第28章 簪 花の女師範
「そろそろ刃に掘ってみるか」
刀の彫刻の修行中、先生がそう言ってきた。
最近は硬い木や鉄の板に自由に刻めるようになってきたので、確かにそろそろ刃への彫刻もする頃合いなのだろう。
俺が分かったと言うと、先生は早速俺の前に焼入れ前の刀を持ってきた。
刀身への彫刻は玉鋼を刀の形にした後にやすりがけをしてさらに形を整える”荒仕上げ”の工程と刃を硬くする工程の”焼き入れ”の工程の間に行うんだ。
荒仕上げの時の刀はまだ柔らかく、ここで掘らねば鏨の刃が折れてしまう。
今回は先生からの課題の梵字を刻む。
不動明王の梵字だ。多くの刀に掘られる梵字であり、その表記にも種類が多い。
先生からは浮彫をするように言われている…のだが、それを聞いた俺は口元がひきつった。
何故なら、浮彫は一言でいえば、めちゃくちゃ難しいのだ。
そもそも彫刻をするには鏨という道具を小槌で細かく叩き、刃先だけで彫り込んでいくのだけども、この浮彫という彫刻の方法は今回の場合だと梵字を刃に浮き上がらせるために文字の周りだけを掘る…文字以外を掘る、つまり削る面積が広いので長いこと打ち続ける筋力と集中力でやり続けるものである。
そして、一発勝負なためにもし字の部分にずれようものなら…一からのやり直しなのだ。
そのため、「じゃあそろそろ実践してみるかぁ」でやるものではなく、初っ端から挑戦するものじゃない。
確かに俺も文字の掘りくらいならできると言ったが、他の掘り方も勿論やる気ではいたが……まさか一発目に実践でやれと言われるとは思わなかったのだ。
「先生、初手で浮彫はひどいです…」
「やることになるんだからやっておけ」
「ひぃん…」
「泣き言を言うんじゃねぇ、下書きはしてあるからさっさと始めろ」
えーん、と泣き真似をしつつも先生の指示通りまずは先生が下書きした字の縁に鏨の先を当てる俺なのであった…。
わざとらしく泣き真似をしている宗助を横目に多田羅は、宗助の手元を見ていた。
小槌で鏨を叩いて少しずつ掘っていく宗助の手付きを見て、相変わらず覚えが早いと感心する多田羅の目に、宗助の後ろから覗き込む筋骨隆々の黒髪の男が見えた。
二本の牙を生やして、長い黒髪を後ろに流しており、条帛と裙を身に纏った男は宗助により掘られていく梵字に目を輝かせている。
宗助には見えていないこの男は、普段の御役目の時には見せぬ笑みを浮かべて宗助の頭に手を添えながら、宗助を見守っていた。
暫し時間が流れてが月が昇り夜が更ける、宗助の彫りが半分ほど出来たところで多田羅は宗助を休ませる。男は自身の手を握っては開きの動作を数度繰り返すと満面の笑みを浮かべた。
《素晴らしい!!もう力が漲ってくるぞ…!》
体の中からあふれ出る力に笑いをこらえきれずに、口から洩れたように「ふはっ!」と笑うと多田羅に目を向けた。
《タダラァ!これを仕上げて我に献上せよ!》
宗助に気付かれないように了承したと頭を下げた多田羅はやはり気に入られたかと元から献上用の刀に掘らせて正解だったと安堵した。
この男は今、宗助が掘っている梵字の仏そのもの。不動明王なのである。
仏や神は時に、人に近い姿に化けて現世に降りてくることもある。今のお姿はその現世で動くための姿であった。
しかし、仏の身である御身は現世に降りることは滅多にない。
だが、わざわざ降りてきてまで確認をしに来たのだから、かなり期待をしているようだと多田羅は見ていた。
一つ懸念があるとすれば…宗助が一度で成功するかだ。多田羅は宗助の腕を信頼している。
なので、成功はするとは考えているのだが…今回の場合は宗助が神経を集中する時間が長すぎるのだ。
本来ならば二日かけてやる作業を一人でさせているので、明日もこの集中と体力が続くかが懸念された。
今の彫刻の状態は良く、このままいけば成功と言える出来だ。だが宗助は長時間、この作業をしたことはないので、体力が持つのかと心配だったのだ。
「(俺ならば一晩でいけるが…宗助は人間だからな…無茶はさせられない)」
多田羅は宗助の体を見ながら作業をさせねばならぬのに少し歯がゆく思うも、仕方ないと首を振った。
とにかく宗助を壊させないためにも今宵は休ませた多田羅は、眠る宗助を見ていたが、手の甲に傷があるのに気づいた。
先日はなかったものだと手を持ち上げて見れば、爪でひっかかれたような傷に穢れの痕が見えて眉を顰めた。
《新しい住人が引っ掻いた、白い猫だ》
「…神鹿か、猫ってことはあの虎が見つかったのか」
《あのお方が見つけた、穢れまみれで汚かった、でも宗助が穢れを消した》
「…なるほど、宗助の加護の一つが使われたってことか…この穢れの痕は残ったものの、すぐに消えるだろうが」
多田羅はいつも宗助を迎えに行かせている鹿の話で宗助の手の甲に出来た傷の原因を知り、なんだそういうことかと安堵する。また宗助にかけられた加護で猫についていた穢れを消されたことも。
しかし、鹿は機嫌が悪そうに足踏みした。
《あの猫、宗助を引っ掻いた》
「どうどう、落ち着け…お前もお気に入りだもんなぁ」
《…狐と狸が怒った、あの方も怒ったから我は怒らない》
「そうか、あいつらは過保護だからなぁ…いや、あの村にいるやつは皆がそうか」
《この穢れの痕跡はすぐに消える、が…しばらく許さない》
鹿は先ほどまで宗助が掘っていた刀を覗き込むと天へと顔を向けて、耳をひくひくとさせる。
少しすると多田羅の方を向いて、「他のも頼む」と一言告げた。
「あぁ?まさか他の梵字も掘らせろって?」
