第16話 少しの傾き
少しだけ
ほんの少しだけだった
治療院を出たあと、俺とミラはそのまま講義棟へ向かった。
右腕の身体強化が解禁されるまで、あと一週間。正確には一週間後の検査を通れば、そこから一割ずつ戻していくことになるので、完全に元通りになるのはもう少し先だ。それでも、いつまで待てばいいのか分からなかった時に比べればずっと気が楽だった。
「一週間なら、五号の次の試験先に終わりそうだな」
「またそれ考えてる」
「考えるだけ」
「本当に?」
「人工魔力材で許容範囲広げる試験。あとカイルの剣の魔法陣。それとお前の札四枚」
「十分多いよ」
ミラに言われ、指を折ってみる。
確かに多い。
「今日は札だけ」
「授業は?」
「授業も入れるなら二つ」
「そういう数え方しないで」
講義棟へ入ると、いつものように学生で廊下が埋まっていた。三十万人もいれば、授業の切り替わる時間はどこへ行っても人が多い。少し先では魔術科の学生が訓練用の長槍を抱えて歩いていて、その横を大きな魔法陣設計図を筒に入れた集団が追い越していく。
何も変わらない朝だった。
少なくとも、その時までは。
◇
午前二つ目の授業は魔法工学基礎だった。
俺が人工魔力材について質問した時と同じ教師が、今日は大型魔法陣への魔力供給について説明している。
「家庭用程度なら使用者本人の魔力で十分だ。だが、工場や病院、大規模研究設備になるとそうはいかん」
黒板に簡単な図が描かれていく。
中央に大型魔法陣。
そこへ複数の線。
「一般的なのは魔石、蓄積設備、複数人による供給。この辺りはお前たちも知っているだろう」
知っている。
大型設備ほど必要な魔力量は増える。当然、一人の魔力だけで動かす前提にはなっていない。
「では、魔石を使わず、術者も置かず、長期間動かすにはどうする」
何人かが手を上げた。
「蓄積槽を定期交換する」
「半分正解。交換するなら結局どこかで充填する必要がある」
「複数の小型魔石を循環させる」
「それも同じだ」
教師は黒板の端に丸を描いた。
「だから現在、各研究機関で研究されているのが――」
そこで言葉が途切れた。
最初、教師が何かを忘れたのかと思った。
違った。
机の上に置かれていた小型魔力計の針が、勝手に動いていた。
「……?」
教師が魔力計を見る。
授業で使っているものではない。教室内の魔力環境を測るため、普段から置かれている設備だ。
針がゆっくり左へ下がっている。
「先生?」
「少し待て」
教室が静かになる。
俺も魔力計を見る。
数字自体はまだ異常というほどではない。ただ、一定であるはずの空気中魔力濃度が目に見えて下がっている。
「換気陣の不具合ですか?」
前の席から誰かが聞いた。
「換気で魔力濃度はここまで変わらん」
教師が別の測定器を起動する。
数秒。
その値も下がった。
「……廊下を確認してくる。勝手に魔法を使うな」
教室から出ていく。
途端に周囲がざわついた。
「何?」
「故障じゃないの?」
「二台同時?」
俺は何となく、自分の手のひらを見た。
別に何もない。
体内の魔力にも異常は感じない。
「レン?」
斜め後ろからミラが声をかけてくる。
「何か変じゃない?」
「何が?」
「分からない」
自分でも曖昧だった。
魔力を使っているわけではないのに、普段より身体の内側がはっきり分かるような気がする。
外が薄い。
そんな感じだった。
「空気が軽いというか」
「空気?」
「違う。魔力」
目を閉じてみる。
魔術では基本的に自分の体内魔力を扱うから、空気中の魔力を意識することは少ない。魔法陣の授業で外部環境を測ることはあるけれど、普段から感じ取っているわけでもない。
それでも、今は分かる。
「周りの魔力、減ってる」
「計器もそうなってたけど」
「いや、それだけじゃなくて――」
言葉を探している途中で、教室の照明が消えた。
一瞬だった。
すぐに戻る。
「うわ」
「何だよ」
またざわめく。
今度は天井の温度調整陣が一度だけ強く光り、止まった。
教室の隅にある補助魔力槽が自動で起動する。
設備側が不足分を補おうとしている。
「本当に減ってる」
ミラが小さく言った。
その直後だった。
