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熟成

 じめじめとした梅雨の水無月を超え、ぐんぐん気温が上昇する文月も超え、葉月に差し掛かる。陽は長く外はまだまだしばらくは明るさを保つだろう。ジリジリと肌がかゆみを覚えている。

 今日、私は晴れやかな気持ちで再び舞姫の扉を開ける。

「久しぶりね、ハル」

「たった一月ぶり程度ですよ、舞さん」

 店内に入ってすぐの疵の増えたカウンター越しに、懐かしい(と思ったのは秘密)顔が私を迎えた。

 私の姿を見つけて安堵した様子のナギも駆け寄ってきた。

「ハルさん、なんだか急に綺麗になりましたね……もしやおと――」

「一皮むけて、色気が出てきたってか。ハルちゃん」

 ナギの言葉を飛び越えて、聞こえてきた笑い声の主を見ればいつもの窓際席にいる常連の山路さんだった。

 カウンタ―から見て背面の棚にはグラスがガラスなのにそこそこ適当に置かれている。

 いくつか色褪せて破けそうになっているカウンターの椅子のクッション。

 単調で等間隔に並べられたテーブル席や、ムラが目立つ床の掃除跡。

 ああ、舞姫だ。

 ただそう思っただけなのに、なぜか涙がひとつ零れ落ちた。

 舞さんが私の肩をそっと抱いた。暖かくて、懐かしくて、安心する。

 これまでこの手に、この暖かさにどれほど救われていただろう。

「来年度からは、社会人として舞姫にでも通おうかな」

 舞姫に着くほんの三十分前に来た電話の結果を、震えながら、ちょっと鼻を詰まらせながらも私はみんなに報告できた。

 やったぁ! と喜ぶナギや、感慨深そうに頷くばかりの山路さん。

 小さくも拍手してくれた他のスタッフの中、にんまり笑う舞さんは私の体をぐるりと反転させて背中を叩く。

「あのねぇ、報告する順番が違うでしょ?」

 呆れた様子の舞さんは相変わらず言葉が少ない。でも、今回はわかりやすかった。

 もはや以心伝心のレベルで彼女の意図が分かる。

「はい!」

 本当は別件で舞姫を訪れていたのだけれど、優先度は低い。

 舞さんへの返事の勢いのまま、私は自宅へと向かった。



「結果が出たのなら、私から言うことはなにも無いわ」

 母の反応はあまりにも予想通り過ぎて呆れを通り越して尊敬の念すら覚える。

 ただ、以前と違うのはその声色にあった。

 明らかに安堵の色が見えた。

 何ならチラリと見ただけだけどため息をつきながらも口角が上がっていた気もする。

 隣に座っている父の様子からもそれはほぼ確信に近い感想だった。

「春奈が納得して選んだんだ。会社なんて入ってみないとわからないんだし、精一杯を尽くす場所が今度は会社に変わるだけさ。やりたいことをいつか実現するためにも、まだまだ頑張らないとね」

 嬉しそうにワイングラスを傾ける父は、特別楽観的なわけじゃない。普段の言動とは異なり実際はかなり堅実的なやり方を好む人だ。その父が私に関しては基本的に楽観的で、私を信用している口ぶりだ。

 信用されていること自体は当然嬉しい。その期待には応えたいと常々思っている。

 その父が母を咎めないのだから、つまりそういう事なんだ。

 母には母の価値観があって、私に対する想いもあって、父のフォローも多々あるのかもしれない。

 考えてみればいつだって私の傍に一番いたのは母だった。

 自称家庭教師という立場ではあったものの、会話もテキストに関する質疑応答程度だったとしても、ときどき大小問わず起きた言い争いや衝突も、全部母は知っている。

 私がどんな時にどんな顔をしてどういう理由で荒んだのか。

 私がどんな方法でどんな結果を以てどんなことを学んだ結果問題が解決したのか。

 母だけがそのほぼ全てを知っている。

 そんなことですら、私は今ようやく気が付いた。

「ありがとう」

 言葉は、自然と口にできた。リビングに座っているというのに、とても居心地の良さを感じられる。

 ふと、脳裏に遠い昔のシルエットが過る。

 手をつないで歩く母娘の背中。あの頃の、母の笑顔。

「ありがとう、お母さん」

「…………えぇ」

 母は最後の意地なのか、声色は和らいでもその鉄仮面だけは崩さなかった。

 