《梵字でなくてもいいようだ。だが、お一方だとずるいと言われている》
「…やれやれ、既に別の依頼はもう受けてるってのに」
《かの天上の御方達の剣だ、一本ただら》
多田羅は小さく舌打ちすると立ち上がる。立ち上がる際に片足が地面に着くと、その足は人の足から木の義足へと変わる。
眠る宗助に音を消す術をかけるのはこれからだ、と多田羅は鹿を睨む
「お前、音を消す術をまだかけてねぇのにその名前で呼ぶなよ」
《む、すまない》
多田羅は手を軽く叩くと宗助の周りに結界を張った。
その後、右目に指を入れて繰り出すと目は木の義眼に変わり、小さな入れ物に入れた。
「ったく…じゃあ、先の依頼をさっさと片付けるか…」
器用に一本足でぴょんぴょんと家を離れて洞窟の奥に進む多田羅は大きな鍛冶場の炉の前に立つと一日火炎に当てていた鋼を取り出す。
大槌を振りかぶり、赤く眩い光を放つ鋼に振り下ろす。
打った音は凄まじく洞窟内に響くが結界の中にて眠る宗助の耳には入らない。
また鹿が傍で見守るため、結界が揺らいでも鹿がかけ直すので宗助はこの大きな音により目覚める事は無かった。
翌日、朝になり目が覚めた宗助は傍に鹿がいて驚くも、朝飯の支度で魚を焼く多田羅を慌てて手伝おうと起き上がるのだった
二日目。
宗助は引き続き、小槌を叩いて刃を掘っていく。
日が沈む前、空の色が変わり始めた頃に…宗助は掘り終えた。
「終わったー…」
「お疲れ」
ばたんと後ろに倒れた宗助に労りの声をかけながら、刃を持ち上げて様々な方向から確認する。
しっかりと掘られているか、文字の途切れや彫り残しはないかと見ると…問題なしと宗助に告げる。
多田羅からの合格を貰い、宗助はやったーと喜ぶと宗助を迎えにきたおよだの爺さんが顔を出した。
「お、どうやらいい時にきたようじゃのう」
「爺ちゃーん、やったよー…」
「おやおや、随分疲れておるのう」
「刃に彫刻を入れるのは問題ないだろう、だがちゃんと教えるからしばらくはまだここに通え」
「はーい…」
「…こいつ、今日もここに泊まらせるか」
「そうじゃの、儂が明日の朝に連れて帰るさね」
宗助はおよだの婆ちゃんは大丈夫なのかと聞けば、爺さんは恐らく泊まる事になるとは事前に伝えており、今日は他の婆様方とお泊り会しているだろうとほがらかに笑うのだった。
このお泊り会は宗助が切っ掛けだ。
年貢を納める際に報告会が行われるので、「別の村に泊まらねばならなくなったから今日は旦那がいないのよ」と井戸端会議で話していた男衆の家の奥方に宗助は「たまには旦那のいないときに女性で集まって楽しい事すればどうだ?お泊りでもお茶会でもさ」と言った。
この宗助の言葉が切っ掛けで、楚那村の女性達は旦那がいない時は家に集まり、楽しく夜を明かす習慣が生まれたのである。
このお泊り会は意外にも好評で楚那村の女性達が「この前こんなことをしたのよ」「それがもう楽しくて」と他の村の者に話し、楚那を中心にこの女性達だけのお泊り会が広まっており、既にこの件が小春姫の耳にも届いていることを宗助は知らない。
「お泊り会好きだねぇ、婆ちゃん達」
「女の話は昼間だけじゃ足りねぇってことだな」
「いい気分転換になるそうじゃよ、そういえば百合の刀を作るんじゃろ?簪は作らんのか?白百合の簪も綺麗じゃろうに」
「あ、確かに作ってないや…百合は刀に刻む事しか考えてなかったから簪も作りたいや」
宗助は思いつかなかったと素直に答えた。
どんなのしようかと考える宗助に多田羅は今は休めと頭を小突いて止めて、汗をかいているだろうから風呂に入ってこいと部屋から追い出した。
鹿が警護するように後ろをついていったのを確認した多田羅は宗助の掘った刀を見て、息をつく。
「とりあえず一本目は出来たな」
「…やはり宗助ちゃんの力は強いのう、まるで神器を見ているようじゃ」
「今から神器になるんだよ、…で、あの京から来た奴らはどうだ?」
刃から目を離した多田羅はそう聞けば、およだの爺さんは大丈夫だろうと返した。
「来た理由は宗助ちゃんが目当てじゃ、今の帝の夢に宗助ちゃんが出たことが切っ掛けで恐らくお上からのお告げを見たんだな」
「宗助ならば解決できると?」
「で、あろうな」
ふむ、と考え込む多田羅。そんな多田羅におよだの爺さんはそんなに深刻な事ではないだろうと返した。
「今までと変わらんよ、宗助ちゃんが自由に作りたいものを作れば、おのずと良くなる…そう祝福されている子じゃ」
「…まぁ、何かあった時のためにあのお方が傍にいるんだろうしな」
「儂らも補佐を頼まれておるしのう…儂の場合は偶然なんじゃけど」
「お前がいたからあの村の近くに宗助は落されたんだろう、今の世で人間と結婚して長く人の中に馴染んでいるのはお前くらいだしな」
およだの爺さんは「そうじゃけどぉ…」と口ごもるも、多田羅は変わり者がと言うと今度は「だってぇ」と返された。
「婆さんが可愛くて仕方ないんじゃもん…」
「一端の神が人間の娘に一目ぼれして、わざわざ人間に化けてまで娘の村に押しかけて、何十年も人間のふりをして暮らしてるなんざ相当の変わり者だよ」
「婆さんが可愛いんじゃもん」
「そればっかじゃねぇか、それと爺ぶるな」
「儂は爺じゃもん」
「見た目はな!お前は神からすれば若者だろうが!だから使いっぱしりにされんだよ」
およだの爺さんはうるさいのうと言うと、爺の姿から青年の姿に変わる。
紺の髪、涼やかな目元の美しい青年となったおよだの爺さんが、多田羅を煩わしそうに見る。
「今の儂はおよだの爺なのだ」
「今はだろ、あの嫁が死んだらどうすんだ」
