プロローグ
日本で極端な軍拡が行われ始めたのは第二次世界大戦終結から30年ほど経った1970年代である。
きっかけは1950年代後半だった。
第二次世界大戦が終わり連合軍による統治が終了した当時、敗戦国として軍を解体されていた日本は対外的な防衛力としての「保安隊」を新設し、GHQが残していった在日米軍と共に日本の自衛力として機能していた。しかし、特殊な状況で創られた保安隊には日本を守る為の規模や装備、資金が到底足りておらず、単独での防衛どころか国防任務の殆どを絶大な戦力を有する在日米軍に頼らざるを得ない状況になっていた。
そんな状態の部隊は必要あるのか、国内でそう言われ始めるのに時間は掛からず、世論は保安隊は不要という意見が多数を占める事態になってしまった。
そこで浮上したのは、在日米軍を完全に撤退させた上で十分な力を持った軍を所有するという案であった。当然アメリカを中心とする西側諸国は難色を示したが、少し前では敵だった米軍が日本を守るということに日本国民はいい顔をしてなかった。
朝鮮戦争休戦直後で東アジアへの牽制の為にも在日米軍を必要とし、更には軍国主義日本の復活を危惧していたアメリカから強い圧力が掛かるものの、ソ連、中国等共産圏の力も活用して、結果的に在日外国軍の駐屯を認めない意思と日本の再軍備を明記した「日本国の平和と独立並びに国民の安全の確保と国土の防衛に関する法律(通称:国防法)」と日米間での軍事的衝突を禁止する旨と有事の際のみ協力するとだけ書かれた「日本国とアメリカ合衆国においての相互援助条約(通称:日米軍事条約)」が1960年(昭和35年)に成立した。
こうして戦後処理が終わり落ち着いた、と誰もが思ったが、戦後日本の壮絶な歴史はそれだけでは終わらなかった。
誰が気付いたのか、新安保条約を成立前に間に合わせようと急いで作られたこの法律はあいまいな部分が多かったのだ。
国防法成立から8年後の1968年、政権交代によって与党になった憲民党はそれを衝き前代未聞の拡大解釈を行い、日本は再び軍拡という選択をした。
本格的な軍、そういっても再軍備した当初の新制日本軍は『他国に頼らず自力で敵の攻撃を食い止め、国民に被害が及ばないようにする』を目的とした所謂『専守防衛』であり、自衛に必要な最低限レベルの航空機や艦艇の配備、レーダー施設の増設などだけにとどまっていた。
だが、憲民党は自国の防衛のためと謳った拡大解釈によって防衛費は倍増させ、さらには国防法の改正までも行って兵器開発費用を捻出し敵地の拠点を攻撃、占拠まで可能とする兵器も配備しやすくするなど、当初の目的であった国土防衛とはかけ離れた兵器まで持つことを許してしまったのだ。
当初は自国の力で国防を目指してた筈が、結果的に独自で強大な戦力を持ち威圧を掛けることで他国からの攻撃や侵略を未然に防ぐ、という形になったのである。
そして、国防法と日米軍事条約の成立から46年の時が過ぎた2016年
そこに当時の政府の描いていた日本の姿は無かった———