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第23話 「再編」~継がれる線と始まる任務~

描線眼鏡シリーズ第3部完結編

『描線眼鏡 または終末の情熱』


観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦

終末を超える鍵はあなたの中にある。


「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。

 米国での指定訓練施設への移動準備は、静かに始まっていた。


 世界のニュースでは、ISSに由来した地球防衛計画が「人類の知恵の結集」として語られている。

 青い地球、古い国際宇宙ステーション、新しい月近傍前線基地の模式図に、明るいBGMが付いて、未来へ向かう物語が謳い上げられる。


 一方で、A stationが見せられている資料の言葉は、もっと冷たかった。

 不要部残置。母艦核クラスタ。前進ノード核クラスタ。新サービス系接続。旧ISS系統からの電力・冷却依存の段階的解除。再編対象区画リスト。

 リストの中に、ハーモニー、トランクウィリティー、きぼう、PMMなどの各モジュールの名が並ぶ。


 ブリーフィング室は、空調の音ばかりが目立っていた。机の表面は白く、端末の光が顔色を薄くする。笹崎花子は腕を組み、五郎はモニターの前に立っていた。YAHOとJAXAのスタッフは、誰も余計な言葉を挟まない。


 サイファーチームは地上バックアップとして、国内待機に入った。

 アンナから借りたS・F印入りの手甲型ペンは、キズナのケースの中に収められていた。小さな器具なのに、ケースの中のそこだけが、妙に重く感じられた。


「現状の国際宇宙ステーション、いわば旧い船は、丸ごと未来へ行くのではありません」


 五郎が静かに言った。


「必要な区画を残し、不要な部分を切り離し、新しい命綱を先につないでから、古い依存を外していく」


 ケンが、少しだけ顔をしかめる。


「船っていうより、手術みたいだな」


「ええ。しかも、患者はまだ生きていて、働いている」


 五郎は頷いた。


 その言葉で、部屋の温度が一段下がった気がした。宇宙ステーションは、止まった機械ではない。人間が暮らし、電気が流れ、空気が循環し、誰かの命を今も支えている場所だ。その一部を切り離し、新しい任務へ組み替える。そこにあるのは、未来への希望だけではなかった。


 五郎は、次の資料へ切り替えた。


「KS1が閾値を超え、幾何数級的増大へ移行した場合、被害評価は都市災害や国家災害の範囲を離れます」


 そこで短く息を置いた。


「白亜紀末に地球環境を書き換えた、あの衝突事象。その域に近づく可能性があります。さらに悪ければ、そこにすら収まらない」


 皆が固唾を呑んだ。


「地球という惑星は残るでしょう」


 その声は静かだった。


「ですが、私たちが知っている海と空と生き物の連続性が残るとは限りません。文明の終わりでは済まない。地球史の次の章を、人間の行いで強制的に書き換えてしまう危機です」


 アツは、喉の奥が少し乾くのを感じた。宇宙に行くという言葉は、昨日まではまだ遠い響きを持っていた。けれど今は、冒険ではない。世界の続きを途切れさせないための作業なのだと、遅れて体が理解し始める。