「勿論、儂と一緒に神域で暮らしながら宗助ちゃんや楚那の子達を見守るのだ…儂らはこの世の終わりまで共にいると誓ったのだからな」
「…あの娘も可哀そうに、善良な皮を被った性悪神に捕まっちまって」
「ひどいうのう、それにちゃんと婆さんには儂の全ては伝えておるから合意の誓いじゃ」
多田羅は「あー、どっちもぶっ飛んでたんだったぜ…」と言えば、青年はふん!と鼻を鳴らした。
宗助が風呂から上がることを知らせる嘶きを上げると、慌てて青年は爺さんの姿に戻す。
多田羅も目や足が両方あるかをすぐに確認すると二人は息をついた。
「…しかし、宗助のやつはなんで自分の加護についてわからねぇんだ」
「見えぬ、感じぬは仕方なきこと…しかし、お上の方々は認知もさせないように徹底するのは疑問じゃのう」
「全く、偽装するのも一苦労するぜ…」
「宗助にバレないように…じゃからのう」
二人はやれやれと息をつくと宗助を出迎えるのだった。
翌日。
村に戻った宗助が創作意欲を爆発させて気合を入れて家に戻ろうと走る姿に、おゆきと太郎が倒れる前に止めねばと目を光らせて追いかけていき、それを新入りの喜井太が心配そうにしながら追いかける姿を見て、「今日も平和じゃのう」と言いながら、出迎えた婆さんや子供達を眺めるのだった。
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汐永国の城下町から少し離れた場所にある港町、鱗藍港。
ここは大きくはないものの、多くの船が主要な港へと行き交う船の休憩地となる場所であり、憩いの港として船乗りから愛される港の町である。
この港町にてこの国の貿易に関わる仕事についている青年、浜宮 大野丞はある悩みがあった。
彼は女性に全く縁がないことだった。
「今回も…破談になった…」
数十通目のお断りの文を手にがっくりと項垂れながら実家の屋敷の縁側にて今回は何が駄目だったのかと考える大野丞の哀愁の漂う背を見ながら、彼の家族はお茶を一口飲み、「ふぅ…」と一つ息をつく。
「今回も駄目だったのね…、前回は確か頼りなさそう、だったかしら」
「それは前々々回だ、前回は顔が好みじゃなかったんだ」
「え、それって前々々々回じゃなかった?」
「もっと前じゃないかしらねぇ」
「ねぇ、やめてくれないか!!惨めになるからやめてほしい!」
うわぁん!と腕に顔を埋めて泣く大野丞に妹であり、近くの武家に嫁いで遊びに来ていたお南美はそういうところじゃないかしらと思いつつも、兄をこれ以上傷つけないように口を閉じたのだった。
しかし、彼の母は容赦なく、「そうやって泣くからですよ」と言うのだった。
「しかし、ここまで破談になるとお前は女との縁が本当にないのだろうな」
「一回お祓いに行くか?ここまで来ると呪いか何かに憑かれてるんじゃないか?」
「縁結びの神社にも行きましょう」
「もう、神頼みはしたぞぉ…全然効果なかったけどぉ…」
「おやまぁ、神様も手を尽くしたのかしら」
母は辛辣である。
またもバッサリと切り捨てると気分転換に妹と買い物に行って来いと家から追い出した。
暗い空気を纏っていた大野丞を家から蹴り出すなど、相変わらず強い母だとお南美は思いつつも、兄の気分転換に付き合うことにしたのだった。
「蹴り出された…」
「いつまでもうじうじしているのが母様は嫌なのよ」
「うぅ…」
「もう、そうだ!前に言ってた店に行っていい?最近、品ぞろえが良くなった店があるの!」
「あぁ、そこは珊瑚屋だろう?そこはうちの城下町と清条国の大きな店の組合の店になったから品も増えたんだ」
貿易に関わる仕事をしている大野丞はすらすらと品揃えが良くなった訳を話す。
お南美は流石仕事は一流だと感心しつつも、「ん?」と気になったことを口にする。
「この国の城下町の店は分かるけど…なんで清条国の、他国の商店も組合にいるの?」
「いいところに気付いたな、まず清条国の花衣屋という店が様々な国の店に支援を持ち掛けていてな、それなら組合を作って様々な店で支援をしようと他の大きな商店達が手を組んで組合が設立。組合に参加する店という形で小さな店に手を貸そうということになったんだ、ただその組合に参加するには厳しい審査があるけどな」
「組合が出来て、厳しい審査…で、どうなったの?」
「つまりは珊瑚屋は様々な商店が支援を許された優良な店ってことだ、審査は、不正を働いていない店かというものだからな」
お南美はそれは確かに優良の店だと近くにそんな店があるのに嬉しく思うも、それはどうしてわかるのだろうと疑問もまた湧く。
大野丞はそんな妹の疑問は分かると頷き、ある簪があるのだと語った。
「翡汪国にはある不思議な簪があってな、その簪は人の罪を見抜くのだとか…」
「人の罪?」
「あぁ、その簪を挿した女性が通る所に罪人はなく、罪人は皆、自身が犯した罪を嘆き叫ぶとか…その簪はたった数日で翡汪国の町から罪人を消した実績がある」
「実績ってことは…その事象が記録されてるの!?じゃあ、本当にあるんだ…!?」
どこか怪談話のように語った大野丞にお南美はひえっと、信じられないと言おうとしたが実績の言葉を聞いて記録されている事で本当なのだと理解した。
語る大野丞も自分も聞いた時は信じられないと思ったが、その簪が牢に送った罪人の数を記録したものを見せられたことから信じたのだ。
「そんな簪の監査を合格したということは本当に信頼が出来るってことだな」
「そう聞くと珊瑚屋さんを見る目が変わるわ…すごいお店なんだって」
