第9話『略奪接吻(リップ・トリップ)』
天館白実が目をさますと、保健室のベッドに横たわっていた。
中年女性の養護教諭は冷却剤をタオルで巻き、白実の後頭部にあてる。
「なんともない? 次の授業は念のため休んでね? 気分悪いとかあったら言ってね?」
そう言って仕切りカーテンから出ていくと、入れかわりに緑沢が入ってくる。
「オレ、そんなに驚かせちまったか? それとも、その前の話でなにか……」
(狙ってもいない『救助幻惑(レスキュー・スクリュー)』の暴発……これで銀華さんから何ポイントを取り返せたでしょう?)
そんな風に考えながらも、なぜか悪人笑いは出そうになかった。
緑沢の心配顔をただ見つめてしまう。
どこか、意識がぼやけていた。
(まだ攻略ルートは途切れていません。影城黒美のグッドエンドへの……)
「……天館?」
「黒美です。黒美と呼んでください」
「くろみ? ろれつがまわらないのか?」
(白実ではなく、黒美のグッドエンドを迎えるには……なにをすれば……)
ゲーム内で悪役令嬢だった時にくり返された、エンディング直前に見せつけられた光景を思い出す。
起き上がって手を伸ばした。
「最終攻略スキル……『略奪接吻(リップ・トリップ)』……」
「さいしゅうこう? ……ん!?」
手を握ったり抱擁するより、はるかに致命的なポイント差のつく既成事実。
日常的には触れられない部分による肉体接触での錯乱誘発、洗脳誘導。
黒美はそう理解していた行動選択だった。
しかしくちびるに柔らかさが伝わり、緑沢を味覚や温度でも感じると、黒美は安らぎをおぼえる。
(制圧した達成感ではなく……この感覚のために銀華さんは操作され、プレイヤーはその感覚を共有していたのでしょうか?)
ゲーム内で悪役だった黒美には、選択を許されない行動だった。
はじめて知るヒロイン役だけの感覚。
(でもちがいます。こんな攻略ルートは、支離滅裂すぎます。仮にグッドエンドでも最低の……)
後悔に涙があふれる。
「もうしわけ……ありませ……」
緑沢は効果的に錯乱し、天井や床へ助けを求め、机に向かっている養護教諭には気づかれていないことを確認した。
「緑沢さんを……こんな……」
(未熟なヒロイン役の最低ルートに巻きこんでしまいました)
「い、いやとにかく、おちつけって?」
(でも私はもう、この『最低のグッドエンド』でもかまいません。もうエンディングになってほしいのに……この世界ではそうできません。クリアが確定しません……なんて残酷な仕様)
「その……今のは、なかったことにするから……」
(私は今の場面だけを永久リプレイしたいのに)
白実が教室にもどっても、緑沢は緊張した様子で顔をそらした。
白実も緑沢へ顔を向けることができない。
(急いで攻略ルートを修正しなければ。とはいえ緑沢さんの行動パターンに大きな変化はないようです。それもどうかと思いますが。王子トリオと桃代さんもほぼいつもどおり。緑沢さんはいつもの眠そうな顔ですが、心なしかおちつかない様子でしょうか。ノートを開いた!? すぐ閉じた!? ……それだけですね)
白実はそっと、自分のひたいに浮かんだ冷や汗をぬぐう。
(緑沢さんを意識しすぎているようです。もっと有益な分析をして、正解を選択しなければ。茶子さんの微動だにしない背は見飽きましたが。……緑沢さんがほおづえの位置を変更!? それにどのような意味が!?)
