第19話 「選択」~限られた夜に誰といるか~
描線眼鏡シリーズ第3部完結編
『描線眼鏡 または終末の情熱』
観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦う
終末を超える鍵はあなたの中にある。
「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。
クリスマスイブの晩。A station の空気は、去年と同じように年内最後の入稿を終えたあとの甘い疲労でゆるんでいる――はずだった。
実際、机の上には紙皿と紙コップが並び、買ってきたローストチキンの匂いと、キズナが今年も焼いてきたパウンドケーキの甘い香りが、暖房の乾いた空気に混ざっていた。
コピー用紙の山と原稿の名残のあいだに、赤と緑の安い飾り紐が申し訳程度に渡されている。その少し雑な感じも、一年前とよく似ていた。
「はいはい、暗い顔禁止。年内最後の打ち上げなんだから、せめてチキン食う時くらい笑え」
ケンがそう言って、出来合いの総菜袋をどさりと机へ置く。
ランがすぐに笑って、「その言い方だと普段は笑わなくていいみたい」と突っ込み、マナセがもう一本ポテトをつまみながら「いや実際、今月の進行笑ってる暇あんま無かったよね」と勢いで返した。
言葉だけ拾えば、ちゃんと賑やかだ。アツも曖昧に笑い、サチハも遅れて小さく口元を緩める。
学校を終えてから合流したユズハも、まだ制服の残り香みたいな冷たい外気をまとったまま、「お疲れさまでした」と頭を下げ、すぐにランに皿を渡されていた。
ユズハが増えた以外、空間は去年とよく似ていた。だからこそ、その底に沈んでいるものの違いだけが妙に目立った。
誰もそれを口にはしない。だが会話がふっと途切れた瞬間、窓の外の冷えた闇や、机の端で伏せられた端末の黒い画面が、そこにあるだけで少し重たく見えた。
サキの端末が一度だけ淡く震えた。彼女はすぐには見ない。視線を落とさず、ほんの数秒遅れてから画面だけを確かめる。向かいにいたフクハラも、自分の端末に来た通知を同じような間で処理した。
「プレゼント交換、去年もやってたんですよね?」
ユズハが屈託なく聞くと、ケンが「そう。そっちが本編」と答え、ランが箱を抱えて持ってくる。人数が増えた今年、“運命が見える”あみだくじに変えて作ってきた自信作だ。
小さな予算の気楽な交換会。笑って、受け取って、少しだけ相手の意外な趣味が見える、そのくらいの軽い遊び。
*
思い思いにくじを引き、番号の付いたプレゼントをもらう。
アツはユズハが用意した小さな手袋を受け取って「実用的で助かるよ」と笑った。ユズハも嬉しそうに「通学の帰りに見つけたんです」と言う。
そのやりとり自体は何でもない。明るくて、素直で、少しだけ年の差が見えて、ただそれだけだ。
くじの箱が一巡し、サチハの手に来た包みはしばらく開かれないままだった。
「開けないの?」とランが笑って言って、サチハはそこでようやく「あ、はい」と遅れて笑った。
アツはその小さな間に気づかないまま、ユズハの手袋を机の上で広げていた。
サチハは輪の中に座ったまま、指先だけで紙コップの縁をなぞる。ユズハが悪いわけでも、アツが悪いわけでもない。
会が終わるころには、紙皿の上のソースも乾き、ケーキの甘い匂いもだいぶ薄くなっていた。一人ずつ帰り支度を始める。ケンはゴミ袋をまとめ、ランとマナセはまだ少し笑い合っている。ユズハは鞄を肩に掛け直し、アツに何気ない調子で「手袋、ちゃんと使ってくださいね」と言った。
サチハだけが、少し遅れて席を立った。
帰り際、アツが「送ろうか」と口にしかける。けれどサチハはいつもより半歩だけ早く、「大丈夫」と言って笑った。
その笑顔は崩れていないのに、距離だけがほんの少しずれていた。アツは少し噛み合わなくなった感触を、ぼんやりと胸の奥に残した。
去年と同じ夜ではもうなかった。
*
