第1話 山で出会った白い子
日曜日の昼前、田中拓也は小さな荷物を抱えて山道を歩いていた。
背負っているのは、折り畳み式の椅子と一人用の小さな焚き火台。それに肉や野菜を少し入れた保冷バッグくらいだ。本格的にキャンプをするつもりはない。昼飯を食べて、のんびりして、夕方になる前には帰る。それだけだった。
「やっと休みだ……」
木々の間を抜ける風が頬に当たり、拓也は大きく息を吐いた。
平日は朝から会社へ行き、一日中パソコンに向かってシステム関係の仕事をしている。仕事が嫌で仕方ないというほどではないが、好きかと聞かれれば迷わず首を横に振る。職場に特別仲のいい相手がいるわけでもなく、一週間働き終える頃には毎回しっかり疲れていた。
だから、この時間を楽しみにしている。
家族が持っている山の中には、昔から拓也がよく使っている少し開けた場所がある。木々に囲まれてはいるが頭上は明るく、地面も比較的平らで、一人で昼を過ごすにはちょうどいい。
「よし」
いつもの場所に着くと、拓也は荷物を下ろした。椅子を広げ、焚き火台を置き、持ってきた道具を順番に並べていく。慣れた手順で火を起こし、小さな網を載せる。その上へ肉を一枚置くと、すぐに脂の焼ける音が聞こえ始めた。
ジュウッ、と音が鳴る。
「これこれ」
拓也は椅子へ腰を下ろし、トングで肉をひっくり返した。表面に焼き色がつき、脂が網の下へ落ちる。そのたびに火が小さく揺れ、香ばしい匂いが広がっていく。
周りから聞こえるのは、葉が擦れる音と鳥の声くらいだった。
「会社で食う昼飯とは全然違うな」
焼けた肉を取り、少し冷ましてから口へ運ぶ。
「うまっ」
味付けは家から持ってきた塩と胡椒だけ。それでも外で焼いた肉は、家でフライパンを使った時よりずっと美味しく感じる。
拓也は次の肉を網へ載せ、そのまま背もたれへ身体を預けた。
「もうずっとこうしてたいわ……」
月曜日のことを考えなくていい。メールも仕事も、今は何も気にしなくていい。風が吹くたびに木々が揺れ、葉の隙間から差す光もわずかに形を変える。肉が焼けるのを待ちながらそれを眺めているだけで、平日に溜まっていたものが少しずつ抜けていく気がした。
焼けた二枚目の肉へ手を伸ばそうとした、その時だった。
かさっ、と少し離れた木々の奥から何かが地面を踏む音がして、拓也の手が止まる。続けて、かさ、かさ、と一定の間隔で音が近づいてきた。
「なんだ?」
トングを持ったまま森の方へ目を向ける。この辺りに、人を襲うような危険な生き物がいないことは知っている。それでも、何が出てくるか分からない以上、まったく気にしないわけにもいかない。
音はそのまま近づき、やがて低い草の向こうから白い何かがひょこっと顔を出した。
「……え?」
最初に見えたのは、丸みのある小さな顔だった。真っ白な毛に包まれ、頭の上には少し大きめの耳が二つ。澄んだ明るい青色の目が、まっすぐこちらを見ている。
その白い生き物は草の間から身体を出すと、四本の足でてくてくと歩いてきた。大きさは子犬くらいだ。身体も足もまだ幼さを感じる丸みがあり、背中から伸びるふさふさの尻尾が歩くたびに小さく揺れている。
「なにこれ……かわい」
思わず声が漏れた。
犬に似ている気はする。けれど犬にしては耳や顔立ちが少し違うし、毛並みも妙にきれいだった。かといって猫とも違う。
「異世界のモンスター……なのか?」
この世界には、ゲートを通じて異世界からやってくる種族もいる。人間と変わらない姿の者もいれば、獣の特徴を強く残した者もいるため、見たことのない姿だからといって、それだけで危険とは限らない。
白い生き物にも、こちらを襲おうとする様子はなかった。むしろ視線は拓也ではなく、網の上に向いている。ちょうど焼け始めた肉をじっと見つめ、鼻先を小さく動かしていた。
「……お前、それ狙ってんの?」
拓也が肉を裏返すと、その青い目も一緒に動く。