 それから残りの大学生活は光のような速さで過ぎ去っていった。

 卒業に向けたゼミでの活動。

 舞姫でのバイトと、他スタッフへの諸々の引継ぎ。

 友人と遊びに出かけたり、小旅行を繰り返したり。

 あちこち出かけて、行く先々で何となくスマホで撮影してみたり。

 私が完全に舞姫から離れていた二月の間を最後に、悠さんとは一度も会えていない。

 というか連絡が取れていない。

 舞さんがあからさまに何か知っている様子をたまに見せつけてくるのだけれど、日を重ねるにつれて「元々フラフラしている自由人だし」と考えるようになり、少しずつ思い出すことも減っていった。

 そんなこんなで駆け抜けた大学四年の一年間は、とても充実したものだったように思う。

 大学の卒業式を終えて、涙の気配が皆無な私と千蔭はお互いに冷血め、なんて言い合いながらたいして思い出に浸るような会話をすることもなくいつも通り別れた。

 下手をすると、もう二度と会うことが無いかもしれないのに、私たちは普通だった。

 ゼミのメンバーや教授とも形式的に挨拶を済ませた私は、未練など毛ほどもない母校をあとにして、舞姫へと移動する。

 駅へと向かう間も、キャンパスの光景や周囲の喧騒も気にならない。

 電車の窓から見える、遠のいていく景色も感慨深さなどなかった。

 私の意識はすでに、次年度へと向いていた。

 これから会いに行く人たちへと向いていた。

 一駅、また一駅。電車が停止する度に足が小さく動いてしまう。早く電車を降りて駆けだしたい気持ちが抑えられそうにない。

 今朝、母に「スニーカーで行きなさい。今日のメインは卒業式じゃないんですからね」とこれまででは考えられない提案をされた結果が功を奏しそうだ。

 短くても、濃密な一年だった。

 今だからこそ言えるのだけれど、春の私は腐っていた。

 母に対して抱く反感と、父に対する懐疑心。兄たちへの羨望、あるいは嫉妬。

 彼らに勝る自分のイメージが持てずにいたからこそ育んでしまった自嘲癖。他人への攻撃性が顕現した悪癖。

 それでも他人からは嫌われたくないという保身のための社交性。

 全てが治ったというには程遠い。でも、少しずつマシになっているのだそうだ。

 母への敵意はずいぶんと落ち着いた。これは母による拘束の類がほぼ取り除かれたことが大きいのかもしれない。自覚ができるほど視線が合う頻度が増えている。

 父への懐疑心はもう無い。むしろ信じることができなかった後悔が色濃く出始めているくらいだろう。それを悟られないようにはしているつもりだったけれど、困ったような笑顔を見せる日もあることから恐らく見抜かれている。

 兄たちのことは、正直どうでもよくなった。もとより私に干渉するようなこともなく、各々の忙しさでろくに会話もしていない。

 最寄りの駅に到着するアナウンスで自身への考察に没頭していた私は我に返った。

 素早く降車して、競歩のような勢いでホームを出て改札を突き抜ける。

 そこからはもはやランニングだった。

 まっすぐに舞姫へ向かう。

 陽が落ち、冷たい夜風を割いて走る。そのためのパンツタイプのスーツを選んだ。

 手荷物もいつものバッグをやめてリュックにした。

 早く会いたい。会って自分でちゃんと報告したい。

 荒みに荒んでいた私の背中を最初に押してくれた舞さんに。

 ふてくされて塗りつぶされていた私の感性を開いてくれた悠さんに。

 私の一年の成果と、やっと対等な関係になるスタートラインに立てたことを。

 最後の角を曲がる。店の窓から店内の光が漏れていた。田舎の街灯のようにぽつんと淡く輝いている。扉には「貸切」の札が下がっていた。ドアノブを掴んで一気に開ける。カランカランと鈴の音が響いて視線が集まるのを感じる。