翌日から、年末の空気は思った以上に静かだった。
去年は誰かが実家へ帰る話をしていた。電車の時間、土産、向こうで食べるもの。そんな当たり前の年末の予定が、今年は不自然なくらい出てこない。
アツもサチハも、マナセもランも、それぞれ帰省を断念していた。理由はいくらでも付けられた。不穏な情勢、スタジオの様子、何かあった時にすぐ動ける距離。けれど本当は、誰ももう去年みたいに遠くへ下がって年を越してよいとは思えなくなっていた。
スタジオのある住宅街は、年の瀬らしい乾いた寒さに包まれていた。空はよく晴れているのに空気だけが薄く冷たく、午後になるとアスファルトの表面まで白く乾いて見える。
買い出しの袋が机の下に積まれ、ケンが年末用の備品を見直し、キズナが年明けの連載と単行本の続刊の入稿スケジュールをチェックし、サチハもその輪に入って動く。どれも普段通りだ。普段通りのつもりで、きちんと笑うこともできる。
ただ、アツとの距離だけが、ほんの少し違っていた。
真正面から避けるわけではない。話しかければ返すし、必要なこともきちんと言う。けれど同じ棚を見に行く時に半歩ずれ、隣に立てる場所が空いていてもそこへ自然には入らない。その小さなずれを、アツはうまく掴めなかった。ただ、噛み合わない感じだけが会話のあとに薄く残る。
気づいたのは、スーパーに買い出しに行った帰りだった。アツが重い方を持とうと手を伸ばした時、サチハは一瞬だけ先に袋を引いた。
「それくらい、自分で持てるから」
言い方は強くなかった。むしろ柔らかい。だから余計に、アツは何かを言い返せなかった。怒っているのとも違う。遠ざかりたいのとも違う。けれど、近くにいさせない何かだけがそこにあった。
その夜、スタジオで年末用の買い置きを整理していた時、サチハがぽつりと漏らした。
「サチ、その位置にいないんだなって思っただけ。隣にいたいのに、そこに立てるだけの何かが、足りてない」
サチハはそこで視線を落とした。
「……あの時だって、本当はサチが先に見えてなきゃいけなかったのに」
アツはすぐには返せなかった。羽田の風と、遅れて噛み合った刃の感触が、少し遅れて胸の底へ戻ってくる。
「ユズハちゃんが拾った半歩、ワタシには見えなかった。もし、あれでもっと――」
そこまで言って、サチハは小さく首を振った。
「ごめん。変なこと言ってるね」
年末の薄い夕暮れが、窓の外で静かに色を失っていく。サチハはそれ以上何も言わなかった。アツも追って言葉を重ねられない。ただ、その場に残った沈黙だけが、前より少し重かった。
片づけの途中でサチハはふいに先に帰ると言って鞄を取った。いつもならもう一言くらい何か残すのに、その日は小さく手を振っただけだった。
アツは呼び止めなかった。呼び止める言葉が分からなかったからだ。ただ閉まったドアの前で、アツは立ち尽くしたまま、前の冬のことを思い出していた。
サチハが真っすぐ言葉を差し出してきた夜、自分は答えを決めきれなかった。分からないままにして、曖昧なまま今日まで来た。
サチハはずっと隣にいたのに、自分はどこであんな顔をさせたのかも分かっていなかった。
遅すぎたのかもしれない、とアツは初めて思った。
――失いたくない。
*
別の光景もある。
仕事納めのあと、どちらからともなく「大晦日、少し会わない?」という話になった。町は急に年末らしくなり、スーパーの入口には正月飾りが並び、夕方の商店街には煮物と揚げ物の匂いが混じっていた。そんな中、マナセとランは駅前で落ち合い夕飯を食べた。
気負わない定食屋だったのに、湯気の向こうにいる相手だけが妙に近く見える。話していることは、年末進行がどうだったとか、ケンの買い込みが多すぎたとか、そんな軽いものばかりだった。けれど言葉の切れ目に落ちる沈黙だけは、いつもより長かった。
食事を終えて店を出ると、夜気はもう骨の近くまで冷えていた。息を吐けば白く、遠くの住宅街ではテレビの音や年越し番組の笑い声が、閉じた窓越しに小さく漏れてくる。喧騒を抜け、ランの住む方角へ向かって歩くうち、歩幅が自然に揃う。別れ道の手前まで来たところで、ランが立ち止まった。