そうは話しながら歩いていれば珊瑚屋につく。
店の中を見ると多くの客がおり、特に女性達が簪売り場の前に集まっていた。
「見て兄様!綺麗な簪がいっぱいよ!」
「おぉ、これは確かに美しいな」
簪売り場には美しい花を模した簪や動物の柄や影模様の入った簪などが並んでいた。
どれも美しい簪は男の大野丞の目から見ても美しい簪だと見惚れてしまうほどだった。
「おや、大野丞さんじゃないか」
声をかけてきたのは珊瑚屋の若店主で仕事のやりとりで顔を合わせるうちに仲良くなった男だった。
大野丞と隣に並ぶお南美ににこりと笑顔で挨拶する珊瑚屋に大野丞も笑みを返した。
「やぁ、珊瑚屋、今日は妹と邪魔しているよ」
「いえいえ、ゆっくりとご覧くださいな…で、簪が気になるんで?」
「いや、美しい簪が並んでいるのを見ていた」
珊瑚屋もうんうんと頷く。
見てしまうのは分かる、と頷いた珊瑚屋は自分も見惚れてしまったよと語った。
「気持ちは分かるよ、この簪は美しい…今まで見た中でも一番に目を引くね」
「そこまで言わせるとは、すごい職人なのか?」
「この簪の職人は少し特殊でねぇ、腕もいいけども国に認められている職人だ…そんな人の簪が来るなんて驚きだが、こいつはいい縁を運んでくれるそうだよ」
「縁?」
珊瑚屋は三日前から売り出しているのだが、買う人は皆が特別な物を選んだかのような買い方をするのだという。
一人目は小さな白い花の簪。その買った人はまるで自分が選ばれたように目の前に簪があったことに運命を感じて購入した。
二人目は紅の花の簪。その人は失恋をして気分を変えたいと話していると突然その簪に目を向けて、この簪を買うと言って購入した。
三人目は鳥の簪。友人に連れられてきた自信なさげな人は突然声が聞こえるとその簪を手に取ると購入した。
「…それは、奇妙なお話だな」
「だろう?それに買おうとした人も…手を放してしまうんだ」
「まるで持ち主を選んでるみたい…」
不思議な簪だと大野丞は妹と再び簪を見ていると、ふと一本の簪が目に留まる。
あれは何の花だ?と見ていると手が自然と伸びて、その簪を手に取っていた。
「兄様?」
「大野丞さん?どうしたんだい?」
大野丞は声をかけられて、自分が簪を手にしているのに気づいた。
手に取った簪は桃色の花びらがまるで蝶の羽のような形の花で、大野丞は知らない花だと口に出した。
「いや、知らない花だと…」
「あぁ、麝香連理草だな」
「すごい名前…」
「私は詳しくは花の事は知らないが…確かとても良い香りの花らしい、確かこの国だととあるお庭にだけ咲いているのだとか」
「へぇ…」
そうなのかと大野丞は思った瞬間、花の強い香りが大野丞を包んだ。
その香りは大野丞だけでなく、その場の二人の鼻にも届いた。
「え、良い香りがする…」
「大野丞さんから…?どうして、いきなり…」
自分から花の香りがすると言われて大野丞は香はつけていないというも二人だけではなく、店内にいた他の人間もいい香りがすると顔を朗らかにさせていた。
これには大野丞はどうなっていると困り顔でいると珊瑚屋は「これは選ばれたな」と言って腕を組んだ。
「選ばれたって…」
「さっき購入した人達は皆が不思議な買い方をしたでしょう?つまり、簪に選ばれたんですよ」
「俺は男だぞ!?簪はつけない!」
「でも、選ばれたのは確かじゃないかしら?兄様が手に取ったらいい香りがしだしたのよ」
「この簪は福を招くとも聞いていますぜ、破談続きの大野丞さんにいい縁を持って来てくれるかもしれませんよ」
「買いましょう!我が家のためにも!!」
お南美は「買います!」と金を出せば、珊瑚屋は「まいどあり」と金を受け取る。
大野丞が「おいっ!!」と止める間もなく、購入がされて、麝香連理草の簪は大野丞の物となったのだった。
「で、大野丞が簪を買ったと…」
「女に選ばれず、不思議な簪に選ばれるとはな…」
家に戻った大野丞は買った簪の購入の経緯を家族に話した。
桃色の綺麗な簪に選ばれたという話に驚くも、疑う言葉が出る前に簪はまた良い香りを大野丞に纏わせたので、家族は信じるしかなかった。
「でも、福を招く簪で、実際に多くの良いご縁を招いてくれたのだって!その簪に選ばれたのだからいい縁が来てくれるわよ!!」
「そうねぇ、少しでもその福招きのご利益をいただきたいわ」
「簪さん、簪さん…うちの長男は縁談が破談続きで儂らも困っています。見た目が好きじゃないやら、なんか嫌とか、という理由もあるのです…どうか、孫にいい縁がきますように」
「爺様!やめてくれって…聞いててむなしくなる」
泣きそうな大野丞に、祖母は「こう見えて情けないところも破談の理由ですものね、と」と、簪に向けて手を合わせた。
簪に手を合わせて願う祖父母とそれに倣う妹、願いたくもなるという顔の両親を前に、大野丞はひぃんと鳴きながら情けない顔をした。
それを簪は見ていた。
《まぁ!なんてしごき甲斐がある殿方かしら!私やる気が湧いてきますわ!》
翌日。
布団の中でむにゃむにゃと微睡む大野丞。
今日は非番で休みだと惰眠を貪る彼はいつもは朝遅く起きるのだが、今日は布団から蹴り出された。
突然、布団から転がり出された大野丞の前に優雅な着物の裾が見える。そこから出た白魚のような足がだんっ!と大きな音を立てて大野丞の前に下ろされた。
「ぎょえっ!?」
《おはようございますわ!!起床のお時間でしてよ!!》
「だれっ!?」
そこにいたのは美しい女だった。
桃や黄色、白に紫の花があしらわれた華やかな着物を着た薄紫の髪をした女性がお淑やかな仕草をしながらも裾を持ち上げて、大野丞を蹴り出したのだと分かる体勢でそこにいた。
