8話 失踪
雨が降っていた。
日が沈んだころに細かく雨粒を落としはじめ、しだいに重たい雨粒で窓を鳴らすようになった。農地は潤うことになるだろうが、直接関係のない俺からするとただの睡眠妨害でしかない。湿気もすごく、昼間の暑さの残骸と合わせて、常になにかが肌にまとわりついているような感覚があった。
俺は、ベッドの上で、寝ているふりをしていた。今日も夜の探索に向かうためだ。いつもならそろそろ寝静まっているころだと思うが、部屋の外からは人の気配を感じる。何かが起こったのだろうか。ときおり、誰かが駆けていく足音も聞こえてくる。
このままじっと待っているのは得策ではないと判断し、起き上がって、部屋の外に出る。廊下はランタンに灯された場所以外は薄暗かった。
部屋の中にいたときに感じていた人の気配は気のせいではなかったらしく、廊下には使用人があちこちに立っていて、ときおり使用人同士話しては、どこかに向かっていった。
やはり、何かが起こっている。
誰かに事情を聞こうと辺りを見渡しているうちに、ムースの姿を見つけた。ほかの執事と話し込んでいる。俺は、二人に近づいた。
「どうした?」
俺が声をかけると、ムースは俺がいることに驚き、目を丸くした。
「起きていたのですか……。シルヴィルト王子」
「まあな。雨の音がうるさくて眠れなかったんだ」
「そうですか……」
「――言いたくないことか? 早く何があったか言え」
ムースは、一緒にいた執事と顔を見合わせる。ムースの隣にいるのはノールという名の執事だ。ムースよりも年上で、髪の毛は全部白髪だ。
俺に話してもいいと判断したらしい。ノールがうなずき、ムースは再びこちらを見た。
「実はですね……」
どうやら、リナが失踪したらしい。
俺との食事のあと、リナは落ち込んだ様子で客室に戻ったという。公爵の話では、その後、しばらくリナと会っていなかったが、夜、リナの部屋を訪れるともぬけの殻だったらしい。王宮のどこかにいるのだろうと思い、近くの使用人に聞いたが、誰もリナがどこに行ったか見ていない。しばらくしてもリナが戻ってこないので、さすがに何かあったのではないかと騒ぎになってきたのが今の状況だ。
「王子と破談になったことで、思い詰めてしまったのでしょうか」
その可能性は確かにあるが、そもそも少しいなくなったくらいで騒ぎすぎだろう。王宮は広い。ただでさえ広いのに建物が5つもある。どこかで迷っている可能性が高い。
「ほぼ間違いなく王宮内にはいるだろう。門の前には見張りが常に立っているし、王宮を囲む塀は人が登れるような代物じゃない。不用意に外から出ようとしても、見張りが通さないはずだ。曲がりなりにも公爵令嬢だしな」
「そうですね……私もそう思っています。しかしここまで見つからないというのも……」
ムースは不安げだ。責任感が強い性格なので、無事が確認できるまでは一息つくことはできないだろう。
「まあ、大丈夫だろ。そこまで思い詰めているようには見えなかったしな」
「……そもそも、なんで破談になったのですか。私は残念でなりません」
「ぬか喜びさせて悪かったな。ちょっと理由があってな。ゆっくり落ち着いたら話してやるよ」
ここでムースと話していてもしょうがない。俺は、「もう寝るから、部屋の中には入ってくるなよ」と言って、部屋の中に戻った。
ドアを閉じ、暗く静まり返った部屋の中で大きく息を吸う。
いつものように、俺は、目に力をこめる。闇が晴れていき、周囲の光景がはっきりと見えるようになる。部屋の中に誰か潜んでいないか見渡すが、誰もいない。それを確認したあと、目の力を緩め、自分の視界を暗闇へと戻す。
「――」
そして、今度は、俺を中心に魔力を飛ばすイメージ。微弱な光を発し、この部屋よりもずっと向こう――王宮全体をカバーするように魔力を広げていく。
俺は、そこで違和感を覚えた。
サーチできない。リナの容姿や魔力の形状は憶えている。リナが王宮内にいるのであれば、今広げた光の中に引っかからなければおかしい。
もしかして、王宮の外に出ている?