「……もうちょっと、いていい?」
それは問いかけというより、ほとんど答えの決まった言葉だった。マナセは一瞬だけランの顔を見る。街灯の白い光の下で、ランの横顔はいつもより大人びて見えた。冗談にして逸らすこともできたはずだ。けれど、もうそういう夜ではないのだと二人とも分かっていた。
ランの部屋は、彼女らしい静かな雑多さで整っていた。棚の上では飾りと本と古いフィギュアが肩を寄せ合っている。暖房を入れたばかりの空気はまだ少し冷たく、カーテンの向こうでは遠くの除夜の準備の音が、ごくかすかに町へ滲んでいた。テレビをつけてもよかったし、年越し蕎麦の残りを温めてもよかった。けれど二人とも、何かを挟んでしまうと、この夜だけは元に戻ってしまう気がした。
マナセがソファの端に座る。ランがその隣へ来る。その距離はいつもより少し近かったが、不自然ではなかった。
言わなくても伝わることがある。だからこそ、今まで言わずに済ませていたことがある。
「来年になったら落ち着くかな」
ランが小さく言った。
マナセは少し笑った。
「ならない気がする」
「だよね」
そのやり取りが可笑しくて、でも可笑しいだけではなくて、次の沈黙が前よりやわらかく落ちる。ランの指先が、ソファの布の上を少しだけ迷って、それからマナセの手の甲に触れた。軽い。なのに、その軽さの方が逃げられない。マナセはその手を握った。握り返す力は強すぎず、弱すぎず、ちょうどこの夜を確かめるくらいだった。
大きな告白はなかった。好きだとか、付き合うとか、そういう言葉を並べるには夜が静かすぎた。言葉より先に温度が決まってしまった。触れた手、近づく肩、視線を外さなくなった時間。その積み重ねだけで、もう互いを後回しにしないと決めたことが分かる。年越しの数分前、ランがそっと額を寄せる。マナセがそれを受け止める。窓の外で遠く拍手のような音が上がり、どこかの寺の鐘が遅れて町へ届いた。
元日の朝、部屋の中の光は驚くほど薄く、静かだった。カーテンの隙間から差し込む初日の白さが、机の上のカップや脱ぎ捨てた上着の端にだけ触れている。 ランは毛布の中で目を開け、すぐ隣にいるマナセの寝息を聞いた。その距離に驚きはなかった。ただ、もう以前と同じ場所へは戻らないのだと、静かに分かる。誰にも宣言しなくても、それで十分だった。
外は平穏で、新しい年は何事もない様に始まっている。けれど二人とも、その平穏が長く続くとは思っていなかった。だからこそ、この夜を先延ばしにしなかったことだけが残った。
*
大晦日の午後、サキの端末が静かに震えた。
件名は簡潔だった。五郎とヘイズの連名。本文も余計な言葉を削ぎ落としていて、その乾いた白さがかえって嫌だった。KS1の観測値再整理。ISS由来案の工学検討進捗。地上試験と国際調整の前倒し。時間が足りないことだけが、行間より先に見えてくる。
今見えている数百m級相当の脅威が、そこで止まらないかもしれない。そんな線だけが、まだ誰にも渡せないまま二人へ来ていた。
短いリモート会議の画面で、五郎はいつもより余白のない顔をしていた。ヘイズは英語のまま淡々と説明し、数字と条件だけを机の上へ置く。
誰も「人類滅亡」などという言葉は使わない。けれど使わないからこそ、サキの頭の中ではそこまでの線が勝手に繋がってしまう。最悪値を理性で理解できる人間は、理解できてしまうぶんだけ逃げ場がない。
会議が終わってしばらくしてから、フクハラが「初詣、去年の続きってことでどうですか」と軽い調子で言った。
横浜まで出て、少し歩いて、鶴岡八幡宮へ。誰が聞いても自然で、何なら去年の韻を踏んでいるだけにも見える。サキは数秒遅れて頷いた。断る理由がなかった。正確に言えば、断ると自分が今どれほどその情報に押されているかが露骨になる気がした。