 サキは最悪値の欄を見て、表情を固めた。フクハラは資料に書かれていない余白を読むように、目を細めている。キズナは、ケースの中の手甲型ペンを一度だけ見下ろした。


 JAXA側の担当者が、別の画面を開く。


「米国施設での次段階訓練は、現登録六名を基準に進みます」


 表示された名前は、六つ。


 戸隠キズナ。加藤アツ。上迫ケン。湧口マナセ。館山ラン。盛沼サキ。


 その下に、少し離れてサチハの名前があった。


《補助評価/地上感応支援候補:村上サチハ》


 サチハは一瞬だけ視線を落とした。何も言わない。けれど、その沈黙は前より少し重くなっていた。


 そのとき、ランの端末だけが震えた。


《再検査通知》

《対象:館山ラン》

《宇宙環境適性評価:一時保留》

《医療区画への再入室を要請》


「ラン?」


 マナセが、誰より早く気づいた。

 ランは端末を見て、軽く笑う。


「あー、昨日の訓練酔い、まだ引っかかってるのかな」


 声は明るかった。明るすぎるくらいだった。

 健康管理区画の扉の前で、ランは立ち止まる。マナセも一歩踏み出したが、スタッフが静かに首を振った。


 ランは振り返って、いつものように笑った。


「すぐ戻るって。たぶん」


 自動ドアが閉まる。


 旧い船を切り離す作業は、もう始まっていた。A stationもまた、このままの形では、空へ行けなかった。



 健康管理区画の診察室は、必要以上に白かった。

 天井の照明は眩しすぎるほど均一で、壁の時計の針が動く音だけが、妙にはっきり聞こえる。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、椅子の背もたれは冷たかった。ランは両手を膝の上で組み、いつもの調子で笑おうとした。


「いやー、宇宙より先に、別の未知領域に入っちゃったかも」


 冗談は口から出た。けれど、医療スタッフの表情は柔らかく、同時に厳しかった。そこでランの笑みは、途中で少しだけ止まった。


 妊娠の可能性。宇宙搭乗評価の停止。低重力、放射線、薬剤、閉鎖環境、緊急医療対応。いくつかの言葉が、白い机の上に静かに置かれていく。説明は短かった。短いからこそ、逃げ場がなかった。


「現時点で、宇宙搭乗評価は停止です」


 JAXA側の医療担当者が言った。


「これは適性の問題ではありません。保護すべき対象が、あなた一人ではなくなった可能性があるという判断です」


 ランはしばらく黙っていた。それから、わざと軽く肩をすくめる。


「そっか。じゃあ、私だけ別ミッションかあ」


 言ったあとで、声が思ったより細いことに気づいた。


「……行く気だったんだけどな。わりと、本気で」


 その本音だけは、白い部屋の中に落ちて、なかなか消えなかった。


 廊下に出ると、マナセが待っていた。壁際の椅子から立ち上がる動きが、いつもより速い。けれど、口はすぐには開かなかった。


 ランが簡単に説明すると、マナセの顔から色が引いた。


 最初に、よかった、と言いそうになった。


 マナセは、ランと一緒に歩いていくことを、もう心のどこかで決めていた。

 その道の先に、新しい家族がいるかもしれないことも、どこかで想像していた。


 だから一瞬、安心してしまった。

 ランを宇宙へ行かせなくて済む、と。


 その安心が胸に浮かんだ瞬間、マナセは自分の心を叩き落としたくなった。

 ランは行きたかったのだ。そして自分も、ランと一緒に行きたかったのだ。


「……よかった、って言いそうになった」


 マナセは、やっとそれだけ言った。


 ランは少しだけ目を丸くする。


 ランは笑った。笑ったつもりだった。けれど、目元が少しだけ揺れていた。


「私も、ちょっとだけ思った。行かなくて済むんだって。で、そのあと、すごく悔しくなった」


 マナセは何も言えなくなった。守りたい気持ちと、一緒に行きたかった気持ちが、胸の中で同じ場所を奪い合っている。ランの手を取りたいのに、取れば宇宙へ行く側の自分がひどく残酷に思えた。


 その頃、別室ではキズナが説明を受けていた。


 五郎、笹崎、JAXA担当者。画面には、A stationの実搭乗候補名簿が表示されている。ランの名前の横に、新しい表示が付いた。


《搭乗評価停止》


 米国訓練への同行も停止。六人枠に空きが出る。


 その下の補助欄にあったサチハの名前が、候補欄へ移動可能な状態になっていた。


 空いた席。


 その言葉が、キズナにはひどく冷たく聞こえた。そこは空いたのではない。ランが立てなくなった場所だった。誰かを入れれば済む話ではない。けれど、誰かが入らなければ、線はそこから先へ伸びない。


 休憩スペースの隅で、ランはサチハを見つけた。


「サチハ」


 呼ばれたサチハは、少し驚いたように立ち止まる。

 ランは、いつもの軽い笑みを作った。けれど、声の線は少しだけ細かった。


「ちょっとだけ、線を預けてもいい?」


 サチハは意味が分からず、その場に立ち尽くした。



 休憩スペースの窓際には、夕方の光が薄く差し込んでいた。


 白い壁に、金属製の椅子。自動販売機の低い唸り。遠くで誰かが荷物を運ぶ音がして、訓練施設全体が出発前の落ち着かない気配に包まれている。ランはその中で、できるだけいつもの顔を作っていた。