身体の中の魔力が、右へ引かれた。
「っ!」
思わず机へ左手をつく。
ほんの一瞬。
体内の魔力そのものが外へ抜けたわけではない。ただ、自分の中を流れていたものが、全体ごと一方向へ傾こうとした。
「レン?」
「今、何か――」
周囲でも何人かが同じように身体を押さえていた。
「何これ」
「気持ち悪っ」
「魔力動いた?」
ミラの顔からも笑いが消えている。
「ミラも?」
「少し。外に引っ張られた感じ」
俺だけじゃない。
方向は。
右。
教室から見れば西側。
何がある。
考える前に、教師が戻ってきた。
「全員、席を立つな!」
普段より明らかに大きな声だった。
ざわめきが止まる。
「学院内で広域魔力異常が発生している。現時点で原因は不明。魔法、魔術ともに許可が出るまで使用するな。体調に異常がある者は手を上げろ」
何人かが手を上げた。
教師はすぐに一人ずつ確認していく。
吐き気。
軽い頭痛。
身体の中の魔力が動くような感覚。
重症はいない。
「先生」
「何だ、エルド」
「空気中魔力、どこまで下がってます?」
「今聞くことか」
「さっきからずっと下がってます」
教師が少しだけ黙った。
「通常値の六割を切った」
教室の空気が変わった。
俺も予想していなかった。
「そんなに?」
「ああ」
「この棟だけですか?」
「少なくとも中央講義区から西部研究区まで同様の報告が出ている」
西。
さっき魔力が引かれた方向。
「どこかに流れてる?」
「まだ分からん」
教師はそれ以上答えず、教卓へ戻った。
「現在、学院側が調査中だ。緊急放送があるまでこの教室で待機する。窓際から離れろ」
最後の一言で、何人かが顔を見合わせた。
魔力濃度が下がっているだけなら、窓から離れる必要はない。
「何か起きてるのかな」
ミラが小声で言う。
「多分」
「研究区って言ってたよね」
「ああ」
学院の西側には複数の研究施設がある。
俺が普段行くオルフェン先生の研究室や第四工房とは別に、大型魔法陣や高出力魔法の試験をするための区画もある。
「事故?」
「分からない」
でも、俺自身が一度研究事故を起こしているせいで、嫌な想像だけは簡単にできた。
何かを試した。
最初は上手くいった。
そこで、想定していないことが起きた。
四号の時と同じなら。
「レン」
「何?」
「顔」
「何が」
「考えすぎてる」
「まだ何も分からないからな」
「なら今考えても分からないよ」
その通りだった。
でも、気になる。
空気中の魔力が減る。
どこかへ引かれる。
設備が止まるほど。
どんな魔法陣ならそんなことができる。
そもそも何のために。
その時。
学院全体に、低い音が響いた。
一度。
二度。
三度。
教室中の誰も喋らなくなった。
聞いたことがある。
訓練で。
でも実際に鳴るのを聞いたのは初めてだった。
災害警報。
『王立中央学院、全区域へ通達します』
天井の放送陣から女性の声が流れる。
『西部研究区にて重大事故が発生しました。中央区、北西区、西区の学生は、教職員の指示に従い指定避難区画へ移動してください。魔法および魔術の無許可使用を禁止します』
そこで一度、放送が切れた。
数秒。
また繋がる。
『繰り返します。西部研究区にて――』
声の後ろに何か聞こえた。
人の声。
指示。
かなり慌ただしい。
教師がすぐに立つ。
「全員荷物を持て。必要最低限だけだ。第三避難区画へ移動する」
教室内が一気に動き始めた。
「走るな! 廊下を塞ぐな! 魔力は使うな!」
俺も鞄を取る。
右腕は使える。
日常動作なら問題ない。
ただ、さっき一瞬魔力を引かれた感覚が気になった。
「ミラ」
「うん」
「今、魔法使えると思う?」
「使えるとは思う」
「思う?」
「魔力自体はあるから。ただ……」
ミラが自分の手を見る。
「何か変」
「やっぱり?」
「普段より外へ出したくない感じがする」
俺には少し分かる。
外の魔力が薄い。
だから身体の中にあるものの境界がいつもより強く感じる。
「使わない方がいいな」
「先生も言ってるしね」
教室を出る。
廊下にはすでに大量の学生がいた。
それでも混乱は少なかった。教師たちが各教室から出て誘導していて、進行方向も決められている。