白実はふたたび、自分の動揺に気がつく。
(いえ、考えすぎかもしれません。くちびるに近い位置へ手がおかれるポーズではありますが、あの程度の接触で物理的な影響はなにも……というか、緑沢さんの変化のとぼしさはもしや、私の最終奥義すら後頭部強打による暴発事故としてヒットが浅い処理に? ルートの急変がないのであれば助かりますが、それでしたら息の続く限りに、もう一回か二回くらいは…………)
いつの間にかくちびるを重ねる脳内リプレイばかりくり返し、体温が上昇し続けていた。
(は!? 選択判断をまったくしていなかった!? ま、まずは状況の整理だけでも……)
以前に緑沢が放課後に誘ってきた時は、ぶっきらぼうな顔をしていた。
黒美の素の態度を見ると、うれしそうな笑顔をしていた。
照れている時や心配している時には、無防備に素直な表情も見せ……
(……ってなぜ緑沢さんの表情限定で記憶整理!? もっとほかにも、しぐさやにおい……ではなくて! ほかにも管理すべきフラグが!?)
脈拍および呼吸数も増大。
(脳の血流が妨げられ、思考力も低下している? ……私に錯乱の兆候が?)
そっと目をふさぎ、視界だけでも緑沢を消しておく。
(最終攻略スキル『略奪接吻(リップ・トリップ)』の隠し効果でしょうか? あるいはゲーム内では、リスク部分をカットした設定に? ……たしかに、恋愛を理想化したゲーム世界で、この副作用は凶悪すぎる仕様……発動した私のほうが、緑沢さんに隷従しかけています)
恥じ入る感情がどこからか流入し続けていた。
(くっ、ゲーム内にプレイヤーの気力ゲージも表示されていたなら! 緊張が操作能力へ及ぼす影響を把握し、もっと慎重に動けていたものを!)
淵里墨花が宣言通りに動きを見せないことだけは救いだった。
しかし放課後、三人のモブ女子が予想外の動きを見せる。
「ふ、淵里さん、これ……借りてよかったんですよね?」
シャープペンを返していた。
「こ、こまって、いるようでした、ので……授業中でしたし、うまく伝えられず、もうしわけありません」
「いえ、そんな。ありがとうございました」
(低コストの買収でしょうか?)
「あの……もしかして昨日、ティッシュを投げつけて逃げたのも、気をつかって?」
同伴していた女子が話に加わる。
「ご、ごめんなさい。ハトさんの落としものが服へついたのに、気がついてない様子でしたので……」
「そう、それで気がついて……もしかして淵里さん、あがり症?」
墨花は震えながらも照れ笑いでうなずく。
(ほかにも切りくずしの布石を!? あのモブ女子集団の表情……墨花さんへの評価が急変している!?)
「え。じゃあ私がなくした筆箱を持っていたのは……」
「り、理科室に、忘れていたのを見つけて……」
「届けてくれたんだ? なにも言わないで置いていくから、お礼を言いそびれちゃったよ……え。なに? 淵里さんてすごくいい人?」
(第一印象を迷彩にした不意打ちで威力を高め、好印象をたたきこむ攻略スキル『差異陥穽(ギャップ・ドロップ)』の三連コンボ!? ……やはり銀華さんです……もはや言い逃れはできませんね……)
墨花は白実と目が合うと、あわてて立ち上がって逃げ出す。
「あ、あの、ごめんなさい……!」
(銀華さんが手なずけたモブ女子ABCの視線……私への評価が変化しているようです。墨花さんへの評価が激変したことで、私のこれまでの墨花さんへの対応に疑念を持ちはじめて……なにをやっているのですか銀華さん!? 本当に私の邪魔をする気がないのでしたら、至高のモブを徹底してください!)
とはいえ自身も、まだヒロイン役にはなりきれていなかった。
(もしや……私から悪役の表情や発想が抜けにくいように、銀華さんも無意識に偽善者の行動選択を重ねがちなのでしょうか?)
ただいずれにせよ、迷惑な存在には変わりない。
(ともかく、このままでは私の『誰からも好かれる女子』の地位すら危うく……今は手持ちのハーレム要員で地盤を固めておいたほうがよさそうです。今の私では、緑沢さんに関する判断能力が低下していますし……)
なにせ『緑沢』の名が出ただけで、その顔の記憶があふれて思考を妨害しがちだった。
(しかしこの副作用、いったい効果ターンはいつまで継続するのでしょう?)