アルーナ号の出航
そして翌朝――淡い朝靄が港を包むなか、アルーナ号はいよいよ出航の刻を迎えていた。
水平線の向こうから差し込む朝日が、船体の白と黒の流線をやさしく照らす。
帆はすでに張られ、木材は静かに軋みながら、海へ向かう準備を整えていた。
船着き場には、ポルタの住人たちが隙間なく集まっている。
漁師、職人、商人、子どもたち――
半年間、ルーナたちと共に笑い、働き、冬を越えた人々だった。
「ルーナの嬢ちゃん! 無事に帰ってこいよ!」
「俺たちの船だ! 絶対に沈めるんじゃねぇぞ!」
威勢のいい造船職人たちの声が、朝の空気を震わせる。
ルーナは胸に手を当て、笑顔で大きく手を振った。
「ありがとう! 必ず帰ってくるわ!」
その声には、もう迷いはなかった。
次に前へ進み出たのは、マグロ一本釣り亭の女将だった。
少し赤くなった目で、エルザとティノを見つめている。
「エルザ……ティノ……。あんたたちが、こんな遠い海に出るなんてね……」
「かーちゃん……」
「女将さん……」
二人が言葉を詰まらせた瞬間、女将は迷いなく抱き寄せた。
「――でもね。あんたたちの夢が叶うのは、母さん、誇らしいよ」
ぎゅっと、力強く。
「行ってきな。そして必ず、元気な顔で帰ってくるんだよ。あんたたちは……家族なんだからさ」
「かーちゃん……! もちろん! 絶対、元気で帰ってくるのさ!」
「オレも……必ず……!」
二人の声は震えていたが、確かだった。
女将はそのままルーナの前に立つ。
「ルーナちゃん。この半年間、あの子たちを守ってくれてありがとう。……これからも、頼んだよ」
「ええ。任せて」
ルーナは一瞬、胸の奥に重みを感じる。
(家族の命を預かる――それが、旅立つ者の責任)
だが彼女は一歩前へ出て、胸を張った。
「必ず、全員連れて帰ってくるわ」
その姿を見て、ナミが静かにハンカチを目元に当てる。
「お嬢様……。本当に、この半年で立派になられました。専属メイドとして、感無量でございます」
「もう、ナミったら……大げさなんだから」
照れ隠しの言葉に、港から小さな笑いがこぼれた。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
そして――ゆっくりと歩み出てきたのは、伝説の漁師ザップドスだった。
「いよいよ、セレーネブルーを目指すのじゃな……。今は亡き仲間たちの意志も、確かに託したぞ」
差し出された、年季の入った拳。
「幸運を祈る」
「……はい。確かに、受け取りました」
ルーナは拳を突き出し、コツン、と音を立てて応える。
それは誓いだった。
その瞬間――海面が大きく盛り上がる。
『それじゃあ――行こーっ!』
アルスが朝日にきらめきながら大きく跳ね、港を沸かせた。
「ふふ……ええ、行きましょう」
ルーナは振り返り、町を見渡す。
「ポルタのみんな――わたしたち、行ってきます!」
「行ってこいーっ!」
「帰りを待ってるぞー!」
「アルーナ号、万歳!!」
歓声と拍手、そして汽笛。
帆が風を受け、アルーナ号はゆっくりと岸を離れていく。
町と海の境界線が、少しずつ遠ざかっていく。
ルーナは最後まで手を振り続けた。
(必ず帰る。この町に、ただいまって言うために)
その想いを胸に――アルーナ号は、未知なる海へと進み出した。
ルーナたちの海の旅が、今――静かに、そして確かに、幕を開けた。
港を離れたアルーナ号の甲板で、ルーナは晴れ渡る春の空を見上げていた。
「……これが、海から見る青空なのね」
見上げた空はどこまでも高く、澄み切っている。
陸で見ていた空と同じはずなのに、海の上ではどこか違って見えた。
胸いっぱいに潮の香りを吸い込むルーナに、舵を取るナミが穏やかに声をかける。
「左様でございますね。……船旅は去年の誕生クルーズ以来ですが、いかがでしょう?」
「最高の気分だわ! やっぱりわたし、海が好き!」
ルーナは甲板の上で両腕を広げ、くるりと一回転する。
その動きひとつひとつから、抑えきれない喜びがあふれていた。
その様子を見て、ナミも小さく微笑む。
「お嬢様は昔から海を愛しておられましたからね。……この一年で、その想いはさらに強くなられたように見えます」
「それも……そうね」
意味ありげなナミの眼差しに、ルーナは少しだけ照れたように笑った。
(ナミは……わたしに前世の記憶があること、まだ知らないのよね)
――いつかは話すべきなのだろうか。
そう考えかけた、そのときだった。
「ルーナ~!」
背後から勢いよく抱きついてきたのは、エルザである。
「ちょっ、エルザ!?」
背中に押し付けられた柔らかな胸の感触に、ルーナは思わず変な声を上げた。
「やっぱりルーナ、すっごく嬉しそうなのさ!」
「ふふ、分かる? わたし、本当に海が好きなの」
「海か~。あたしは港から眺めるだけだったからさ、こんなに大きいなんて思わなかったのさ!」
屈託なく笑うエルザに、ルーナもつられてくすりと微笑む。
その後、ルーナは船首近くで潮の流れを観察しているティノのもとへ歩み寄った。
「ティ~ノくんっ」
「わっ!? ルーナさん!?」
突然の声に、ティノの小さな獣耳がぴくんと跳ねる。
「どう? 今のところ、異常はなさそうかしら?」
「……ああ。風も潮も、今は安定してるよ」
「それは良かったわ。頼りにしてるわね、ティノくん」
「お、おう……」
にこりと微笑みながらウインクを送るルーナに、ティノは思わず頬を赤く染める。
「ははっ、ルーナも罪な女なのさ」
「……え? どういう意味?」
「なんでもないのさ~!」
意味深に笑って誤魔化すエルザに、ルーナは首をかしげる。
そのとき、船の横を並走していたアルスの曲がった背びれが、水面から姿を現した。
「アルス~!」
『ルーナ~! この辺り、おいしそうなお魚がいーっぱいだよ! 捕ってきてもいい?』
「ええ、どうぞ。あなたは海でこそ自由なんだもの」
『わ~い! ぼく自由だ!』
歓声とともに、アルスの巨体が高く跳ね上がり――次の瞬間、盛大な水しぶきを上げて海へと戻る。
「ひゃっ!?」
突然の水音に驚いたティノが、思わずルーナに抱きついた。
「だ、大丈夫よ、ティノくん」
ルーナはそう言って、優しく彼の頭を撫でる。
「怖がることはないわ」
「うぅ……これは、まだ慣れないな……」
その様子は、まるで本当の姉と弟のようで。
甲板の後方からその光景を見守っていたナミは、誰にも気づかれないように、そっと微笑みを浮かべた。