「おまたせ、し、しました!」

 呼吸を整えるのも忘れて入ったからか行き絶え絶えだった。

 それでも、舞姫の主はいつも通り私の背中を叩いた。

「おかえり、ハル!」

「久しぶりだね、ハルちゃん」

 卒業式の終わりに、一年間の打ち上げをしよう。

 そう提案してくれたのはやはり舞さんだった。

 舞姫での会食はすでに始まっていたようで、アルバイトメンバーやベテラン厨房スタッフなど顔なじみのメンバーの他に、全く見覚えのない方々が四名ほどいる。

 私はまず、悠さんと舞さんに頭を下げた。

「お世話になりました。こんな一言じゃ言い表せないくらいですけど」

 二人は呆れたように苦笑していた。真面目も過ぎればつまらない、と。

「この街の、小さいですけど写真誌を扱う出版社で四月から社会人です!」

 私が就職する会社の社名を伝えると、悠さんは知っているらしく嬉しそうに何度も頷いていた。

「あそこは担当の人のこだわりを大事にしてるからね。かなり自由に記事が作れるらしいよ。ハルちゃんのことだからそこが決めてだったとは思うけど」

「いやー、まさかハルが雑誌の編集部に落ち着くなんてねぇ。悠と一緒だった時の仕事ぶりまでは知らなかったから、意外だったわー」

 どこでだってトップクラスでやっていけるよ。間違いない。と悠さんから太鼓判を押され、珍しく素直に納得する舞さんを見て安心した。

 それからいつもの制服姿のままのナギに貰ったグラスのビールを飲みながら私はしばらく二人とこの一年を振り返っていた。

 四月末から六月頭までのひと月半、悠さんと仕事をして、そこからおよそ二か月。

 時期だけを見ればギリギリ滑り込みで内定を貰えたのが八月中旬。

 ちょうどその頃から悠さんが遠地のクライアントとの仕事のためにこの街を離れたこともあり、そこからはただひたすらに大学のゼミと舞姫のバイトに明け暮れ、たまに旅行して出先で撮った写真を舞さんに提出させられたり。

 前半の目まぐるしさと後半の解放感に戸惑ったくらいだ。

 会話が一瞬切れたタイミングで、悠さんが見覚えのなかった人たちを紹介してくれた。

「彼らはなんというのか……来年度からハルちゃんの先輩兼ライバルみたいな感じの人たちだよ」

 曰く、同業他社の編集長さん方だそうだ。

 それを聞いた瞬間、腰が抜けそうになったのを何とかこらえた。

「秋風さんの招集とあっちゃ断る理由はありませんからね。君の噂は彼からよく聞いているよ。他社とはいえ、君の感性に期待しているよ」

「あら、彼のとこに就職するのね。苦労すると思うけど、しっかりね。嫌になったらいつでも言ってちょうだい。スカウトに行ってあげるわ」

「ルールや流行、テンプレート。そういったものをぜひとも無視して我儘に作ってみてほしいね。楽しみにしているよ」

「いつだって作りたい物を追求する。広めたい物を集める。君のガッツを見せてくれ」

 大の大人が食い気味に私を囲んでいる。悠さんはいったい彼らに何と言ったんだろうか。初対面の人にそこまで期待を寄せられても正直困ってしまう。それに、彼らを招集できるだけの影響力がある悠さんが改めて何者なのかが分からなくなった。

 私のその視線の意味に気付いたのか、彼は意味深に微笑むだけだった。

 とはいえ私の目標はその程度じゃブレはしない。

 次の夢と目標は決まっている。

「私、いつか悠さんの写真を特集します。だから、待っていてください」

「うん。その時は今度こそ、一緒に草の上で寝転がってもらおうかな」

 魔の抜けた彼の言葉に、どっと笑い声が沸く。

 たくさん笑って、お腹が痛いくらいだ。

「今後はカウンター席、空いてるときに来ますからコーヒーくらいサービスして欲しいですね」

「山路さんですらキッチリ全額貰ってるわよ。サービスして欲しかったら十年通ってからもう一度聞かせてよね」

 私は舞さんとニカッとした笑顔をぶつけ合った。

 彼女が寄りかかるカウンター席には、見覚えのある包みのチョコが積まれていた。

 夢の欠片が、積まれていた。

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