その女性の髪には昨日、彼を選んだ麝香連理草の簪が挿されている。
《私は麝香連理草の簪でしてよ!貴方をご家族の願いもあり、鍛えあげることにしましたわ!》
「俺を鍛えあげる!?てか、簪なの!?」
《細かいことを言ってないで早くご支度なさい!!朝から惰眠を貪るのは月に一度にするのです!》
「あ、惰眠を貪ることは否定をしないんだ…」
時たまならば良いのです!と高らかに言った簪の女性は大野丞に朝の身支度をさせる。
そんな大野丞に非番の朝はいつも遅くに起きるのにと母と父は驚き、なんの風の吹きまわしかと聞くと大野丞は後ろを指差した。
「この簪の女性が俺を蹴り起こして、鍛え上げるって…!」
「…そこには誰もいないぞ?」
「え?」
大野丞は簪の女性は今も後ろから押して支度を急かしていると言うも、二人には見えておらず、誰もいないと首を横に振るばかりだった。
《私の主人は大野丞様ですわ。その私の姿は、主人以外には見えませぬ》
「え」
《あぁ、でも簪姉妹の持ち主ならば私の姿が見えるかもしれませんわね》
「そ、そうなんだ…」
《それよりも、時は有限でしてよ!お早く支度をなさい!!》
「はいっ!!」
怒られて、大野丞は慌てて動きだす。
それをポカンと見ていた両親を安心させるように簪の女性は麝香連理草の香りを飛ばした。
「あら、良い香り…昨日の花の香りね」
「この香りがするってことは…本当にここに簪の女性がいるってことなのか!?もう大野丞のために動いてくれているとは…なんと働き者か」
父はなんて仕事の早さだ!と驚く。
母も期待が持てると頷く中で、支度を終えた大野丞に簪の女はすぐに「朝は鍛錬ですわー!」と竹刀を持って追いかけた。
この後、家の外周を「うわぁぁぁ!?」と悲鳴を上げて走る大野丞の姿が目撃され、近所の者達はついに破談続きで気が狂ったのかと心配して詰めかけた。
が、白い花の簪をつけたとあるご令嬢が『竹刀を持った美しい女性が大野丞を追い掛け回しているのが見える』と証言したことで何かにとりつかれているのかという心配に変わった。
これに対して、両親が大野丞が不思議な簪に選ばれたようで、その簪の化身らしき女に鍛え上げられているようだと説明し、件の発言をしたご令嬢もあれは悪いものじゃないと自身の簪に触れながら少々困ったように笑ったという。
その日から大野丞は人には見えない美しい女に竹刀を持って鍛えられているらしいという噂が回る。
この噂には白い花の簪のご令嬢だけでなく、紅色の花の簪の茶屋の娘も鳥の簪をつけた商店の娘も同じ特徴の女性が竹刀を持っていたと発言をしたことから真実なのでは?と話は広まった。
姿の見えぬ女にしごかれている大野丞の姿を多くの者が興味深そうに見ていたが、その変化は意外な形で現れる。
暫く経ったある日のこと。
少々嫁いだ家の用で暫し会えなかったお南美は久々に会った兄の姿に呆然と見上げた。
「お兄様、変わったわね…」
「そうか?」
「とても、変わったわ…とても、えぇ、とても……」
お南美は以前より高くなった兄の目を見た。
「お体が…大きくなったわ」
目が遠くなったお南美の目には筋骨隆々の兄の姿が、そこにあった。
腕や足は丸太と見紛うばかりの太く、岩山を思わせる頑強な大胸筋、肩幅が広く、体が大きくなったために着物の袖が少々たりなくなっている。
ひょろっとして頼りなさげだった以前の姿とは違い、何処か威圧感と覇気を感じる姿で縁側で本を読んでいた。顔立ちにも何処か貫禄がありお南美には驚きである。
誰が見ても、見事なまでに鍛え上げられた体になっている大野丞の姿がそこにあったのだ。
「あまり自覚はないのだがな…」
「嘘つけ!!すごい筋骨隆々じゃない!どうやったのってくらい鍛えられてる!!」
「ふふっ、そうだな……我が師のお陰でこの体を鍛えられた」
「我が師って…」
ふふふ…と穏やかに笑って本を閉じた大野丞。
しかし、その姿もお南美には武人が瞑想の修行をしている姿にしか見えないのだった。
「我が師はこう言った、『強き精神は強き身体に宿る』と、つまりはこの体を鍛えることで己の気弱な心を鍛えるのだと」
「…確かに言葉の節々から自信に満ち溢れているわ」
「仕事でも最近覇気があると褒められた」
「えぇ、覇気はあるわ」
「あぁ、それに不備があった人に言いに行くときに前は舐められた態度をとられていたが、最近は真面目に取り合ってくれるからありがたいよ」
お南美はそれはそうだと内心で突っ込んだ。
こんな鍛え上げられた体の男に喧嘩を売るやつはいない、と。
お南美以上に大野丞の職場の者がこの変化に驚いており、少々態度の悪い者がいても今の大野丞の前に立てば借りてきた猫のように大人しくなるので、大野丞の部署の者達はこの大野丞の変化に喜んでいる。
「でも、こんなに変わるなんてどうやったの…」
「我が師は様々な助言をくれてな、その通りにやっていると…体が動く喜びに目覚めていく感じで続いた」
「どういうことなの…」
大野丞曰く。
食生活の見直しから体を鍛え上げる方法を伝授し、大野丞は生活の中で自然と鍛え上げることを覚えたのだ。
母の買い物に付き合って重い物を担ぎ歩き、使われていない井戸に大きな石を括り付けて引っ張り上げる訓練、鎧を着て走り回ったり、腕立てをするなどの修行。食事は味噌や豆腐、川魚を主としたもの。
これを簪の女の助言の元で行った結果…大野丞は筋肉が付き始め、体も大きくなっていった。