「肉が欲しいのか?」
問いかけると、白い生き物が一度だけ小さく鳴いた。
「なんだよ。やっぱそうなのか」
拓也は思わず笑い、先ほど焼き上がった肉の一部を小さく切った。味付けをする前のものを選び、少し冷ましてから地面近くへ差し出してみる。
「ほら。熱いから気をつけろよ」
白い生き物は一度肉の匂いを嗅ぐと、迷うことなく口に入れた。もぐもぐと何度か噛み、飲み込む。その次の瞬間、ふさふさの尻尾が勢いよく左右へ動き始める。
「そんなうまかった?」
白い生き物は拓也を見上げ、それからまた網の上の肉へ視線を戻した。
「いや、分かりやすすぎるだろ」
その様子が面白くて、拓也はもう一切れ切り分ける。
「ほら」
今度はさっきより早かった。差し出した途端に口を伸ばし、あっという間に食べてしまう。
「めっちゃ食うじゃん」
また尻尾が揺れた。
拓也はしばらく白い生き物を眺めてから、そっと手を伸ばす。
「触ってもいい?」
意味が通じているかは分からない。それでも白い生き物は逃げず、拓也の手を見ただけだった。
指先で頭の毛に触れてみる。
「うわ、ふわっふわ」
想像していた以上に柔らかい。そのまま頭から首の辺りまで撫でても嫌がる様子はなく、むしろ白い生き物の方から少しだけ頭を押しつけてきた。
「お前、人懐っこいな」
白い毛に指が沈み、撫でるたびに小さな耳がわずかに動く。肉をあげれば嬉しそうに食べ、撫でても逃げない。気づけば、さっきまで一人で肉を食べていた時より笑っていた。
「今日来てよかったな。こんなかわいいのに会えると思わなかったわ」
白い生き物はそんな拓也の言葉を気にした様子もなく、また肉へ目を向ける。
「……まだ食うの?」
じっと見つめてくる。
「しょうがないなあ」
三切れ目を渡すと、それもすぐになくなった。四切れ目を焼き、自分で半分食べ、残りを白い生き物へ渡す。最初に持ってきた量は一人で食べるには十分だったのに、いつの間にかかなり減っている。
「ちょっと待て。お前にばっか食わせてたら俺の分なくなるじゃん」
拓也が次の肉を自分の皿へ載せると、白い生き物がすぐ隣まで寄ってきた。座った拓也の膝近くから顔を上げ、肉を見る。
「ダメダメ。これは俺の」
頭を撫でて誤魔化す。
白い生き物は一度撫でられたものの、すぐにもう一度皿を見た。今度は少し不満そうに、尻尾の動きまで止まる。
「いや、そんな顔してもダメだって。もう結構食っただろ? 俺も食いたいんだから、これ以上は――」
「もっとちょうだいよ」
拓也の手が止まった。
山の風が木々を揺らす。拓也はゆっくりと、自分の手の下にいる白い生き物を見た。青い目がまっすぐこちらを見返している。
「……え?」
「もっと食べたい!」
「え、喋ってる!」
拓也は思わず椅子から身体を起こした。
人の言葉を話す異世界種族は珍しくない。街へ出れば、見た目からして地球の人間ではない者が普通に働いている姿を見ることもある。
ただ、目の前にいるのはどう見ても四足の小さな獣だ。ここまではっきり獣の姿をしたまま人間と同じように話す種族を、拓也は実際に見たことがなかった。
「お前、喋れたの?」
「うん!」
「最初から?」
「うん!」
「じゃあさっきまで普通に俺の話分かってたの?」
「うん!」
「……マジか」
驚きながらも、返事をするたびに小さな耳が動く姿はやっぱりかわいい。拓也が何から聞けばいいのか考えていると、白い生き物はそんなことより肉の方が気になるらしく、また皿へ顔を向けた。
「ねえ、もっと――」
そこで、森の奥から大きく枝が折れる音がした。
バキッ、と今度はさっきとはまるで違う音が響く。何か重いものが地面を踏むたび、落ち葉が擦れ、低い枝が押し退けられていく。
拓也は立ち上がることもできないまま、音のする方へ顔を向けた。
木々の隙間に、白いものが見える。最初は大きな岩かと思った。それが動き、太い前脚が一歩、開けた場所へ踏み出した。