学院が大きいからこそ、こういう時の訓練は何度もやっている。
俺たちも列に入った。
「第三避難区画ってどこだっけ」
「中央地下」
「遠いな」
「この人数だと時間かかりそう」
ミラの言う通りだった。
廊下いっぱいに人がいる。
誰かが走れば詰まる。
だから全員歩く。
窓の外を見る。
普段と変わらない。
空は晴れている。
研究棟も見える。
煙もない。
爆発もない。
なのに警報だけが鳴っている。
それが妙に気持ち悪かった。
◇
講義棟を出たところで、また魔力が動いた。
今度はさっきより強かった。
「っ……!」
足が一瞬止まる。
自分の身体の中で、魔力が西へ寄る。
俺は反射的に押さえ込もうとして――やめた。
四号の時を思い出した。
無理に逆らわない。
まず状態を見る。
体内から出ているわけではない。
表面近くの魔力が引かれているだけ。
「レン、大丈夫?」
「ああ」
「私も今来た」
ミラも腕を押さえている。
周囲から声が上がる。
「何だこれ」
「魔力使ってないのに」
「先生!」
「止まるな! 身体に異常がなければそのまま進め!」
教師たちも感じているらしい。
でも列を止めない。
俺は歩きながら西側を見る。
空には何もない。
ただ。
「……あれ」
遠くの景色が少しだけ歪んでいる。
熱気で空気が揺れて見える時に似ている。
西部研究区の上。
かなり遠い。
「ミラ、あそこ見える?」
「どこ?」
「あの研究棟の奥」
ミラが目を細める。
「……何か揺れてる?」
「ああ」
空気。
違う。
魔力。
見えるほど濃いわけではない。
でも周囲の光がわずかに歪んでいる。
「渦?」
「分からない」
その中心へ向かって、何かが流れている。
風はない。
木も揺れていない。
なのに。
目で追えない何かが、そこへ集まっている。
俺は無意識に立ち止まりそうになった。
「エルド!」
「はい!」
「進め!」
「すみません!」
教師に怒鳴られ、すぐ前を向く。
今は調べる時じゃない。
分かっている。
第三避難区画へ。
まずそこまで行く。
◇
中央地下へ続く大階段が見えたところで、避難列が止まった。
先頭の方で何か起きたらしい。
「何?」
「詰まってる?」
「地下満員?」
ざわつきが広がる。
教師が前へ走っていく。
しばらくして別の教師が戻ってきた。
「進路変更! 第五避難区画へ向かう! 南通路を使用する!」
「第三は?」
誰かが聞いた。
「使用できない!」
答えはそれだけだった。
列が向きを変える。
「使用できないって何だよ」
カイルの声が聞こえた。
いつの間にか別の教室から合流していたらしい。
「カイル」
「お前らここだったのか」
「何で第三使えないか聞いた?」
「知らない。俺たちも今来た」
カイルが俺の右腕を見る。
「大丈夫?」
「腕は平気」
「何か魔力引っ張られない?」
「やっぱりお前も?」
「ああ。さっきから何回か」
全員だ。
「どこに?」
「西」
「同じ」
カイルが少し嫌そうな顔をした。
「何なんだこれ」
「分からない」
南通路へ入る。
ここから第五避難区画までは少し遠い。
途中、研究設備用の輸送路と交差する。
普段なら大型の運搬台が行き来している場所だ。
今日は全部止まっていた。
魔法陣式の車輪。
荷台。
照明。
ほとんどの設備が補助魔力槽だけで最低限動いている。
「空気中の魔力だけでこんな止まるんだな」
カイルが言う。
「全部それだけで動いてるわけじゃない。でも自動補助に使ってる設備は多い」
「詳しいな」
「魔法工学の授業でやった」
「こういう時だけ役に立つ」
「こういう時だけって何だよ」
言い返した直後だった。
遠くから、何か大きな音がした。
爆発ではない。
重いものが壁にぶつかったような音。
一度。
続けて二度。
列全体が止まる。
「何?」
今度は教師もすぐには進めと言わなかった。
全員が同じ方向を見る。
南通路の先。
そこにある隔壁。
また音。
鈍い衝撃。
「下がれ」
先頭にいた教師の声が変わった。
「全員下がれ! 来た道へ戻れ!」
何が。
聞く前に隔壁が歪んだ。
金属製の扉。
大型運搬台が通れるほど大きい。