この変化に大野丞は体を鍛えることでの変化に達成感が出てきて、さらに鍛えるようになった。
仕事でも日常生活でも重い物で筋肉を鍛えていた大野丞を、周囲は続くのかと見ていたが、少しずつ鍛え上げられていく大野丞の肉体に家族も応援し、この素晴らしく鍛え上げられた肉体美を手に入れたのである。
《よくここまで頑張りましたわね》
「我が師よ、貴女のお陰です」
「え、ここにいるの?」
《しかし、その肉体を維持するのも日々の鍛錬なのですよ》
「えぇ、心得ております」
「ねぇ、何言ってるの?」
お南美には見えない中で簪の女性は大野丞の横に姿を現して満足そうに自分が鍛え上げた大野丞の体を見上げた。
「師よ、今更なのですが貴女には名前はあるのでしょうか?貴女の口から名を聞いたことはありませぬ」
《そういえば、名乗っていませんでしたわね…私としたことが、なんたる不覚…!》
「私も聞いていませんでしたから…」
「ねぇ、何の話?」
簪の女は「ふぅ…」と一呼吸をすると姿勢を正すと優雅な仕草で頭を下げる。
《我が名は錬花、人を導くことが我が使命としている物にございますわ》
「錬花殿…それが師の名前なのだな」
心に刻むように名を呼ぶ大野丞は優しい笑みを浮かべた。
「錬花殿、貴女に感謝を…心に余裕が出来たのは貴方のお陰だ」
《いいえ、それは貴方が私の教えに十二分に応えたですわ…よくぞ、ここまでご自身を鍛え抜かれましたわ》
「あとはいい縁談を結べれば、良いのだがな…」
《あら、そこは心配なさらなくても大丈夫ですわ》
大野丞はどういうことだと聞こうとしたが、お南美が遠くから駆けてくる母を見つけた。
慌てた様子で二人の元にきた母は持っていた文を大野丞に見せた。
「い、磯山家のお嬢さんが大野丞との見合い、縁談を望んでいるそうよ!」
「え」
「磯山家ってここらじゃ一番大きな武家のお嬢さんじゃないの!?」
「しかも、器量のいいと評判のお嬢さんなのよ!」
磯山家のお嬢さんこと、磯山の吹は美しい娘であり、器量の良さでも噂されるお嬢さんである。
大野丞とは逆に縁談を断りまくっていることでも噂のお嬢さんだった。
そんな磯山のお吹との見合いの話に大野丞は何故俺にと不安になるが、錬花は心配ないと背を押した。
《心配なさらないで大野丞様、今の貴方なら大丈夫ですわ》
にっこりと微笑む錬花に大野丞は少々不安があれど、錬花が言うならと頷く。
お南美は今までの破談になりまくった結果もあるので、あまり高望みしないで行きなさいなというのだった。
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場所が変わって磯山家。
磯山家の当主であり、お吹の父は困っていた。
磯山家のお吹は容姿も良ければ、器量も良いと噂のお嬢さん……なのだが、彼女は縁談を断りまくっているのだ。
とある大きな武家の長男坊との縁談も、とある大きな商家との縁談も、将来有望とされている家の嫡男との縁談も、彼女はお断りの返事をしていた。
その理由は…彼女は鍛え抜かれた肉体美を愛でるという嗜好の持ち主であったから。
しかもただ鍛えた体ではなく、岩山のような筋肉を好んでおり、お吹の父はそんな男はこの町にいる訳ないだろうと言うも…亡き妻との約束で娘の思う通りの人との婚姻をさせるために日夜縁談の相手を探していたのである。
「あぁ、盛り上がる胸筋が見たい…様々な角度で嘗め回すように眺めたい」
「お吹…それは外ではやめてね、おねがいだから」
またお吹の父が困っているのはこの娘の嗜好でもあった。
器量がいいというお吹は確かに何処に出しても恥ずかしくない…が、この異常なまでに筋肉への傾倒っぷりだけは困っていた。
どんな相手でも筋肉が足りない、細いと言って縁談を断る。腕の立つ武官の若者も試したが、細い筋肉だと、お吹はお気に召さなかった。
しかも、お吹は理想の肉体を見られば、それをおかずに飯が食えると常に言えるほどに鍛えられた肉体が好きなため、この変態のような娘の癖を外に出さないでくれと願っていた。
「はぁ…、どこかにあの子の好みの岩山のような筋肉の持ち主はいないものか…」
お吹の父はいつもの祈りの言葉を零しながら「いるわけないか」っと自問自答をしていたのだが、そこに襖を勢いよく開けたお吹が部屋に飛び込んできた。
「お父様!!是非縁談を結びたいお方がいるのだけど探してくれますか!!!」
「えぇっ!?いきなりどうしたんだぁ!?」
「あの上腕の筋肉っ…!丸太のような逞しく太い脚っ!!大きく盛り上がった胸筋…、あ、よだれが…」
じゅるりと思わず垂れたよだれを袖で拭うお吹に、彼女の父は少し引くものの突然現れた、お吹の理想の肉体の持ち主について経緯を聞く。
お吹がよだれを垂らしてまで興奮をするほどの鍛えられた肉体の持ち主はどのようにして出会ったのかと。
「これは先ほど、買い物に出かけた時のこと…」
お吹はもう何度目かの縁談を断った日には甘い物を食べて、いつか理想の人に会える日が来るのだと自分を落ち着かせようと、お茶屋へ向かった。
その道中、道行く人の筋肉の度合を目視で量りつつも、やはり理想の肉体の持ち主は中々いないものかと肩を落とす。
お茶屋にて団子を食べていたのだが、ここで本日お断りした相手に出くわしてしまった。
「何故、縁談を断った!!この俺の何が駄目なのだ!!」
「貴方の場合は性格が好きではありません、…後、細すぎるわ(小声)」
腕を掴まれ、怒鳴ってきた男にお吹は冷静にそう返した。