「え……」
続いて現れたのは、巨大な白い獣だった。
全身を覆う白い毛。青い目。頭の上にある耳も、長くふさふさした尻尾も、隣にいる小さな白い生き物とよく似ている。
けれど、大きさが違いすぎた。四本の脚は一本一本が太く、立っているだけで拓也が座っていた椅子など簡単に踏み潰せそうに見える。首から肩にかけては長い毛が重なり、白い身体をさらに大きく見せていた。
拓也は逃げようとも立ち上がろうともできない。ただ、その姿を見上げたまま喉を動かす。声は出なかった。
巨大な獣はゆっくりとこちらへ歩いてくると、拓也の前で足を止めた。
「……ごめんなさいね」
拓也は目を見開いたまま動けなかった。
穏やかな女性の声だった。
「この子、勝手に来ていたのね。食べ物までいただいたみたいで」
「え、あ……はい」
なんとかそれだけ返す。
巨大な獣は拓也ではなく、すぐ横の小さな白い生き物へ視線を落とした。
「ノエル。帰るわよ」
「やだ!」
即答だった。
「もう十分遊んだでしょう?」
「まだいる!」
「ノエル」
「やだ!」
ノエルと呼ばれた白い子は、拓也の椅子の横へぴったり身体を寄せた。ついさっきまで恐怖で動けなかった拓也は、目の前で始まったやり取りに別の意味で言葉を失う。
巨大な白い獣は少しの間ノエルを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もう。好きになさい」
「やった!」
ノエルの尻尾が勢いよく揺れる。
拓也が意味を理解するより先に、巨大な白い獣はもう身体の向きを変えていた。
「あの、ちょっと……」
呼び止める間もなく、巨大な白い身体が木々の間へ戻っていく。枝葉が揺れ、その姿は少しずつ見えなくなった。
しばらくして森の奥から聞こえていた重い足音も消える。
拓也はその場に座ったまま、巨大な白い獣が消えた方を見つめていた。
「……帰った?」
「うん」
足元から返事が来る。
拓也はゆっくりノエルを見る。ノエルは何事もなかったような顔で、すぐ隣に座っていた。
「いや、うんじゃなくて。お前は帰らなくていいの?」
「帰らないよ」
「じゃあどうすんの?」
ノエルは少し考えるように首を傾げ、それから拓也を見上げた。
「一緒にいる!」
「俺と?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
拓也はもう一度、巨大な白い獣が消えた森の方を見る。戻ってくる気配はない。目の前には、さっきまで肉をねだっていた白い子だけが残っている。
「……俺、もう帰るんだけど」
「僕も行く!」
「俺の家に?」
「うん!」
ノエルは当たり前のことみたいに答えた。
拓也はすぐには返事をせず、その顔を見つめる。青い目が楽しそうにこちらを見上げ、ふさふさの尻尾が左右に揺れていた。知らない相手の家へ行くことに迷っている様子はまったくない。
「……本当に来る気なんだな」
「行く!」
ここまで言われて、追い返す理由も思いつかなかった。あの巨大な白い獣も帰ってしまったし、何より目の前のノエルは、さっきからずっと拓也のそばを離れる気がない。
「……まあ、いいけど」
「やった!」
「でも家に肉がずっとあるわけじゃないからな?」
「あるよ!」
「いや、なんでお前が決めるんだよ」
拓也は笑いながら、残っていた肉を自分の口へ入れた。
食事を終え、焚き火台が冷めるのを待ってから道具を片づけていく。その間もノエルは拓也の周りをうろうろし、時々保冷バッグの中を覗こうとしては止められていた。
「そこ、もう何もないって」
「ほんと?」
「ほんと。お前が食ったから」
最後に椅子を畳み、荷物を背負う。
「じゃあ帰るぞ」
「うん!」
拓也が山道を歩き出すと、ノエルもすぐ隣をてくてくとついてきた。
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