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第5話 ――妖気の流れ

朝靄の残る神城山。


蒼牙が道場の掃除を終え、木刀を握ろうとした時だった。


「蒼牙、新たな修行よ」


白玄が静かに声を掛ける。


「今日は森へ入るわ」


「妖魔が出るかもしれないから、木刀は持ってきなさい」


「分かった」


桜も駆け寄ってくる。


「今日はどんな修行?」


白玄は森の奥へ目を向けた。


「今日から始める修行は、妖気を感じる修行よ」


「妖気を感じる?」


蒼牙が聞き返す。


「そう。でも、いきなり妖気を探すわけではないわ」


三人は森の奥へと歩いていった。


しばらく進むと、目の前に大きな岩が現れた。


道場の屋根までありそうなほどの大きな岩だった。


「着いたわ。今日の修行はここで行うわよ」


蒼牙は白玄を見る。


「この辺りは神城山の神域に近いの」


「龍脈も通っているから、霊気が濃い場所よ」


白玄は岩の前に座った。


「蒼牙。あなたはもう、練気を扱えるでしょう?」


「玄真との修行で、神城流の技も使えるようになった」


「うん」


「なら、まず自分の中にある練気を感じなさい」


蒼牙は目を閉じる。


身体の中にある力へ意識を向ける。


剣を振る時。

走る時。

戦う時。

自然と使っていた練気。


今まで意識せずとも使えていた力だった。


「感じられた?」


「うん」


「それを、今度は練らない」


「……練らない?」


「そう」


白玄は頷く。


「今までは、練気を練ることで力を引き出してきたでしょう?」


「でも、今度はその逆よ」


「力を抜いて、練気を練らない」


蒼牙は言われた通り、身体の力を抜いた。


だが、うまくいかない。


練気を使わないように意識すると、逆に身体へ力が入ってしまう。


「難しい……」


「当然よ」


白玄は微笑む。


「あなたは今まで、力を使うことを覚えてきたもの」


「でも、力を使わないことも大切なの」


「練気を使わない?」


「正確には、練気を練らない状態を作るの」


「身体の中にある練気を、少しずつ落としていく」


白玄は蒼牙を見る。


「最後には、練気をほとんどゼロの状態まで持っていくのよ」


蒼牙は再び目を閉じた。


力を抜く。


呼吸を整える。


練気を練らない。


ただ自然に座る。


最初は何度も失敗した。


少しでも力が入れば、また最初からやり直す。


それでも蒼牙は続けた。


一日。

二日。

一週間。

何度も繰り返した。


やがて――


季節が一つ変わる頃。


蒼牙はようやく、身体の中の練気を限りなく0に近づけられるようになった。


白玄が静かに声を掛ける。


「だいぶ自然体でいられるようになったわね」


蒼牙は頷いた。


「うん」


「でも、まだ次がある」


白玄は続けた。


「今度は、周りの霊気を感じなさい」


蒼牙は目を閉じる。


森には、目には見えない何かが満ちていた。


「これが……霊気?」


「そう」


白玄は頷く。


「感じるだけでは足りないわ」


「今度は、その霊気を少しずつ自分の中へ取り込むの」


「取り込む……?」


「ええ」


「練気を練るのではないわ」


「周りの霊気を感じて、自然に身体へ取り込むの」


蒼牙は静かに目を閉じた。


森の霊気を感じる。


風。

木々。

土。

水。


それらに満ちた霊気が、少しずつ身体へ入ってくる。


それでも、練気は練らない。


ただ自然体でいる。


自分の力を無理に引き出すことなく、周囲の霊気を感じながら過ごす。


その時だった。


「……?」


背後から、小さな気配を感じた。


蒼牙は目を開けなかった。


森の霊気とは違う。


何かが動いている。


けれど、敵意はない。


「……誰かいる?」


気配が少しずつ近づいてくる。


そして――


「桜?」


蒼牙は目を開いた。


「わぁ! 気づいてたの?」


