第三章 すずめヶ丘
春になり、匠人は自転車で通勤を始めた。途中に、どうしても立ち寄りたくなる場所がある。
――すずめヶ丘。小さな公園の中の小さな丘に、大きな桜の木がひっそりと佇んでいた。桜は芽をつけ始め、一部は春を待てずに花を開いていた。その下には使い込まれた木のベンチがひとつある。
夕暮れ迫る帰り道、自転車ですずめヶ丘の横を通りかかると、桜の枝が柔らかな影を地面に落としている。いつものベンチには、ひとりの姿があった。――つむぎだった。
いつもどおりの静かで穏やかな表情。ただ今日は、どこか少しだけ寂しげに見えた。匠人はブレーキをかけ、自転車をゆっくり止めた。
「……つむぎさん?」
声をかけると、つむぎがゆっくり顔を上げた。目が合う。驚いたようで、ほっとしたようでもある。
「あ、匠人さん……」
「こんなところでどうしたの?」
つむぎは微笑んだ。けれどその笑みの奥に影があった。
「なんとなく……来たくなって。春になると、ここでぼーっとしたくなるんです」
視線を桜に戻す。芽吹き始めた枝先が夕陽に染まり揺れていた。
「昔、先輩に教えてもらった場所で……」
その言葉に、匠人の胸がざわついた。つむぎの過去に、大切な人の存在を感じた。けれど匠人は沈黙を壊さず、隣に腰を下ろした。
風がふわりと吹き、桜の枝を揺らした。しばらく二人の間に言葉はなく、心地よい静寂が満ちていた。
「……その先輩って、どんな人だったの?」
匠人がふいに口を開く。つむぎは少し考え、空を見上げてぽつりとつぶやいた。
「…優しい人でした。私が新人の頃、いつも気にかけてくれて。何かあると必ず声をかけてくれて…」
つむぎの声は風に溶けるように小さくなった。横顔には揺れるまつげの影。
「……でも、突然、いなくなっちゃって。何も言わずに会社を辞めちゃったんです」
匠人は静かにうなずいた。何も言わず、静かに隣にいることで彼女の記憶を支えていた。
「だから春になると、思い出すんです。この場所と、あの人の声と……」
彼女の言葉に、匠人の胸がぎゅっと締めつけられた。でも、どこかあたたかかった。過去を大切にするその姿が、つむぎらしかった。
「来年も…桜、咲くかな」
つむぎがぽつりとつぶやいた。
「きっと咲くよ」
匠人は微笑みながら言った。そして少し照れたように付け加える。
「もしよかったら、そのときまたここで一緒に見られたらいいな……」
つむぎがふとこちらを見る。その目に、さっきまでなかった色が少しだけ差していた。
「……うん。そうですね」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。それは、お互いの“琴線”に、初めてそっと触れた瞬間だった。