その中央が、こちら側へ少し膨らむ。
「何かいる」
ミラが言った。
次の瞬間、隔壁が破れた。
金属が内側へ飛ぶ。
「伏せろ!」
教師の声。
俺はミラの肩を掴み、横へ引いた。
破片が床を滑る。
悲鳴。
煙。
埃。
視界が一瞬塞がる。
「全員動くな!」
誰かが叫ぶ。
その向こうから。
低い音がした。
唸り声。
聞いたことがある。
授業で。
訓練場でも。
でも、こんな距離ではない。
煙の中から前脚が出る。
黒い毛。
太い爪。
四足。
大きさは大型犬の倍以上。
「魔獣……?」
誰かが呟いた。
教師がすぐ前へ出る。
「戦闘可能な教員は前へ! 生徒は後退!」
一体。
煙の向こうから二体目。
三体目。
「何で学院内に」
カイルが剣の柄へ手をかける。
「抜くな!」
教師が怒鳴る。
「まだ生徒は戦うな!」
その判断は正しい。
教師がいる。
俺たちが出る必要はない。
前へ出た二人の教師が同時に魔力を動かした。
一人は魔法。
もう一人は魔術。
「《炎槍》!」
短い詠唱。
炎が一本。
先頭の魔獣へ飛ぶ。
命中。
毛が燃える。
魔獣が倒れる。
隣では別の教師が一気に距離を詰め、強化した脚で二体目の顎を蹴り上げる。
速い。
俺たちの実技とは全然違う。
「行ける」
誰かが言った。
俺もそう思った。
三体なら。
教師二人で十分。
ところが、煙の向こうでまた音がした。
一つじゃない。
足音。
大量。
「……嘘だろ」
カイルの声が小さくなる。
四体目。
五体目。
その後ろにもいる。
違う種類。
小型。
大型。
角のあるもの。
六本脚。
俺が授業で標本しか見たことがないものまで。
「隔壁閉鎖!」
「閉まりません!」
「補助動力は!」
「魔力供給が落ちています!」
「手動!」
「今やってます!」
教師たちの声が飛ぶ。
生徒が後ろへ下がる。
でも人数が多い。
一気には動けない。
「押すな!」
「走るな!」
「後ろから詰めるな!」
それでも恐怖は広がる。
前に魔獣。
後ろには何百人もの学生。
逃げ道は一本。
魔獣の数は増え続けている。
「何でこんなにいるんだよ」
カイルが言う。
俺も分からない。
あの隔壁の向こうは輸送路。
その先は西部研究区へ繋がっている。
森じゃない。
魔獣の生息地でもない。
「どこから入った」
ミラが呟く。
答えられない。
教師の炎がもう一体を倒す。
だが、その奥からまた出てくる。
終わらない。
まるで。
どこかから押し出されているみたいに。
「後退! 第七講義棟へ避難させろ!」
別の教師が叫んだ。
「第五避難区画は放棄! 経路を変更する!」
列がまた動く。
俺たちも下がる。
今度は誰も文句を言わない。
魔獣の声が背中から聞こえる。
足音。
魔法。
衝撃。
学生の悲鳴。
教師の指示。
全部が一緒になっている。
「レン」
ミラが俺の服を掴んだ。
「右腕」
「使ってない」
「絶対使わないで」
「分かってる」
今はまだ。
教師が止めている。
俺たちは逃げればいい。
そう思った。
その時、前方でも悲鳴が上がった。
「何だ!」
列の先。
曲がり角。
人が逆向きに走ってくる。
「戻れ!」
「前にもいる!」
「何が!」
「魔獣!」
一瞬、誰も動けなくなった。
前にも。
後ろにも。
どうやって。
こっちは西部研究区から離れる方向だ。
「嘘だろ」
カイルが剣を抜いた。
今度は教師も止めなかった。
前方から現れた魔獣は小型だった。
狼に似ている。
三体。
いや、後ろにもいる。
「戦闘系の学生!」
教師が叫ぶ。
「教員の指示がある者だけ前へ! それ以外は壁際へ寄れ!」
状況が変わった。
教師だけでは前後を同時に守れない。
「カイル!」
「いる!」
「グレイス!」
「はい!」
俺の名前も呼ばれる。
「エルド!」
「はい!」
「右腕は使うな! 脚部と左腕のみ! 前の三体を足止めしろ! 倒そうとするな、避難路を開けるまででいい!」
「分かりました!」
心臓が一気に速くなる。
訓練じゃない。
相手は止まらない。
当たれば痛いでは済まない。
腰。
札。
今日は授業だけのつもりだった。
持っているのは試作用に鞄へ入れた《圧弾》札が四枚。
一秒が二枚。
三秒が二枚。
「レン」