「私の代わり、って言われるのは嫌かもしれないけど」


 サチハが何か言おうとする。けれど、声にならなかった。


「でもね、サチハ。代わりって、空いた穴に入ることじゃないよ。そこから先を、別の形で続けることだと思う」


 ランの声は明るかった。けれど、その線はいつもより少し細い。


「でも、それはランさんの場所で……」


 サチハは俯いた。


 自分が入るために、ランが外れる。そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。怖い場所へ行く欄に自分の名前が入ることより、その名前の位置にランの不在があることの方が、ずっと痛かった。


 ランは少しだけ笑った。


「場所って、座った人のものになるんじゃないかな。私が座れなくなったからって、そこが空っぽのままだったら、それこそ悔しいじゃん」


 サチハの指が、膝の上で小さく震える。


「私は行けない。でも、線は切れない。だったら、誰かが持っていくしかないじゃん」


 ランは、サチハの目を見る。


「持っていって。私が見られないところまで」


 サチハは泣きそうになった。けれど泣かなかった。 泣いたら、受け取る前に崩れてしまいそうだった。


 その後、アツはサチハを探して、搬入口近くの廊下まで来ていた。


 金属製の輸送ケースが壁際に並び、タグの付いた機材が淡い夕光を反射している。空調の音と、遠くの台車の車輪音。誰もいない隅で、サチハは一人、端末を見つめていた。


「私、ランさんの代わりで呼ばれるんだよね」


 サチハが先に言った。


 アツは少し息を吸う。言葉は、相変わらず遅かった。けれど、今回は逃げなかった。


「ランさんの代わりだからじゃない」


 サチハが顔を上げる。


「俺が、サチハに来てほしいんだ。宇宙へ。……俺の、隣に」


 その言葉は、廊下の白い壁にぶつかって、静かに戻ってきた。


 サチハは、すぐには受け取れなかった。


「……それ、任務の話?」


 アツは少し黙った。うまい答えは見つからない。けれど、ここで曖昧に笑って逃げたら、きっとまた一歩遅れる。


「任務の話、だけじゃないと思う」


 サチハの呼吸が乱れた。涙は出なかった。ただ、胸の奥で何かがほどけて、同時に怖さが形を持った。


「私、怖い」


「うん」


「でも、置いていかれる方が、もっと怖かった」


 アツは頷いた。


「じゃあ、一緒に怖がろうよ」


 その言い方が不器用で、少し優しくて、サチハはようやく小さく息を吐いた。


 そのとき、二人の端末が同時に震えた。


《実搭乗候補名簿更新》

《館山ラン:搭乗評価停止》

《村上サチハ:実搭乗候補へ移行》

《役割区分:感応補助/共鳴線再同期支援》


 画面が切り替わる。


 戸隠キズナ。加藤アツ。上迫ケン。湧口マナセ。盛沼サキ。村上サチハ。


 サチハの名前は、もう補助欄にはなかった。

 白い画面の中で、名前の位置だけが変わっている。その静かな変化が、どんな言葉より重かった。


 サチハは泣かなかった。ただ、ゆっくりと息を整えた。


「……行こう。一緒に」


 それは誰かの代わりではなく、初めて自分の声で言った言葉だった。



 ヒューストンの空は、映像で見るよりずっと広かった。


 NASAの広報映像では、青空、旗、家族、記者、笑顔が並ぶ。人類の挑戦、国際協力、未来への一歩。そんな言葉が、明るい音楽に乗って流れている。けれど、キズナたちが通されたのは、そういう場所ではなかった。


 窓の少ない移動車。無言のスタッフ。何度も提示させられるIDカード。裏口のような搬入口から入り、カメラのない廊下を進む。白い壁には案内表示すら少なく、空調の音と靴音だけが妙にはっきり響いた。