お吹の目から見て細い体であることも断った要因の一つだが、一番の要因は傲慢な性格だった。格式高い生まれのために他の人間を見下し、使用人を虐げて笑う姿を見たお吹はすぐに縁などないと断ったのだ。
見た目が好みじゃない男はともかく、とても縁を結べる相手ではないと破談一択だと内心怒るも、相手の男はさらに激昂する。
周りは心配の声をあげるが、お吹は磯山家の娘として武術も心得ていた。
なので、今回も投げ飛ばそうとしたのだが、その瞬間、男の腕は掴まれた。腕を掴んだ人物を見て、お吹は目を見開いた。
「斯様な場所で何をしている、ここは店の外とはいえ人通りがある場所ぞ」
お吹を助けた、相手の男を掴む腕は一回り以上も太い。
ゆっくりと腕から肩、顔へと目線を向けたお吹は、胸を大きくときめかせた。なんて素敵なの、と。
丸太と見紛うばかりの太い両腕。岩山を思わせる頑強な大胸筋。鎧をまとった巨像のような体。
正にお吹の理想である、鍛えられた筋骨隆々の肉体がそこにあった。
相手の男はそんな筋骨隆々の男に掴まれ、見下ろされているのに気づくと先ほどの威勢は消え去り、すぐさま逃げ去った。
はわ…と見惚れるお吹に理想の肉体を持つ男は「大丈夫か」と問いかける。
お吹は大丈夫だとすぐにハッと我に返って答えると、男はそれならばよかったと優しく微笑んで、「急ぐ身であるため失礼する」と言うと去ってしまった。
お吹はせめて名前だけでもと追いかけようとするも、ようやく会えた理想の男は太い足を遺憾なく発揮して瞬く間に姿を消していた。
「あの完璧な肉体をお持ちになりながらもお優しいお人…!私、あの方がいいのです!!」
「そ、そんな御仁がこの町にいたのか…わ、わかった!すぐに探そう!」
「お願いお父様!あぁ、あんなに素敵な方がいたなんて…!あ、奥様がいたらどうしよう…でも、いないのなら全力で妻の座を取りに行くわ!!」
今までにないほどに燃えているお吹に、父はこんなにやる気のある娘は見たことがない、と思い、さっそく翌日から探し始める。
お吹の父は武官がいる訓練所を訪れた。お吹曰く、しっかりとした生地であったことから家はしっかりとしていそうだと考えた。
また、鍛えられた肉体の持ち主なら、武官は日々訓練を行っているのだからここにいるのではと推理した。
事情を話して許可を貰い、娘の婿になる予定の人物を探すお吹の父だったが、お吹が興奮するほどの筋肉の持ち主は見当たらない。
「うーん、見る限りいないな…」
「磯山殿、彼らはとても鍛えられているように見えますが…」
「そうなんだけどねぇ…娘の好みは岩山のような上腕と胸筋なんだ」
「…そんな人物いるのでしょうか」
「実際にいたらしいからねぇ…でも、ここにはいなさそうだ」
手を貸してくれている部下に移動しようかと提案をしようとしたその時、奇妙な音が聞こえた。
なんだ?と耳を澄ませていると…悲鳴と共に重さを思わせる足音が近づいてくるので、二人は思わず緊張してしまう。
「山田殿ー!経費についての申請はしっかりと出してもらわないと困りまする!!」
「ひいっ、大野丞!!わ、わかったから追いかけて来ないでくれぇ!!怖いんだよぉ!」
「ならば、止まってくだされ」
「怖いんだってお前が!!山が迫ってくるみたいで怖いんだよ!!」
二人の目に映るのは筋骨隆々の大きな男が武官の一人を追いかけている光景だった。
岩山のような肩と胸筋の男の服は少々きつそうな印象であったが、お吹が見たら暫く凝視しているだろうなと感想を抱いた。
のし…のし…と歩いているだけなのに正に山が動くような威圧感を感じた二人はすぐさまお吹が探している男はあの男だと確信した。
その後は涙を流して逃げる武官の男を哀れに思ってか、他の武官が間に入り、必ず本日中に書類を出させると約束させたことで、筋骨隆々の男は「約束ですよ」と念を押すと自身の持ち場へ帰っていった。
お吹の父はすぐさま近くの武官を捕まえて、あの男は誰なのかと聞いた。
「あれは浜宮家の大野丞ですよ、あいつ文官なんですが…どういう訳か少し見ない間にあんなに大きくなっていて俺らも驚いています…」
「大野丞さんは何でか縁談をよく破談されているという噂がありますねぇ…、普段は穏やかで経費の申請のこととか書類のことを相談しても俺らに寄り添って対応してくれるいい人っす…まぁ、今回はあいつが出さなかったのが悪いんですけどね。最近は申請の提出が遅れたり、不備があるとあの体で追ってくるようになったんで、威圧感が凄いっす」
「浜宮家の嫡男ですなぁ、少し前は細かったのですが…いつの間にかあんなに逞しくなっていましたよ、体は大きくなりましたが、彼の丁寧な仕事ぶりと人柄は良いのですよ」
お吹の父は肉体は娘の好み一直線でありながらも、人柄も良さそうで、仕事ぶりも評価されているのかと好感を持った。
文官であることには驚くも、あの巨体に凄まれたら不正は出来ないだろうし、他の部署からの圧もなくなるだろうから理には適っているなぁと考えを巡らせた。
磯山家の娘を嫁がせるのに問題は無いな、と考えたお吹の父は浜宮家に見合いの話を持って行くのであった。
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お見合いの日。
浜宮家の大野丞とその両親は磯山家側で用意された料亭に足を運び、豪華な部屋に通された。
その中にいたのは美しい女性で、仕草も美しい女性が見合い相手のお吹であると知らされると大野丞は本当にこの人が自分と縁談を申してくれたのかと不安になる。