横浜の街は、年越し前特有の明るさに包まれていた。店先の正月飾り、駅前の人波、海から来る冷たい風。どこを見ても普通の年末だ。フクハラは途中で紙袋を提げた人たちの流れを避けながら、「みんな年越しに全力ですね」と笑う。
その言い方が軽すぎて、サキは少しだけ救われる。軽いのではない。壊れないように、わざと軽く言っている。そういう言葉の使い方をする人間だと、もう分かっていた。
鶴岡八幡宮へ向かう道は混んでいた。参道には屋台の湯気が上がり、甘酒の匂いが冷気に混じる。遠くで子どもが笑い、誰かが写真を撮るシャッター音が続く。そんな人の多さの真ん中で、サキだけがひどく遠い場所に立っている気がした。
自分の頭の中にある最悪値を、周囲の誰も知らないまま笑っている。その差だけが胸の奥をふらつかせた。
「顔、固いですよ」
フクハラが横を向かずに言った。
「固くなります」
「でしょうね」
そこで彼は少しだけ間を置く。
「でも、固くなったままで歩ける人の方が珍しいです」
慰めではない。まして軽視でもない。サキはそれで少しだけ息を戻す。参道を外れた脇道へ出ると、人の気配が少し薄くなった。街灯の光は白く、冬の夜気は乾いている。遠くの喧騒が一枚向こうへ退いたように聞こえた。
「……本当に来るかもしれない、と思ってます」
サキは自分の声が思ったより平坦なことに驚いた。
「等価数級的増大で止まらないなら、理屈の上では。地上も、宇宙も、全部」
そこで言葉が切れる。続きを言えば、自分でその最悪値を確定してしまいそうだった。
フクハラは否定しなかった。
「ええ」
ただそれだけ言う。
「だから今は、まだ他の人に渡せない重さを、こっちで持ってるんでしょう」
サキはその言葉を聞いて、ようやく自分が一人で抱えていたわけではないのだと少し遅れて気づいた。理解している人間が他にいる。しかもその重さを、壊れない形で持とうとしている。胸の奥の張りつめた糸が、そこで初めてほんのわずかに緩んだ。
気づけばサキは、自分から半歩だけフクハラへ寄っていた。彼も大げさには反応しない。ただ自然に、そこへいることを許すように立つ。
参道の外れ、遠いざわめきと冬の匂いの中で、サキはその肩へ額を預ける代わりに、顔を上げた。フクハラも少しだけ身を屈める。
キスは短かった。
確認のようでいて、逃げではなかった。
その先へ進む夜ではないことを、二人とも分かっている。ただ、世界の終わりの話を一緒に持てる相手がここにいる、その事実だけで十分だった。
しばらくして参道の喧騒へ戻ると、屋台の灯りも、列を作る人の背中も、さっきまでと同じだった。何も変わっていないように見える。けれどサキの歩幅は、さっきより少しだけ自然にフクハラと揃っていた。
それでも最悪値は消えていない。よりはっきりした輪郭のまま、二人のあいだへ置かれている。だがもう、それを一人で持つ必要だけはなかった。
*
成人の日の連休、東京国際フォーラムのガラス壁は冬の光を薄く跳ね返していた。
昨春、神保町の小ぢんまりしたミニシアターで行われた発表会とは、もう空気そのものが違う。
広いロビーには取材陣の列ができ、テレビ局のカメラが赤いランプを点けたまま待機し、スポンサーであるYAHOの名が入ったパネルの前では関係者たちが忙しなく頭を下げている。人の声、照明の熱、機材の金属音、コーヒーの匂い。どれも晴れやかで、どれもどこか過剰だった。
『魔法少女サイファル*エリカ』映画版の仕切り直し発表会は、もう一作の発表というより、“栗原アンナ”という名前に社会が期待を重ねる儀式になっていた。
歓迎の空気は分かりやすかった。製作委員会も、テレビ局も、映画会社も、以前の延期への苛立ちは無かったことの様になっている。アンナがいまや国民的な顔になりつつあるからだ。延期は英断、修正は完成度向上、再始動は待望――言い換えだけが上手くなる。
取材列の奥には、野田の姿もあった。記者証を下げたまま、以前と同じ無遠慮さではなく、もう少し深いところを見ようとする目で会場全体を眺めている。
