第2話 初めての車
山道を下り始めてからも、ノエルは拓也のすぐ隣を離れなかった。
ふさふさの尻尾を揺らしながら、少し先へ行っては戻ってくる。道の脇に生えている草へ顔を近づけたり、木の上から鳥の声が聞こえれば足を止めて見上げたりと、帰り道ですらずっと楽しそうだった。
「元気だな、お前」
そう言った途端、ノエルがぴたりと足を止める。
「お前じゃないよ」
「え?」
「僕、ノエル!」
少しむっとしたようにこちらを見上げてくる。
「ああ、ごめん。ノエルな」
「うん!」
名前を呼んだだけで機嫌を直したのか、ノエルはまたすぐに歩き始めた。
拓也もその横を歩きながら、さっきから少し気になっていたことを思い出す。
「なあ、ノエル」
「なに?」
「本当に大丈夫なの?」
「なにが?」
「さっき迎えに来た、でっかい白いやつ。帰るって言われてただろ」
ノエルはきょとんとした顔をしたあと、何でもないことのように答えた。
「大丈夫だよ」
「そうなの?」
「うん。帰ってもつまんないもん」
あっさりした返事だった。
拓也としては、あれだけ大きな相手に逆らって残ったことの方が気になっているのだが、ノエル本人はまるで心配していないらしい。
「……まあ、ノエルが大丈夫って言うならいいけど」
「うん!」
それ以上聞いても、今はまともな説明が返ってくる気がしなかった。
しばらく下っていくと、木々の間から拓也の車が見えてくる。山道の途中にある少し広くなった場所へ停めておいた、普段から通勤にも使っている普通の乗用車だ。
その車が見えた瞬間、ノエルが走り出した。
「なにこれ!」
「ちょ、待てって」
拓也が追いつく頃には、ノエルは車の前まで行き、鼻先を近づけるようにして眺めていた。
「これなに?」
「車」
「くるま?」
「そう。これに乗って帰るんだよ」
「これに乗るの!?」
青い目が一気に輝く。
「乗る!」
「分かった分かった」
拓也が鍵を開けると、ピッという音にノエルの耳が立った。
「今のなに?」
「鍵開けた音」
「どうやったの?」
「これ」
手に持ったキーを見せると、今度はそちらへ顔を寄せてくる。
「これ押したの?」
「そう」
「僕も押していい?」
「押してもいいけど、今押しても何も起きないぞ」
「なんで?」
「もう開いてるから」
「押す!」
「はいはい」
拓也がキーを差し出すと、ノエルは前脚でボタンを押した。けれど車には何の変化もなく、ノエルは少しだけ首を傾げる。
「ほんとだ」
「だろ?」
拓也が助手席側のドアを開けると、ノエルは中を覗き込み、そのままぴょんと座席へ飛び乗った。
「おお……!」
「そんなに珍しいか?」
「これなに?」
前脚でシートを軽く押している。
「椅子」
「こっちは?」
「それも椅子」
「これは?」
「それは――」
次から次へと向けられる前脚と視線に、拓也は途中で笑ってしまった。
「ちょっと待って。一個ずつ聞いてくれ」
「じゃあこれ!」
「シートベルト」
「なにするの?」
「人が車に乗る時につけるやつ」
「僕も?」
「ノエルはいい。代わりに、ちゃんとそこ座ってろよ」
拓也が自分の席へ回り込み、運転席へ座る。その間にもノエルは前を見たり横を見たり、落ち着く気配がない。
「ノエル、じっとして」
「外見たい!」
「見ていいけど、動き回るなよ。危ないから」
ノエルは今度は窓の方へ身体を寄せようとする。
「もっと見たい!」
「ダメ。ちゃんと座ってろ」
「やだ」
「やだじゃない」
全然聞かない。
拓也は少し考えてから、ノエルを見る。
「ちゃんと座ってないなら、家着いてもご飯なしな」
ノエルの動きが止まった。
「……ご飯ないの?」
「ちゃんと座らないならな」
数秒だけ拓也を見つめたあと、ノエルは素直に座席へ身体を落とした。
「座った」
「そこは聞くんだな……」
「ご飯ある?」
「家に帰ったら何かあるよ」
「肉?」
「肉かどうかは知らない」
「肉がいい!」
「はいはい」
エンジンをかける。
低い音と小さな振動に、ノエルの耳がまたぴんと立った。
「動いた!」
「まだ動いてない」
「音した!」
「今から動くから、ちゃんと座ってろよ」
「うん!」
さっきまでとは別人みたいに素直な返事だった。
拓也はゆっくり車を出す。
動き始めた途端、ノエルは窓の外へ顔を向けた。
「うわ!」
木々が後ろへ流れていく。
「動いてる!」
「車だからな」
「すごい! 僕、何もしてないのに進んでる!」
ノエルは窓の外を夢中で見ている。曲がり道へ入るたびに身体を少し揺らし、景色が変わるたびに耳まで忙しなく動いていた。
拓也にとっては何度も通っている帰り道だ。それなのに、隣でここまで楽しそうにされると、いつもの景色まで少し違って見えてくる。
しばらく走ったところで、ノエルがふいにこちらを向いた。
「ねえ」
「ん?」
「お腹すいた」
「え?」
思わず横を見る。
「いや、さっきあれだけ肉食っただろ」
「でもお腹すいた」
「早くない?」
「なんかないの?」
「車にはないよ」
「えー」
明らかに不満そうな声を出す。
「家に帰れば何かあるって」
「じゃあ早く帰ろ!」
「急いだからってそんな変わんないから」
「早く!」
「分かったからちゃんと座ってろ」
「うん!」
返事だけはやけにいい。
ノエルはもう一度窓の外へ顔を向け、流れていく景色を楽しそうに眺め始めた。
拓也はそんな横顔をちらりと見てから、前へ視線を戻した。
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