「NASAの見学込みの観光だったら、もっと楽しかったんだけどな」


 ケンが小声で言う。


「観光客は、入館記録を三重に暗号化されません」


 サキが即座に返した。横でフクハラが、記録支援用の端末を抱えたまま苦笑する。


「締切進行より厳重ですね。まあ、原稿も国家機密扱いなら落とさなくて済むんですが」


 誰も大きく笑わなかった。笑えば、ここが本当に現実だと認めてしまう気がした。


 米国側施設での訓練は、つくばよりもさらに実務的だった。通信遅延下での指示応答。閉鎖環境内での描線ペン保持。宇宙服グローブを装着した状態での手甲型ペン操作。緊急時の姿勢固定。呼吸音、警告音、英語の指示、翻訳表示。すべてが一拍ずつ遅れて体に届く。


 サチハは、まだ正式候補として扱われることに慣れていなかった。


「Murakami, standby」


 スタッフに呼ばれて、一瞬遅れる。


「呼ばれてる」


 アツが小さく言った。


 サチハははっとして、頷く。


「……はい」


 自分の名前が、補助欄ではなく訓練手順の中にある。声で呼ばれ、立ち位置を指定され、呼吸と心拍を測られる。そのたびに、名前の重さが少しずつ体に入ってきた。


 移送導線の途中で、彼らは表の四人とすれ違った。


 ジョナサン・グレイは、最初にキズナたちを見た。驚きは顔に出さない。ただ、任務表の別項目を確認するような目で、一人ずつを見る。


「名前が出ない任務ほど、手順を軽く見られやすい。君たちは、必ず戻る前提で動いてくれ」


 その声は静かだった。


 アレクセイ・レオノフは、眉をひそめた。


「子どもを宇宙に送る時代になったのか」


 悪意ではない。だが、その言葉は工具の角のように硬かった。


 ウルリヒ・ヴァルデンは、視線を資料端末へ落とす。


「彼らが観測機器ではなく、変数そのものになる可能性を、誰が評価するのですか」


 ヤン・ウェイリーだけが、少し間を置いて言った。


「分からないものを排除するより、手順に組み込む方が安全な場合もありますよ」


 短いすれ違いだった。けれど、A stationが同じ計画の中にいることだけは、もう隠せなかった。


 その夜、日本側の秘匿回線で、最後の抵抗が入った。


「本当にA stationでよいのか」


「栗原アンナの名を外す意味を分かっているのか」


 笹崎花子の声は、短かった。


「名前で届くなら、最初からこんな会議はしていないわ」


 それで終わった。



 そこからの日々は、訓練というより、身体を宇宙用に書き換える作業に近かった。


 NBLと呼ばれる巨大な水中訓練施設は、建物というより、巨大な水の塊だった。青白い照明の下に広がる水面は静かで、そこだけが屋内なのに海のように見えた。宇宙服を模した訓練装備は重く、金属の関節は思ったより動かない。水中へ沈むと、呼吸音がヘルメットの内側で大きく響き、世界は泡とライトと合図の手だけになる。


 水中は宇宙ではない。けれど、足場を失い、体の向きを見失い、手順をひとつ間違えれば戻る方向が分からなくなる感覚だけは、驚くほど宇宙に近かった。


 キズナは手甲型ペンの固定具を何度も調整し、アツは姿勢が遅れて崩れる感覚を体に叩き込んだ。ケンは「運転席がないのは困るな」とぼやきながら、命綱の張り方を覚えた。マナセは力を入れすぎるたびに水中で空回りし、サキは通信ノイズと心拍ログを同時に追った。サチハは、水の青さの中で、切れかけた線の戻る方向を探し続けた。


 別の日には、パラボリックフライトがあった。機体が急上昇し、次の瞬間、床が足裏から消える。数十秒にも満たない微小重力の中で、描線ペンを握る指は簡単に迷子になった。吐き気、笑い、恐怖、無言。何度も繰り返される放物線のたびに、彼らは少しずつ、地上の体を手放していった。


