第76話 異界事変⑤
医者から依頼を受けて二日が経過した。
俺は鍛錬として、精神統一を行っている。
誰も近寄らない樹海の奥にて哭いて、湖の上で微塵も動かずに立ち続ける。
僅かな揺らぎが波紋を広げるので、それを出さないようにする。
俺はただひたすら集中する。
己の強さを信じ、この身に浸透させていった。
妄者の根幹は精神力にある。
心が弱まると能力も衰えていく。
逆に言えば、確固たる心を持つことで、それを膨大な力を変換できる。
妄者の能力という観点で考えた場合、俺はとても地味で弱い。
近接特化で特殊な力を持たず、指の刃で切り裂くのが基本戦法だった。
影の身体は物理攻撃をすり抜けることができるが、魔術や妄者の攻撃は普通に当たる。
そもそも他の妄者だって常人の攻撃が効かない。
したがって優位な点として挙げられるほどではなかった。
哭き崩しも基本技術の延長だ。
極東で戦った道化師のように、特殊な応用ができるわけでもない。
練習次第では、他の妄者が模倣できる程度だった。
そんな俺が"虐殺"の二つ名を得て最強の一角とされるのは、精神力の強さが要因である。
折れない心が身体能力をどこまでも引き上げてくれる。
不当の信念があるからこそ、脆いはずの影の身体は強靭な不死性を獲得した。
すべては精神によるものだ。
半ば浮遊に等しい姿勢で湖に立っていると、上空に強烈な殺気が膨れた。
妄者ではない。
視線をずらすと、赤い竜が滞空していた。
おそらくこの樹海を縄張りにする個体だろう。
俺の存在に気付いて排除しに来たらしい。
竜は上空から炎を吐いてきた。
俺は無音で跳ぶと、指の刃で炎を両断する。
熱風に煽られながら竜の鼻先に接近し、頭部に向けて片手を振り下ろした。
無駄なく放った一撃は、次の瞬間には竜の頭部を縦に割っていた。
即死した竜は傾いて墜落する。
樹海の一部を薙ぎ倒しながら地面に衝突した。
俺も重力に引かれて落ちて、竜の死体に着地する。
そして自分の両手を見た。
(――悪くないな)
作戦決行は明日だ。
調子は万全と言えよう。
一朝一夕で強くなれるものではない。
こうして整えるのが最適だった。
付け焼き刃の技など、咄嗟の場面で役立つものではない。
信じられるのは、長年に渡って培ってきた力だけだ。
俺にとってはこれがすべてなのだ。
"虐殺"の妄者ハワード・レントの存在は、闘争と勝利に集約されている。
それを十全に発揮すれば、たとえ"終焉"の妄者でも屠ることができる。
確信することで、確率が発生するのだ。
精神統一を終えた俺はロド商会への帰路に着いた。