窓を見ると、相変わらず、勢いよく雨が降り続けている。こんな雨の中をひとりで? 本当に大ごとなのではないかとそのとき初めて思った。
思い詰めているはずがないと勝手に決めつけていた。どうやって王宮から外に出たのかは知らないが、早く見つけないと大変なことになる。
俺は、飛ばしていた魔力を自分の体の内に回収し、もう一度、別の形で魔力を使用する。
透明化だ。
俺は、自分の体が消えているのを鏡の前で確認してから部屋の外に出た。
足音まで消すことはできない。王宮内にいる間は、誰にも気づかれないように慎重に歩いた。外に出ると雨音にまぎれるので、こっそり拝借した傘を手に持ちながら中庭を足早に通り過ぎた。
自分の服や傘も透明化されているので、水たまりが足の形にゆがんだり、雨粒が空中で弾けているように見えているだろう。俺の姿が見えないとはいえ、誰かに不審がられるとまずいことになりかねない。
正門の前には二人の衛兵が立っていた。衛兵がさぼっている間にリナが抜け出したという可能性も考慮していたが、二人ともまじめに仕事をしているようで、ときおり首を振りながらまっすぐ前を見つめていた。あれでは、門をくぐろうとした際に必ず気づかれるだろう。
俺は、透明化したまま、足音を立てないように門まで歩いていく。
王宮は、ガラス製のランプに囲まれていて、雨にも負けず灯っているオレンジ色の火に包まれている。さらに、王宮の前、正門のすぐ後ろには2つの大きな外灯があり、10メートルほどの高さからランプの光を灯していた。
外灯自体もまた、王宮を取り囲むランプに照らされている。その影は正門を越えて、王宮の外にまで伸びていた。
――まさかな
俺は考えついた可能性を心の内で否定する。
やがて正門のすぐ近くまでたどり着いていた。傘を閉じた俺は深呼吸をして心を落ち着かせる。
よし。
俺は意を決して、正門を通る。
慎重に衛兵の間を抜け、王宮の前の道の反対側へと渡る。
振り向くと、衛兵は何事もなかったように見張りを続けていた。
よかった、なんとか気づかれないまま王宮の外に出られた。
俺はほっと胸をなでおろす。
しかし、ここからどうやって探そうか。手掛かりがなさすぎる。
微弱な光を再度飛ばす。透明化を使用しながらなので、あまり遠くまでサーチできない。
リナは魔力に引っかからなかった。
俺の体は雨に濡れ、すでに服が重くなっている。
明日は風邪をひくかもしれない。俺は、衛兵の視界に入らない場所まで移動してから再び傘をさす。もうこうなったら、サーチしながら地道に歩いて、リナの居場所を見つけなければならない。
……こうなったことの、責任の一端は俺にある。
リナがどういう思いで、あの縁談に臨んでいたのかは知らない。しかし、不器用なあの女があれほどまでに必死になっていたのは、なにかわけがあるのだろう。
俺は、覚悟を決めて、雨の王都をさまよい始めた。
歩いて歩いて、40分ほど経ったころだろうか。
正門のまえの道を左に行き、その道沿いを歩き続けた先。俺の魔力にリナが引っかかった。
居場所は、王都の端にある小さな山のふもとだ。たしか、デル山という名前だった。大した高さではないが、道が整備されていないために危険な場所だ。
俺は、誰もいないことを確認して急ぎ足でその場所へと進んでいく。
山の中に入り、草木をかきわけながら登る。リナの場所は手に取るようにわかる。リナも奥へと歩いているようだが、ペースがそこまで早くない。あともう少しで追いつけるはずだ。
足元がぬかるんでいて、時折転びそうになる。
サーチする範囲を狭め、暗視を使い始めたが、それでもかなり危険だ。傾斜がきつい箇所がいくつもあり、場所によっては足を滑らせただけで死んでしまうかもしれない。
リナには当然暗視の能力などないだろう。いつ何が起こってもおかしくない。
邪魔な傘を捨て、手を泥でよごしながら懸命にリナのいる場所へと向かっていくと、やがてリナの姿が視界の中に入ってきた。
いた。どこかで転んだのだろうか。リナの服はぼろぼろになっていた。ワンピースの裾が破け、傷だらけの足がむき出しになっている。肩ひもがほどけていて、服がぬげないように手でおさえている。顔もあざだらけだった。
ひどいありさまだ。暗視もなく、この山を一人で登るのはさすがに無理がある。
足を引きずり、泥が付着したぼろぼろのワンピースを着て、誰もいない雨の中を悲痛な表情で歩いている姿は、とても哀れに映った。
――とりあえず、さっさと連れ帰ろう。
俺はリナに声をかけるべく、駆け足で後を追う。
そのときに気づいた。リナの行く先が急角度の傾斜となっている。しかし、その傾斜の前は草に覆われていて、一見それと気づきにくい。
俺は暗視でそれがわかるが、リナは気づいていない可能性が高い。
「おい、待て!」
しかし、雨音がうるさいのか、リナには聞こえていないようだ。そのままふらふらと前に進んでいこうとしている。
駆けだす。一刻の猶予もなかった。
リナは、危惧した通りその傾斜に足を踏み入れる。
間に合え!
自分の体が泥にまみれることなど歯牙にもかけず、飛びつくようにリナの腕をつかんだ。
その感触に気づいたリナが俺のほうを向く。
リナの体が落ちていく。
リナの体重が、俺の手にかかる。踏ん張りがきかず、泥の上を滑っていく。
まずい……!
自分の手が見えない。透明化されているからだ。
あわてて魔力を解除して、透明化を外す。そして、リナをつかんでいないほうの手で、傾斜の手前に立っている細い木をつかんだ。
そこでようやく、止まった。
リナの顔は、ずっと俺のほうを向いていた。驚いたような顔でリナが俺を見ている。
そのとき、俺は自分の致命的なミスに気が付いた。
俺は、透明化の解除を、リナの目の前で見せてしまった。リナには、何もない空間から突然俺が現れたように見えただろう。
沈黙が二人の間を覆う。お互いがお互いを見つめている。
激しい雨が、俺とリナに降りかかり続けていた。