63.田辺恵理という死者の話
人のためを思って行動し、誰からも感謝される人間になりなさい。
それが、彼女が親から受けた教えだった。
幼児から小学生、小学生から中学生、高校生と歳を経るに連れ、その教えが何を語ろうとしていたのか、彼女は自分なりの答えを見つけていた。
つまり社会というのは、一握りの「選ばれた人間」が「そうでない人間」をこき使って、あれこれ指図したり、時に踏みにじることで回っている。そして、自分はどうやら「そうでない人間」に属している。
だから、「選ばれた人間」に尽くすことに喜びを感じねばならないのだ。そういう性質であれば、踏みにじられても跳ね返して生きていける。母の教えは、そういうことを語っているのだろう、と。
学力で、運動神経で、芸術的センスで、あらゆることで打ちのめされるたびに、彼女はその思いを強くした。自分が「選ばれない人間」で、だからこそ利他的な人生を歩まねばならないのだ、と。
大学を経て、彼女は飲食店を多数チェーン展開している会社に入社した。
入社後すぐ、研修と称した合宿が始まる。昼夜の持久走、素手でのトイレ掃除、雑踏での声出し、叱られ方講習……。ある種悪辣とも呼べるカリキュラムを、彼女はじっと耐えた。
これこそが、真に人に尽くせる人間になるための研修なのだと、信じて疑わずに。
研修の後、同期たちは全国の店舗へと派遣された。店長候補として実店舗で仕事をするためだ。年下のアルバイト達に混じって、彼女も必死に店の仕事へ食らいついていった。
(あ、また社員さんグラス割った! ちょっと、忙しいんだからいい加減にしてよ!)
(うちの店舗は売上低いって本店から言われててね……。ノルマ果たせないと、俺はクビかなあ……?)
(オーダーミスじゃん! 無駄な廃棄は弁償しろよ! 大学出てるクセに使えねえ!)
(頼む、明日も入ってくれ! あの子辞めちゃってさ……。シフトに穴が空いたら店が回んなくなって、また売り上げが……)
(はあ? レジの金とか知らねえよ。お前の計算ミスだろ、自分で払ったら?)
(またバイトがいなくなっちゃってね……。うん、だからさ、頼むよ! 今月休んでないの、俺だってそうなんだから、お願いだよ……)
(少ない? 何をバカな。ノルマ未達分は給料からの天引きになる。そういう契約を交わしただろう、覚えていないというのは通じないぞ)
(この店を辞めても、他で君が働けるような場所はない。ここで通用しないなら、どこへ行っても同じことだよ)
半年間、ほとんど休みなく彼女は働いた。ボロボロになって眠り、ボロボロのまま目覚め、更にボロボロになって帰ってくる。
これが人に尽くすということなのだ。これがわたしの喜びなのだ。彼女はそう言い聞かせてきたが、その言葉もまた擦り切れてしまっていた。
ある朝、彼女は目覚めなかった。心より先に、体が壊れた。いや、心はもう壊れていて、体の不調を感じ取れなくなっていたのかもしれない。
彼女は、田辺恵理は22歳で命を使い果たしてしまったのだった。
死した人間はどこへ行くのか。仮に魂というものがあったとして、その行先を知っているのだろうか。
田辺恵理の「魂」は、気付けば海の底にいた。どこよりも深く、生命の光のない場所は、正に「死の世界」と呼ぶべき場所だった。
真っ暗な世界の中で、大きな何かが呼吸するように動いているのが感じられる。それは力であり、意志であり、摂理であった。
何かから、大きな腕のようなものが伸び、恵理の魂を押し上げていく。上の方へ、上の方へ、生命の溢れる場所へ、水面よりも高くへ、乾いた陸の上へ……。
次に恵理が目を覚ました時、彼女は知らない家の中にいた。
聞き慣れない言語が飛び交うその中で、自分の体が小さくなっていることに気付く。
ああ、わたしは、もう一度生まれたのだ。
生まれ変わりというものを、恵理は信じていなかったが、話としては知っていた。輪廻転生という言葉も聞いたことはあった。
しかし、そこはどうやら恵理の知る世界ではないようだった。魂の記憶している、恵理のいた世界の記憶とは、食い違う部分が多い。
文明のレベルは、恵理の記憶よりも低い。子供は放っておいても育つと考えられているのか、うっちゃられていたり、子供同士で面倒を見させていたりと危なっかしい。
その割には、生活のレベルは高いようだ。恵理のいた世界にあった「ガスコンロ」のようなものが、各家庭にあった。
それらはガスではなく、どうやら魔法で動いているらしい。魔法は、恵理の知る「科学」とは、根っこからして違うもののようだった。
これはもしかすると、元とは異なった世界に生まれ変わってしまった?
