、胸の奥に落ちた。外の空気が一枚ずつ遠ざかっていく。ヘルメット内には自分の呼吸音がこもり、通信のノイズが細い虫の羽音みたいに耳の奥で震えた。


 キズナは、手元の手甲型ペンを確認する。S・Fの印が、狭い照明の下でかすかに光った。


 帰ってこい、キズナ。続きを描け。


 星野の声が、まだインクの匂いを伴って胸に残っている。


 マナセは、シート横の端末に保存していたランのメッセージをもう一度見た。


《ただ、帰ってきて》


 指先でその文字に触れ、すぐに画面を閉じる。見続けていると、行けなくなりそうだった。


 アツは、別回線の接続表示を見つめていた。酒泉側。サチハたちの便。通信可能時間は短い。発射直前の干渉を避けるため、音声は数十秒だけ許可されている。


 ノイズの向こうで、サチハの声が入った。


《こっちは固定完了です》


 声は硬かった。けれど、震えを押し殺すような硬さではなかった。怖さを抱えたまま姿勢を保とうとしている声だった。


「隣にって言ったのに、別の機体だな」


 アツは言った。自分でも、少し間の抜けた言い方だと思った。


 通信の向こうで、ほんの短い沈黙があった。


《隣って、座席の話だけじゃないんだよね》


 アツは一拍遅れて頷いた。頷いても見えないと気づくのに、さらに一拍かかった。


「……たぶん、そうだと思う」


《たぶん?》


 サチハが、少しだけ笑った気配がした。


「怖い?」


《怖い。でも、動ける》


 アツは、シートに背中を押しつけられたまま小さく笑った。


「じゃあ、一緒だ」


 酒泉側では、ケンが何か軽口を言おうとして失敗していた。


《いや、こういう時に気の利いたこと言えないの、兄貴分としてどうなんだろうな》


 サキの冷静な声が続く。


《現在、心拍上昇。正常な恐怖反応として記録します》


《それ記録しなくていいやつじゃないかな》


《必要です》


 ほんの少しだけ、通信の向こうにA stationの空気が戻った。


 だが、それもすぐに途切れる。


《通信終了まで十秒》


 サチハの声が、最後にもう一度入った。


《アツ》


「うん」


《同じ船で》


「ああ」


 それ以上は言えなかった。通信は切れた。


 管制音声が流れ始める。ロシア語の硬い発音。翻訳表示。数字が減っていく。遠い酒泉では、中国語のカウントダウンが同じ秒数を刻んでいるはずだった。違う言葉。違う発射台。けれど、同じ線の上にいる。


 キズナは息を整えた。


 守るためだけに描くと、線は少し硬くなる。


 上青石の言葉が、白い原稿用紙のように頭の中に浮かぶ。


 帰ってきて誰かに見せたいと思って描く線は、もう少し遠くまで伸びる気がする。


 キズナは目を閉じた。次に開けた時には、もう地上の重さは同じではない。


 点火。


 最初に来たのは音ではなく、振動だった。機体全体が巨大な手で揺さぶられる。背中がシートへ押しつけられ、胸の中の空気まで下へ沈む。次の瞬間、加速度が身体を貫いた。地上で足裏にかかっていた重さが、今度は逆向きに全身へ襲いかかる。


 マナセが歯を食いしばる音が聞こえた。

 アツは、サチハの呼吸を探そうとした。もう通信は切れている。それでも、どこかで同じように身体を押しつぶされながら、彼女が怖いまま動いていると分かっていた。


 怖さは消えない。

 けれど、もう止まる理由にはならなかった。

 揺れが、少しずつ静かになった。

 重さが消えた。

 窓の外に、黒が広がる。

 地上は、もう下ではなかった。

 遠ざかる場所になっていた。



 低軌道に入ってから、何度か地球を回った。


 時間の感覚がほどけていく。地上の予定表は、ここでは管制音声と軌道表示の中へ溶けていた。


 窓の外には、黒い宇宙と、青く縁取られた地球があった。雲の白さは柔らかいのに、その下にあるはずの街や道路や海岸線は、もう指で触れられる場所ではなかった。


 キズナたちの乗る改装機は、単なる移送機ではない。

 母艦到着後、外装と作業ユニットを追加され、KS1へ近づくための接触機核として再接続される予定だった。今はまだ、小さな船にすぎない。けれど、この狭い機体が、最終的には最も危険な場所へ近づく刃になる。