 アツは、サチハが怖いと言わなくなったことに気づいた。代わりに、怖いまま動く方法を覚え始めていた。


 宇宙飛行士の訓練としては、あまりにも短い時間だった。彼らは宇宙飛行士になったわけではない。そんな簡単なものではなかった。

 ただ、宇宙を画面の向こう側だと思うことは、もうできなくなっていた。



 二ヶ月近い集中訓練が一段落した夜、キズナたちの端末に新しい通知が届いた。


《日本側最終同期調整》

《描線眼鏡・描線ペン・宇宙服接続部再検査》

《YAHO/協会共同設備へ移動》


 ヒューストンの夜はまだ明るかった。けれど、キズナはその通知を見て、遠い日本の湿った空気を思い出していた。


 宇宙へ行く前に、もう一度日本へ戻る。

 帰るためではない。

 行くために、戻るのだ。


 日本へ戻る便まで、まだ時間があった。

 ケネディ宇宙センターの朝は、世界中の画面に映っていた。


 青い空。白いロケット。風に揺れる国旗。管制室の緊張した横顔。家族が手を振る映像。記者たちの声。街頭ビジョンの前で足を止める人々。遠い国の教室や駅や食卓まで、同じ光景が届けられている。


 ジョナサン・グレイ。

 アレクセイ・レオノフ。

 ウルリヒ・ヴァルデン。

 ヤン・ウェイリー。


 四人の名前が、何度も読み上げられた。

 世界は、彼らを見ていた。


 一方で、A stationは米国側施設の閉鎖区画にいた。窓のない部屋。白い壁。低い空調音。モニター越しに映る発射台の炎だけが、そこに外の世界の熱を運んでいる。拍手はない。記者もいない。自分たちの名前が字幕に出ることもない。


 同じ計画に属しているのに、光の当たり方がまるで違っていた。


 キズナの手には、アンナから借りたS・F印入りの手甲型ペンがあった。白い外装に刻まれた小さな印は、モニターの光を受けてかすかに光る。武器というより、約束の形に見えた。


 サチハは、キズナの少し後ろ、アツの隣に立っている。彼女の名前はもう補助欄にはない。実搭乗候補の六人の中にある。


 アツは、それを確認するように一度だけサチハを見た。サチハも気づいたが、何も言わず、小さく頷いた。


 マナセは端末を見ていた。日本から、ランのメッセージが届いている。


《ちゃんと帰ってきて》

《私が行けない分まで見てきて、なんて言わない》

《ただ、帰ってきて》


 マナセは返信欄を開いたまま、しばらく指を止めた。胸の奥に、言葉にならないものが溜まる。行けなかった線。持っていく線。残る者と行く者の間に伸びる、細いけれど切れないもの。

 やがて、短く打ち込んだ。


《帰る》

《ちゃんと、話の続きをしに帰る》


 送信音は小さかった。けれどマナセには、それがやけに大きく聞こえた。


 中継の音声が、一段低くなる。カウントダウンが進む。管制室の声、英語の数字、翻訳字幕。世界中が同じ秒数を数えている。


 モニターの中で、ジョナサン・グレイの声が流れた。


「地球へ戻るまでが任務です」


 キズナは手甲型ペンを見下ろした。


 アンナの声が、少し遅れて胸の奥に戻ってくる。

 返しに来なさいって意味。


「返しに行かないとね」


 キズナは小さく呟いた。


 誰も大きく反応しなかったが、少しだけ姿勢を正した。


 炎が上がる。


 白い煙が発射台を包み、ロケットがゆっくりと動き出す。音はモニター越しに遅れて届いた。それでも、胸の奥が震えた。世界中の画面が、その光を映している。歓声が広がり、国旗が揺れ、四人の名前がまた読み上げられる。


 閉鎖区画の窓には、その光は直接見えない。


 ただ、モニター越しの白い煙だけが、部屋の壁を淡く照らしていた。


 ロケットの光は、世界中に映された。


 その光の裏で、もう一つの任務が静かに始まっていた。





ISS由来地球防衛計画では、旧い船を丸ごと未来へ運ぶのではなく、必要な中核を選び、新しい任務へ向けて組み替えていく作業が始まります。


そしてA stationもまた、同じように形を変えることになります。

宇宙行き候補だったラン。

補助評価扱いだったサチハ。

その二人の間に引かれる線は、単なる交代ではなく、続きとして描かれていきます。

さらに、表の四人の宇宙飛行士たちは世界中の画面に映される一方で、A stationの任務はまだ誰にも知られないまま、光の裏側で静かに始まっていきます。


最終章第五章「空へ伸びる線」も、いよいよ本格的に宇宙へ向かう段階に入りました。

お読みいただければ幸いです。


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