ミラが隣に立つ。
顔が硬い。
でも魔力はもう動いている。
「私が前を止める」
「俺は?」
「横へ逃がさないで」
いつもの訓練なら、俺が何か言い返したかもしれない。
今回はすぐ頷いた。
「カイル」
「俺が近いやつ」
「了解」
三人で前へ出る。
魔獣がこちらを見る。
一体が低く身を沈めた。
飛びかかる姿勢。
俺は脚へ魔力を準備する。
待機。
右脚。
左脚。
右腕には流さない。
身体が勝手にいつもの形を作ろうとするのを止める。
今使えるものだけ。
ミラが右手を上げる。
「来る」
一体目が走った。
「《圧弾》」
空気が弾ける。
正面から命中。
魔獣の身体が横へずれる。
倒れない。
「硬っ」
ミラが呟く。
二体目がその横を抜ける。
カイルが前へ。
剣。
魔獣の爪。
金属音。
押される。
俺の方にも一体。
札。
一秒。
取る。
起動。
近い。
訓練より速い。
「っ」
左手を向ける。
発動。
《圧弾》が魔獣の頭へ当たる。
止まらない。
「嘘だろ!」
横へ避ける。
脚部強化。
一瞬だけ。
魔獣が俺のいた場所を通り過ぎる。
爪が服の端を掠めた。
身体が冷える。
当たっていたら。
考えるな。
「レン!」
ミラの声。
振り向く。
俺を通り過ぎた魔獣が、後ろの学生へ向かっている。
駄目だ。
三秒札。
違う。
遅い。
一秒札はあと一枚。
でも距離がある。
俺自身が追う。
脚。
待機していた魔力を流す。
短時間。
一歩。
二歩。
追いつく。
でも右腕は使えない。
何をする。
蹴る。
左脚へ強化。
強くしすぎない。
必要な場所だけ。
「こっちだ!」
魔獣の横腹を蹴る。
痛い。
硬い。
でも身体が少し逸れる。
学生から離れた。
「カイル!」
「分かってる!」
カイルが横から入り、剣の腹で魔獣の頭を殴る。
倒れる。
まだ動く。
「下がれ!」
教師の声。
俺たちはすぐ距離を取る。
後ろにいた上級生らしい魔法科の学生が詠唱を終える。
「《岩槍》!」
床が盛り上がり、魔獣の腹を打ち上げた。
今度こそ動かなくなる。
「……」
倒した。
俺たちだけじゃない。
でも。
本物。
ミラを見る。
カイルを見る。
誰も笑っていない。
「次来るぞ!」
教師の声で前を見る。
曲がり角の向こうから、さらに二体。
その後ろにも影。
どう考えても多い。
多すぎる。
「何なんだよ、これ」
自分の声が少し震えていた。
怖い。
普通に怖い。
それでも身体は動く。
右腕は使わない。
脚へ魔力。
待機。
一秒札は残り一枚。
三秒札二枚。
今まで何度も試した。
当てる。
避けさせる。
動かす。
訓練では、失敗しても次があった。
今は違う。
ミラが隣で息を整える。
カイルが剣を構え直す。
教師たちは後方の魔獣を押し返している。
俺たちの前にも魔獣。
避難する学生はまだ多い。
逃げる時間を作る。
それだけでいい。
倒す必要はない。
そう自分に言い聞かせる。
その時、天井の魔力灯が一斉に消えた。
「え」
暗闇。
一瞬遅れて非常灯が点く。
薄い赤。
同時に、今までとは比べものにならない力で身体の魔力が引かれた。
「ぐっ……!」
膝が落ちる。
魔力が西へ。
いや。
違う。
一方向じゃない。
西へ引かれているはずなのに、身体の一部は別の方向へ持っていかれる。
胸。
脚。
頭。
ばらばら。
「レン!」
ミラの声が遠く聞こえる。
目の前の壁に設置されていた非常用魔力計が、異常な速さで数字を切り替えている。
北。
西。
下。
東。
また西。
表示が追いつかない。
そして最後に。
見覚えのある文字が出た。
**《方向不定》**
息が止まった。
「……何で」
四号の時と同じ。
いや。
同じなのか。
分からない。
何も分からない。
ただ一つ分かるのは、あの時の異常が俺の腕輪だけの問題ではなかった可能性があること。
その瞬間。
通路の奥で、何かが吠えた。
今までの魔獣とは比べものにならない、低く大きな声。
壁が震える。
魔獣たちが一瞬だけ動きを止める。
そして。
まるで何かに追い立てられるように、一斉にこちらへ走り出した。
魔獣:高い魔力濃度の場所に発生する分類生物、魔力の色によって発生する魔獣の種類が違う。