舞台裏の控室は、表の熱気より少しだけ静かだった。ドア一枚隔てただけで、歓声も拍手も柔らかく遠のく。アンナは控室のソファ脇で、ようやく一息ついたみたいに肩を落とした。衣装の袖口を整えながら、前に立つための顔を崩さないようにしている。その向かいに上青石がいた。以前と変わらず、少しだけ人を食ったような、けれどこちらの痛いところを先に見ている顔で。
「……ありがとうございました」
アンナが先に言った。
「映画、ちゃんと私の描きたかったものに戻してもらった。あのままだったら、多分ずっと嫌だったと思います」
それがスポンサー筋への働きかけであり、製作延期の裏の尽力であり、上青石が見えないところで動いていたことを、アンナは全部は言わない。言わなくても分かる相手に向けた礼だった。
けれど上青石は、その礼に正面から答えなかった。口元だけで少し笑って、代わりに別の方向から切り込む。
「で、アンタは誰のために描いてるの?」
控室の空気が、そこでほんの少しだけ変わった。
アンナはすぐには返せない。
映画はたしかに、自分の描きたかったものへ戻った。けれどそれで全部が解決したわけではない。
今、社会が求めているのは作品そのものだけじゃない。アンナ自身も知らないうちに、守護神みたいに近づけられている。
「好きだから描いてきたつもりです」
アンナは少し考えてから言う。
「でも今は、それだけじゃ足りない風に受け取られる。……社会のためにって、勝手に乗せられてる気もする」
上青石は頷きもしない。否定もしない。
「じゃあ、社会の為なら描くの? 描きたいものが違っても?」
アンナは黙る。
「逆に、描きたいものを描いた結果、誰かが救われるなら、それでいいの?」
「……分からないです」
それが一番正確な答えだった。
少し離れたところで、そのやりとりを聞いていたキズナは、壁際に立ったまま息を詰めていた。アンナに起きていることは、未来の自分にも起こりうる。キズナはそれを言葉にできない。ただ、逃げ場のない問いだけが静かに残った。
上青石は二人を導くようなことは言わない。ただ、言葉にしてしまえば戻れなくなる問いだけを置いた。
「好きだから描くのか、描いた結果、守れるものがあるのか。たぶん順番は人によって違うのよ」
少し間を置いてから、上青石は肩をすくめた。
「でも、どっちも無いと、たぶん最後までは描けない」
控室の外で拍手が起きた。司会の声が次の登壇者を呼んでいる。社会の側では、この映画もアンナも、もう歓迎の熱の中へ組み込まれている。盛り上がりは本物だ。期待も、本物なのだろう。だからこそ厄介だった。
アンナは答えを得ない。キズナも得ない。
それでも、二人とも問いから逃げられなくなったことだけは分かる。
控室を出る直前、キズナはガラス越しのロビーから視線を外せない。報道の光、笑顔、拍手、期待。
世界は何か大きな物語の始まりを見せているようだった。けれどその熱気の外側で、個人の中には迷いが残ったままだ。
もはや、個人の問題だけでは済まないのかもしれない。
それでも、何かの始まりがもっと小さな場所にあることだけは、まだ消えていなかった。その感触だけを残して、控室のドアが開いた。
今回は、終末の影が少しずつ近づく中で、それでも人が「誰と時間を過ごしたいのか」「何を抱えたまま年を越すのか」を描いた回です。
第四章の中でも、感情線を大きく担う一話になりました。
アツとサチハ、マナセとラン、フクハラとサキ。
それぞれの距離の変化を描きつつ、後半ではアンナ・キズナ・上青石のラインを通して、「何のために描くのか」という問いにも触れています。
大きな事件が前に出る回ではありませんが、次章へ向かう前に必要な「選択」の夜として書きました。
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よろしくお願いいたします。