桜は目をまんまると開け、驚いた。


蒼牙はその桜の姿に微笑みながら言った。


「何となく……桜の妖気を感じた」


「私の妖気?」


「ああ」


蒼牙は周囲を見渡した。


そこで初めて気づいた。


森に満ちる霊気。


その中に混じる、桜の妖気。


今までなら、気づくことのできなかった気配だった。


「……これが、妖気」


白玄が静かに微笑む。


「そうよ」


「今のお前は、練気をほとんど使わず、周囲の霊気を感じていた」


「だから、その中にある違う気配に気づけたの」


蒼牙は桜を見る。


「……妖気を探したから見つけたんじゃない」


「そうよ」


白玄は頷いた。


「周りの霊気を感じていたから、その中にある違いが分かったの」


蒼牙は静かに頷いた。


それからも修行は続いた。


季節が巡る。


夏

蝉の声が森を包んでいた。


蒼牙は森を歩いていた。


その日の夕食になる獲物を探していた。


その時だった。


ふと、足を止める。


「……何かいる」


以前なら、何も感じなかった。


だが今は違う。


遠くから、何かが近づいてくる。


「こっち……」


蒼牙が森の奥を見て木刀を構える。


茂みが揺れた。


猪妖が一匹、姿を現した。


蒼牙は次の動きに備え、一歩足を引いた。


猪妖が地面を蹴る。


蒼牙は横へ避け、その突進をかわした。


一閃。


乾いた音が森に響く。


木刀が猪妖の頭部を打つ。

猪妖が倒れる。

蒼牙は息を整えた。

白玄は蒼牙に尋ねた。


「今、何を感じた?」


「何かが、こっちへ向かってきていると分かった」


蒼牙は猪妖が消えた森を見る。


「前なら、気づくこともできなかった」


白玄は頷いた。


「それでいいわ」


「まずは、存在を感じること」


「その次に、近づいてくるものが、どんな意思を持っているのかを感じる」


蒼牙は頷いた。


「分かった」


秋

木々の葉が赤や黄色へ変わっていた。


森の中を歩いていると、蒼牙は突然立ち止まった。


「……いる」


遠くから強い妖気を感じる。


夏とは違う。


鋭い。

荒々しい。


蒼牙は木刀へ手を掛けた。


だが、すぐには抜かなかった。


じっと気配を探る。


「……怒ってる」


白玄が振り返る。


「何故そう思ったの?」


「分からない」


「でも……近づくなって感じがする」


木々の向こうから、大きな熊妖が姿を現した。


こちらを睨んでいる。


牙を見せている。


だが、近づいてはこない。


蒼牙は少しずつ後ろへ下がった。


熊妖もそれ以上追ってこない。


やがて蒼牙たちは森の外へ出た。


「戦わなかったのね」


白玄が言った。


蒼牙は頷く。


「俺たちを嫌がってた」


「でも、追ってはこなかった」


「だから離れればいいと思った」


白玄は小さく頷いた。


「少し分かってきたわね」


蒼牙は振り返った。


熊妖の気配は、もう遠ざかっていた。


冬

神城山は雪に覆われていた。


蒼牙と白玄、桜は雪の森を歩いていた。


蒼牙が突然足を止める。


「……待って」


桜が振り返る。


「どうしたの?」


蒼牙は目を閉じた。


遠くから、いくつもの妖気が動いている。


「いる」

「何が?」

「狼妖……」


白玄は何も言わない。


蒼牙は気配を探った。


近づいてくる。


だが、自分たちへ向かっているわけではない。


「……違う」


「俺たちを探してるんじゃない」


桜が首を傾げる。


「じゃあ何してるの?」


蒼牙はしばらく黙っていた。


そして、


「あっちに獲物がいる」


と答えた。


遠くで狼妖の群れが雪を駆けていく。


蒼牙たちは風下へ移動し、木の陰へ身を隠した。


狼妖は三人に気づかない。


そのまま森の奥へ消えていった。


桜が小さく息を吐く。


「行っちゃった」


蒼牙は頷いた。


「うん」


白玄が尋ねる。


「戦わなかったのね」


「戦う必要がなかったから」