 その事実を考えると、アツは喉の奥が少しだけ乾いた。


 管制表示に、母艦の状態が流れる。


《母艦、新サービス系へ移行完了》

《残置分離確認》

《前進ノード、単独健全性試験継続》


 端末に流れる文字は短い。けれど、その短い行の裏で、何十年も空にいた船が、別の姿へ切り分けられていた。古い依存を外し、新しい命綱をつなぐ。五郎が言っていた手術は、もう終わりに近づいている。


 やがて、視界の端に母艦が見えた。


 それは、テレビで見たISSとは少し違っていた。見覚えのある形を残しながら、真新しい外装や追加ユニットが接続されている。古い骨格に、新しい血管が通されているようだった。陽光を受けたパネルが白く光り、影になった部分は深い黒に沈んでいる。


 ドッキングの振動は、想像より静かだった。


 かすかな衝撃。金属同士が噛み合う音。圧力確認。ハッチ確認。翻訳表示が淡々と流れていく。その淡々とした手順の一つひとつが、命を支えている。


 遅れて、酒泉から上がった便も別ポートへ接続した。


 ハッチが開き、キズナたちは母艦へ移った。


 船内に入った瞬間、匂いが変わった。金属、樹脂、機械油、循環された空気。訓練施設に似ているのに、人が長く暮らした湿度が混じっていた。


 古い手すりには細かな擦り傷があり、壁には使い込まれた表示が残っている。その隣を、真新しいケーブルと月系運用端末が横切っていた。旧い船と新しい船が、無理やりではなく、慎重に縫い合わされている。

 通路の一部に、日本語の古い注意表示が残っていた。


 その横に、《KIBO系統/一部再接続済》という小さな英字ラベルが貼られている。キズナはそれを一瞬だけ見た。意味を考える余裕は、まだなかった。けれど、その文字は、どこか胸の奥に引っかかった。


 別ポートから入ってきた三人と、連結通路で合流した。

 ケンは無重力に少し苦戦しながら、手すりを掴んでいた。


「地面がないの、やっぱり慣れないな」


 サキはすでに端末でログを確認している。サチハはその隣で、慎重に姿勢を整えていた。髪がふわりと浮き、頬の横で揺れている。


 アツとサチハは、無重力の中で少しだけ向かい合った。


「隣じゃなかったな」


 アツが言う。


 サチハは、少しだけ笑った。


「でも、同じ船だよ」


 それだけで十分だった。


 キズナは全員を見た。地上で並んでいた時とは、もう違う。足元はない。上下も曖昧だ。けれど、線は切れていない。むしろ、見えない何かで繋ぎ直されている気がした。


 その時、前方のハッチに表示灯が点いた。


 内部圧力確認。接続確認。開放許可。


 ハッチがゆっくりと開く。


 画面の中にいた四人が、そこにいた。


 ジョナサン・グレイが前に立っていた。映像で見た時と同じ静かな目をしている。けれど、同じ空気の中で見ると、その沈黙には重さがあった。後ろに、アレクセイ・レオノフ。無言のまま、キズナたちを測るように見ている。ウルリヒ・ヴァルデンは、観察対象を前にした研究者の目を隠さない。ヤン・ウェイリーだけが、わずかに顎を引いて挨拶をした。


 ジョナサンが口を開いた。


「ようこそ、A station」


 声は低く、狭い船内にまっすぐ届いた。


「ここから先は、同じ任務です」


 キズナは、息を吸った。


 画面の中の人類代表は、もう画面の中にはいなかった。同じ船の、同じ空気の中にいる。


 けれど、同じ任務にいることと、同じ線を見ていることは、まだ違った。


 ここから先は、それを確かめる時間だった。



前話では、表の四人の宇宙飛行士が世界中に見守られながら打ち上げられました。


今回は、その裏側で、キズナたちA stationが宇宙へ向かいます。

ただし、彼女たちの名前は報道されません。歓声も、カメラも、世界中の注目もありません。

それでも、帰る理由を受け取り、残る者たちの線を背負って、名前の無い便で空へ向かいます。


また今回は、キズナが師匠・星野、そして上青石から「描く理由」を受け取る回でもあります。


物語はいよいよ宇宙での最終決戦へ。


お読みいただけましたら、感想や応援をいただけると励みになります。

よろしくお願いいたします。

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