恵理はハンナという名をもらった。ハンナには七人の兄弟がいた。女兄弟は一人、残りはみんな男で、末の妹のハンナに興味津々の様子だった。
それに対して、両親はあまりハンナに注意を払わなかった。というのも、ハンナが産まれたのは漁業で生計を立てている海沿いにある小さな集落で、男手が歓迎されたからである。
魔法のお陰で男女の性差関係なく力仕事のできるこの世界であったが、漁業は男の仕事という認識がなされているらしい。ハンナが聞きかじったところによると、「海の神」は神話の時代に「豊穣の女神」にやり込められたらしく、女というものを嫌うのだという。そのため、漁船に女を乗せるのはご法度だった。
魔法は、ある分野であれば元の世界を超えているところもある。物の修繕や怪我の治療がそれだ。網の破れや船の損傷も、一瞬で元通りになる。あるいは、指や腕が切断されても、治療の魔法を使えばすぐにくっついてしまう。
そうであるのに、「『海の神』が女を嫌うから漁業従事者は男性に限る」「漁に出る時は必ず、『海の神』の神官に祝福をもらわねばならない」といったような迷信が信じられているのは何故だろう。また、造船や家の建築といった技術も未成熟に見えた。
どこかアンバランスな発展をしている理由の一端を、ハンナは3歳の時に知る。
その日の早朝、集落にいる「海の神」の神官が、「今日は海に、家の外に出てはならない」と告げた。集落にある家々は、きつく戸締りをして家の中に閉じこもった。
神官がこう言う日は、必ず魔獣の襲撃がある。
それは曇天の下、灰色に濁った海の中から現れた。きつく閉ざされた窓の隙間から、ハンナは彼らの姿を見た。
人のような手足の生えた、巨大な魚の群れ。人間の大人と同じくらいの大きさのそれらは、100匹近い大群であった。
(ハンナ、隠れていろ!)
父親が小さな、しかし鋭い声で注意してくる。
それを聞きながら、ハンナは疑問に思う。
どうして、退治しないのだろう?
この集落で一番の魔法使いは、「海の神」の神官で、彼ならば攻撃魔法も使える。確かに、100匹という数を神官一人では相手取れないだろうが、漁で鍛えた屈強な男たちもたくさんいる。力を合わせれば、撃退することも充分できるはずだ。
魔獣たちは集落の奥、魚の干物などが蓄えられている倉庫へと向かっていく。それは集落の大事な栄養源であった。
魔素生命体である魔獣だが、その体には有機物も含まれている。その「有機的な」部分との結合を保つために、肉を食らうのだ。
そういうことか、とハンナは気付く。魔獣を倒そうとすれば、少なからず犠牲を払わねばならない。それに比べれば、倉庫の中身をすべて明け渡し、帰ってもらう方が被害が少なくて済む。怪我は簡単に治るとはいえ、死人を蘇らせることはできない。
魔獣という外敵に脅かされているから、生活が安定せず、この世界は歪な発展しかしてこなかったんだ。この世界の人々は、常に戦争をしているようなものなのだ。
だけど、こんなの敗北主義だ。ハンナは、3歳にしては難しい言葉を思い描いた。それは魂の覚えている恵理の記憶で、そして――後悔の色をしていた。
ここで晴らそう、その後悔を。それは、この文明が遅れた人たちに尽くすことにもなるだろうし。
父親の制止を振り切り、ハンナは家の外に飛び出した。
自分の世界になかった魔法に、ハンナは興味を持っていた。それ故、魔法絡みのことには耳ざとかった。幸い、「海の神」の神官は気安い老人で、ハンナの子供らしからぬ疑問にも真剣に答えてくれた。
(魔法の仕組み? ハンナは難しいことに興味を持つのだな)
言葉も早いし、教えてみるかと言いながら、原理を説明してくれた。
(魔法とは、まずこの世界に満ちている魔素という小さな粒を、体の中に取り込むことから始まる――)
砂浜を駆けながら、ハンナは魔素を集める。小さな体すべてを、魔素で満たそうとするかのように。
(そして、錬成式という魔素の使い方に従って、魔素を錬るのだ。まるで、泥団子をこねるようにな――)
神官の見せてくれた、いくつかの錬成式を思い描く。子供には難しいだろう、と神官は笑っていたが、恵理の記憶を持つハンナには理解ができた。入力した値を演算して返す。それは、ハンナの世界で言うところのコンピュータープログラムに似ていたから。
魔素の反応に気付いたのか、魚の魔獣の群れがハンナの方を向いた。一斉に襲い掛かってくる異形の集団も、ハンナの目には歪な魔素の塊に過ぎなかった。
この程度なら、いくらでも吹き飛ばせる。
ハンナは手をかざした。そこから炎が放たれ、魚の魔獣を焙る。次いで氷柱が降り注ぎ、刃のような風が魔獣のウロコを切り裂いた。砂地から隆起した幾本もの岩の槍が、まばゆい光の球が、そして闇色の腕が群れを打ち砕いていく。
気が付けば、100匹近い魚の魔獣の一団は、たった3歳の小さな少女に傷一つつけることも叶わず、消え去っていた。暴れ狂った多種多様の攻撃魔法の、猛威の跡だけを残して。
家の中から、集落の人々が出てくる。ハンナは、彼らに微笑みかけた。
魔獣を恐れることはない。みすみす食料を渡すことはない。そう勇気づけるように。
しかし集落の人々は、兄弟たちも両親も、彼女に魔法を手ほどきした神官さえも、揃って恐ろしいものを見るような目を、ハンナに向けていた。
魔獣へ向けられていたものよりも、それは強く揺らいでいた。