大野丞の不安を他所に互いに和やかに話は進み、お吹の方からの縁談であるということで破談にされることはなさそうなことに大野丞とその両親は少し安堵する。
大野丞はそういえば、今日はあの簪が共に行きたいと言っていたので懐にあるのだったなと考えていたところ、大野丞の両親は近くの間で待機しているお南美にうまくいきそうだと知らせに行くと席を外した。
お吹は大野丞の両親が席を外すまではお淑やかだった。が、理想の人を目の前にして我慢ができなくなり、父がいる前で大野丞の厚い胸板に飛び込んだ。
大野丞は突然お相手のお嬢さんに飛び込まれて驚くも、立派な筋肉で体勢を崩すことなく抱き留め、恍惚の笑みで胸板に頬擦りするお吹に、困惑するばかりだった。
お吹の父から「この子は鍛えられた殿方の筋肉が好きで、君の筋骨隆々の体に一目ぼれしたんだよ」と言われて、さらに困惑。
その後は、お吹本人から大野丞の体の素晴らしさを熱弁され、この縁談を結ぶのを承諾してしまったのだった。
「あ、そうだ…」
「大野丞様?」
後は若い者で話なさいとお吹の父も席を外すと大野丞は懐にある麝香連理草の簪を取り出した。
簪は本来は女性の髪に挿される物だからと、お吹が妻となるのならこれをつけて欲しいと思ったのだ。
「綺麗な簪…」
「俺を変えてくれた不思議な簪です、俺の妻となる人にこの簪をつけてほしい」
「そんな簪を、私に?あぁ、大野丞様ぁ…なんて素敵なお人なの!」
嬉しいと笑うお吹の頭に大野丞が簪をそっと当てた瞬間、麝香連理草の花弁が現れて、二人を包んだ。
花弁の中から美しい麝香連理草の花のような女性が現れて、白魚のような指で、二人の手を繋ぐように上から優しく包む。
《大野丞様の伴侶となる方…私がお守りしますわ》
そうお吹に微笑むと、指で髪をなぞった。すると髪は解けて、独りでに結ばれて麝香連理草の簪が挿される。
着ていた着物も麝香連理草の花が美しく咲いて、着物を彩り、化粧も桃色のものが施された。
目の前でお吹が姿を変えて大野丞は驚くも美しさに見惚れた。お吹も不思議と自身に馴染むような気がした。
花弁が散ると二人は麝香連理草の花弁にまみれており、何だかおかしくなって笑い合うのだった。
その後、大野丞とお吹は腕を組んで、婚姻を結ぶことを両家に報告するのだった。
「あの、兄の何処をお気に召して…?」
「大野丞様のこの太く逞しい上腕がたまりませんの…!肩も岩山のようで…」
「あ、このお嬢さん筋肉が決め手なのね…」
「筋肉以外にもお仕事ぶりやお人柄も気に入りましたのよ!」
こうして、浜宮家にようやくお嫁さんが嫁いで来た。
この婚姻に港町は色めき立ち、破談続きの浜宮家の嫡男がようやく嫁を貰ったことやいつの間にか筋骨隆々の男になっていたと驚かれるのだった。
婚姻の日、大野丞がお吹を腕に座らせるように持ち上げて抱き歩く姿を見た錬花は誇らしげに腕を組んでいた。
《やはり、鍛え上げた肉体は幸せを呼ぶのですわ!!》
《いや、違うと思うわよ…》
《でも、麝香連理草の簪のご主人も奥方様も幸せそうだわ…》
《やはり筋肉が正解…?》
姉妹と談笑しつつ、錬花は華やかな婚姻の式を見守っていたが遠くから忌々しそうに見ていた小さな黒い影を踏み潰す。
《大野丞様の縁にちょっかいをかけて、これまで縁談を破談させていたのはお前ですわね?どこのお家かは知りませんが、今後も浜宮家に手を出すものはこの錬花が許しませんわ》
《あぁ、やっぱり外からの妨害だったのね》
《浜宮家が不幸になれなんて呪いをかけたみたいね、呪い返しをされたのだから、後が大変そう》
《知りませんわ、私の花が咲いているうちは浜宮家に手を出させません》
踏み潰した黒い影を見ていた四人の美しい簪達の目は持ち主に向ける目と違い、冷たい氷のような目であった。
この日から大野丞は浜宮家に嫁いだお吹に毎日、穴が空くほどに体を見られて少々気恥ずかしくなりながらも彼女と幸せに暮らすのであった。
時たま鍛え上げた筋肉で厄介な出来事を解決することがあり、汐永国に訪れる危機さえ、彼の筋肉で解決してしまう時が来るのだと、誰も知らないことである。
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簪 花の女師範
スイートピー(麝香連理草)の簪。
浜宮家に代々伝わる簪。この簪は別名『簪の名トレーナー』とも呼ばれている。
浜宮大野丞を筋骨隆々の大男に鍛え上げた簪として逸話が有名である。
破談続きであった浜宮大野丞を鍛えて自信をつけさせたことでいい縁談を結ばせたという逸話が残る。※1
多くの人を導き、鍛えてきた功績がある。
浜宮家の人間だけでなく、冴えない武官や町娘、とある若君まで鍛え上げて、彼らの人生を大きく変えたという記録が多く残る。
江戸の時代に失恋のショックで肥えてしまった浜宮家の娘を鍛えて、いわゆるダイエットをさせただけでなく新しい縁談を結ぶのにも手を貸した。
お上品な口調で、明治時代には浜宮家の娘の教育係を務めたこともあるため教養も持ち合わせているとされている。
現在、浜宮家はジムの経営をしており、悩める者達を今でも鍛えている。※2
※1 浜宮大野丞の妻となる浜宮吹(旧姓・磯山)がこの簪を挿していたため本来の持ち主は彼女であり、鍛え上げられた肉体を愛でる癖の持ち主であったことから、彼女の好みの肉体にしたのでは?という説もある。
※2 とあるテレビ番組にて痩せねば危険と言われた肥満のタレントを指導し、その後タレントはボディビル大会に出場する程に体を鍛え上げた。
筋肉はなんでも解決する。(狂気の目)