蒼牙は狼妖が消えた方向を見る。


「狼妖も厳しい冬を生きるために狩りをしている」


「俺たちを狙ってなかった」


白玄は静かに頷いた。


「妖気を感じるだけではない」


「その気配が何をしようとしているのか」


「そこまで感じられるようになったのね」


蒼牙は少しだけ嬉しそうに頷いた。


春


そして春。


雪が溶け、神城山に新しい命が戻ってきた。


修行を始めて、一年近くが過ぎていた。


蒼牙は森の中を歩いていた。


木々を見る。

風を感じる。

そして――

妖気を感じる。


「……いる」


その瞬間。


上空から何かが落ちてきた。


「!」


蒼牙は振り返った。


鋭い爪。


大型の妖鳥、飛牙鳥が急降下してくる。


木刀を抜く。


一閃。


乾いた音が森に響いた。


飛牙鳥は大きく軌道を逸らし、そのまま木々の向こうへ飛び去っていった。


蒼牙は木刀を下ろした。


「……今のは」


白玄が静かに頷く。


「妖気を感じたから、攻撃に備えた」


「はい」


「今のあなたには、それができる」


蒼牙は頷いた。


だが――


その直後だった。


「……あれ?」


森の奥から、別の妖気を感じた。


弱い。

苦しんでいるような気配。


蒼牙は歩き出す。


「待って」


白玄が声を掛ける。


「今度は何?」


蒼牙はしばらく黙っていた。


「……分からない」


「でも、さっきの飛牙鳥とは違う」


三人は森の奥へ進んだ。


やがて、茂みの中に小さな影が見えた。


幼い猪妖だった。


足へ蔦が絡まり、動けなくなっている。


必死にもがいているが、力が残っていない。


蒼牙は木刀へ手を掛けた。


だが、抜かなかった。


妖気を感じる。


そこにあるのは殺気ではない。


恐怖。

苦しみ。

助けを求めるような気配。


「……敵じゃない」


蒼牙はゆっくり近づいた。


蔦をほどいてやる。


猪妖は驚いたように蒼牙を見つめる。


そして、森の奥から別の妖気が近づいてきた。


蒼牙は立ち上がる。


一瞬、木刀へ手を掛ける。


だが――


「……待って」


白玄が言った。


蒼牙は目を閉じた。


感じる。


近づいてくる妖気。


強い。


けれど、敵意はない。


焦り。


そして――


心配。


「……親だ」


やがて、木々の間から大きな猪妖が姿を現した。


幼い猪妖を見る。


駆け寄る。


親子は鼻を寄せ合った。


蒼牙は木刀から手を離した。


親猪妖は蒼牙を一度だけ見た。


しばらくすると、子供を連れて森の奥へ消えていった。


桜が嬉しそうに笑う。


「帰っていったね」


「ああ」


蒼牙は二頭の消えた森を見つめた。


白玄が静かに尋ねる。


「今、何を感じた?」


蒼牙は少し考えた。


「……この子を守ろうとしてた」


白玄は頷いた。


「そう」


「それが妖気の向こうにあるものよ」


蒼牙は森を見渡した。


一年間。


妖気を感じる修行を続けてきた。


最初は何も分からなかった。


やがて存在に気づくようになった。


方向が分かるようになった。


敵意を感じるようになった。


そして今――


その気配の向こうにある意思まで、少しずつ感じられるようになった。


白玄が静かに言う。


「妖気を感じるのは、敵を探すためではないわ」


蒼牙は黙って聞いている。


「敵意なのか」

「恐れなのか」

「苦しみなのか」

「それとも、誰かを守ろうとしているのか」


白玄は森を見つめた。


「それを見極めて、自分で決めるの」


蒼牙は深く頷いた。


「はい」


春風が神城山を吹き抜ける。


木々が揺れる。


鳥が飛ぶ。


遠くで、猪妖の親子が森の奥へ消えていく気配がした。


蒼牙はその気配を感じながら、静かに木刀へ手を添えた。


剣を抜くのか。

抜かないのか。

それを決めるのは、自分自身だ。


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